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電気通信大学60年史

後編第8章 情報化時代への対応

第4節 機械工学第二学科の設置

1960年度(昭和35年度)に通信機械工学科が設置された。本学における最初の機械工学系学科である。以後、通信材料工学科(現、材料科学科)が1964年度(昭和39年度)に設立されるまでの4年間における機械工学系の教育は、通信機械工学科におけるわずかに2学科目、すなわち、機械工学第1(機械要素)及び機械工学第2(機械工作法)によって行われていたわけである。かかる背景にあって、機械工学に関連ある新学科設置の要求がなされたことは当然の成り行きであった。

機械工学関連学科の設置が本学における公式の要求として概算要求にとりあげられたのは1964年度(昭和39年度)にはじまる。それは、その年に設置された前記の通信材料工学科の新設要求と同時期のことであった。その時の要求理由等を当時の歳出概算要求書附属参考書(以下、概算要求書と略す)から抜粋引用してみよう。

現在並びに将来の通信機器の発展には、精密工学に関する更に高度の専門的な立場が要求されている。通信機器に関係した精密工学技術者を教育養成するためには、電気通信に関する総合大学として当大学以外に適当な大学は他に見当たらない。

として、次に示す5学科目編成の精密工学科(入学定員50名)の設置を要求している。すなわち、精密工学第1(材料強弱学)、精密工学第2(精密機械要素)、精密工学第3(精密工作法)、精密工学第4(機械力学)及び精密工学第5(応用物理学)の5学科目であり、既設の諸学科に対する教育分担から見たその必要性も説いている。この要求は引き続いて翌1965年度(昭和40年度)にも提出された。しかし、昭和40年度は本学に大学院電気通信学研究科の創設、そして更に1966年度(昭和41年度)からは教育方法改善(多人数教育方式)による既設学科の拡充改組と相ついで大学としては大きな変革を遂げた時期に入ったために、精密工学科設置の要求はその後しばらく中断せざるを得ない状況となる。しかし、この変革の中で、通信機械工学科は昭和41年度から機械工学科(入学定員60名)と改称され、機械要素、機械工作法、振動学、機械材料の4講座に更に新設講座として弾性及び塑性学講座が設置されることとなり、ここに、ようやく機械工学系の研究と教育体制の充実がみられている。

上述の多人数教育方式による本学の体質改善は1968年度(昭和43年度)まで続けられた。この完成をまって、機械工学関連学科の設置要求が1969年度(昭和44年度)以降再び開始されることとなる。その設置の理由を概算要求書に見れば、

これからの電気通信機器は、よりいっそうの小型化、高速化が強く要求され、これらの諸問題を解決するためには、従来の機械工学技術に加えて、更に一段と高度の精密工学的諸研究並びに技術的発展が必要である。電気通信大学は、わが国唯一の電気通信に関する総合大学として、教育並びに学術の中心となるよう鋭意その充実に努力してきている。このような環境において新しい電気通信機器生産技術を中心とする精密工学の発展に寄与することは極めて有意義と考える。

と述べ、これを新設理由の第一に掲げ、更に

本学においては、過去数年間にわたり大学の将来計画について審議しており、本学が特色ある総合大学として発展すべきことを確認している。この立場から見て、既設の電気通信関係の4学科に加えて理工学の基礎となる学科を整備し、教育方法改善による方式により新機軸を生かした教育刷新の方向に向かうことは望ましいことと考える。これが既設の機械工学科の隣接学科としての精密工学科の設立が有意義である第二の理由である。

とした。この時の要求講座は次のとおりである。すなわち、精密測定学、精密加工学、精密機械学、表面工学及び機械制御学の5講座編成とし、入学定員は60名を予定している。以上の要求は引き続いて昭和47年度まで4年間にわたり行われたが、精密工学科の設置をみることにはならなかった。

1973年度(昭和48年度)の概算要求を行うに当たり、本学の将来計画委員会は、従前のように独立した学科の新設要求方式をとらず、既設学科の拡充改組という形で要求することにより、関連学科の改善を図ることにした。すなわち、物理工学科は、物理工学科と情報数理工学科に改組することを要求し、機械工学科は新たに2講座増設して7講座編成とし、学生24名増募して入学定員を84名とする要求を提出することになった。再び概算要求書によれば、

