電気通信大学60年史
後編第5章 電子工学時代の電気通信大学
第1節 專攻制から学科制へ
1-1 電波通信専攻、再び二分割
本学は船舶通信専攻・陸上通信専攻・電波工学専攻で発足したが、その後、1953年(昭和28年)3月1日付で前者の2専攻が電波通信専攻に統合された。また、通信経営専攻がこの年に発足して、3専攻の時代が1959年(昭和34年)4月1日まで続いた。しかし、電波通信専攻にはいろいろと問題があり、講習所時代からの通信士養成の考え方を踏襲し、本学の設立の主旨である『優秀な通信士を社会に出す』を背景にして、あくまでも職業教育に固執していこうとする流れと、教育と研究機関にしなければ将来、電通大の発展はないとする流れが交錯していた。1956年(昭和31年)に文部省より大学設置基準が省令(文部省令第28号)で定められ、大学は教育研究の場であること、教員の資格、授業科目、授業時間と単位数、設備等の基準が記述されている。電通大としての進むべき道は明らかに教育・研究であるとする考え方が主流を占めるようになって行くのは時代の必然性からかもしれない。
当時の電子工業界の要請する卒業生は、電通大の中に依然として残っていた講習所時代の職業教育的な考えの殻を打ち破り、会社において製品の開発・改良に専心しうる能力をもつ者であることを求められるようになっていた。しかしながら、昭和31年度の場合、運輸省の推定によると『266名の船舶通信士が必要とされる』とされており、講習所時代からの教官の処遇の問題もからんで、電波通信専攻の改廃は容易ではなかった。昭和31年4月3日に、3専攻の改組に関する報告書が教授会に提出された。いわゆる角川・谷村教授らによる改組案である。この案は、通信専攻を廃止し、通信士養成課程を設置しようとするものであり、教授会は一応の承認を与えた。しかし、通信士養成に関係している教官方から強い反対がでた。このため、通信専攻の改革に対して、本学の『大学としての原則論』から、次のような三つの案が考えられるにいたった。
- 電波通信専攻を現在のまま存続させる。
- 通信専攻を廃止するが、希望者には専攻に関係なく、通信術の訓練を受けられる組織を置く。
- 通信士養成は行わない。
同年7月の教授会では(2)の案に沿った試案が角川・谷村両教授により検討され、7月25日の教授会に提出された試案によると『通信士養成課程』設置を方針とし、4専攻と電波通信教室の設置が教授会で認められた。しかし30日の教授会で通信士養成を担当しているいわゆる『通信系列』の教官から異議が出されたが、教授会でやはり、(2)案が表決で再確認された。これにより両教授は前の試案に基づいて、具体的に肉付けを行った。この具体化案は教授会で承認を受け、学内改革の一歩をふみ出したのである。この案での4専攻は『電子工学』『有線工学』『無線工学』『経営工学』で、通信士養成には『電波通信課程』が担当することになる。それぞれの専攻、課程は九つの教室制(文学・理学・共通工学・電子工学・有線工学・無線工学・通信経営学・工業経済学・電波通信)をとり、それぞれの教室はいくつかの講座を設置するが、最後の電波通信には通信士養成上の理由をも含め講座を置かないことになっていた。
このような改革案も、学内と学外、特に文部省に認めてもらうには種々の問題を含んだまま推移した。両教授の案は、明らかに本学設置基準に反するものであることは明らかである。しかし本学が発展するには、この基準を前面に押し出すのはいかにも小市民的である。その後、教授会メンバーである谷村、天沢、角川、片岡、松波の各教授からなる小委員会で、翌1957年(昭和32年)入学生より設置基準を最低限満足する改定案をもとに各専攻のカリキュラム内容に関する討議をも重ね11月の教授会に提出した。その新内容は、通信専攻((A)通信系、(B)技術系)、工学専攻(有線系、無線系)、経営専攻(事業系、工業系)の3専攻で、入学試験は一括入学ではなく、通信専攻(2系)、工学専攻と経営専攻の4コースを原則として縦割で行うことになった。以上の結果、通信士養成課程廃止はされはしなかったが、本学設置基準は別にしても当時は旧通信専攻卒業生の多くは、やはり船会社に就職していることや、通信専攻の人事問題を含合して、通信専攻の教官方から改編に対する強い圧力があったのは事実である。通信専攻が含む諸問題は、完全な解決を将来に延ばしたにすぎないようである。
この通信専攻の2コースは、通信専攻A類(通信系)と同B類(技術系)となることが昭和31年11月9日の教授会で通信系列の主張を入れた妥協により、全員一致で決議された。また、この会議で通信系列の要望する専攻別募集が同時に審議され、従来の一括入学と180度異なる縦割の入学選考を行うことが議決され、翌年より実施された。以上のごとく通信専攻の改革は困難を極めた。
この結果、問題となっていた通信実習は通信専攻A類(通信系)で必修として残るだけとなり、B類では選択科目となったことである。このA・B類は1959年(昭和34年)4月1日から、それぞれ各専攻の名称変更と電子工学科の新設により、電波通信学科海上通信専攻と同陸上通信専攻に名称が変更され、更に1966年(昭和41年)4月1日付で、電波通信学科と通信工学科に名称変更が行われ、今日にいたっている。
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1-2 電波工学科・通信経営学科に
