電気通信大学60年史
電通大座談会
司会者 | 斉藤 洋一 | |
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出席者 | 大橋 暢雄 | (昭29、電波工学科) |
下條 宏一 | (昭33、電波工学科) | |
大八木 建 | (昭34、通信経営学科) | |
川田 陽一 | (昭35、電波通信学科陸上通信専攻) | |
安達 啓一 | (昭37、電波通信学科海上通信専攻) | |
林 義弘 | (昭39、電波通信学科陸上通信専攻) |
受験の動機
- 司会
- 1. 入学、2. 授業、3. 学生生活、4. 就職、というお話を大橋さんから順番にお願いします。
司会 斎藤洋一
- 大橋
-
正直いって、受験の動機って別に今から考えてもしっかりしたものはなかった。高校時代から電気には興味を持っていましたし、それがきっかけになったということでしょうか。確か競争率は11倍くらいだったと記憶しております。ただし、二期校だったので、一期、二期校の両方に願書を出された方がたくさんいらっしゃるんで、実際の競争率はもっと低かったかと思います。
大橋暢雄氏
確かあの時は専攻科分けでとっていたと思います。たいして難しい試験問題じゃなかったと記憶しています。講習所時代の人はまあ、オペレーターを養成するような感じが強かったものですから、学生もそっちの方が多いことは多いですね。われわれ工学の連中はちょっと、質が違ったような気がしますね。
定員が多かったんですね。そして工学が少なくて。確か、電気通信大学という名前もですね、なかなか決まらなくて、電波大学なんていう案が一度出ましたですね。そんなふうですから、まだわれわれの時は、落ち着いていなかったように思います。2年目になって、通信経営専攻というものが出来まして。私は、藤沢に寮がありました。そこに入ったものですから、全国各地から学生が来てましてね。そうですね、半数近くは東京の人だったですね。ただ、講習所の人は学校にも寮にもおられまして、そして、ジャバラの付いた制服がありましたね、ああいう姿の人たちがいっしょにいたわけです。講習所から編入なさった方で通学はしておられたんですね。それから、依託学生っていうんですか、船会社からの。その方たちはお給料もらってこられるんでね、ですからもう寮生活なんかでもわれわれと違って裕福でいらしたですね。
授業は1年、2年のころは教養課程がたくさんありましてね。高校の延長みたいな感じがしましたですね。特に英語の時間数の多いのにはびっくりしました。毎日最低2時間ありました。八木先生がおられまして、中世英語を教えてくれたんですね。例のハムレットの独白のところがありますね。あれを暗唱させられましてね。あと高校時代なかった教科っていうと、哲学だとか心理学とか、それは選択制でしたけれども、これは面白かったですね。
- 司会
- 八木先生以外に当時のご記憶にある先生は?
- 大橋
- 高野先生にも教わったと思いますし、それから、一番印象深いのは八木先生ですね。専門課程では計測関係の博田先生、松村先生、講師でおいでになった阿部先生、関英男先生、金子先生、河野先生。
- 司会
- 当然通信術はあったんですね。実習は。
- 大橋
- あります。印字機でやらされました。私、記憶に間違いなければ、これは必須でなかったでしょうか。通信専攻の方は単位が多くて、われわれが取るべき単位は少なかったですね。
- 司会
- 学生生活で電通大気質みたいなの、ございましたでしょうか。
- 大橋
- 私、寮から目黒まで通いました。なかなか混むんですね。学校の始まりが確か8時半でなかったでしょうか。寮を6時半ごろ出るんです。もう冬なんか暗いですね。寮で食事をして出る訳です。1年、2年の前半くらいまではまじめに通ったと思います。なかなか豪傑もいましてね。教室へ行かなくとも勉強出来るとかいうことで、代返をやらされたり、また、してもらったり。特に冬の教室は寒かったですね。暖房は確か、ストーブがあったと思います。
当時の社会は、レジャーといいますと社交ダンス。それからパチンコ。五反田に社交ダンスとタイプなどを教える学校があり、そこのアルバイトでチラシを配ったり、あるいは中でダンスの教師をやったり。あと日の出女学園とか杉野ドレメだとか、チラチラ目につく女子学生との交流は一部の人たちでしょうね。目黒にしても、藤沢にしましても、戦争中からの影響かも知れませんけれども、地域の人が学生を大事にしてくれますね、すごく。かなり親近感をもったのかも知れません。ある程度信用してくれましてね。
- 司会
- 調布へ移転した時は?
