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電気通信大学60年史

後編第8章 情報化時代への対応

第5節 西地区への研究棟増築すすむ

高度経済成長とともに電通大も大きくなっていき、学科の増設により1学科の定員も3倍近くまで増加していった。このため学生教室の不足、研究設備の不足をきたしてきた。したがって、この不足を補うために校舎建設委員会が設けられた。この時期1968年(昭和43年)までには一応教室等の不足は不十分ながら解消されていた。したがって、この校舎建設委員会の目的は次のようなものであった。

「本学の校舎建設計画は、まず学生用の教室、実験室等の建物を優先することとし、教官研究室および管理棟等は、これら学生用の建物が一通りでき上るまで辛棒するという方針をとってきた。(中略)この間、教官研究室、管理棟等はますます狭隘をきわめ、まさに辛棒の限界に達しているといってよい。

そのため、昭和43年度には、物理工学科研究室を中心として、これに学内研究室の不足分の一部を加えて、4,110平方メートルの建物が建設されることとなった。

ところで、教官研究室の不足は物理工学科棟の建設だけでは、まさに焼石に水といった程度である。

しかも、校舎敷地は、まさに飽和の状態であって、次年度以降の校舎建設計画もなかなかたてにくい形となってきた。しかし、昭和43、44年度の2ヶ年にまたがって約1万3,000坪(4万2,900平方メートル)の敷地購入の予算獲得ができたということは、一大朗報であり、このような新しい条件が加わったのを機会に、本学の建設計画も根本的に考え直す必要に迫られている。

更に、昭和44年度概算要求書作成についての文部省通知によれば、不足建物の建設については、長期計画のはっきりしているものから優先するとある。

このような状況であるから、校舎建設委員会では、1万3,000坪(4万2900平方メートル)の土地購入ができるという見通しのもとで、本学の建物の全体計画を作成し、またこれに移行するための過渡的措置の大綱について……」(校舎建設委員会報告書)

以上のことから考えてみると、定員増等により教官研究室の不足を招いた。しかし、当時の敷地内の建設は困難な状況にあった。しかし、昭和43年度には、ある程度まとまった土地を確保できる見通しとなった。また、文部省の通知により計画のしっかりしているものから建設してゆくことがわかった。そのために急に長期的な不足建物の建築計画が求められ、これに応じて校舎建設委員会が発足していったわけである。

次に、この用地がどのように確保され、どの学科が移動するかについて、再び校舎建設委員会の報告書によることにする。

1万3,000坪(4万2,900平方メートル)の敷地購入の予算的裏付けがとれたのであるから、この敷地は学生用のグランドとして使用することにし、現在のグランド(西地区)を校舎敷地に転用するという考え方で、本学の建設全体計画を考えることにする。この場合、単に1学科もしくは2学科だけグランド(西地区)に進出するということでは、その学科だけが島流しという印象が強く、容易に当該学科の同意は得られないものと判断される。そこで、できればかなりまとまった形でグランドヘ進出するということを考えねばなるまい。

としており、あるまとまった学科単位での西地区移転が考え出される。また、このある程度まとまった学科として、電波通信、通信、応用電子、電子工学科が最も適当であろうと判断された。これはこの4学科の性格が比較的似ており、図書室、工作室等の共用が可能であり、その当時研究室の不足を痛切に感じていたからにほかならない。また、この4学科以外に有機的に結合した場合、建物の能力が生きてくる学科が他に見つからなかったことにもよろう。

なお、この校舎建設委員会の報告書は、将来予測されるであろう新学科増設に対する処置として、次のように言及しているが、この報告書の後に新設または改組されて増設された学科が合計3学科あり、一応の予想としては的を得ているといえなくもない。

新学科増設が認められた場合、現在のグランド敷地(西地区)を校舎敷地に転用すれば、更に4学科までの増設は敷地的に可能であろう。1学科でも、2学科でも、新設学科が認められた場合は、その校舎はすべてグランド敷地へ建設するものとする。ただし、その学科の性格によって、入れ替えた方が既設学科の関連でよい場合には、その時に考慮すればよい。

なお、新学科増設の場合は、当然教室も不足するであろうが、この場合は、一般教養期間は現教室を使用することを原則とし、専門課程用の教室をグランド敷地内に建設していくべきであろう。

