« 6章9節 座談会(講習所) 座談会(女子部) » 

電気通信大学60年史

 講習所座談会 

司会者 高野 一夫
出席者 田沢 新 (大9・6 本科)
鈴木 真一 (大15・5 本科)
武藤 彰 (昭3・5 本科)
佐藤 信貞 (昭12・4 本科)
高島 喜生 (昭14・9 選科)
桑島 新一 (昭17・7 選科)
福地 一雄 (昭19・9 第1部高等科)
小栗 忠 (昭19・4 第1部普通科)
永田 一清 (昭19・4 第1部普通科)
加藤 皎子 (昭20・6 第3部特科女子部)
原田 桂 (昭20・3 技術専攻科)
斎藤 芳雄 (昭25・3 本科)
アドヴァイザー 安部 宗匡 (大9・6 別科) 社団法人目黒会前会長
斎藤 洋一 (昭52 経営工学科)
司会
本日はわざわざおいでいただきまして、まことにありがとうございました。
Prof. Takano
司会 高野一夫

ご承知のとおり、1978年(昭和53年)12月末をもってわれわれの大学が60周年を迎えたのを機に「60年史」を編集するに当り歴史本の中に3つの座談会を挿入したいということになりました。

その一つは、無線電信講習所時代のOBの方々に語っていただく座談会。第2は無線電信講習所女子部の座談会。第3は、新制大学になりましてからの卒業生の方々の大学を語る座談会を開催いたし、その記録を後世に伝えたいということになりました。

顧みますと、実際に世界各国との意思の疎通を図るには情報がお互いに交換されなければ、地球上の孤島にすぎない日本ですから、その大役を果たすために無線電信講習所を卒業し情報伝達の先駆者として日本国のために営々努力なさったことと存じます。しかしながら、60年の歩みは無線電信講習所時代が前半30年、文部省に移管されて大学に昇格後30年を過ぎました。しかも前半の30年は、無線通信を主体としました国際情報伝達の興隆と発展期及び終戦による転落期という二つの時代がありました。また、終戦後学校が存続しないのではないかと非常に心配されたこともありましたが、幸い文部省移管が行われて大学となり、復興発展を遂げつつある現在からみると、興隆期と転落期の時代、復興発展の時代との二つに分かれるのではないかと考えております。

参考までに、今までの本学の歩みを年代別に申し上げますと、創立は1918年(大正7年)の12月7日、1920年(大正9年)の12月荏原郡目黒に目黒校舎ができました。そして1942年(昭和17年)に逓信省に移管後、1943年(昭和18年)に全国の私立無線学校が閉鎖され全国無線通信士教育機関の統合ということが行われ、その年の11月には運輸通信省の通信院の所管に移されました。1945年(昭和20年)の4月中央無線電信講習所と改称。その年の5月18日に内閣総理大臣管理、1946年(昭和21年)6月に逓信省の所管になり、1948年(昭和23年)8月1日文部省所管、名実ともに文部省の学校となり、今日に至りました。

ではこれから、いろいろ皆様方からお話しをお伺いしたいと存じます。

大正時代の無線電信講習所

田沢
私は、1913年(大正2年)から1979年(昭和54年)9月8日までの日記から拾い出し、ざっと申し上げます。
Mr. Tazawa
田沢新氏

無線電信講習所を知ったのは、中学を卒業して安中電機に勤め、そのルートから知りました。1919年(大正8年)1月26日から30日の間に、体格検査、学科試験、学科は英語、数学、物理、作文がありました。2月8日発表があり38人受験し15名合格しました。

けれども、実際に入ったのは30人近くでした。入学者のタイプは、フレッシュマン、中学出てすぐの人は10名内外じゃなかろうかと思っています。あとは中学の先生を勤めた人、陸軍中尉、政党の院外団というような人がいました。年令も数えの18から34、5才くらいまで、いわゆる学校のような一つの雰囲気はもっていなかったようです。

学校の場所は、小暮幼稚園、赤羽橋から飯倉のほうへ向かい、飯倉の少し手前の右側、細い道を上がって行くと、芝の紅葉館へ出る。その細い道の左側に瑠璃光寺というお寺があり、その境内なんです。昨年の正月、わざわざそこへ行ってみましたのですが、跡がわからない。瑠璃光寺というのが残っていましたものですから、そこの庫裏へ行って聞いてみたら、その境内に松岡という弁護士がおるんです。そこへ行って聞いたらわかるというので行って聞いてみましたところ、その松岡さんという人の家が小暮幼稚園の所なんだそうです。その2階を借り、機材としては、電鍵とブザーがあっただけでした。

入学許可後、モールス符号の符号表をもらって、入学までにこいつを覚えてこいという。1919年(大正8年)の2月21日金曜日雨の日に開校しました。

2月21日から始まった授業は、さしあたり午後1時から4時まで、科目はモールス通信、講師は田中先生でした。めいめい一人ずつ電鍵を渡されて、イロハから、トン・ツー・トン・ツーを始めたわけです。下は幼稚園ですからにぎやかですけれども、上のほうもやっばり幼稚園で、イロハから始まったわけです。夏になると、付近のセミシグレでもって眠くなっちゃって弱ったことがありました。