- 大橋
- 私は調布の経験はぜんぜんありません。私の時代は、1年、2年生が調布へ行きましたね。27年に調布の移転が始まり1、2年だけがあちらへ行き、専門は目黒でやってました。その後、31年ぐらいに卒業の方から調布の経験がある、ということです。調布へは1回ぐらい行きました。その時、調布の印象はいまと違って大分田舎だ、という感じがしました。特に、目黒、藤沢を起点として考えますので、遠いなあーと感じました。当時の目黒は割合にぎやかなとこでした。ただ、盛り場といっても、まあ歓楽街があるような感じではなくて、落ち着いていて、五反田とは対照的だったですね。
当時の学生生活っていうと、まず、われわれの場合は、まだ食糧が十分でなくて、寮での生活がちょっと大変だったんです。田舎のある人は、田舎から食糧を送ってもらったりしましたし。当時の寮の食事代が月に1,000円なんですよ。3食です。ですから朝食べて、お弁当作ってくれるんです。そして、金曜日には必ず夕飯にごちそうが出ました。寮は自治だというんで、食事の方も2人の委員を選出し、それが事務員、賄の人を指揮してやるという建前になってました。しかも生活だけでしたら4,5000円あれば、もう十分。煙草は、確か30円ぐらい、粗末な包装で。ハッピー、わかば、あおば、光とか、ピースがありましたね。いこいの古い方が出てたんじゃないですか。31年です。
だいたい、お金は食べ物にまわさなければいけないので、お酒の分がなかなかありませんで、一番飲んだのは焼酎です。焼酎にグリンピースの乾いたやつ。あるいは、変な話ですが煮干ですね。煮干を一寸焼いてもらって寮の室で一杯。寮の室が12畳で通常4人から5人入っているんです。他の室からも入って来て飲む訳です。寮生は、当時在学生の一部ですね。多くて2割ぐらいじゃないでしょうか。確か寮が二つ、鴻志寮と尚志寮がありまして、鴻志寮に大学の学生、講習所の方も入っていました。尚志寮の方は委託学生と別科の方が入ってました。室数は確か、2階建で24室ぐらい、そこに仮に5人ずつ入れても大した数ではないですね。あとの方は下宿し、東京の方は自宅通学ですね。だいたい、1年、2年生のときは寮におられて、3、4年で下宿される方が多かったようです。
目黒時代の電通大
- 司会
- また、大学の方へ話が戻りますが、図書室みたいなものは。
- 大橋
- ちょっと記憶にないですね。もし、必要でしたら、研究室に行きました。電通大に図書館というものが出来たのは昭和34年ですか。ちょうど大八木さん、川田さんのころですか。
- 大八木
- 図書館というのは記憶にないですね。どこか、3階あたりに図書室…。
- 大橋
- 研究室も当時、新しい本というのがないんです。古い本はあるんですけど、どうしても欲しいとすると、共同で買ったんです。
- 司会
- 当時の就職状況はどうでした。
- 大橋
- 私は29年ですが、29年、30年はちょうど景気の悪い時でして、みなさん苦労されたと思います。私どもの場合、夏季実習を、メーカーに行きたい人はメーカーで実習をやりまして、その時に人柄とか能力をみてもらって、それで試験を受けるというふうに。例えば、ソニーですね、東京通信工業っていってましたが、ソニーなんか実習に来ない学生は採らない。就職先は電波通信学科の方は船会社が多かったですね。工学関係では、メーカーとオペレーター。例えば大八木さんのように放送関係にいらっしゃるとか。私は、大学時代に新聞部にいたもんですから、電波新聞杜が、小さかったですけど、新制大学卒を10人採るといって、新聞部に人がきて、ぜひ入社してくれっていうんです。29年当時で初任給が1万円から1万2,3000円だったかと思います。あまりよくなかったんではないでしょうか。
- 司会
- 大卒の初任給は。
- 大橋
- 私の場合、ちょっと変な会社でしたからね、基準にならないかと思いますけど。電通大だからといって少し優遇された感じでしたね。
- 下條
