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電気通信大学60年史

後編第5章 電子工学時代の電気通信大学

第2節 電子工学科の設置

2-1 エレクトロニクスの急速な発展

敗戦後、虚脱状態にあった企業が、ようやくどうにか活気を取り戻したのは、1950年(昭和25年)6月25日、朝鮮動乱が勃発してから以後のことである。

これより前、1949年(昭和24年)12月1日には、GHQによって民間輸出貿易の再開が許可されており、またその翌昭和25年1月1日を期して、民間の輸入再開も許可された。貿易によって外貨を獲得しなければ生きて行けなかったわが国にとって、貿易の再開は強く望まれていたのであった。

民間ラジオ放送が開始されたのが1951年(昭和26年)9月1日であり、また、NHKがテレビの本放送を開始したのがその2年後の昭和28年2月1日であった。同年8月28日にはNTVによる民間テレビ本放送が始まった。これが民放テレビのそもそもの始まりであった。

他方、米国では1954年(昭和29年)の初頭から待望のカラーテレビ放送が開始された。わが国でカラーテレビ放送が始まったのは、米国よりも6年余遅れた1960年(昭和35年)9月10日である。この年の12月27日には、当時の池田内閣はいわゆる「所得倍増計画」の閣議決定を行い、生活の不如意をかこっていた国民の心に一纏の望みを抱かせたのであった。

ラジオやテレビ放送の開始とともに、エレクトロニクス産業はにわかに活況を呈してきて、テレビ受像管、受信管、送信管、部品及び機器等の生産は年とともに増大した。また、1950年(昭和25年)ころから次第に盛んになってきた家電産業もやがてブームを呼び起こすようになって、電気洗濯機、電気冷蔵庫及びテレビのいわゆる「三種の神器」時代の到来を迎えるようになる。

当時、エレクトロニクスの心臓部の役割りを演じていたのは主として電子管であった。わが国における電子管の生産は、量及び種類ともに著しく増加しつつあった。例えぱ、1958年(昭和33年)ころには、電子管の種類は既に数百種類もあって、総生産量は280億円に達していた。それより4年前の昭和29年の生産量に比べて50パーセントの増加であった。その中でも受信管とテレビ受像管の生産が首位を占めていて、前者は130億円、後者は110億にも達した。

他方、1947年(昭和22年)に初めて発表されたトランジスターも1950年代後半になると、その生産は急速に増え始めた。例えば、1957年(昭和32年)には年産570万個であった生産は、その2年後の昭和34年には8,600万個と実に15倍に達し、更に1960年(昭和35年)には約1億4,000万個と24倍にもはね上がった。

このようにトランジスターやダイオード等の性能が向上し、生産量が増大するにつれて、コンピューターの実用化がすすめられてきた。各企業は競ってコンピューターの製造に乗り出してきたのであった。

エレクトロニクスは、手先の器用なわが国民に最も適した産業であり、また特に、敗戦によってほとんどすべての生産設備が壊滅的な打撃を受けたわが国では、主として米国からの技術や生産設備の導入によって、最新の設備を整えることが出来たという利点もあったのである。そして、敗戦国であったわが国も、米国を除く戦勝国とあまり変わらぬスタートラインから出発することができたのである。それにはまた、戦後相次いで創設された夥しい数の新制大学の発足が、国民の教育水準の向上に大きな寄与をもたらしたという事実も見逃すことはできないであろう。

こうして、エレクトニクスは、自動車などとともに、わが国の花形産業のちとなって外貨を稼ぎ、国力の増進に大いに貢献したのであった。エレクトロニクス産業の成長は、必然的に電気電子関係の高級技術者に対する需要を大いに喚起したのであった。

これに関して、もう一つ見逃し得ないのは、1957年(昭和32年)10月4日、ソ連が世界最初の人工衛星スプートニク1号の打上げに成功したことであった。その当時、ソ連における理工系と人文系の学生数の比率は7対3といわれていて、それに対して、わが国のそれはほぼその逆だといわれていた。一般に技術者の数を増やして、理工系と人文系の学生の比率をソ連並みにすべきだという議論が主として国会議員の側から提唱されたのは、スプートニクの打上げによって刺激された結果であった。

