« 8章2節 8章3節 8章4節 » 

電気通信大学60年史

後編第8章 情報化時代への対応

第3節 情報数理工学科の設置

新制の工業系大学としての組織が着々と充実をみるようになり、工業系における基礎関係の学科の増設が必要であるという観点から、既に述べたように、物理工学科の設置をみた。この学科の創設にあたっての発想の底には、物理学と数学との学科の設置ということを将来において実現しようという思惑があった。発足当時とそれ以後は既に記述したとおりである。

ところが、昭和30年代の末期あたりから、工業系における数学の活用ということが盛んにいわれるようになり、いわゆる新しい数学体系の工業系大学への導入が必要であるという見通しが、有識者の問で説かれる時世になっていた。本学においては、長年数学教育の責任の地位にある高野教授が、このことを数学科の設置に結びつけて実行しようという意欲を持つようになり、1965年以降すなわち昭和40年代に入ると、毎年度の将来計画委員会において、数学科の必要性、将来性を説き、応用数学科、工学数学科あるいは数理工学という呼称で要望を続けていた。しかしながら、毎年のこの委員会では、一向に注目されることにはならないのであったが、分かっていただけるまで、何年でも要望を続けると宣言して、そのとおり実行していた。

ところが、1971年度(昭和46年度)あたりから委員長の土方教授の支援が生ずるようになり、7年を経た1972年度(昭和47年度)の将来計画委員会において雲行きが変わり、この数理工学科が浮上するようになり、その年の6月に1973年度(昭和48年度)の概算要求の中の要求事項として採択することとなった。ところが、その昭和47年の11月ごろになると、物理工学科の当時の主任であった故雨宮教授から高野教授に対して

物理工学科を拡充改組する話が本省から具体的に伝えられてきた。この学科を物理工学科と数学科の二つに分ける方針であるが、数学科の方は貴兄が提唱してきた数理工学科の頭へ情報をつけて、情報数理工学科とすれば、明昭和48年度から発足できるがどうであろうか

という申し入れが行われたのであった。

そこで、熟慮を重ねた結果、政治的判断に立って推進者としてはそのように進めてみることに同意を与えたのであった。いずれは、情報の呼称を外して新学科名に改称すればよく、不本意ながら、当面数学系学科の実現をすべきであると判断したからであったということである。

さて、1972年度(昭和47年度)の委員会の雲行きが変わったと述べたが、次のような事情によって客観情勢に変化をみたのであった。その一つは、物理工学科内には、物理学と数学との合体化という至難の業が存在するという事情であった。物理学と数学とのそもそもの指向理念の差異は、これをどうすることもできないということである。こうした歪が、大学紛争が一段落して以後、学内において注目されるようになり、学内に数学的学科設置への理解の気迫が生まれてきたのであった。その二つは、文部省が産業界からの要望もあって情報に関する学科新設を奨励しはじめたことである。情報関係学科が、数学と不即不離の関係にあることはいうまでもない。

こうした情勢変化が学内の雲行きを変えていったのである。この学科が生まれるに際して、文部当局との調整に骨身を惜しまず努力されたのは、当時の森永事務局長であった。

以上のような情勢変化ののち、1973年すなわち昭和48年度から、4講座制の情報数理工学科は誕生した。

物理工学科の計数工学コース所属の教官は、そのまま新学科に移籍し、その後、名取助教授が加わり、情報数理工学科の建物である西4号館が完成し、そして学科専用の教育用電子計算機が導入された。統計数学講座教授の本間鶴千代氏(現在は日本工業大学教授)を本学科に迎え、続いて埼玉大学から小林光夫助教授、そして1977年(昭和52年)4月には東京大学計数工学科の森口繁一教授が本学科の専任教官として着任され、ここに情報数理工学科は一応の完成をみたことになる。1977年度(昭和52年度)には大学院修士課程の情報数理工学専攻が設置されている。

社会の出来事
  • 昭和47年4月4日 沖縄協定機密漏れ(外務省機密漏えい事件)で外務省の蓮見喜久子元事務官と毎日新聞西山太吉記者逮捕される。これを契機に国家機密の知る権利との関係が問題化。
  • 昭和47年4月15日 川端康成ガス自殺。
  • 昭和47年4月17日 米軍機4年ぶりにハノイ爆撃。
  • 昭和47年5月8日 ニクソン大統領、北爆強化と北ベトナム全港湾の機雷封鎖を決定。
  • 昭和47年5月15日 沖縄、日本に還る。
  • 昭和47年5月31日 日本人ゲリラ岡本公三、テルアビブ空港で機銃乱射、6月1日政府、イスラエルに陳謝特使を派遣。
  • 昭和47年6月17日 米民主党全国委本部に侵入した5人を逮捕。(ウオーターゲート事件の発端)
  • 昭和47年7月24日 四日市ゼンソク訴訟、被害者側が全面勝訴。
  • 昭和47年8月7日 田中首相提唱の「日本列島改造論」を政策として具体化するために設置された日本列島改造問題懇談会が初会合。
  • 昭和47年8月9日 イタイイタイ病控訴審判決で患者、遺族が全面勝訴決定。
  • 昭和47年9月4日~8日 東京・北の丸公園の科学技術館でわが国初の新聞製作技術展開かれる。
  • 昭和47年9月5日 アラブ・ゲリラ、ミュンヘン五輪村を襲撃、イスラエル選手団11人を殺害。
  • 昭和47年10月5日 学制100年記念式典、東京・国立劇場で開く。
  • 昭和47年11月5日 パンダの一般公開始まる。
  • 昭和47年11月21日 東京高裁、メーデー事件騒乱罪に全員無罪判決。