- 私は29年ですから、大橋さんのお出になった年に入りました。試験は調布の校舎でやったんです。試験の日、はじめて調布へ行ったんですが、調布の駅の前も当時は非常に狭くて車もおけないくらいだった。来ましたら途中、学校らしいのがありましたから、あそこかなと思ったら、小学校かなんかあるんですね。あっちの方が鉄筋でして、天神様の脇の方は木造なんです。3棟ありましたか。
下條宏一氏その辺で試験受けましてね。僕らの時は200人の定員だったと思うんです。専攻別でなくてごったに採りまして、2年の時に専攻別になったんです。専攻に別れたのが、成績順になっていたのかよく分かりませんですけど。いろいろ条件があったようで多分どっかで聞いてはいるんでしょう、専攻によってとるべき必須科目みたいなのがあったようです。当時まだクラブ活動っていうのがあんまりありませんで、たいてい僕らの年代の時にこさえたのが多いんです。声かけてもね、のって来ないんですね。28年入学した人は優秀でした。勉強一筋というような傾向がありましたね。一方、僕らの年代はあんまり勉強するような雰囲気でなくて、目標がないっていいますか、勉強しなくちゃいけないっていうムードじゃなくて、適当にやったような記憶があります。学生は目立つのはやはり九州、割合似たような性格をもっているせいもあつて目立ちます。北海道っていうのはあまり聞かなかったですね。29年には、まだなんでもあるっていう時代じゃなくて、金を出せばという条件があったかも知れませんね。まだ、戦後の続きですね。
1年、2年の時も専門科目というのはあることはあったんです。3年、4年で目黒へ行ったんですが、ちょうど4年の時に全部移転することになったんです。4年の、12月ころかと思うんですけどね、引越ししまして。厳密にいえば目黒1年半ということになりますか。通常の移転計画でしたら3年から4年かかるところを、急に移転するようになったという記憶があります。ちょうど4年生ですから卒論がありまして、しかも12月にかかっていますから、要領のいいのは自分のやっているのだけコンテナに積み込んじゃって、郷里へ帰っちゃったのもいるんです。で、帰らない連中がだいたい運搬作業を、まあ実際に持ったりすることはないんですけど、箱詰めなんですよ。あのころ日通のコンテナっていうのが出来たころですか。なんでもいいから、詰め込めぼ運ぶっていうことで。それで調布へ持っていって続きやったんですけど。その当時、校舎はその引越しするについて、鉄筋が建っていたんですよ、D、E棟まで。それで研究室が全部こっちへこれるという段階で、急遽移転して来たんですね。だからE棟は半分しかなかったですよ。そして、全体的にはまだ木造が健在だったと思います。入学式っていうのがC棟の階段教室だった。
- 司会
- 就職は、最悪だったんでないですか。
- 下條
- 33年もよくなかったと思いますけど。2年、3年と悪かったんではないですか。担当が石井先生だったと思うんです。名簿見ても分かるんですけど、日立だとか、いわゆる大手に入ったのは、1人か2人しかいないんです。学生が少ないせいもあるけれども、たぶん1人ぐらいしか採らんということじゃなかったですか。だから成績順にいきまして。官庁は割合多いです。逆にいうと、官庁ぐらいしか行けなかったともいえる。今は、官庁の方がよいですね。(笑い)当時は、給料は覚えていないんですが、官庁は9,600円ぐらいですか、民間で、私が日本テレビヘ入って1万1,800円だったと思うんですよ。TBSの方がそれより1,000円か2,000円多くてですね。いや安いなあと思ったんですけど。就職はよくなかったですね、専攻によって違うと思いますけどね。船会社、あまり行ってないんじゃないですか。工学だって、メーカーも意外に少なかった記憶があります。僕らの時は放送局がちょうど拡大した時期なんです。で、34年にフジテレビとNET、テレビ朝日ですか。民放があちこちたくさん出来まして。ですから、就職口のなかった人はいなかったと思いますね。この間、クラス会やったんですけど、電波工学専攻っていうんですけどね。電波に関係あるのは1人しかいないんです。40何人いたんですけど、3分の1ぐらいずつなってんですかね。官公社とメーカーと、テレビ、サービス業ですか。あと、卒論のことですが、当時は研究室が予定表出すんですね。何と何をやると。いまでもそうでしょうかね。それをみながら、人のところへ行って話を決めてくるという調子だったですけど。勝手に持ち込んだのは私なんです。あんまりいないかも知れませんね。博田先生の部屋だったんです。
