電気通信大学60年史
前編6章 戦時中の無線電信講習所
第9節:終戦と授業再開
9-1 授業再開
1945年(昭和20年)8月15日、苦しく長い悲惨な戦いの時代は、真夏のカラッとした暑い日、途切れ途切れの玉音放送とともに終った。大日本帝国はポツダム宣言を受諾、連合軍に無条件降服した。戦さに敗れたのである。
物心つく頃から戦争の中で日々を過し、あらゆる物の乏しさ不自由さに耐え、「人生は25年」と、恰好よく死ぬことだけを教えられた世代はここで、荘然自失なすすべを知らなかった。多感な青春の一時代を無線講で過し、あるときは苛烈きわまりない軍事教練によろこんで耐え、その反面、あるときは文科系の講義で、当時はご法度であった外国文化のユニークな一端にふれ、4合5勺(一般配給は2合3勺)の麦まじりの飯に満足しつつ、ついに滅私奉公、七生報国もままならず、「海ゆかば水漬く屍、山ゆかば草むす屍、大君の辺にこそ死」ねず、戸惑いながら全く価値感の異なる世代へ押し流されるのを余儀なくされてゆく。
とは言え、ここで諸先輩の、虚しかったが尊い「死」のあったことを、厳然とした重い事実として忘れてはならない。今、同窓後輩として享受しているこの豊かな平穏な日々が、先輩諸氏の犠牲によってもたらされたことをいつまでも心にとどめよう。限りない希望を抱いて万斛の涙をのんで散っていった、数多くの先輩、安らかに眠れ。
在校生の「敗戦」の迎え方は実にさまざまであった。全国的規模で拡充されたそれぞれの支所を含めて、在校生たちは、夏期休暇でようやく帰省した故郷の実家で、鵠沼海岸藤沢支所の炎天下で、臨時の疎開先の殺伐とした栃木県の田舎の分教場で、目黒夕映が丘の暑く焼け爛れたアスファルトの校庭で、心ならずも病に倒れた病床で等々、ある者は驚愕し、また、ある者は動揺し、激怒し、人によっては荘然自失、そのなすところを知らなかった。B29の空襲もなく、グラマンの地上攻撃もなく、静かな明け暮れがよみがえったが、この虚脱状態の中でその行動は全く統制のとれないものであったのである。講習所当局側の指令が、この混乱の中で全在校生に徹底する筈もなく、昨日までの軍直轄の純軍事学園がどう処置されるかは、全く予測できないまま、授業再開の目途は暗胆たるものがあった。
当時の無線電信講習所のありようを窺い知る上で、目黒会誌「めぐろ」〈第72号・1977年(昭和52年)3月〉へ寄せられた、斉藤佐々雄(1936年(昭和11年)4月本科卒)の次の小文は恰好のものである。氏は、1945年(昭和20年)4月新潟に新設された新潟無線電信講習所の教官として赴任し、同年11月敗戦縮小前に退官された。
- 新潟無線電信講習所のこと
1945年(昭和20年)に入り、京浜方面の空襲がますます激しくなり、適当な校舎も見当らなくなり、疎開の意味で、仙台と弘前、新潟に昭和20年4月講習所を設立。その他関西方面は大阪、詑間、熊本だった。小生は新潟へ船舶運営会から派遣された。講習所は最初、旧制新潟高等学校の校舎の二つの教室を借用して授業し、生徒は約80人で2クラスであった。所長は逓信省から大川千春さんが来、教官はほとんど逓信省からの人で、一部は信越電波監理局から講師として、3、4人、合計14、5人であった。広島、長崎が原爆に見舞われてから、今度は新潟の番だとの噂が流れて、以後生徒たちの勉強も身が入らず、所長以下教官、講師ともに心痛の結果、新潟市から三島郡宮本村に急拠疎開、宮本村小学校の2教室を借り、小学校低学年の授業終了から講義が始まって、終了が午後5時。生徒は村の農家に3、4名ずつ振り当てられ宿泊していた。教官、講師は村にただ一軒あった旅館を借用。月曜から土曜日まで、普通。日曜日は作業用具を農家から借りて、農作業の手伝い、村道の整備で、毎日休養の暇のない程の強行作業であった。終戦当時は生徒の混乱烈しく、数日間講義ができなかった。
10月に入り逓信省の意向とかで、講習所を整理することとなり、仙台、弘前、新潟の生徒全員を再入学試験を行って、合格者を仙台に入学させることになった。小生は新潟閉鎖前、昭和20年11月船舶運営会に復帰のため辞職した。