としており、西地区は今後専門課程の研究室及び教室をおいてゆくことを主眼としている。

さて、このような、校舎建設委員会の出した報告書にそって、西地区の建物の建設が始まった。まず、4学科の研究室等が入るべき建物が1972年(昭和47年)3月10日に竣工した。この建物は8階建てで延べ5,145平方メートルであった。ついで同年3月30日電子計算機学科実験室、研究室が竣工(5階建・3,188平方メートル)した。この昭和47年に竣工された2棟以後、西地区への移転及び新設学科棟及び新設教育施設棟が進んでゆく。

ついで翌1973年(昭和48年)には、1月31日に西2号館が竣工(8階建・延3,106平方メートル)されて、4学科の移転用建物はすべて完成したことになる。また、同年2月20日には教育用電子計算機センター(2階建・986平方メートル)が竣工された。その後1974年(昭和49年)3月30日に電気通信研究施設及びデータステーション(西3号館)5階建延1,795平方メートルが竣工。1975年(昭和50年)3月29日情報数理工学科棟(西4号館)6階建2,260平方メートルが竣工した。

1972年(昭和47年)から1975年(昭和50年)の間に6棟が建設されて、西地区には、エレクトロニクス及びコンピューターの研究施設が整ったことになる。また、最高8階建のかなり高層な建物によって、それまでグランドだった西地区の景観は大きく変化してしまった。調布市では、8階建のような高層建物の建設は従来認めなかったのであるが、本学にそれがはじめて認められ、調布市が高層都市化する時代を生んだ。

社会の出来事
  • 昭和48年11月26日 羽田行き79人乗りオランダ航空ジャンボ機ハイジヤック。11月27日乗員救助される。
    昭和48年 経済の高度成長にもようやくストップがかかり、国民は狂乱物価に悩まされ、あげくの果て、年末にわが国は深刻な石油危機に見舞われた。
    流行歌では殿様キングスの「なみだの操」がヒットし、邦画では「津軽じょんがら節」(斉藤耕一監督)、洋画では「スケアクロウ」(ジェリー・シャッツパーグ監督)がベストワンを占めた。
  • 昭和49年1月1日 石油ショックの対策として、節電のため、深夜放送の自粛をスタートさせた。
  • 昭和49年1月30日 日本人を含むゲリラ、シンガポールのシェル石油製油所を襲撃、人質5人をタテにアラブ行きを要求、2月6日パレスチナ・ゲリラ、在クウェート日本大使館を占拠、シンガポールにいるゲリラの脱出機を要求、2月7日ゲリラ輸送のための日航機シンガポール着、2月8日のクウエート着、大使館ゲリラをのせてアデン着。
  • 昭和49年2月8日 ソ連の作家ソルジエニツィン、検察当局の出頭命令を拒否、2月13日市民権を剥奪、国外追放で西独入り。
  • 昭和49年2月27日 大阪国際空港公害訴訟で、夜間10時から翌朝7時までの飛行禁止などの判決下る。
  • 昭和49年3月10日 ルバング島で小野田寛郎元少尉救出される。3月12日30年ぶり帰国。
  • 昭和49年4月20日 日中航空協定調印。台湾、日台航路の停止を声明。
  • 昭和49年5月10日 足尾鉱毒事件、古河鉱業が被害者に15億5,000万円の補償金を払い調停成立。
  • 昭和49年5月18日 インド初の地下核実験。
  • 昭和49年5月31日 選挙公報の配布を新聞折り込みで行うことを認める「公職選挙法の一部を改正する法律案」成立。
  • 昭和49年6月20日 厚生省、母乳の3割が許容量を超すPCB汚染と調査結果を発表。
  • 昭和49年8月14日 韓国、日本に対し金大中事件の捜査打ち切りを通告。
  • 昭和49年8月15日 朴韓国大統領、在日韓国人文世光に狙撃され、大統領夫人死亡。8月19日田中首相、夫人の葬儀に列席。
  • 昭和49年8月15日 報道各杜、俳優津川雅彦、朝丘雪路夫妻の長女真由子ちゃん誘かい事件で、生命の危険を考慮し、16日午後7時45分まで報道を控えた。
    南極観測隊参加者一覧
    第15次 昭和48年 ふじ
    乗組員
    通信長 塚崎展生 (昭24・9 別普)