当時流行したのが、FMチューナーなんです。みんなが1台か2台作っていたでしょう。そんなんでまだ大学的な雰囲気でなかったですね。それだけに、勝手きままにいっている分には面白かったですね。ハンダ鏝持っているのと、持たんのがちょうど半分、半分ですね。で、ハンダ鏝持たないのがハンダづけやったり、持っているのが全然やらなかったり、なんともいえないですね。いわゆる、電気屋になろうという方が半数ぐらい、電気屋が好きだっていうか・・・・・。
- 大橋
- 国家試験とる人どのくらいおりましたか。
- 下條
- 国家試験ですか。一通はなかなかとれなかったですね、一技は少しはいましたが。私日本テレビヘ入った時、送信なんかだったらお断りするっていったんです。一技の免状持っているから送信所なんて、かなわんですから。
- 司会
- 大八木さんお願いします。
- 大八木
- 私は経営専攻を出ましたんですが、34年に卒業しました。私の場合は友達なんかに聞きますと、国立一期校を受けたのがほとんどでして、先ほどの下條さんの話にもあったんですが、どこへ行きたかったという人がかなり大勢いました。国立は非常に授業料が安かったということで選んだのがたまたま、電気通信大学だったということだったんですけど。私たちが受けた時は、7倍程度だったんです。私はもともと大学を選ぶのは、家が好きだったもんですから建築を志望してたんですけど、建築に全く関係ない電気通信大学に。
大八木建氏先ほどの専攻基準みたいなものを自分で決めていったら、この大学になったということです。入学者のタイプっていうと、中には旺文杜の案内書やなんかで、少しずつ電気通信大学という名前が知れ渡って来ましたので、東北の方からわざわざ、電通大を目ざして受験に来る人もいました。九州の方からも来た人がいます。私の場合は、先生方の名前で非常に印象持っているんですが、1字違いですので、八木先生なんてだいぶ指されましたけれども。フランス語は選択であったんですが沢木先生、心理学の臼居先生、会計の君塚先生。それから、目黒から調布に移るに当たっての土地選びの話なんかは服部先生から講義の合い問にチョコチョコと耳にしたのが印象に残っています。
- 司会
- あれは、いろいろ経緯がありまして、実は児玉誉士夫氏から買ったという、その文書も実はこちらにありますが。
- 下條
- 藤沢と入れ替えるとか。
- 大八木
- 当時確か、調布のここに大学が出来るんだというので見に行った時には、前の甲州街道が調布バイパスとしてまだ真新しいコンクリートで車が通っておりませんでした。講義は34年卒の学生が目黒で半年ですか、最後だと思うんですよ。川田さんは目黒の校舎は、ご経験ない訳ですね。あの目黒の塀と門ですね、非常に印象に残ってましてね。すぐそばにあった実験室なんかで西日の傾いたころ、ガチヤガチヤいろいろやっていたのを強烈に覚えております。学生生活ということになりますと、例の栗林ですね。入学した30年、31年ごろは、まだ大学に入ったというんで、しかも国立大学なんで、同じ帽子をかぶっていたのが2、3割はいましてね、私も帽子に一杯栗を拾いました。
調布の寮ですが、先ほどからみなさんがおつしゃるように、やはり上級生といっしょだったり、それから1冊の参考書を見せてもらったりという点などよいことが寮生活の経験としていまだに印象に残っています。やはり夜になりますと、勉強中に腹が減りましてね。布田天神のあの通りがまだいまみたいにあんなにたくさん店が出来ていなくて、1軒貸し家があって、あとコッペパンの工場があったんです。そこで午前2時ごろから起き出して作っているんですね。そこを通るとよいにおいがしましてね。寮にいるころはそこへ行って、午前3時ごろですが出来たてのを譲ってもらったりしました。近くの野川沿いに、深大寺の方へ行った所ですけど、新宿中村屋の工場があったんです。
