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電気通信大学60年史

後編第5章 電子工学時代の電気通信大学

第4節 短期大学部をめぐる諸問題

4-1 通信工学科の設置

通信科のみで発足した本学短期大学部も、入学してくる学生が全員船舶無線通信士を希望しているわけではなかった。第1期生、第2期生に対して当時の自治委員会が入学した動機のアンケートをとっている。それによると、通信士を希望する者、第1期生42パーセント、第2期生45パーセント、技術を希望する者、第1期生25パーセント、第2期生35パーセント、その他を希望する者、第1期生33パーセント、第2期生20パーセントとなっており、通信士を希望する者は、当時でも約4割の学生ということになる。一方、学校の授業内容は船舶無線通信士養成指向型のため通信実技の授業が多く、これを受講しない学生はそれに替わる教科がないので不満を持ちはじめたこと、技術士や工業技術者を希望する学生にとっては、現状の授業内容では到底満足できず学校当局に、工学系短期大学として教科内容を充実して欲しいと要望する気運が学生の間で高まった。

このような学生の動きに対し学校当局は出来ることから改善をはじめ、学科名は通信科であるが、学生の希望によって通信を専攻する者、通信工学を専攻する者とに第1期生のころから分かれていたもようである。基礎学力を身につけるにはあまりにも教科不足であり、時間不足であったので、教科の充実と修業年限の延長が一緒になって、5年制大学2部に昇格しようとする学生運動が、第3期生の足立照夫、韮沢富次、籠島偉介等の諸氏を中心として積極的に展開された。運動の結果は5年制大学2部に昇格は出来なかったが、現状を改善し充実することで通信工学科を無線技術士養成指向で発足させることに寄与した。通信工学科は1958年(昭和33年)4月1日に入学定員40名で発足し、この結果、通信科の入学定員が120名から80名に変更され全体の入学定員は変わらなかった。

通信工学科の発足で、教科は増えたが内容の充実、電波高専の発足、短期大学が暫定的な制度であることで後になって再び5年制大学2部昇格問題が再燃するのであった。

通信工学科の学生は本学に入学する前に定職をもっている者が比較的多く、その職場も多種多様であって学校に期待するものも通信工学という言葉で表現されるような単純なものではなかった。技術者として専門書が自由に読め、理解出来るだけの基礎学力を身につげたいと希望する学生が多かった。授業内容の多くは国家試験の第二級無線技術士程度のレベルを踏み出さなかったところに、高等教育レベルでの技術教育に何かものたりない不満が残るものであった。1966年(昭和41年)4月1日に通信工学科は本来の通信工学コースと通信機械コースの2コースに分けられた。通信術とは直接関係ない"機械屋"コースが誕生したのである。

社会の出来事
  • 昭和32年5月30日 流感全国に猛威、学童だけで50万5,000人、休校1,200校。
  • 昭和32年6月4日 米国務、国防両長官共同声明で1月30日群馬県相馬ケ原で薬きょう拾いの農婦射殺のジラードの裁判権を日本に引き渡すと公表。11月19日懲役3年、執行猶予4年を判決、ジラード離日。
  • 昭和32年7月1日 地球観測年始まる。
  • 昭和32年7月6日 谷中天王寺の五重塔、放火心中のため全焼。
  • 昭和32年7月25日 九州西部に豪雨、死者476人、行方不明489人、諌早市被害甚大。
  • 昭和32年8月29日 茨城県東海村の原子炉に初めて原子の灯ともる。

4-2 二部昇格運動

過去において何回かその年の3年生の一部の人びとを中心として、5年制大学2部昇格運動が断片的に展開されてきた。3年生が中心であったということは、3年生になってはじめて内部的には専門知識を修得するには中途半端な授業が多く、最も充実した授業を受けたいと望むこと、外部的には短期大学生に対する社会の評価の低さに気がつくからである。