あらゆる工学の分野の基礎となるべき機械工学科の充実は、本学の調和のとれた発展のためにも強く要請されているものである。

と訴えている。要求講座としては、自動機械学及び信頼性工学であった。ここに、ようやく情報化時代への対応の芽生えが見られる。しかし、この要求も物理工学科の改組に先行されて、その年は実を結ぶところとならなかった。翌1974年度(昭和49年度)も引き続き改組方式を踏襲することになるが、計画を改め新たに3講座を増設して40名の学生増募を行い、現在の5講座編成を改組拡充して、機械工学科(4講座編成、入学定員50名)と機械工学第二学科(4講座編成、入学定員50名)に分離することを要求することとなった。

概算要求書からその理由等を引用してみよう。

このように2学科に改組することは主として教育研究上の理由によるものであり、本学において、上記の互いに関連をもった2学科を運営することにより、教育方法改善による諸設備の効果的運用が図られる。

とし、更に

現在欠如している分野を補い、かつ、学問の進歩に即応するために、機械工学科に熱流工学を、そして機械工学第二学科に自動機械学及び信頼性工学講座を新設するとともに、既設振動講座を機械力学と改称して第二学科に振り替える。ここに要求する熱流工学講座は、最近のエネルギー問題に密接に関連する分野であり、また、機械における省力化とその安全性、信頼性が強く要求されており、これらの分野の教育及び研究は強力に進めなければならない現状である。

と新設講座の必要性を述べている。なお、以上の要求と、前年度に実現をみた物理工学科の改組と関連して共通専門講座として流体工学講座設置の要求も同時に行われた。これらの要求は、ようやく文部省の取り上げるところとなり、1974年(昭和49年)4月1日、本学における第11番目の学科として、機械工学第二学科が設置された。機械工学系としては、まさに11年目にしてその念願がかなえられたわけで、同年4月20日の入学式には、新しい学科の第1回生として50名の新入学生を迎えたのである。設置後は、学年進行につれて、講座、人員等も順調に整備され、大学院においても機械工学第二専攻が設置されて、本学における機械工学系の研究と教育の体制は一段と充実をみた。

社会の出来事
  • 昭和47年 この年7月、田中角栄が首相に就任、9月には中国を訪問して日中国交正常化の端緒を開き、一方では内政政策として世に問うた「日本列島改造論」が話題となり、賛否両論を巻き起こした。
  • 昭和48年3月13日 国鉄順法闘争に憤った乗客、高崎線上尾駅などで暴動状態。
  • 昭和48年3月20日 水俣病裁判、患者側が全面勝訴。(チッソ上訴権を放棄)
  • 昭和48年4月4日 最高裁大法廷で尊属殺重罰規定は違憲と判決。
  • 昭和48年4月27日 政府5月1日から100%の資本自由化実施を決定。
  • 昭和48年5月1日 ホワイトハウスのジーグラー報道官、記者会見でワシントン・ポストのウォーターゲート事件報道を非難したことを陳謝。5月7日ポスト紙、同事件の報道に功績ありとしてピューリッツア賞を授与される。
  • 昭和48年5月13日 文化放送18年ぶりに大相撲の完全中継を再開。
  • 昭和48年5月15日 日本、東独と国交樹立。
  • 昭和48年5月27日 「天皇のお言葉をもらした」かどで増原防衛庁長官が引責辞任、5月30日国会審議再開。
  • 昭和48年6月3日 ソ連SST(超音速旅客機)、パリ航空ショーで墜落。
  • 昭和48年6月21日 築地の魚市場でマグロから高濃度の水銀を発見、魚の汚染問題となる。
  • 昭和48年6月28日 米、大豆の輸出を全面禁止。
  • 昭和48年6月 商品の買い占め騒動、各地で起こり物価高騰。
  • 昭和48年7月20日 パリ発の日航ジャンボ機、パレスチナ・ゲリラと赤軍派と名乗る一派に乗っ取られる。7月24日リビア・ベンガジ空港で乗客全員を釈放、着陸後8分で機体爆発。
  • 昭和48年7月30日 NHK、東京都千代田区内幸町から代々木の放送センターヘ移転完了。
  • 昭和48年8月8日 金大中氏誘かいされる。8月13日ソウルで釈放。
  • 昭和48年8月15日 米、カンボジアの爆撃停止、インドシナ介入に幕。
  • 昭和48年8月28日 メキシコで大地震、死者900人を超える。
  • 昭和48年10月6日 スエズとシリアで第4次中東戦争勃発。
  • 昭和48年10月23日 江崎玲於奈博士ノーベル物理学賞受賞。
  • 昭和48年10月28日 神戸市長選挙で野党推薦の宮崎辰雄現市長が当選、太平洋ベルト地帯の6大都市首長のすべてが革新系で占められた。
    南極観測隊参加者一覧
    第14次 昭和47年 ふじ
    乗組員
    通信長 伊神孟 (昭20・3 3高)