家庭教師とか、そのようなアルバイトが非常に数多くありましてね。みなさんやはり、受験で苦労した人が多いと見えましてね、割合やってました。調布市内でもやってましたし、おのおの都内の下宿先なんかで。耳にしただけでもずいぶん定期的にね、それでやって行くというような人たちもいました。調布は田舎だから、土地は安かったようです。私の覚えているのは、調布の駅の北口に、いわゆる現地案内所というテントが出来て坪8,000円という、住宅地でですね。そのころは高いと思って、全然話にも出さなかったんですけど一応卒業して、サラリーもらって20年にもなりますと、悔しくて悔しくてね。(笑い)8,000円で買えたのにと。でもその時は、ぜんぜん手の出ない金額でしたね。
それから、先ほど下條さんがおっしやったクラブ、同好会ですか。あれがどんどん盛んになって、私が3年生の時でしたが美術部をやっておりまして、その当時東京地区の国公立大学の連合文化会というのがあって美術展をやるというので、当番大学に電通大がなったんです。私が美術部長をやっていた時なんです。その時に会場探しにいろいろ苦労しました。最初に出来たクラブというのは・・・。
- 大橋
- 庭球部はなかったんですが、野球部があったんではないかと思うんですが。高野先生は美術部の三多摩の兼任なさっておったんですね。それで忙しくなられてオーケストラの方は手を引かれて、松波先生がオーケストラの委員を引き受けられたと思います。
- 大八木
- 就職は大橋さんたちと同期の29年組というのが、私の今います東京放送ではごっそりと、先輩で優秀なのが入った時期だったんですよ。民間放送がテレビを実際に始めるという、人の必要だったころですからね。やはり一見華やかな世界と見られたんでしょう。かなり希望者もありました。私たちのころは、夏休みの実習に行ってその中から選ぶという所が多かった。ですから、4年生の夏休みというのはいろんな会社にみんなで実習に出ましたですね。成績というのももちろん調べたんでしょうけれど、まあ、優秀な先輩がいたお蔭が非常にあるんですけれども。初任給は1万3,800円となっています。
- 司会
- では、川田さん、お願いします。
- 川田
- 僕の時は、電通大の入学試験が8課目だったんですね。私立の文化系は3課目だったんです。8課目でどうも抵抗があったんですが、それでなおかつ電通大の場合は、ほかに理科と社会が、これが選択だったと思うんですが、選択問題が全部試験場にゴボッと来たんですよ。外国語の中で、例えば英語と仏語とあって課目選択になっていたんです。社会は確か日本史と世界史、地理、一般社会と思うんですがね、その中の2課目の選択だと思うんですがね。数学も幾何と解析Ⅰ・Ⅱ、その中の二つ選ぶとか。全く選択のないのは国語と……。必須というのがありました、物理とか化学とか。選択が割と多かったと思うんですがね。受けた場所は目黒近くの高校で、調布ではなかったと思います。
川田陽一氏発表の日が4月になってからだと思います。その日、何げなく朝刊を取りに行ったら電報が入っていたんです。競争率なんか実質は不明です。新聞なんかでは8倍か9倍だったと思います。電通大は易しい方だとは思わなかったんですが、ただ評判があまり目立たなかったんですね。入学者のタイプについてはあまり記憶にないですね。まじめな人が多かったと思います。アウトサイダーみたいな人もいましたね。軟派は、極端なフニャフニャという感じ。学生は北海道から来ていた人の記憶はないんですが、九州とか関西地区ですね。東北は仙台から、2、3人来ていたと思いますが。私は東京でしたから寮には入らなかったですが、かなりコンパの時などはお世話になっていたんです。
