電気通信大学60年史
後編第8章 情報化時代への対応
第6節 オイルショック後の就職難
1973年(昭和48年)10月6日に始まった第四次中東戦争の中で、アラブ産油国のとった石油戦略によって、日本経済の高度成長に終止符が打たれることになる。このアラブ産油国の石油戦略により、基幹産業のほとんどを依存している日本経済は大打撃をうけ、11日以降、11業種に対する電力、石油の供給削減措置をとり、石油緊急二法を成立させて、一般企業に対する電力・石油の2割削減、民間のエネルギー節減要請などをたて続けに出していった。
また、こういった中で、企業が先き行きのモノの不足を見込んでの原材料のストックに狂奔し、一部の主婦たちも、トイレットペーパー、洗剤等の買いだめに大きく動いていった。
学生にとっても、このオイルショックは他人事ではすまされなかった。特に、翌1974年(昭和49年)3月に就職を予定し、企業に内定していた学生にもオイルショック禍が襲った。先行きの経済の見通しがつかない企業の一部では、既に就職が内定していた学生に対して、内定の取り消し、経済の見通しがつくまでの自宅待機等の処置を実施した。このためこれを苦にして自殺する学生まで出てきた。
このオイルショックを契機に日本経済は高度成長から低成長・安定成長へと方向を転換していく。これに伴って、オイルショックの翌年の新卒者の採用を見合わせたり、採用数を減らしたりする企業が続出した。
このため、いままで大企業に集中する傾向のあった学生たちは、中企業、小企業へと就職の矛先を変えていき、就職活動といわれる企業への訪問、会社説明会への出席などがオイルショック以前に比べかなり激しく行われるようになった。
これらの傾向に、電通大生も無縁ではなかった。会社訪問の解禁日には、キャンパスにスーツ姿の学生が多くなるなどの現象がみられるようになった。また、就職を意識しての研究室の選択、授業の出席率が高くなるなどの副産物をももたらすようになった。
電通大の就職動向もオイルショック以前と以後とでは大きく変わり、特に一般の傾向と同様に大企業への就職率の低下、公務員・教員試験等への受験者の増加といった傾向を示している。特に公務員・教員の試験を受ける人数の増加は大きく、厚生課で用意する受験案内等は2、3日でなくなってしまう盛況ぶりであった。しかし、公務員・教員への就職者が増加したかというとそうではなく、ほとんどオイルショック以前の状況と変化が見られない。これは、これらの志望者が増加したためにかなり"狭き門"となったためであろう。
これとは別に大学院への進学率の増加も見られるようになった。これは一時就職を留保しておき、2年たてば少しは就職動向も変化するのではないかと考える者が多くなったことによる。また、これとほぽ同じ考えで、留年をする学生も多くなった。また、自分の思うような企業に就職するまでは、単位の一部を取得しないでおく学生等も出現するようになった。
更に、このような就職難のために、いままで製造業への就職率が8割近くを占めていたものが、かなり減少した。また、電気産業が相変らずの主流を占めているが以前に比べその比率は低くなっている。これは就職難から学生が電気産業・製造業にとらわれずに職を探したこと、また他の産業、業種においても、情報化が進み、コンピューターの導入などにより、より広い業種から、電通大生が求められる産業構造の変化などによるものと思われる。特に、企業は知識集約、情報集約型に脱皮することにより、不要な労働力を減少させ、利益を上げようとしている。こういった状況にとって、電通大生が求められる国土が生まれつつあるといえるのかもしれない。
オイルショックによって浮きぼりにされた日本経済の基盤の弱さ、それらにふり回される結果となった学生、しかし、これらの状況に振り回されながらも、電通大生はおのおのの活路をみいだして行ったといえるだろう。
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