電子工学科は、以下に述べるように、1959年(昭和34年)4月1日に発足したのであるが、それが創設された背景には前記のような情勢があったのである。本学はまさにこのようなエレクトロニクスブームに乗じたといえるであろう。

社会の出来事
  • 昭和30年11月15日 自由、日本民主両党合同、自由民主党を結成、保守合同なる。総裁決定まで代行委員制(鳩山一郎、緒方竹虎、三木武吉、大野伴睦)、11月22日鳩山内閣成る。
  • 昭和31年1月1日 新潟県弥彦神社で初詣の群衆、モチまきに殺到大混乱、圧死者124人。
  • 昭和31年1月12日 東京の赤線従業婦、組合を結成して売春防止法反対。
  • 昭和31年1月26日 第7回冬季オリンピック・コルチナ大会(猪谷、スキー回転で2位)。
  • 昭和31年4月1日 医薬分業実施。
  • 昭和31年4月5日 自民党臨時大会で初代総裁に鳩山一郎選出。
  • 昭和31年4月17日 コミンフオルム解散。
  • 昭和31年5月3日 第1回世界柔道選手権大会、国技館で開催。
  • 昭和31年5月9日 日比賠償協定マニラで調印。(20年間に2億5,000万ドル支払い。)

2-2 電子工学科の設置

前述したように、電子工学科は1959年(昭和34年)4月1日付で増設された。本学における設置順位は、電波通信学科(海上通信専攻及び陸上通信専攻)、電波工学科、通信経営学科についで4番目である。学科の構成は、電子工学第1講座(半導体工学)、電子工学第2講座(電子管工学)、電子工学第3講座(電子回路学)及び電子工学第4講座(電子制御工学)の4講座から成り、学生の入学定員は40名であった。この電子工学科の増設を立案し推進したのは、当時の学生部長角川正教授(後に仙台電波工高専校長に転出。故人)であったといわれている。電子工学科の増設が契機となったと思われるが、この後、新学科が相次いで増設されるようになるのである。社会の動向を読み取り、時流に乗った角川教授の努力は、本学の発展という見地からすれば、高く評価されるべきであると思う。

昭和34年度には、電子工学科はまだ出来たばかりであるから、専門学科の教官定員はついていなかったはずであるが、おそらくは大学全体の空定員を流用したのであろう。まず電波工学科から4月1日付で岡村史良氏が電子工学第3講座(電子回路学)の担任教授として移籍した。助教授は角田稔氏が同じく電波工学科から移った。なお、この講座は短大の菅野正志助教授が昭和34年から昭和39年まで助教授を併任した。電子工学第1講座(半導体工学)担任の教授としては、昭和34年4月10日付でNHK技研から竹谷謙一氏が就任し、助教授としては少し遅れて通産省電気試験所から矢沢一彦氏が就任した(1961年(昭和36年)4月1日から1969年(昭和44年)12月31日)。ついで、電子工学第2講座(電子管工学)は望月仁氏が昭和34年4月1日付で助教授として電波工学科から移籍し、同年10月1日付で平島正喜氏が東海大学から教授として就任した。

ついでであるが、この年の10月3日付で、初代学長寺沢寛一先生の退官の後を受けて、山本勇先生(故人)が第2代学長に就任した。

最後に、電子工学第4講座(電子制御工学)担任の教授は初め適任者がすぐには得られなかった。というのは、「自動制御論」という学問は、当時は比較的新しい学問であって、教授に適した年輩の候補者を得るのが必ずしも容易でなかったからである。人選難の末、当時の通産省電気試験所(現在の電子総合研究所の前身)の野田克彦部長(現在松下技研会社役員)の尽力によって、同所の通産技官上滝致孝氏を非常勤講師に迎えた(昭和34年11月2日から同37年3月31日)。自動制御論は第4年次学生に対する通年講義であったが、電子工学科の最初の学生が4年生にすすんだ1962年(昭和37年)4月1日から翌1963年(昭和38年)3月までの1年間、東大生産研究所の森政弘助教授(現在東京工大教授)を本学の併任助教授に迎えて、講義並びに卒業実験の指導をお願いした。森助教授が併任助教授を1年間限りで辞任されたので、後任には北大電気工学科の林邦夫教授(故人)を煩わして併任教授に就任して頂いた(昭和38年9月1日から同39年3月31日)。その当時、大学院修士課程の設置が計画されていて、定員に欠員が生ずることを極度に警戒したためにとられた措置であった。その間、実際の講義は電気試験所の通産技官辻三郎氏(現在大阪大学教授)に担当して頂いた(昭和38年4月1日から昭和40年3月31日)。そして、1964年(昭和39年)4月1日以降、電波工学科から遠藤耕喜氏が教授として就任し、電子管工学講座から新谷治生氏が講師として移り、こうして電子工学科の4講座の陣容は一応整ったのであった。