学校側、生徒側ともに暫らくは混乱のまま、講習所そのものの存否如何が問われているという噂の中で、8月17日、当時の熊谷直行鵠沼支所長から、「課目の改廃、縮小を行う方針である。また、生徒に対しては就職が困難の見通しのため、進退をよく考えるよう促したい。教官の減員もあるやも知れず。」とおぽろげながら将来指向への所信の表明があった。確たる講義が行われないまま、8月25日にいたり、9月20日まで全講習所休講となり、善後策が討議されることとなったのである。
授業再開は、公式には1945年(昭和20年)10月1日であった。ここに、断片的な敗戦の頃のメモがある。
20年8月15日(水) 正午御勅語拝聴、午後授業中止 18日(土) 臨時休講 9月25日(火) 授業再開、7期生全員 10月 1日(月) 始業式。5期、6期生組替え 10月15日(月) 女子部再開
戦時中、敗戦、そして授業再開への道程は、その人、その人によって異なるところがあったが、在校生の平均的な様子を、次の回想録は語っている。
- 昭和ひと桁生まれの回想
吉野力太郎(S22年6月本乙卒)昭和ひと桁前半に生まれた世代は、小学校、中学校(旧制)と、戦時色に塗りつぶされた世相の中で生長してきた。中学を終え、浪人など思いもよらず、進学できない者は、軍需工場への徴用が待っているという、きびしい状況の中にありました。
私は敗戦の年の春、当時の1部高等科(船舶)に入学しました。入学試験は、勤労動員中の工場から受けに行きました。丁度その頃は、B29の空襲が東京に集中していて、すさまじい様相でした。合格後は、北品川にあった通信院宿舎に入り、明治学院にあった芝支所へ通いました。間もなく予備練習生の試験が目黒の本所であり、藤沢市鵠沼の支所に移りました。
鵠沼では、最下級生として敗戦を迎えましたが、それまでは、ご多分にもれず海軍式訓練による、精神注入棒の洗礼をたっぶり受けました。つまらない理由でやたらに連帯責任を取らされ、力一杯尻の皮がむける程叩かれるのですから堪りません。良い思い出などあるはずがありません。
昔は徴兵検査で甲種合格、入営して鍛えられて除隊して帰ってくると、人間がしっかりして変ってくるという話を聞きましたが、所詮軍隊は軍隊で、よいイメージはわきようがありません。
敗戦まで、何ヶ月間かの短かい軍隊教育の中で、思い出に残る人は、熊谷所長、波多野述麿、鈴木(力)、寺野、技術には関係の薄い文科系の教官ばかりです。熊谷所長は新入生の躾教育の時など、よく顔をみせ、生徒の健康を心から気づかってくれていたことを、いまでもはっきりと思い出せます。鈴木先生にはフランス語を教わりました。ハイスピードでしぼられたお蔭で、多少は身についたようです。数年前に亡くなられましたが、ベレー帽を被ったモダンな姿が目に浮かびます。
戦争中は、浜の通信学校の生徒さんと、地元の人たちに親しまれていたのに、あの頃はその評判も幾分低下していたようです。戦火から逃がれた寮(尚志寮)も、空しく火事で焼け落ちてしまいました。寮がなくなり、千葉の自宅から目黒まで、約3時間かけて通学することになりました。
食料も不足、本もない。さらに交通の不便さは、筆舌に尽し難い程でした。窓ガラスは破れ放題、シートはスプリングがはみ出している有様で、冬の寒さは肌身にこたえました。
卒業後は、国家警察に勤務し、傍ら中央大学に学びました。当時の警察通信は、電話代りのモールス通信といった、きわめて非能率な仕事でした。内務省から離れた新しい警察は、はじめこそ旧態のモールス至上主義が主流を占めていたものの、逐次、電話、ファツクス等、高速性、機動性を持った機器へ移っていきました。朝鮮戦争の時には、警察予備隊が作られるとともに、警察力の強化もはかられ、パトロールカーによる無線通信に、FM機器の国産化が占領軍によって命令されました。吾が国メーカーが、指定された規格テストに一回で合格する機器を作れなかったことを考えると、今昔の感に耐えません。