1919年(大正8年)5月1日木曜日曇り、この日に開所式、若宮正音電信協会会長、佐伯満先生他諸先生列席、訓辞ののち、お茶ともち菓子が7個出たと書いてあります。講師は、大体において逓信省の官吏の方々が多いものですから、出張があったり、会議があったりしてよく休まれたり、遅くなったり、あるいは欠科したりというようなことがありました。先生のほかに、荒川監事、藤原さん、小暮園長、小使いの松原じいさん、これだけが運営管理にあたっていたわけです。

授業の時問は、通信が午後1時あるいは午前11時半から午後4時まで。そのほかの学科は、1科目午後6時から8時までのときと、10時まであるときとありました。先生方のいろいろなお話しの中で佐伯先生は主として送信機などのお話しをなさいました。英語の先生で牛沢為五郎という威勢のいい名前のこの人は、名前のとおり江戸ッ子で、べらんめえの英語は大したものだった。荒川先生の交流理論は、こんな分からないものをやってくれたってしょうがないというわけで、講義が中途半端になってしまって、そのうち荒川先生が電信一連隊に入隊してしまったので、そのままになりました。金谷先生という通信の先生をジャパンカナヤといって、スピードが大変なものでしたね。米村さんも通信でおいでくだすった。

1920年(大正9年)5月16日から22日の間に卒業試験が行われ、同5月24日から6月3日の間に、官練で一級及び二級の検定試験がありました。検定の結果は6月22日の官報で示されたのですが、一級、二級両方あわせて合格したものが、われわれの仲間では9名でした。卒業式は6月26日土曜日の曇りのち雨という暗い日で、午後2時から飯倉で行われましたが、10人ぐらいしか集まらない。卒業写真は、写真を撮ろうといっても、幼稚園の2階は非常に暗いために撮れなくて、われわれ第1回卒業生の写真はないのです。卒業生代表の答辞は、われわれの仲間の、幼稚園の園長の息子の小暮君が読みました。プラムケーキ、ドーナツ、カステラが出たと書いてあります。

6月26日に免状をもらい、その日に帰ってクジ引きで行き先を決めたわけです。その前に、その次の2期の人が入ってきたので、われわれ1期は小暮幼稚園から安中の工場の中に移りました。それから講習所へ帰ってみたら、別科というのができていて、その別科の人もわれわれ本科の人もいっしょになってクジを引いたのです。ところが私は免状をもらってみたら、私は7月13日生まれなのに、7月13rdと書いてあるのですね。こんなのをもって外国に行かれるかといって、逓信省へねじこんで行って、13thに直してもらった。

何だかんだやっている間に、大阪商船が決まりまして、大阪商船で初めて船に乗ったわけです。

司会
抽せんで就職が決まって、皆さん待遇は?
田沢
待遇はよかったです。だいたいにおいて初任給85円。それから東洋汽船かなんかが85円、95円。ですから一般の待遇としては決して悪くないですな。また、私が無線講へ行こうと思ったのも、それが目的です。初任給85円、手当4割、航海手当170円、仕度金150円。東洋汽船は本俸95円、手当26円ぐらい、航海手当50円。国際汽船は本俸が100円、すべての手当が10割。
斉藤
当時大学出の給料はどのくらいだったのですか?
鈴木
55円ぐらい。
司会
僕の知っているのでは昭和10年代ですが、そのころ、日本大学を出て、就職がなくて25円でもいいという時代もあった。
田沢
そうです。私が放送協会に入りましたときが70円、大学卒が65円ないし70円。それからもっと不景気になりますと、早稲田の工学部を出たのが30円で、放送局に入りまして、早稲田からねじこんできたことがあります。その当時としては、オペレーターの給料はずっとよかったわけです。
福地
田沢さんは、名実ともに1期生ですか?
田沢
1期生です。
福地
本当の?
田沢
開校の日にちから見ますと、そうなってるのですけれども、あるいは別科というのが別にやっておられたのでそれはわかりません。
福地
在学は何年間ぐらいですか?
田沢
初めは半年ぐらいといっていたのですが、だんだん延ばし延ばし1年ちょっとになりました。
福地
先生ですけれども、主に当時の逓信省からきている人が多いのですか?
田沢
多いです。官練の先生だったかもしれませんけれども、それ以外にはいなかったのではないですか。
福地
一般教育を教える人も逓信省?
田沢
一般教育といってないですけれども、英語もそうですし、逓信省です。牛沢さんといって、逓信省きっての英語の使い手です。要するに検定の検定官が先生になったみたいな。
司会
もう一つ、小暮幼稚園の2階ということは伺っておりますが、どんな配置だったのですか?
田沢
一部屋で、途中壁があったように思っています。壁の陰に、対抗通信がやれるような装置があったように…、それから印字機があり広さは小学校の教室の一倍半くらいはあったように思います。途中に仕切りがあり、黒板があって、その向こう側に荒川さんだの、藤原さんだのの部屋がありました。
司会
どうもありがとうございました。
福地
古い人のお話しを聞くと、いつも給料は高かったという話しが出るのですよ。
司会
私は百何十円という話しも聞きましたよ。
安部
100円から120円、80円から85円。85円という給料は、電信局の官立の無線局の局長が、だいたい判任官の四級職から三級職で、三級が80円ですから、それが標準になりまして、一級が110円、それから郵船会社、商船会社、東洋汽船は少し安いんです。
司会
次に1926年(大正15年)の鈴木さんお願いします。
鈴木
まず入学の動機ですが、何とかして東京へ出てやろうという考えでおったところがそんなに東京へ行きたければということで、親父に連れられて東京へきた。
Mr. Suzuki
鈴木真一氏
そのとき無線電信講習所の校則その他案内書を入手し、無線電信講習所の入学試験にパスいたしました。