電子工学科の建物(現在のF棟)は、発足してから3年後の1962年(昭和37年)に完成した。その当時、折あしく諸物価が急騰して、当初予算で賄うのが苦しかった。照明用の電灯も螢光灯の設置は無理で、実験室の水道の蛇口の数もわれわれの要求どおりにはとても行かないということであった。

そこで、三菱電機に交渉して40W×2の螢光灯130個の寄付を仰いだ。この時大変ご尽力を頂いたのが同社の進藤幸三郎部長(後に芝浦工大短大学長)であった。なお、三菱電機からの働きかけで日立製作所と東芝からも寄付がもらえることになって、日立からは7馬力の冷房機と冷却塔及び30kVAの変圧器4個を、また東芝からは7馬力の冷房機2個の寄付があった。日立製作所との交渉には同社の大内田正部長(後に同専務取締役、現在日立建機社長)の非常なご援助を頂いた。両氏のご厚意は今でも忘れることは出来ない。右の変圧器の中の1個は余分になって、たしか後から増設された通信機械工学科に提供したはずである。

右の3社には本学への寄付に対して時の池田総理大臣の表彰状が交付された。F棟の竣工後、当時の山本勇学長から政府にそれを申請してから約1年後の1963年(昭和38年)のことである。

電子工学科の第1回卒業生は昭和38年に社会へ送り出された。

F棟から西2号館への引越しは、1972年(昭和47年)夏休みと翌1973年(昭和48年)春休みの2回に分けて行われた。約10年間F棟にいたわけである。その間、1966年(昭和41年)度以降はいわゆる多人数教育制度を採用して、4講座40人スタイルから5講座(プラス共通講座1)60人スタイルに移行した。この際増えた1講座は「電子物理学講座」で、電子回路学講座から角田稔氏が担任教授として移り(1970年(昭和45年)1月1日)、中田良平氏が1969年(昭和44年)4月1日から講師に就任した。なお、前記の「電子制御工学講座」の名称は、1966年(昭和41年)度に多人数教育制度が採用されるのと同時に「制御工学講座」と改称され、電子工学第1ないし第4講座の名称は廃止された。

電子工学科に大学院修士課程(2年の課程)が設置されたのは、1965年(昭和40年)4月1日であった。入学定員は1講座2名で、合計8名であった。この入学定員が10名に増加されたのは、多人数教育制度を採用後の1968年(昭和43年)1月以降で、同年4月以降は入学定員が10名になって今日に至っている。

社会の出来事
  • 昭和31年5月9日 日本登山隊、ヒマラヤのマナスル(8,125メートル)初登頂。
  • 昭和31年5月20日 米国ビキニで初の水爆投下実験。
  • 昭和31年5月24日 売春防止法公布。
  • 昭和31年6月28日 ポーランドのボスナニで反政府暴動起こる。
  • 昭和31年7月1日 気象庁が発足。
  • 昭和31年7月26日 スエズ運河会社の国有化を宣言。
  • 昭和31年8月7日 都内の喫茶店の深夜営業急増(約8,000軒)、東京都取締条例公布。
  • 昭和31年8月19日 日本テレビ放送網、早朝放送を開始。
  • 昭和31年9月29日 東京-仙台-札幌間マイクロウエーブ回線開通。
  • 昭和31年9月30日 大西洋横断海底ケーブル完成。
  • 昭和31年10月23日 ブダペストで学生、労働者の反政府運動起こる。ハンガリー事件の発端。
  • 昭和31年12月18日 国連総会、日本の国連加盟を全会一致で可決。  12月19日 国連加盟に伴う大赦令公布施行。