その後、世相の混乱とあいまって、在校生の動揺は続いた(一部には他校へ移る者もいた)。が、ひと頃しきりに噂された閉鎖の恐れはなくなったものの、本格的な授業は行われず、漸く10月27日、高野一夫教官(数学)から教授要綱の提出を見、本格化への端緒がつけられた。
在校生による学内民主化、学制改革運動が台頭し、藤沢支所を皮きりに目黒の本所とともに、11月20日藤沢、11月21日目黒と、無届学生大会(5期生が中心となった)が開かれ、1週間の同盟休校に入った。先輩を含め、教官側との良識ある討議、意見交換の末、11月28日ストは打ち切られ、新しい学制への礎がつくられた。一方、この同盟休校に影響されたとは考えられないが、当時の逓信院宮本電波局長より、11月24日教官一同に対して、改革の構想について所信の開陳(後述)があった。これは11月27日、更に在校生に対しても説明が行われ、無線通信士の養成機関から脱却、通信と技術の二本立ての専門教育が実施されることになったのである。
ここで、当時海軍予備練習生の試練の場であった藤沢支所「尚志寮」の火災焼失について触れておきたい。スパルタ教育の嵐のなくなった藤沢支所は、全くの自由気まま、民主化の気楽さをかみしめるように味わっていた。
1946年(昭和21年)2月15日午前9時頃、第1生徒寮、1階西側端から発火。当日は日本晴れの上天気で、生徒は2、3の軽症の病人を除いて全員校舎で受講中であった。生徒寮は、東西に長く建てられ、南から第1、第2、第3生徒寮と3棟あり、各棟の西の端で渡り廊下でつながれていた。誰かが電熱器のスイッチを切らずに登校したため、畳が燃え出したのである。冬の乾期に入って、鵠沼海岸の砂地に建てられた、木造瓦葺き2階建の寮の火のまわりは意外に速く、猛烈な火勢の幅射熱で、次々と焼失してしまった。当時は気のきいた暖房設備など望むべくもなく、暖をとるには、電熱器に頼らざるを得ず、また、食糧不足は自分でまかなわねばならなかったから、寮生の部屋には縦横に電灯線が張られていて、頗る危険な状況にあったのである。敗戦後の物資不足のこととて、消火器もなく、教官生徒ともども、ただ火勢を見守るばかりであった。急ぎかけつけた藤沢市消防隊、辻堂私設消防隊の活躍もついにむなしく、午前11時半頃自然鎮火した。各自が故郷からトランク一杯に入れて抱えてきた、なけなしの米、小麦粉、大豆、餅、乾魚、梅干し、そして辣韮(ラツキヨウ)や、冬の寒さをしのぐ寝具、衣類も灰になって、着のみ着のままの茫然とした顔、顔、顔がならんだ。
- 藤沢支所便り
〈無線同窓会誌、無線時報第1号。1945年(昭和20年)7月5日発行より〉湘南の景勝地江之島の近傍、ここ鵠沼の海辺に、敷地3万余坪を擁し工事を急ぎつつあった当所の新築工事は、資材入手不足に悩みつつも昨年8月、その第1期工事として本館校舎、実験室、食堂各1棟、並びに生徒寮3棟の竣工を見るにいたった。
いまや大東亜戦争は決戦中の決戦の時機を迎え、大平洋の濤ようやく高き秋、われらの眼にまた、耳に磯打つ濤にも血潮の高鳴りを覚え、海を渡る潮風にも決戦の声を聞き、風光に恵まれたるこの土地は、また、そのままかっこうの練成道場たるの感が深い。高等科3期生以下〇〇〇名は希望に胸を躍らせつつ新校舎への移転を行なった。9月初旬より一応授業開始を見るにいたった。ついで学期試験終了後は普通科生徒も移転を終了し、ここに総勢約〇〇〇の生徒は、海軍予備練習生として名実ともに24時間教育を受くることとなった。
寮においては生徒全員を6分隊に分け、当直教員の指導の下に、最上級生中より分隊長、班長その他の役員を任じ、週番をおき、朝の総員起しにはじまる1日の日課は、夜の巡検を終えて夢路に入るまで、すべて海軍式にキビキビと行なわれている。当初は板につかぬ様子であった生徒達も、次第に軍人らしさを身につけ、すでに何年も以前からこうした生活があったかのように、いつかぎごちなさもとれるとともに、早くも鵠沼なりの伝統さえ生れんとしている。