最初の運動は、1956年(昭和31年)第1期生の卒業後まもなく第3期生の足立照夫、韮沢富次、籠島偉介等の諸氏を中心とする当時の自治委員会であった。この時は学園の充実を目標に積極的な活動を行った。この運動が後に通信科から通信工学科の分離独立に大いに影響した。ついで電波高専学校発足の年にあたる1961年(昭和36年)ころ、再び当時の自治委員会に2部昇格実行委員会を作って能登谷隆寛氏等が中心となって行われた。この運動のあった翌年、5年制大学2部昇格運動を顧みると、初めは短期大学も大学の一種であって、教科内容の充実、一般教養科目を増すこと、専門科目の履修に不可欠の基礎学科の充実を学校当局に要求した。教科目の増加は3年問では勉強しきれず、修業年限の延長となって5年制大学2部昇格運動と発展してきた。ある時は短期大学は職業的教育でよいとする者は授業の充実を、短期大学も大学も大学の一種であると考える者は、現状の短期大学ではその目的達成が不可能なら5年制大学2部に移行すべきだと、二つの考えに分かれてしまった。学園紛争のあった1968年(昭和43年)6月に学内の将来計画委員会において2部問題が話題となって、2部問題調査委員会を発足させ、学部、短大双方から4名ずつ委員を選出し、約1年間かけて当時の2部校の実情調査、2部移行に伴う諸問題について審議が行われ、1969年(昭和44年)6月10日に開催された将来計画委員会に調査の結果が報告されている。5年制大学2部昇格の問題点をあげると

  • 5年制大学2部移行は短期大学の所属から母体大学の所属に変わるか、または独立した夜間専門の大学になるかであるが、前者は母体大学が短期大学の要望を理解し、必要性を認めなければ実現しないし、後者は文部省・大蔵省が必要な予算を出してくれるかにかかっていて、これまた実現性はうすい。
  • 社会一般は夜間部大学生に対して偏見をもっておりあまり理解をしておらず、入社試験、昇進に昼間部大学生とを差別していて、大学教育を拡大しようとする教官たちの意欲を喪失させている。
  • 学生数の増大と2部学生に対する社会の冷たい反応から、学園紛争が多発する要因を作ると大学当局を心配させている。
  • 夜間授業では優秀な教官を確保することが難しい。

以上がこの運動の成功を阻んでいる要因と思われる。短期大学部は併設大学の所属ではなく独立した学校であり、それぞれ別個の設置基準、執行機関をもっており、短大当局との交渉のみでは5年制大学2部昇格間題は解決できるものではなかった。多くの短大生にとって、短大と母体大学との関係を正しく理解できなかったと思う。教育施設の共用を認めながら、なぜ学生寮には入寮できないのか。しかし、九州工大短大や名工大短大が同じ境遇にありながら、この困難にも負けずそれぞれ母体大学の2部に吸収昇格したことを思いうかべると、本学の2部昇格運動方法に多少工夫が欲しかった。国立学校は在学生だけのものではないはず、在学短大生だけでなく調布近辺に住む経済的に恵まれず大学に進学できない勤労青年が夜間学べる大学を設けて欲しいと地域ぐるみの運動を母体大学と文部省、国会に働きかける必要があったと思われてならない。2部昇格運動はついに成功しなかった。

社会の出来事
  • 昭和32年10月1日 5,000円札を発行。
  • 昭和32年10月4日 ソ連、世界最初の人工衛星スプートニク1号打ち上げに成功。
  • 昭和32年10月15日 最高裁八海事件の原判決破棄、差し戻しを決定。(昭和31年、"真昼の暗黒"で映画化)
  • 昭和32年11月2日 徳富蘇峰死去、94才。
  • 昭和32年11月3日 ソ連、イヌをのせた人工衛星スプートニク2号の打ち上げに成功。
  • 昭和32年11月18日 フジテレビ創立。
  • 昭和32年12月11日 100円硬貨を発行。
  • 昭和32年12月26日 AA人民連帯会議、カイロで開く。(45か国参加)
  • 昭和32年12月26日 日本テレビとNHKにカラーテレビ放送予備免許。