そのときの入学者は全部で100名でした。授業では荒川大太郎先生のわけのわからないような交流理論、これにはわれわれも非常に先輩と同じように苦労したのですが、講義が終わると、寄ってたかってわかったか、わかったかという質問がお互いにあったのですけれど、印象が一番残っているのは荒川先生の講義だと思います。また、電気的交流理論と別に外国法規というのがあったと思いますが、そのときに法規の先生が、万国無線電信法の改正があって、SOSの"シェーバ"ということは、船を救えと初めは考えておられたけれども、"シェーバまたはソールス"という人命を救えということに意味が変わったという。このことを強く印象づけられております。その"シェーバまたはソールス"ということは、若い私たちの脳裏に残って、これが授業から得たところの人生の人間の仕上げということに、非常に役立ったことだと考えております。

次に学生生活ですが、お昼ごろから夜の9時ごろまで勉強するという普通の学校よりはちょっと風がわりなところがありました。就職の問題ですが、卒業試験が終わると、まず国際汽船から5人申し込みがあり最初にまず手を上げて国際汽船に入社すると決めたのです。

外国航路をだいたい6年間ぐらいやりましたけれども、海上の生活はまずまずこれくらいにして、陸上勤務をしたいのだが、どこに行ったらいいかということで、海上3年目ごろから東京芝浦電気に入ってやろうという考えになり、訪問したら何とメンタルテストを11回受けたのです。

さて、入社してみると、何とびっくりしたことやら、私は工員ということで、無線電信講習所って、まあ文部省系統にはないし、しかるべく特殊作業員という名前で入ったのです。

司会
田沢さんの場合は、無線界のパイオニアであり、フロンテアという立場から非常に卒業後は待遇がよかったけれども、鈴木さんの場合は、東芝へ人生転換をなさって、東芝へ第一号でお入りになりまして、身にしみて、無線電信講習所の学校としての社会的評価もさることながら、友だちも何にもいなくて非常にお困りになったということがよくわかったですね。
斉藤
船内における通信士の地位は。
鈴木
通信士は、重要欠くべからざる職業として認められておったのでありますけれども、地位は船長、機関長、一等運転士、その次が無線局長というような順列で、権威は相当あったと思います。

昭和初期の無線電信講習所

司会
次に武藤さんお願いいたします。
武藤
私の動機を申し上げます。私は実家が横浜なもので船乗りに大変あこがれまして、学校の案内を見ていたら、ちょうど講習所が出ておりまして、これならすぐ船乗りになれるということで入ったのです。
Mr. Muto
武藤彰氏

当時試験は大変むずかしくて、志願者に対する合格率も大変高かったです。大体3対1ぐらいだったですね。32名合格して、二級が5人、あと一級をとり卒業しました。

そのころはちょうど不況の嵐が吹きすさんでいる時代なものですから、あっちこっちの汽船会社に頼んだけれども、なかなか採用してくれなかった。それでやっと知人の手伝いを求めまして、近海郵船に入ったのです。見習で乗りました。給料は2年間は雇員で55円、2年間たつと、成績がいいものは社員になりまして、70円になりました。

司会
そのときの職場に同窓生はおられましたか。無線電信講習所の卒業生は?
武藤
たくさんおりました。大正時代に卒業した先輩が5、6名。近海郵船は当時30隻ぐらい持っていましたからね。その後郵船に合併されちゃったんです。吸収合併ですね。

昭和10年代の無線電信講習所

司会
それじゃその次、佐藤さん、1937年(昭和12年)4月本科卒。
佐藤
まず無線講を知ったというのは、私は東京生まれでNHKの愛宕山の試験電波を出しているころから鉱石受信機なんかを作っていた関係上、『無線と実験』という雑誌を読んでおりまして、それでいろいろな先輩の寄稿だとかで目黒のことを知ったのです。
Mr. Sato
佐藤信貞氏
とにかく世界一周を1回やってから将来を決めたいという念願で、それを安く上げるには無線講に行って通信士になって船に乗るのが一番いいぞというような話を知りまして受験した。

入学者のタイプというと、それほど印象に残っているのはいないんですけれど、それほどだらしないのもいなかった割に、それほどまじめなのもいなかったという記憶をもっております。地域分布ですけれども、青森から九州まで全国的な同級生がいたように思います。授業科目では、それほど印象に残っているものはありません。学生生活は最初は昼ごろから出掛けて行って10時ごろ帰ってくるというのは、どうも慣れなかったのですが、そのうちに慣れて楽しい学生生活だったと記憶しております。

