電気通信大学60年史
後編第5章 電子工学時代の電気通信大学
第3節 通信機械工学科の設置
1960年(昭和35年)、電子工学科の発足の1年後に通信機械工学科の設置が認められた。当時理工系学生の増員の要求が強かった背景があったにせよ、本学に2年連続して新学科の設置をみたことは、本学のその後の発展に非常に大きな推進力となったことに注目したい。事実この時点において、電気通信大学がようやく理工系大学としての機能を発揮し得る基盤が整い、将来の発展、充実がある程度約束されたとみてよいであろう。
通信機械工学科の設置計画並びに立案は、主として角川、武井両教授があたられたが、当時の概算要求書には、次のように述べられている。
また設置理由として次のような説明が加えられている。通信機器製造関係の各職域において、通信工学技術者が直接機械設計、または機械工作に従事しなければならない要求が最近とくに増大しつつあるのに対して、機械工学的要素からますます遠ざかろうとする他の大学の通信工学科をもってしては、これらの要求を満たし得る工学技術者の供給は非常に困難になる。このような機械工学的素養をもつ通信工学技術者の養成は今後ますます重要になるであろうが、これをなし得る大学はおそらく電気通信大学以外に適するものがない。かかる教育に対していままでにも寄せられた社会の期待に対し、電気通信大学の教育の使命の一つとして、ここに通信機械工学科の設置を強く要求する。
設立当初は4講座の編成で、その内容は次のようであった。実際に電気的設計を具体化する場合には、その機械的設計、工作によって制約を受け、更に部品または材料によって死命を制せられる。したがって、この方面に従事する従来の通信工学技術者は、非常な苦労を負っていることになる。また通信機器が精密、微妙になるに従って、電気工学または通信工学的素養の低い機械工学技術者では十分その能力を発揮するのに、やはり非常な苦労をしているのが現状である。この意味で少なくとも必要なこの両者の知識を兼ねた技術者の養成ができれば、通信機器の設計及び製作方面に多大の貢献をなし、その進歩発展に寄与するところが非常に大きいものと期待される。しかしこれは従来の学科の学科課程をわずかに改変する程度では間に合わず、構想を新たにした通信機械工学科の新設を必要とするものである。
機械工学第1講座(機械工学、材料力学、機構学、精密機械学)、機械工学第2講座(機械工作法、精密工作法、製図、機械工作実習)、通信機械学第1講座(機械電気振動論、電気音響学、機械部品設計論、実験)、通信機械学第2講座(物性論、電気材料学、高分子材料、通信部品論、実験)。学生定員40名。ともかく、このような状態で新学科が発足したのである。
第1回入学生の授業が、教養課程を終え、専門課程に移行されるころからの数年間が、本学科にとって、とくに前記機械系講座にとって最も試練の時期であった。いずれの新設学科においても開設当初には有り勝ちのこととはいえ、それまで電気通信工学一色の本学において、機械系専門の研究、教育を開始することは、何をするにしても全くゼロからの出発であった。まず教官の人選、研究室の整備、機械実習、実験設備、それに何よりも重要なことは、当初から組まれてある機械の専門授業課目を、少数の機械系教官で責任分担しなければならないことであった。通信機械という新しい学科名のためか、当然機械系学科に必要な諸施設に対する予算も不足勝ちであって、工作実習や機械工学実験を行うにしても、最小限の設備さえままならぬ有様であった。
当時の山本勇学長は電気通信大学新聞第66号〈1960年(昭和35年)2月5日発行〉で次のように述べている。
わが国電子工業の現在の繁栄は、主として生産技術者の勤勉と工員の低賃金とによって支えられ、その基礎研究は、パラメトロン、エザキダイオードなど2、3のものを除けば、大部分が外国で行われたものであるから永続性については決して楽観を許さない。
電子工業だけに限らず、すべての工業に安定性を与えるものは基礎研究であって、これに対し大学の研究室の担うべき任務は、きわめて大きいと思う。しかして近年における電子工業の基礎研究の特徴は、工業者と理学者との協調によってなしとげられていることを考えなければならない。
さて、本学は時勢の進展に対応するため、昨年度は電子工学科を増設し、引続き今年度は、さらに通信機械工学科増設の概算要求が認められ、広義の電気通信の全分野を包含する総合的な大学に近づきつつあることは同慶の至りであるが、学生増加に併う教育上の欠陥を1日も早く解消するため、教官定員の増加、教育研究施設の増強の実現に向って努力することが本学に与えられた最も重要な任務であると思う。
このような折、東大、東工大の機械工学科の諸先生から暖いご援助を頂いたことは、いまだに忘れられない。とくに東工大からは多数の優れた先生方に非常勤講師としてご来学頂き、また講義以外にも本学科の育成に多大のご援助を賜ったことは、本学科にとって、また学生にとっても何ものにも代え難い有難いことであった。本学科が今日の充実、発展をみることができたのも、まことにこれら諸先生のご高配によるところ大である。
かくして1964年(昭和39年)3月、本学科第1回の卒業生を世に送ることになった。学生は未整備の学科にありながら、新学科に対する認識と、第1回生としての自覚のもとによく勉学したと思う。心配していた学生の就職は、当時比較的好況の時代であったとはいえ極めて順調であった。電電公社を初め、大手電機、通信機会杜が率先して、この新しい学科の卒業生を多数採用されたことは感謝に堪えない。
1965年(昭和40年)、大学院修士課程の開設、1966年(昭和41年)、本学における多人数教育制度の実施に伴い、他学科の学科名称変更に同調して、本学科名も「機械工学科」と改称され、1講座増設されて5講座編成(学生定員60名)となった。1967年(昭和42年)には新しい教育方式を採り入れた製図教室も整備され、また機械工場も、はじめは仮の木造バラックであったが、1968年(昭和43年)には鉄骨建、1972年(昭和47年)に至ってコンクリート建の本工場が完成した。そして種々の経過はあったが、1974年(昭和49年)、「機械工学第2学科」の増設(後述)となり、ここにようやく機械系両学科相まって、社会の要求に応じ得るに必要な講座編成をみることになったのである。教官陣容は充実し、研究設備も漸次整備されて、教官の研究活動が一段と活況を呈するようになったのは当然である。
設立当初は卒業生の就職先も、前述のように主として電機、通信機関係が多かったが、年を追うに従って、これらに加えて重工業、輸送、精密等あらゆる機械系の分野にまで広がってきている。最近の米国機械学会の総会特別講演によれば、
革命と呼ぶにふさわしいスケールの技術革新が急速に展開している。この革命のルーツは大規模集積回路(LSI)の開発にある。LSIを使ったマイクロ素子は既にあらゆる機械要素の頭脳となって、機械やプラントに溶け込んできた。
また機械振興協会の機械産業の施策に関する調査研究として次のように述べられている。
メカトロニクスという言葉は、機械と電子装置を適材適所に組み合わせて構成した機械を指す。この傾向がLSIの進歩と普及に伴うインパクトを受けて一層強化され、高性能、多機能の新しい機械群として急速に成長した。これはより付加価値の高い知識集約形産業への具体的な道を提示し、その方向に沿うものである。
これらはまさに今日の機械工業における一つの趨勢を示したものであるが、本機械工学科が20年前に発足した当時、今日のような高付加価値産業の必要性を予期することは、おそらく不可能に近かったであろう。しかしこの方向を早くも先見して、本学科の立案、設置に尽力されたことは、当時の電気通信大学並びに文部省当局の卓見であった。
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