本年3月には、当所開所以来第1回修業生として、高等科3期生及び普通科5期生〇〇名を、それぞれ〇〇海軍通信学校及び〇〇航空隊に入団、または入校させたのである。4月下旬には更に多数の新入生を迎え、生徒数は〇〇〇をこゆる盛況となり、早くも校舎の狭隘、宿舎の不足をもきたしている。現在第2期工事として、校舎1棟、寮3棟その他が予定され、既に一部着工されているが、防空設備の完備を急ぐため、本工事はいまだ遅々として進捗を見ず、種々不便を感じつつあるが、一同不平をかこつこと無く、とも角も、この時局下に勉学をつづけられることの有難さを感謝しつつ、1日も早く第一線に御奉公をする日を念じ、毎日勉学に、また体練に汲々として余念がない。
- 藤沢分教場隣接土地購入(同)
分教場敷地の西北側に接する一区劃の土地は、事宜に依り講習所拡張予定地又は本会会館予定地として好適なるを以て、本会に於て購入のことに第9回及び第11回理事会の議を経て決定、不取敢本会所有資金を以て購入し、之が利用に付ては今直に使用の計画を有せざるを以て、別途講習所に賃貸方申出で取運中なり。
一、土地の表示 藤沢市辻堂字浜見山 7734の内 7735 7736 7737 一、坪数 1,307坪99 一、購入の費用 22,041円43銭 土地購入代金 667円20銭 登録税 533円70銭 不動産取得税 23,242円33銭 合計
- 「忘れ得ぬ事ども(抄)」
高橋黎爾氏(24・3・本)めぐろ〈第75号・1978年(昭和53年)9月〉より大日本帝国の敗戦を迎えたのは、夏季休暇で帰っていた父の家でであった。父は中国へ行っていて、留守を母と弟が守っていた。
8月14日、母と相談して、わが家の貴重品を大きな鞄に詰め込んでいた時、ラジオが「明日12時、天皇の重要なご放送あり。」と報じた。私はそれを聞きながら、大きな重い鞄を駅近くの質屋まで持って行き、土蔵にしまって貰ったのだった。
15日の天皇の放送を、「玉音放送」と言ったが、一種独特の声音であり、ラジオの調子も悪く、意味がよく分らなかったが、引き続いた内閣告諭を聞いて、私は驚愕した。
休暇は、8月15日帰寮のこととなっていた。私は一刻も早く皆と話したく、藤沢支所へ飛ぶようにして帰った。「学校は解散だ」と皆が話をしていた。夜遅く、誰言うともなく私達数人の生徒は、暗い海に向って波打ち際に立ち、「海行かば」を歌った。私の頬を涙が伝わった。
16日、所長の訓話があり、「承詔必謹、至誠をもって行動せよ」と説き、「1ヶ月の臨時休暇を与える」と結んだ。
- 「終戦の頃」
本間哲夫氏(22・9・技専一期)鵠沼の寮で終戦の日を迎えた。私の友人の父(外務省筋)から、既に終戦処理の方向で外交交渉が進められていると聞いていた。どう考えても勝てるとは思われず、敗戦についてショックは受けなかった。日本が負けたことに反省もでて来たが、とに角残念であるということを強く感じた。が寧ろホッとしたのが本音。自宅が東京(練馬)であった為、8月20日、海軍予備生徒は解除され、適宜供与された衣類、靴等の他、日用品をひと纏めにして帰宅した。寮に残った極く少数の人たちに、直ぐに授業があったのかどうかは不明である。 9月中旬、再び鵠沼に戻り、10日間程授業らしいものがあって過したが、遊んでいたという感じであった。その後目黒へ転校した。
10月1日、目黒で本科乙が編成され、まあまあの授業があった。
- 「栃木県へ疎開の頃」
小田亭治氏1945年(昭和20年)3月10日の空襲で、勤務していた芝第3支所(正則中学校)が全焼したので、芝第1支所(高輪商業)に合併し、そこで授業を行なっていた。
1945年(昭和20年)6月、栃木県上都賀郡粟野町字粕尾に支所をつくることになり、先発隊として2部高等科(航空)生10名を連れて粟野町へ行き、後からくる生徒100名を収容する為の、寄宿舎と食堂作りに従事した。毎日山へ行き、長さ24尺(8米)の杉の木を切り、皮を剥ぎ(皮は屋根に張る)、運び出し、小学校の校庭の一角に家を作り、炊事場をつくった。水道がないので、井戸にポンプを付けねばならないが、当時ポンプもないので、生徒を東京まで出して、新宿の焼け跡から持ってこさせた。