クラブ活動のことが話しに出ましたが、われわれの入った時には、サッカー部というのはなかったんですよ。入ってからたしか半年ぐらいたった時だと思いますが、僕はサッカーをやってたわけではありませんが、そんなはじめの状態な時ですから、いつも頭かずが足りないとかでかり出されていました。結局それが同好会という形になって、次の年の4月に予算の分取りで3,000円ぐらい取れたとか覚えているんです。それで次の年に部に昇格した。あと、先ほど大八木さんからちょっと話しがでましたが、栗のことですね。今の図書館の付近あたり、あのへん全部林だったんです。その当時有名だったんですね。寮のあるほうには道路寄りに木造の建物があったと思うんですね。そのむこうは兵舎みたいなものが2棟ありましたね。グランドは、まあ、広かったんですが、夏なんかサッカーをやっても、ボールが見えなくなってしまうし、ボールが転がらないわけですよ。僕らのころは月謝が年問9,000円だったと思います。僕らの前まで6,000円だったんですよ。1年で3,000円と差がつくのはおかしいとね。調布祭という名前で当時学園祭は既にやっていましたね。でも余り盛んではなかったですね。人数が少ないせいもありまして、今考えてみると分離してましたでしょう、1、2年が調布で3、4年が目黒。だから1年から4年の連結が出来ないというようなことがありましたから。調布気質というようなものは、まだそこまで行ってなかったと思うんです。ただ調布の町では、ある意味では優遇されていた面もあるんです。例えばラーメン等は4、50円だったと思うんですが、電通大生は5円引きとか、床屋では5円か10円引いてもらった記憶があるんですがね。
あと、われわれのときの就職状況ですが、まあまあと思うんですね。というのは、一つは放送局、民放関係の募集人員が少なく、その分メーカーに行ったと思うのです。あとはコンピューター関係がボチボチ、コンピューター関係は割に給料がよかったですね。というのは当時IBMが確か2万1,000円ぐらいだったですよ。パンチ・カード・システムが全盛で真空管式のコンピューターです。一番古いのが山一証券に、32年ごろユニバックの小さい機械が入っていたんです。そのあと、33年から34年になって真空管の割と大型というか、それが入ってきて、その要員とかがボチボチ必要となる、そういう状況でしたね。ですから電気メーカーの給料は1万4,000ではなかったかと思うのです。情報デジタルの走りの徴候が見えたころだといっても、これが育つものやらどうやらわからないという感じでしたね。官庁へも割と多く行きましたが、人数からいったら、やはりメーカーが圧倒的に多かったです。あの当時、ソニーとか日本電気ですね。ソニー等は非常に力が増してきた時代ですから。それから日立・東芝という電気の大手と。それと放送局なんかも人気はあったんですが、ほとんど採らなかったですね。ですからわれわれの時放送局に行った人というのは、せいぜい3人かそこらじゃないですかね。
- 司会
- 37年卒の安達さん、お願いします。
- 安達
- 私は、まるっ切りの調布育ちなんです。それで、小学校のころからハンダ鏝を握っていた因果で、ずっといまでもそれに近いようなことでメーカー勤めをしているのですけれど、これは恐らく最悪の職種ではないかということを今ごろいっています。経済的に非常に悪いということですね。
私が学校に入った時のことなんですけれど、私は京都なもんですから東京はよく知らなくて、まあ、試験があるというので前の日の晩の11時ごろ京王線で調布まで行ったわけですけど、まっ暗な田んぼの中を郊外にドンドン行くのですよ。まだかなと最初は心細いくらいの感じだったですけれども。実際はそれほどではなかったですが、最初はこれはえらい遠いところだという印象だったですよ。それでとにかく、関西では電通大というのは種々アマチュアとか放送関係の連中とかには知られていたんですけど、ほとんど入った人もいないし、勝手が分からなかったんですが運よく入ることができ、それでそのまま寮に飛び込みまして、4年間。
安達啓一氏学校に入ってきた当時、私らはある程度船に乗るつもりはあったんですけれども、そうではない人が大半でしたね。それでよく彼らと飲みながら、そういう連中とはふだんは議論しないんだけど、何かの勢いで議論する訳ですね、われわれは自分の方が正当のつもりでね。