就職は満洲航空に行くことに決めたのです

けれど、学校から直接に航空会社に入ったというのは私が初めてだったと思います。5人同級生が満洲航空に採用されております。

1938年(昭和13年)の12月に会社設立といっしょに大日本航空に入って、以降ずっと日本航空で勤めたということです。その間に、1939年(昭和14年)に、毎日新聞、当時は日日新聞といっておりましたけれども、毎日新聞が、世界一周を計画しまして、それの乗務をしろということで、毎日新聞に入社した時期もございます。

斉藤
『無線と実験』で、無線講のことをお知りになったといわれましたが。
佐藤
『無線と実験』の終りのほうに、いろいろな雑談の文章がありましてね、それから広告にもあったような気がしますけどもね。
司会
じゃ次に、高島さんお願いします。
高島
動機ですが、私は文科系統に行くつもりでいたのですが、たまたま散歩のときなんかに目黒の日出高女の脇道を見上げたら鉄塔が建っていて、チュニックを着た学生がワアワア上がって行くので、なんの学校かなという感じで見たことがあるのですが、ちょうど秋に高等商船学校と目黒が生徒を募集したのです。
Mr. Takashima
高島喜生氏
選科としては1937年(昭和12年)が一番最初ですが、私たちが3回目で秋の募集があったのです。最初私は、無線電信講習所を卒業したらどういうところへ行くのかさっばりわかりませんでしたが、入ったら普通の学校みたいな雰囲気じゃなく、同級生は80名ぐらいだったと思いました。

いろいろな人間がいましたね。青山学院の商学部を出て、英語がペラペラの男が無線好きで入ってきた。それから医者になりたいのだけれども、ちょっと無線をかじっておこうと、そういう人もおりました。それからいわゆる私立の中野とか、第一高等無線、そういう私立の電信学校がありまして、そこの連中がいまのままでそういう学校にいたのでは級がとれないということから、目黒を志向していたらしいのですが、3分の1ぐらい入ってきました。当時第2校舎ができたばかりで、正門を入って鉄塔の脇に校舎がありまして、その裏にもう一つ校舎がありその2階で2クラスやったのですが、その前がテニスコートになっていたと思います。

印字機がたくさん並んだ部屋が一つありまして、送信の練習をする部屋だと思うのですけれどもそれが1教室ありました。校舎も小さいし、敷地も狭いし、それで今までみなさんがおっしゃったように、昼出かけて行って、実習なんか夜でしたね。皆、船に乗りたいという希望者ばかりでしたね。授業中に船の絵を書いて、それで船によっぽどあこがれていたのではないかと思うのですが、そういう連中が多かったです。

授業料は80何円か納めたような気がするのですが、官費じゃなかったです。そうして無事卒業できるようになったのですが、試験も私たちは二級でした。選科二級の日本航空への就職はなく、大陸政策を反映して、華中電々、華北電々、満洲航空、それから華中航空というのがありました。

私の学生生活での一番印象というか、変わったことは、当時無線技士クラブの活動が徐々に盛んになった時代で伊沢先輩とかが盛り上げてきた中に、当時技士会に山科二郎という男がいたのですが、山科二郎の弟の山科正三郎といいまして、この人がわれわれのクラスメートだったので、これがわれわれに、郵船、商船には行くなと、郵船、商船というのは非常に安いのだと、われわれ通信士の地位を向上させるために、二級といえども80円はもらえるのだから、無線技士クラブにこいと、無線技士会にとにかく…そういうことが、私たちの卒業までの学内の中での一つの運動が盛んだったというような気がします。

官立の無線電信講習所時代

司会
どうもありがとうございました。次は1942年(昭和17年)選科卒業の桑島さんお願いします。
桑島
私は卒業してすぐ南洋海運というのに入ったのですが、学校を受験しましたのは、伯父が南洋海運におりまして、無線通信士はいいからやれということで、旧制中学の確か4年ぐらいのときにそんな話しが出ていまして、私は中野区に住んでおりましたので中野無線に入ったわけです。
Mr. Kuwajima
桑島新一氏
中学の4年を出て本科というのに入ったわけです。そこには予科というのがありまして、本科へ上がってくるのですけれど、その連中の話しだと、こんなところにいてもだめだ、目黒に行かなくちゃなどという話しを入ってすぐ耳にしまして、何人か仲間ができまして、じゃ目黒を受けようということになりました。私が無線学校に入ったのは伯父に言われたからですけれども、目黒を受けようというのは中野無線に入ってからの話しなんです。

それから並みの受け方じゃだめだよということで、今もあると思うのですが、水道橋の研数学館へ通いました。私も小さい時から日記をつけておりますけれども、目黒の受験は7月に受験の申し込みというのですか受け付けがありまして、7月26日に申し込みに目黒へ行ったのですが、受験番号が1番だったんです。そのときの受験生の数が350人ぐらいいたと思います。試験は9月22日から4科目ありまして、第1日が数学と講読と書いてあるのですが国語かなんかだろうと思います。それと物理もありました。2日目は英語だけのようです。3日目が身体検査と口頭試問ということになっておりました。