大変苦労してやっと出来上り、8月初め2高4期、5期生100名の生徒を収容し賄なったが、1ヶ月もたたない中に敗戦となって了った。
1945年(昭和20年)8月12日、目黒の本所へ連絡のため自宅(船橋)へ帰っていたが、敗戦の近いのを知り、8月15日正午の放送を聞いてから疎開先の粕尾へ出発、翌16日早朝着いたが、生徒は既に、各々自宅へ帰ったあとで、学校は空家同然だった。10月26日迄残務整理のため居残り、目黒へ帰ったのは11月初めだったが、授業もなく自宅待機させられ、12月28日マッカーサー司令部勤務を命ぜられて、その後第72通信隊本部付となり、1950年(昭和25年)5月文部省へ出向、定年退職迄続いた。(了)
(注)3部高等科生は、一部粟野町へ、一部下都賀郡清州村へ疎開した。
社会の出来事 |
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9-2 閉鎖された講習所の生徒の引継
1918年(大正7年)船舶通信士の養成機関として発足した無線電信講習所は、第二次世界大戦の勃発による陸・海・空からの需要の激増に伴い、私立の養成機関では到底これに応ずることが困難になったので、1942年(昭和17年)はじめ逓信省に移管され、官立無線電信講習所として再発足した。その後は軍部からの要請もあり、全国的な規模に拡充され発展、すべてが軌道にのって運営されようとした時には、既に敗戦の色濃く、ついに1945年(昭和20年)8月15日を迎えることになったのである。
官立無線電信講習所の通信士養成機関としての華やかな時代は、敗戦とともに、ここに終焉した。
この時の官立無線電信講習所は、当然のことながら戦争に全面的に協力し、あまつさえ、生徒はすべて軍籍(陸軍は予備生徒・海軍は予備練習生)を持っていること、更に戦争による船舶の大量の喪失、民間航空の停止等、無線通信士の需要がほとんど無くなってしまったこと等で、逓信院は院議として講習所を廃校とすることになっていた。しかし、時の宮本吉夫電波局長(後、1946年(昭和21年)3月17日講習所所長を兼務)と、同じく電波局太原彦一技師〈1945年(昭和20年)12月講習所教頭として赴任〉のお二人の大変なお骨折の末、その努力が実り、官立無線電信講習所はその存続が果たされたのである。
宮本局長は、
- 「将来再び無線通信士養成の必要があること。」
- 「廃校によって現在の講習所の生徒が失業することに堪えられないこと。」
- 「講習所創設者である若宮家に対する恩義から言っても廃校するに忍びないこと。」
等の複雑な心情から、占領軍の廃校指令があれば止むを得ないとしても、万策を尽して存続を計ることを決意された。
松前逓信院総裁は存続には初め消極的であったが、局長の粘り強い説得で漸く局長に一任された。
しかし、従前のような無線通信士の養成機関としての存続では、生徒の就職はおぼつかないので、制度はそのままとして、教科内容を改革し、無線通信技術者としての再教育が開始されることになった。無線機の修理から、将来の製造のための要員として役立たせようとしたのである。通信実践や法規関係等は縮減され、その代わり、機器の製造修理に役立つ無線通信に関する技術の科目が充実された。教官の配置、実験施設等一応の準備が整えられ、講習所改組は軌道にのった。このとき在校生は一人の脱落者もなく、全員この改革に応じたのである。
目黒にあった中央無線電信講習所は、市内の各支所(除板橋無線電信講習所)を藤沢支所を含めて吸収し、板橋無線電信講習所は、岐阜・岡山を吸収し、また、仙台・大阪・熊本は、そのままそれぞれの地名をつけた無線電信講習所として存続することとなった。
ここに、「電気通信大学」への発展の芽が、ごく小さいながらも吹き出しはじめたのである。