トンツーでいえば、私らも1、2年の時は一生懸命寮に帰って練習をして、国家試験の問題集などを見て種々やったんですけれども、結局一番最後は、資格持っているとどうも邪魔になりそうだ、資格があるから船に乗る羽目になるとかね。船に乗らないことにした事情は別にあるんですが、船の業界の行く先もあったんでしょうけれども。放送局へ行っても送信機の番人ではね。先ほども誰かおっしやっていたけども、小さい時から放送局なんかも興味があるからよく行ったりしていましたから、あるイメージがあって、結局そういうものはやらない方がよいだろうということで敬遠し、直接はオペレーターとしての無線従事者にはならなかったのです。
寮にはだいたい全国的にいましたね。北海道から九州、関西ですね。寮では半分関西弁が罷り通りまして、それに関東流の言葉が混ざって、調布寮弁みたいのがありましてね。で、あのころ寮には、まだ別科の最後の連中がいっしょにいたころで、その人たちともよく寮では騒いでいたんですがね。いわゆるオペレーター養成の、短大でなくて別科というのがあったんですよ。それは廃止になってしまったからね。私は学校の方は一生懸命に通いもしなかったですよ。だいたい寮生は下駄をはいて来るんですよ。当時は麻雀がかなりはやっていました。私の入った部屋なんかは上級生が麻雀をやるもんだから、勝手に一人で寝るわけに行かなくて、もう2、3日目にはつき合うようになってしまって、それながめながら暮していましたがね。それで、やはりお金がなくなると適当にアルバイトに中村屋に行っている人が多かったし、それと映画の関係で、台本作りから撮影所。それから隣りが東京現像所でしょう。現像所が一番待遇が良かったと思います。
学芸大と同じ所でしょう。で、電気のヒューズの容量がないんですよ。皆が電気コンロを使うからわざと低くして使ってるんでね。でどうかして皆いっせいに電気コンロを使うとポンととんで真っ暗になってしまう。学芸大はお前の方だ、ヤレこっちの方だと、これを裁量するのに誰かいるんですよ。時々電気コンロ管理を両方でね。学芸大と電通大とズーっと回ってね、そこいらにあるコンロを没収しちゃうんですよ。またじきに買ってきますけどね。そういう時代でした。寮にはヌシみたいな存在の人がいました。8年くらいがんばった人がいましてね。だいたいそういうのは非常に優秀な人です。そういうヌシがなかなか卒業せんのですよ。実は私は新聞部にいたんですけど、実際に自分で新聞をだしたのは一時期だったんですが、まあ大きな事件としては安保だけでしょうね。そのときは寮生が夜中に寮生大会を開いて、それで国会にデモをかけるべきかどうかということをやって、行くべきだろうということになったんです。そのときはじめて、それまで政治的なことは全然やらなかったんだけど、どうも心情的にどちらに加担していいか決めかねるようなことでした。あのときは国会の裏門から入って、放水騒ぎで樺美智子さんが死んだというあのへんの現場をみなウロウロしてたわけですね。寮生はずいぶん行きましたよ。
学園祭はやはり1、2年のころでしょうね。やりました。性格的には自分たちの勉強している内容を生かして、例えば航空機関係の事もちょっとやったかな。飛行機がどういう風に管制されて飛んでいるのだというようなことを模型を造って、種々の実験を演じてみせたり、自分らの勉強を兼ねてそういう展示物をつくったのが大半でしょうね。あとは同好会とかの主催でダンスをやるものもあれば、他に展示会をやったりしましたけどね。中にはでかい声を出して市中を練り歩くし、店の看板を移動させちゃったりしたんですけど、直接苦情がくるということは余りなかったですね。かなり好意的につき合ってくれました。
就職は、みな、今行ってるのをみると役所、公社、会社というような、それから名の知れたメーカーですね。電算機関係がやはりはじまったころで、今とそんなに変わらなかったです。ただ何年かたった後で大量にメーカーあたりから電算機関係に移った時期がありましたね。やはりメーカーに行くもんだと思っていたんでしょうね。あまり役所というのは私らには意識がなかったんでしょうね。
- 司会
- どうもありがとうございました。39年卒業の林さんお願いします