月謝は2ヶ月分で18円払っております。この中に報国団費というのがいくらか入っていたのですね。

就職は伯父の南洋海運にすんなり入りました。給料は確か75円ぐらいで、本給全部家庭に送りまして、その他の手当は自分でいろいろと使っておりました。

永田
私は中学時代から志望が工専なんです。ちょうど前の年の12月に大東亜戦争が始まりましたので、徴兵にひっかかる、どつかの学校に入っておかないと都合が悪いぞということで、友達に誘われまして受けたのです。採用人員が確か500名だと思いました。
Mr. Nagata
永田一清氏

1部が船舶科、2部が航空、3部が陸上で、高等科と普通科とありまして高等科は3つあって、普通科は船舶と陸上。それで私は普通科に入ったのです。1年の勉強が終わりまして、2年目に実習に入ったわけです。実習先は大阪商船で入ったのは6名でした。卒業式が4月1日。サイゴンから横浜へ帰ってきまして、横浜から神戸へ、神戸からサイパン行きだったのですが、卒業式に間に合わないからということで、横浜で下船させていただいて4月1日の卒業式にどうやら間に合った。その船は、神戸からサイパンに向けて出港して、全員亡くなってしまったのです。

学校に戻ってきた時点で、海軍の予備練習生か、陸軍の予備生徒かに決まるという話しは出ておったのですが、まだ4月1日現在では決まってなかったのです。確か4月10日前後だと思いますが、まず先に海軍の方が決まりまして、そのあと卒業式に間に合わないで少し遅れた人たちが陸軍に入ったという形だったんです。卒業になりましてから海軍に入りまして、横須賀の海軍通信学校に9月27日だと思いますが卒業と同時に現役編入になりました。現役編入即日召集。5月1日に兵役解除、船舶に乗れということになり学校が就職先を割り当てました。確か給料は本給85円、手当15円、トータル100円でした。仲間にいろいろ聞いてみましても高い方だったと思います。郵船、商船あたりが85円前後だったですから。それからいろいろと経まして、1958年(昭和33年)8月に現在の職場に勤めるようになったのです。

司会
では小栗さんお願いします。
小栗
入学の動機は当時伯父に三井船舶の船長をしているのがおりまして、私、目も悪かったので、そんなに船に乗りたいのなら無線がいい、いわゆる授業料免除になるし、陸海軍の予備練習生に採用になっているということで、これが動機といえば動機じゃないかと思います。
Mr. Oguri
小栗忠氏

学校の思い出は、高等科が午前中と3時ぐらいまで授業で、普通科が夜8時まで授業したということで、非常に忙しい中、正常課程1年、すぐ実習ということで、勉強に皆、真剣に取り組んできたと思います。当時実習というのは、船舶実習、海岸局実習と陸上工場実習と三色に分かれておったわけですが、船舶実習へ行った連中は、船舶要員が足らないということからなかなか返していただけないで、6ヶ月がどんどん伸びてほとんどの人間が1年以上になり、実習が非常に学生時代の思い出として残っているわけです。

当時の実習ですのでもちろん御用船ばかりで、日本海、樺太方面の海軍御用船、南方航路のいわゆる兵員輸送と陸軍御用船で、通信士が足りないということで、転船しました。そのとき既に三等通信士で、実習生であるけれども月給は確か100円近いお金をいただいて使い道に困り、局長さんにお預けして、実習完了後、貯金通帳を渡されたとき、親はびっくりしたというような思い出があります。それと、南方輸送で船団を組んで行くのですけれども、一瞬魚雷でやられて、アッという間に火柱が上がり、アッという間に沈む、生ぐさい光景を目のあたりに見て、1年間の実習を過ごしたということですね。それには同僚いわゆるわれわれのクラスで実習中に亡くなったというのが20名近くいるわけですが、そういった同僚並びに先輩の人たちの、そういった殉職があってこそわれわれは生きていられるということを思ったことが、学生生活の一番強い思い出じゃないかと思います。

次に就職関係ですが、実習が長引きまして、5月の末やっと学校に帰ってきた時は、既に海軍のほうに行く候補生は皆出払ったあとでして、就職は既に実習に出ているときに採用が決定したらしく、家のほうに採用通知がきており免状もちゃんと家に送ってきておりました。これなんかも戦時中だからこそじゃないかと思うのです。それから船のほうはご承知のように、既に船舶運営会に切り替わっておりまして、1945年(昭和20年)4月1日からすべて国家管理ということで、船舶運営会に所属することになった。幸いにして学校を出て船舶科を出て、いまもなおかつ船の会社に勤められるということは、一貫して船に勤められる幸せを今感じております。

司会
どうもありがとうございました。福地さんお願いします。
福地
私は1高1期で、無線電信講習所が変わって官立になった、その1期生ですが、1高は船、2高は飛行機、3高が陸上。私のいた1高1期というのは一つの基準のクラスであると常々いわれていました。
Mr. Fukuchi
福地一雄氏