本学が、設立時には船舶通信専攻・陸上通信専攻・電波工学専攻で発足したこと、及び後に前2者が統合し電波通信専攻になったことは既に述べた。しかし通信経営専攻は、1953年(昭和28年)に第1回卒業生を出しているが、不思議なことに、対応する入学者はいない。明らかに、大学設置後、学内処置により新しく作った専攻である。このように学内で適当に処置できたことは、逆に現代よりは大学にとっていい時代であったという証しかも知れない。通信経営の故天沢教授の話によると『通信経営は官練の行政科が敗戦で消滅したことにより、これに相当する学生を電通大で養成して欲しい』という外部からの要請、また、当時の故寺沢学長は『電気通信に関する総合大学を目標とする立場から、通信、放送事業までにわたる卒業生を教育することから発生した』と目黒会同窓会誌に寄稿しているが、現在では定かでない。当時としては弱電関係の専門と工業経営あるいは通信事業経営に関する専門の両方を兼ね備えた技術者の養成を目的としていたことは事実である。ところが、通信事業経営方面の技術者としての就職は大変で、電電公社等への就職は少なく、かつ、民間のメーカーへ入るには、経済学部を出た学生が優先されるような時代であった。
その後、通信の運営、管理にかかわる専門だけでは就職先は狭められるから、これまでの通信経営中心から、工業経営方面の分野を開拓・拡張して行くことが経営専攻のとるべき方向だという考えが強くなった。しかし当時、経営工学に関する教官の量と質の強化は困難で、学生は、良きにしろ悪しきにしろ、経営と工学の二足のわらじを履くことになる。昭和31年ころ、故天沢教授も『経営学と工学の境界領域に目をつけ、工学部的な視野から経営学にアプローチして境界領域を征服していこうと考え、教授の人選もそれに沿って行った方がベターである』とした。残念ながら、当時、工学部を卒業し経営工学分野に明るい教授は日本には皆無であった。多くの経営の改革案の中でカリキュラムは1957年(昭和32年)から、通信経営的な従来の流れと、工業経営的な流れが、以後続くことになるのである。
電通大新聞44号〈1964年(昭和39年)〉に経営専攻卒業生の考え方が掲載されている。その中で『経営学にしろ、何にしろ基礎的な講座が必要であるが、これからの技術者は、メーカーに就職する限り、経済性を追求しなければならないので経営と工学の両方の知識を活用できるところに経営の存在意義を認める』考えもあり、この考えは現在でも通用しているようである。同紙に掲載された座談会「卒業生は経営専攻をこう考える」から更に引用してみると、
- 「私は今無線機器メーカーの営業マンとして活動している。同じ課に経済出の者などもいるが技術のことがわからず非常に苦しんでいる。大学での講義が直接役立っている訳ではないが、工学の基礎をやった常識の豊かな人は営業面に進出できる。」
- 「私は今メーカーの検査課にいるが、何にでも役立つという意味では今非常に優遇されている。無線機器メーカーには中小企業が多いがそれは市場が小さいことと技術の進歩が非常に早いからではないかと考えている。」
- 「私は今メーカーの生産技術課にいる。工場メーカーにおいては技術と経営学の知識を兼ねそなえている人は優遇される。生産管理の面においても、事務管理の面においても有利である。また設計部門のごとき純技術的仕事でも経済性を追求するメーカーである限り損はない。ただし両部門ともに自信をもてるごとく勉強する要がある。両部門の知識を協働的に活用するところに経営専攻の大なる意義がある。」
- 「社会に入ってしまえば経営専攻たることはかえって有利であるが、多くの会社の入社試験等に際しては経営専攻なるが故に優先的に取扱ってくれることは絶対ないが、また損することもない。経営専攻たることをあまり意識せずに努力されたい。」
- 「経営は工学の基礎のもとにそれを社会と結びつけてゆく為に重要な役をもっている。しかし工学が第一義的に考えられなければならない。」
と、多くの具体的意見が披瀝されている。
この通信経営専攻は、前の1-1節で述べた通信専攻の2分割案に絡んだ大改革で、一応、経営専攻D1組(事業系)とD2組(工業系)の2コース制をとった案であったが、通信専攻のように入学試験やカリキュラムに明確な区別をつけないで専攻を運営することとなった。この後、1959年(昭和34年)に通信経営学科として、完全な一つの学科となり、1967年(昭和42年)4月1日付で経営工学科となった。
これにより、カリキュラムの中心は電気関係から経営関係へと移り、経営のいっそうの発展が始まることになる。
電波工学専攻は電通大発展の歴史であった。発足当時から、他の専攻に比べて多くの教授陣に恵まれており、また、成績優秀な学生が集まった結果、一流企業に多くの卒業生を送り出し、彼らの活躍は華々しかった。1957年(昭和32年)から実施された新しい入学試験方法により、専攻別入学となったものの、やはり優秀な学生が全国から集まり、改革による新カリキュラムの実施と相まって本学の中心となっていた。この専攻も1959年(昭和34年)4月1日に名称が変わり、電波工学科となった、しかし、電子工学科が発足し、新しい時代に対応すべき電気系学科が作られた。またこの時、電波工学専攻の教官方の一部が電子工学科に移り、これら2学科は、昭和30、40年代の電通大の中核として発展し、活躍していくことになるのである。
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