- 林
- 僕らのころあたりから学校の雰囲気が今風に近づいたという感じというか、坊ちゃん的になったというか、余り豪傑がいなかったという感じです。上品になったというか、単にその豪傑がいなかったということです。僕らのころの電通大は余り知られてなかったのですが、高校のランキングなんかは非常に解き難い問題を出す学校ということになっていまして、難しい方の部類に入ってました。
そして入ってみましたら、本当に電気をやりたいというのと何となく入ったというのと半分くらいだったですね。半分以上が浪人だったと思うんです。確かに、やりたいといえる人は昔からやっているようで、非常によく知っているし、また、そういう人たちは現実にメーカーに行って活躍されているようです。
林 義弘氏あのころからどういうわけか知りませんけれどもアカデミック指向が強くなってきまして、特にトンツーを毛ぎらいするというのではないのですけれど、余りよく思わない人問がだいぶ多かったようですね。
競争率は余り高くなく、4倍か5倍だったと思います。それで、僕らのときにはじめて電子工学科というのが出来ましてね、そこは非常に競争率が高かったような気がします。確かに優秀な学生が集まってきましてね、タイプとしては非常にまじめな人間が多くて、数学の最初の授業で、周りに集まった人間とシャベッていましたら、突然整数論などやられましてね。1、2年のころは、今までの世界とは違った人問がたくさんいるという感じでしたね。
地域では北海道から九州までいました。授業の方は印象に残るといえば、やはり出来ない方からいいますと、河野先生の電気磁気学ですね。僕らの前の年の人が3分の2落っこったかな。それから、僕らの年からかその前からか分かりませんけども、物理的なことが華やかになりはじめているころの事だったものですから、授業内容がそちらの方に傾いてきまして、物理なんかを非常に重視し、3年になりまして物性論などが出てきましたね。半導体関係が非常に華やかでしたので、就職なんかするときでもできるだけ半導体関係ができるところへ行こうというのが一般的な風潮だったような気がします。それから杉浦先生が私ら1年の時東大からこちらに移ってこられたんですけど、初めてドイツ語をやったものですから非常に印象に残る授業をされていましてね、ドイツ語のファンがその時だいぶ増えたような気がします。ただし今から思うとドイツ語というのは土曜がいつもつぶれるので、非常に重荷の時間でした。
クラブ活動なんかは、例えば運動部にしても強い部というのはないんですね。だいたい弱い。文化部関係でもそんなに活発であるという感じはなかったですね。
あと、ちょうど安保の時、これは1年の時にあったものですから、入ってすぐバタバタして、確か前期のほとんどは授業にならなかったような気がします。集会集会でだいたいだめになったりして。私は第一線でデモに行った方じゃないんでそれほどでもなかったですけど、僕らの中には急進的なのもおりまして、装甲車の下じきになりかけたというのもいます。
それから就職ですが、僕らのころはまだよかった。僕らの次の次の人たちが非常にだめだった年なんです。まだ僕らのころは娘1人にムコ何人という感じです。選べたんですね、少なくとも。ですけれどもやはり人気のところというのがありましてね、セレクションされる訳ですよ。
そのころはどこが人気かというと、電電公社に行かれる人は多かったですけど、例えば富士通など、5人ぐらい受けさせるのに10人ぐらい以上になったりなんかしたというような。私は松下ですけども、松下受けたのも確か10人受けて5人採ったような気がします。ですからまあ就職のときには余りみな就職運動というものをしませんでした。何か適当に募集があったら行けばなんとかなるだろうという感じで、試験があるとなると、試験、そんなもの出来なくたってどうにかなるよとタカを括ってた感じでしたね。就職しての初任給が2万3,000円だったですかね。そのときテレビ関係の人が一番高かったような気がします。だいたいそんなところです。
- 司会
- どうもありがとうございました。