最初の無線講を知った媒体、受験の動機は、兵学校とか陸軍士官学校とか、そのへんのところを狙っているのがわれわれの時代だつたんです。というのは、1941年(昭和16年)の12月8日に大東亜戦争が始まり、その時分に試験勉強をしているわけですから、どうしてもそういうほうに行ってしまうのです。私の場合にはこういう学校が官立でできたから受けてみなさいということで試験を受けてみました。1942年(昭和17年)の3月12日が官立無線の第1回の入学試験で、科目が代数、国語、物理。2日目が英語と作文。3日目が体格検査と口頭試問。3月26日が合格発表。そのとき聞きましたら、18人に一人ぐらいと、かなり難しかったわけです。人数は1高1期は7クラスありまして約480人。それから2高の1期というのが2クラスありまして130人。3高1期というのが1クラスで60人ですから、660人ぐらいですね。入ってみたら官立とはいえ逓信省で、文部省の専門学校にもなっていないわけです。じゃ準専門学校かというと、そんなのではなさそうだし、それから予備士官、予備生徒、そういうような制度もできてない。当時は、入学試験が半年ごとに分けてありまして、2期生というのは同じ年の秋に入ってくるわけです。3期生というのが翌年の春に入ってくる。1年間に1期生2期生、二ついるわけです。それがずっと続いているわけです。授業科目ですが、たまたま私は日記をつけていて、月曜日から土曜日まで全部6時間です。月曜、受信、法学、送信、英語、外法、高等数学。火曜、電気理論一フランス語、送信、受信、内法、体育。水曜、外法、法政経済、倫理、高等数学、送信、電話。木曜、体練、内法、英語、海事概要、受信、電気理論。金曜、内法、外法、フランス語、送信、体育、受信。土曜、送信、高等数学、内法、受信、電機、高等数学。月曜から土曜日まで毎日午後4時までがっちり授業があったのです。

学生の風潮は、なんせ大東亜戦争の初期ですから戦時一色、毎月8日、大詔奉戴日というのがあり白い鍛練服を着て、ちょっと敬礼が悪いとひっばたかれるという学内の雰囲気だったです。4時すぎますとこれがまた大変なんです。カッターをこいだり、下級生をしごきに行くわけです。また手旗の訓練に行ったり、なんせ文武両道の時代ですから、トン・ツーのほかに武のほうもかなりやらないと……。

先ほど先輩方が官練との試合の内容のことをいわれていましたけれども、当時も庭球、野球、剣道、柔道、弓道、籠球、蹴球の7種目がありました。われわれの時代は人数は少ないですが、士官学校とか兵学校を狙っている連中だから強いんですよ。7種目やっても大体5勝2敗とか6勝1敗で負けないから威張っていたわけです。

学生の地方からの集まり具合は、ちょうど兵学校とか、士官学校と同じで、日本中からそれらしいのが集まってきて、だいたい気持はいっしょだから何かやるのもまとまって、何でも集団行動をとったです。

あと授業科目ですけれども、逓信省のお役人兼先生ですから、専門科目のほうはあまり感心するような教え方じゃなかったと思うのです。ただ戦争たけなわのときで、一般の大学から避難してきた偉い先生がいっばいいらしたわけです。フランス語の鈴木力衛さん、同じフランス語の森有正さん、田辺貞之助さん、フランス語は授業時間を見ても多いんです。それは国際条約は全部フランス語で書いてあるからフランス語を教えるのだということですけれども。英語のほうも割といい先生が避難されておられたように思います。一般の大学からこられていた先生方のほうが、晩年非常にためになったような感じがします。

ここに普通科のお二人がいらっしゃるのですが、これが制度のめちゃくちゃなところで、普通科というのを作っちゃったので非常にかわいそうなんで、同じ旧制中学を出てきてそれでわれらは3年、普通科の人たちは2年ということになって、しかも短縮するからいくらも違わないのに、高等科は一級をくれちゃう。それからまた軍隊に行くと差がついちゃうのですね。普通科は下士官、こっちは士官待遇だったりね。いろいろ悲しい思いを普通科の人たちはいっばいさせられている。それがちょっとした制度のミスだと思うのです。そんな制度の誤りで普通科の人たちが、特にまたかわいそうな思いをされているのは、船舶実習のときに実習生という身分で船舶に乗っているわけです。それで死んでいっちゃう。その死んだときの待遇というのが、軍属でもないし何でもないんです。軍人じゃないんです。無線電信講習所生徒ということですから、死んでも何もくれないのですね。

ところが事務局の逓信省側は、学生がどんどん死んで行っちゃうのを知っていながら、また1期生も船舶実習に乗っけるわけです。これに乗っていくと必ず死んじゃうわけです。だからそれにこりまして、学校側としては2期以後は船舶実習を廃止しちゃったのです。だけど気の付き方が遅いのです。まだ特科とかいろいろあるわけです。あのとき、学校側が海軍のほうにもうちょっとアプローチすれぼ、そんなことは簡単にキャンセルできたのではないかと思うと未だに残念でしようがない。

卒業証書は、9月30日附になっておりますけれども、実際の卒業式は10月10日にやっているのです。

就職というのは、ちょうど敗戦にひっかかったものですから、学校から配給物やなんかの恰好で船会社に行ったのですけども、待遇については商船学校と同じようにすべく運動したのですけれども、商船学校よりはちょっと低いのです。気持だけ低いのです。給料というのは、片方で90円もらって、片方が88円になると、たった2円でも同じじゃなく、そんな差をつけられていました。