一方既に第一線にあった卒業生は、厳しい辛酸をなめたソ連抑留者を含めて逐次復員したが、その戦後は極めてつらいものであった。それは到底筆舌に尽し難いものであるが、その極く一端を公平信次元教官の一文でうかがうこととしたい。
- 講習所卒業生の終戦後の苦労など。
之が戦争中の総船腹量と推定されている。
- 第二次世界大戦直前のわが国保有船腹は、630万トン・2,693隻、
- 之に戦争中の建造船舶、拿捕再用船を加え、365万トン・1,433隻、
- 合計995万トン・4,126隻、
一方、
- 戦争による損粍は、実に、843万トンという大きな数に達し、
- 敗戦直後は僅か150万トン・873隻にすぎず、
しかもその半数以上が航行不能の状態で、外航適格船にいたっては、わずか10隻という状況であった。
船舶の数は「軍用資源秘密保護法」により、全く発表されなかったし、沈没した軍用船の船舶局からは廃止届も提出されなかったので、統計的な数字を出すことは困難であるが、終戦直後における船舶局数は総数で600局に過ぎなかったと推計されている。
これらの船舶は、すべて連合国軍の管理下におかれ、1945年(昭和20年)9月から1947年(昭和22年)末までは貸与米船とともに海外同胞の帰還輸送に従事したが、船舶局の通信は復員局関係の通信事務で忙殺された。
200隻の貸与米船もわが国船員が乗務し、日本船舶とともに船舶運営会が運航に当ったのである。
ここで一と言、電波通信についての進駐軍のとった措置について述べたい。もちろん敗戦とともに、局の運用、設備に関する戦時規制は大部分解除され、無線設備の規格を定めた船舶保護指示第11号も、1946年(昭和21年)1月に廃止された。
一方、1946年(昭和21年)9月には、連合軍総司令部の指令により、わが国の無線局の全部に対して、使用周波数、呼出符号の再指定が行なわれ、船舶局も周波数の変更を一斉に行なわねばならないこととなった。1946年(昭和21年)10月には、更に総司令部から無線局の統制強化について指令があり、船舶局においても、
- 新しい周波数許容偏差に適合しない送信機は1958年(昭和33年)3月までに改装すること。
- 空中線電力は、総司令部発行の「電波周波数一覧表」に掲載されている通りに改めること。
- 新たにSCAP番号を付した許可書を発行し、その有効期間を3年とすること。
と定められたのである。
さて、この中 1. の周波数の許容偏差は、後に国際電気通信条約にとり入れられた数値であり、当時としてはきわめてきびしいもので、短波帯については従来の主発振方式では、到底規定値を保ち得ない状況であった。その結果大部分の船舶の送信機が、水晶制御式に改装されたのであるが、何さま、現場の通信士としては、猛勉を強いられながら、とんだ苦労を重ねたものであった。
ついで、1948年(昭和23年)10月より、国際条約の決定で、従来日本に割当てられていた呼出符号のJシリーズ、JAAからJZZまでが、JAAからJSZまでに削減された。船舶局の相当の部分の呼出符号の変更が行なわれることとなり、自他共に新符号に馴れるまでの間、必要以上にまことに過大の心労を被むったのである。
一方、無線機器の生産保守に要する生産資材は、「臨時物資需給調整法」に基く配給統制をうけることとなったので、無線局の新設はもちろん、工事設計の変更、機器の取替えにも、すべて経済安定本部の認証が必要となった。またひとつ事務的にも厄介な関門ができ、万事頭痛の種であった。かくのごとく、敗戦直後から1949年(昭和24年)頃までの、総司令部のわが国無線局に対する監督と統制は、実に厳重なものがあり、ために船舶局の検査、無線通信士の再勉強指導等については、中央、地方とも非常に努力を払ったものである。
破壊から再生への混乱期における、通信士各位の功績はまことに大きいものがあった。
社会の出来事 |
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