4-3 みみずく会の発足

みみずく会は、電気通信大学短期大学部同窓会の名称である。

1期生の卒業式の日、卒業祝賀会が開かれ今後も卒業式の日に卒業生が皆集まって、毎回会うことが決められた。新しく出来た学校であったのでまだ同窓会もなく1期生は卒業していった。2期生の卒業式が近づいた1957年(昭和32年)に卒業祝賀会を開くだけでなく、今後毎年卒業生が出て同窓生も増えることだし、日常お互いの親睦を深めるために同窓会を作ってはどうかと、当時の事務部から助言があって、2期生の卒業式の日卒業祝賀会を開いた折、会が盛況のうちに終わりに近づいたころ同窓会の結成が諮られ承認された。会の名称は、いくつかの会名が提案され出席者の挙手投票の結果、最高投票を得た会名が「みみずく会」であった。みみずく会の提案者は当日の出席者の中にいるのだが、誰であるかはいまでもはっきりしない。この祝賀会ではとりあえず、毎年卒業式の日に、卒業祝賀会を開いて各期の「タテ」のつながりをもとうということが決まった。後にこの卒業祝賀会をみみずく会総会と呼ぶようになった。

その後、みみずく会総会は順調に開かれたが、同窓会としての会則はなかなか出来ず、事務部から指摘され忙しいなかを、重い腰をあげて会則作りに会として動き出したのが5期も卒業した1960年(昭和35年)の春であった。打ち合わせ会を何回か開き、事務部の永野・川島両氏の協力を得て、1期から5期の代表者が集まり会則作りが進められた。5期の矢田光治氏が会則の草案を作り、これを皆が検討して会則がやっと出来た。同窓会名簿の作成、会報の発行、卒業祝賀会を兼ねた総会の開催が当面の会が行う行事と決めた。会則が出来た日は明確ではないが、みみずく会細則第10条により推察すれば昭和35年9月までに作成されたことになる。後のみみずく会会報によれば、この時の会長は浦吉弘氏となっている。会則が制定されるまで、みみずく会の名はあったが組織としての機能は十分でなく、会長と呼ばれる人もいたのかはっきりしないが、卒業10周年記念の座談会に浦吉弘氏が出席され、みみずく会は小林博夫氏が最初の会長になられたと発言されているし、浦氏自身が会報「みみずく」の序文で、みみずく会育ての功労者として小林博夫・矢田光治両氏の名をあげておられるところを見ると、会則が出来るまで会のめんどうを小林博夫氏がみていたもようである。浦氏がいつ会長になられたか不明だが、会則が出来てからはその定めに従って会長が選ばれたもようである。歴代の会長は次の諸氏となる。

初代小林博夫(1期)、2代浦吉弘(2期)、3代秋草英也(3期)、4代市村昭(4期)、5代山崎昌邦(5期通信)、6代花岡昭男(6期通工)、7代林啓三(7期通工)、8代栗原正明(8期通信)、9代北川浩(9期通工)、10代滝沢邦彦(10期通信)、11代能登谷隆寛(11期通工)、12代山本勤(10期通工)、13代金山清次(9期通信)で現在に至っている。

会報の創刊号は1961年(昭和36年)9月に発行され、以後8号が発行されるまでに発展した。

  • 会員数は1979年(昭和54年)4月現在で2,108名(電波通信科980名、通信工学科通信工学コース495名、同通信機械コース152名、電子工学科電子工学コース226名、同情報処理コース225名、通信専攻科135名)である。
  • 通信専攻科卒業生には本学からの入学生と他校からの入学生がおり、その数が判明しないので会員数から除いた。
社会の出来事
  • 昭和32年 この年人口自然増加率100人につき8.9人で戦後最低の記録。主婦のパートタイム流行。
    南極観測隊参加者一覧
    第2次 昭和32年 宗谷
    夏隊
    通信 小林友一 (昭19・91高)郵政省電波監理局
    乗組員
    通信長 大橋久蔵 (昭10・4 本)
    首通士 中村功 (昭14・4 本)
    次〃  福田義博 (昭17・10 本)
    三〃  内田政雄 (昭22・1 本甲、22・9 通専)
    四〃  上竹嘉和 (昭25・3 本)
  • 昭和33年1月20日 インドネシアと平和条約、賠償協定など調印。(賠償12年間に2億2,308万ドル)
  • 昭和33年1月30日 米人工衛星エクスプローラ一号の打ち上げ成功。
  • 昭和33年2月1日 エジプト、シリア合併、アラブ連合共和国成立。
  • 昭和33年2月8日 日劇でウエスタンカーニバル開く、ロカビリー大流行。