司会
では次に、原田さん、お願いします。
原田
私が無線講を知ったのは、募集案内を校庭の一隅にある掲示で見つけたわけです。動機というのははっきりしません。受験勉強や入学試験に関しては、無線講の入学試験はそう難しくなかった。しかし、入校した大阪の河堀口(こぼれぐち)の校内で呼ばれた合格者の数は意外に多かったのですが終戦後再開されたときには2クラスになっていました。
Mr. Harada
原田桂氏
当時私は、てっきり東京の自宅から通学できると思っていたら、大阪に行くようになり失望しました。大阪での学生は地域分布からいって、大阪とその周辺都市の京都、奈良、名古屋など、それに東京の順ではなかったかと思います。何とはなしに出身地域別に、またいっしょだった宿舎別にまとまったグループで苦楽を分かち合うといったことが多かったです。

終戦の年の暮に東京の板橋支所に入りました。終戦によって就職は狭き門となることが予想された結果、学制の見直しと履修課目の大幅な手直しが行われたのです。哲学など一般教養課目も加えられて、それまでの通信業務と技術一辺倒の授業から徐々に内容に改革が進められました。

授業課目は、数学の高野先生、英語の八木先生、沢野先生、放送工学の道正先生、交流理論の太原先生、哲学の本田先生、仏語の田辺先生、無線工学・実験の黒田先生、その他関先生、高橋先生等今でも目に浮かびます。通信術は幸いあまり苦労せずに目黒での最終試験に合格しました。通信術の先生方の多くは海岸局や船舶で長い経験を積まれた方で、授業の合間の思い出話しは、耳にトン・ツーがこびり付いたわれわれにとり楽しい息抜きでした。苦しい終戦の年の大阪支所時代、続く、板橋支所での1年半、そして目黒での技術専攻科の1年間と、私の学生生活は三つの期間に分けられます。目的に向かって、やや義務的な印象の強い感じの大阪での学生生活は、終戦になるまでの不安と焦燥、そして終戦後の虚脱と反動の中で行われたこともあり、余り愉快な思い出はございません。板橋支所、目黒本校の時期は、まだ食糧難が続いていまして、ヤミ米を買わない清廉な某判事が餓死したというような記事が新聞に出る時代でした。学校での授業内容も徐々に充実して来ましたが、いまから見るとまだ教材など十分とは言えない状態だった。

1947年(昭和22年)6月、本科2年目の課程で実社会に出る学友たちと、技専または通専に残るものとに分かれましたが、それから過ごした最後の1年は、戦後の混乱期を乗り越え、復興に向かう社会へ羽ばたく仕上げのために希望にあふれて勉学にいそしむ一方、学生祭では上級生によるアルトハイデルベルクの芝居や同窓生の創作劇に盛んな拍手を送ったり、高等逓信講習所とのサッカーの試合の勝敗に一喜一憂したこともありました。

技専にいたころ、無線講の文部省への移管の話しが持ち上がり、皆この問題に関心を示していました。卒業するまでは特に変化はなかったですが、過日、畏友、館田氏、故坂本氏等が、当時GHQにこの問題で訪問したと聞きまして、そのことに真剣に取り組んでいた人々に感謝しておる次第です。

卒業当時の社会の景気は必ずしも良いとは言えず、ようやく立ち直りかけたころでしたから、まだ大量募集というような企業はなくて、昔のような商船の通信士などは夢物語ではないといたしましても、技専からそういった方面に行った者は余り知りません。比較的多数の人が応募したのは、やはり逓信省だったように思います。なぜか、メーカーヘと思っていた自分も友だちと4人で現在の国際電電に入りました。「技術員5級1号俸」、千何百円だったと思います。

女子部の発足

加藤
私はどうして入学したかというと、当時女子挺身隊でとられて、小さな工場で旋盤と取り組んでいて工員さんたちにギャアギャア言われるのが嫌いでね、それから逃げ出すために……。やはり第一線に行きたかったのね。それでいやでいやで、その時は女学校の4年だったんですけどやっばり看護婦になろうかと思っていたときに女子部の募集があるっていうことで、それじゃっていうことでこっちに入ったんです。募集があったことはお父さんかお母さんに言われたと思います。だから新聞で募集があったと思います。それに私の知っている人も目黒の無線講にいまして。入学生は全国から集まっていましてね、私も北海道だったんです。試験は口頭試問と面接だったと思います。

クラスは1組、2組とありまして、担任は女の先生で室井先生と野辺先生でした。二人とも英語の先生だったです。授業はみんな一生懸命やっていましたね、きちんと。それでトン・ツーですが1日でも練習をしなきゃっていうんで全部自分たちでそろえたですね。あのころで一組120円でしたか、そうしたら父に怒られまして、父の月給ぐらいのを買ったもので、でもそれは大事にしていましたね。授業の始まったのは、1944年(昭和19年)の12月だったと思います。それで、2期生の募集人数が決まり、そうして授業を始める段階になって終戦になっちゃったんです。

それから就職ですが、みんな中央電信電話局とか気象台へ配属になりましたね。私は大阪電信電話局へ配属になりました。

(以下詳しいことについては女子部座談会を参照)

戦後の中央無線電信講習所

司会
では最後に、斉藤さんお願いします。
斉藤
私は、1947年(昭和22年)4月中央無線電信講習所藤沢支所に入所いたしました。大部分は3年間鵠沼で教育を受けましたが、一部の者は3年になって目黒の本所に通学しておりました。ということで私たちを藤沢の5期生といったり、新制本科の2期生といったりしていました。
Mr. Saito
斎藤芳雄氏

