電気通信大学60年史
後編第8章 情報化時代への対応
第2節 電子計算機学科の設置
- (1)学科設置までの経過
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信頼性の高いコンピューターが量産され社会に普及しはじめたのは、昭和30年過ぎのことであるが、昭和40年過ぎとなると、いわゆる情報化社会への発展が加速され情報処理技術者の需要の激増に対する国家的な施策が要望されるようになった。電気通信大学においても、故雨宮綾夫教授や関英男教授(現東海大学教授)を中心として、このような社会的な要求に応じて専門的な情報処理に関する研究教育を実行する新学科の設置計画が立てられ、1969年(昭和44年)夏に、電子計算機学科の新設を概算要求として文部省に要求することになった。その設置の趣旨は、計算機の基礎と応用について、ハードウェアとソフトウェア両面にわたっての教育を行い、計算機システムの設計能力をもち、その応用能力をもつ人材や計算機科学の研究者などを育成することであり、1学年の学生定員を60名とし、論理回路設計学・記憶装置学・ソフトウェア基礎学・システムプログラミング学及び端末装置学の5講座と言語工学の共通講座より成るという構想であった。
1970年(昭和45年)新年早々に、この計画が認められ、同年4月から新学科が発足することとなり、佐藤洋教授が有山正孝教授とともに学科の設立運営に当たることとなった。なお、このような専門的情報処理教育を行う学科が国立大学として設置されたのは、この時がはじめてであり、同時に東京工大、山梨大、京大、阪大の4大学に同様な性格の学科が設置された。現1979年(昭和54年)時点で、国立大学に設置されたこのような学科の総数は、本学情報数理工学科を含めて30近くに達している。
- (2)学科設置後の経過
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本学科の設置が認められ、1970年(昭和45年)4月から60名の新入学生が入学することになったが、諸種の事情からこの学科の活動が軌道にのるまでは多くの困難と苦心とがあった。特に研究と教育とを推進する専任教官の招へいと、情報処理教育の中心的な設備となる計算機の予算獲得については苦労が多かった。
通常の学科新設の場合には、既設の学科の1、2の講座の教官が新学科に移動して新学科設立の核となることが多いのであるが、本学科の場合には、この核となりうるような適切な講座が見当たらず、学外から計算機に関する専門家を教官として招かざるをえない事情であった。更に当時は教授として招へいしうる計算機の専門家は日本全体としてもわずかの数しか存在せず、助教授クラスの若手研究者についても、これを養成する研究室が極めて少なく適材が不足していた。
次に教育用計算機設備の設置に関する問題である。前に述べたようにこの種の学科設置は初めてであって、当初文部当局としてもこの問題に対する確たる方針を定めておらず、学科としては、ある程度の規模の計算機設備の必要性についての明確な根拠を示して当局と折衝を重ねる必要に迫られた。1971年度(昭和46年度)の概算要求の時点では、前記5大学の足並がそろわないこともあって、計画が見送られ、1972年度(昭和47年度)の要求において、1億円の予算が認められることになったのである。初年度入学の学生は、それまで学内の既設の設備を借りて計算機の実験実習を行っていたが、彼らは4年になってはじめて新しい計算機システムを使用することが可能になった。
1974年(昭和49年)の4月からは、学年進行に伴って、修士課程の電子計算機学専攻が設置され10名の学生定員がつくようになった。
また1978年(昭和53年)4月からは、電子計算機学科という学科名が計算機科学科と改められた。この名称変更は、学科の名称に機械そのものの名前をつけることを避け、同時に諸外国で普及されている学科名を用いることを望んで実施されたものであり、学科設置の趣旨が大きく変化したものではない。
本学科新設後10年近くを経た現在、学科には多くの優れた教官と、よい素質と意欲をもつ学生がそろって、学内はもとより社会的にも評価を受けるようになりつつあることを喜びたい。
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