電気通信大学60年史
後編第8章 情報化時代への対応
第1節 情報化時代はじまる
第2次産業革命と称される新しい革命は、第1次産業革命が人間の手足、すなわち労力の機械への変換であるのに対して、頭脳労力や神経系の機能のエレクトロニクスヘの変換である。この革命により、今までの物質とエネルギー中心の社会に、情報という新しい価値ある"もの"が介入してきたのである。今までは有形な物質・エネルギーを対象としてきたのに対して、無形の知識や情報をも対象とするところに大きな特徴があり、情報化時代と称されるゆえんである。
第1次産業革命の主役が蒸気機関であったように、第2次産業革命の主役は電子計算機であり、これに3Cと称するComputation(計算)Communication(通信)Control(制御)の機能が含まれて、社会全域にわたり、新しい変化を引き起こしている。
わが国の変化の端緒は1953年(昭和28年)から始まったといえる。その理由は、まずテレビの本放送の開始で、今までのラジオという"聞く"動作に、新たに"見る"といる事象が加わった。テレビの視聴世帯数は放送開始後10年で1,900万に達し、茶の間の王座にのし上がり「1億総白痴化」という言葉まで生まれた。しかしテレビの影響力は大きく、特に、衝撃的なことは、ケネデイ暗殺の宇宙生中継である。これは通信衛星のすばらしさを如実に物語っており、世界の人々が、同時に見、同時に聞き、同時に考えることが出来る社会構成となったことで、大きな意義を持っている。
電子計算機は弾道計算に対する軍事的要求から、アメリカで1945年(昭和20年)に誕生した。一方、わが国では、先のテレビ放送と同じ年に、電気試験所でリレー式の「ET-MARK1」と称する計算機が完成した。
1955年(昭和30年)に、山一証券が初めて商業用電算機(アメリカ製)を導入し、翌1956年(昭和31年)、国産初の本格的電子計算機(真空管式)が富士写真フイルムで完成した。このような状況の昭和30年は「神武景気」といわれ、もはや戦後ではないと騒がれ、わが国の工業・各企業の組織が巨大化し、多様化し、高度化へと変化していった年であった。これに伴い情報量は爆発的に増大し、情報の重要性も認識するようになった。これらに対処するため、工場のオートメ化や経営管理の手法が採用され、電子計算機の利用がはじまり、計算機の急速な普及をもたらした。これがまた逆に、企業構造や社会全般に強烈な影響を与え、その変革を促進していった。
政府も、電子計算機は 第1に経済社会の近代化に貢献する、第2に電子工業の技術水準を先導する、第3にこの産業を有力な輸出成長産業にする、という理由から、まず産業としての定着化と情報処理産業の中核として、自主技術開発力の形成などを目標として、同産業の育成策に力を注いだ。
その結果、1966年度(昭和41年度)には、国産機の総額が輸入機総額よりオーバーし、その後1970年(昭和45年)に国産機は年50%を上回る率で増加し、昭和45年の電子計算機の総設置台数は1万台に達し、産業としての地盤を確立した。この成長に従い、計算機は当初の目的の計算処理から脱皮し、情報の伝達・変換・蓄積・検索の面に広範囲に利用され、伝達という面では通信との結合により地域的な広がりを持った。
明治時代から始まった通信は、人間対人間の通信であったが、計算機との結合により、人間と機械、機械と機械との通信が加わり、第3の通信と称するデジタル通信が情報化時代の通信となって出現した。そのため昭和45年、公衆電気通信法の一部改正が行われて、回線自由化もスタートした。
今日の情報化時代を作り出した技術の中心のエレクトロニクスは1947年(昭和22年)のトランジスターの発明と、それ以後のIC、LSI、超LSI、更にチップCPUの発明利用によって進展が著しい。このように現代の情報化時代は、ハード技術の物理学・電子工学・通信工学・制御工学・機械工学のみでなく、情報工学や広くシステム工学と、基本的な学問から応用面まで、多岐な専門工学を必要とする社会に発展してきた。
先の工業化時代に公害間題が発生したように、情報化時代の社会においても、問題点が種々発生する危険性をはらんでいる。これらの障害を取り除き、新しいものへの無理解や、いたずらな神秘化の弊害を取り除き、人間社会にプラスする能力や技術を養う教育を実施する必要が急務となった。
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