入所の動機ですが、私は戦後海防艦に乗り組み復員輸送に従事していましたが、1947年(昭和22年)1月に任務を終了し、解散のとき艦長から「斉藤君は若いのだから、学校に入って勉強しておいた方がよい」と申され、そのつもりで帰郷したのですが、世情はまだ混沌としていました。郷里は山形県でありましたが、東京に遊学するといっても、食べること、住むことに不自由をしている時世でありました。たまたま新聞紙上に、無線電信講習所の学生募集案内が掲載されておりまして、月謝免除、学生手当支給、寮完備とありましたので早速受験の手続きをとったわけです。

それから合格通知が届きまして、藤沢支所に着校するように案内がありました。つまり入所の動機は、月謝免除、学生手当支給、寮完備ということにあったのです。

入所式は、1947年(昭和22年)4月にありまして、北は東北、南は九州から選抜された有志の面々が鵠沼の藤沢支所に集まりました。入所式が終わると早速上級生の歓迎会がありまして、教室の教壇の上に、更に机を積み上げられ、新入生は一人一人高い段上で自己紹介をさせられたのであります。そうすると上級生から「声が小さい」「聞こえない」など野次が飛ぶんです。私は既に兵学校を卒業しているのに、失礼な奴等だと思い普通の声で自己紹介をした。さすが兵学校のなれの果てと気の毒に思ったのか、野次はなかった。私は、まだこんな悪弊が残っているのかと、憤慨にたえなかった。

授業の方ですが、普通学は尚志寮の2階に個有教室がありました。送受信技術は、本館の1、2階に教室があり、オシレーターのある受信教室、印字機のある送信教室、交信練習をやる実践講堂に分かれていました。実習講堂は、別の平たい1階の建物があり、接地抵抗の測定、真空管の特性や測定などやりました。先生の紹介をいたしますと、初代支所長の太原彦一先生、交流理論を習いました。2代支所長は金子研弥先生で電気磁気、電気機械等、この先生の授業開始のイントロダクションには学生はいつもきき耳をたてていました。昨日あったこと、読んだ本のこと、事件だの、感想など述べられておられるうちに授業時間が幕切れとなることがよくありました。3代支所長は牧野信之助先生で倫理学。担任の先生は黒田吉郎先生で無線学、送信技術を習ったが、私は送信がからっきしだめで、煙で黄色くなった指を電鍵にかけていると、「煙草はあまり吸わない方がいいですよ」とたしなめられた記憶があります。名取暁先生、五味新樹、長尾信次先生共に代々の担任補佐の先生で、送受信を担当されておられ、年令的にそんなに違わないし、私たちの兄のように慕いました。市川武夫先生の送受信技術。沢木譲次先生の英語、フランス語。中島良一先生の内法、外法。大岡茂先生の航海用電子機器。

寮生活ですが、入所当時は尚志寮で、この建物は1階が寮で2階が教室でした。本当の寮は焼失して土台だけが残っていました。また土台だけ作って工事を中止しているのもあり、しばらくしてこの土台を利用して鴻志寮ができたのです。この鴻志寮の名前は、「燕雀安(いずく)んぞ鴻鵠の志を知らんや」の「鴻鵠の志」の鴻をとったものでありまして、鵠は鵠沼に関係あるという苦心の名であります。

寮は自習したり、自炊したものを食べたり、就寝したりする所で、各人まちまちの机、板を打ちつけた戸棚など作っていました。砂の上の建物なので夜風が吹くと窓のすき間から砂が吹き込んで、翌朝ふとんの上に砂が積もっていました。各部屋に通信配線をして部屋に居ながら交信をして用をたせたのも講習所の寮ならではと思います。記憶にある思い出としては、夏休みになると寮生は大部分の人が帰省していました。そこで空いた部屋を海の家に開放していたんですが、それを帰省しない学生が管理していたことや、寮の北側がかやでぼうぼうとしているのを皆で開墾して何か植えてみようということで、何日もかけて開墾してさつまいもなど植えてみたが、結果は全然よくなくて皆がっかりしたこと、また、寮祭でミコシを作り、それをかついで藤沢、辻堂、鵠沼海岸とねり歩いたこと、演劇や近所の娘さんを招いてダンスパーティーを催したことが思い出されます。1949年(昭和24年)5月31日に無線電信講習所は、電気通信大学の所管となりました。つまり逓信省から文部省に移管されたのであります。学生にとっては、文部省に移ると学生手当はなくなる、通信士の試験は国家試験になるということで、逓信省に残るべきか、文部省に行って大学となるべきか、学生の集会も開かれましたが、文部省移管と決定されました。したがいまして学生手当はなくなりアルバイトはますます盛んとなり、通信士の免状をとれずじまいの学生もありました。このころから国家公務員試験が始まりまして、私たちは確か第2回と記憶します。大学出は6級職、専門学校出は5級職といっていました。私たちは5級職を受け、合格すると人事院の名簿に記録され、いろいろの役所から就職試験の案内がありました。私の場合は電波庁に就職しまして、初任給は3,687円と覚えています。