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電気通信大学60年史

前編6章  戦時中の無線電信講習所

第8節:物資不足下の学生生活

急速に物資が緊迫を告げ出したのは1941年(昭和16年)12月8日の大東亜戦争開戦時からであった。それまでは不足といってもそれ程の深刻さはなかった。無線電信講習所の在校生徒はそのほとんどが地方の出身者であっただけに、下宿生活を余儀なくされたが、この頃の下宿の料金は2食つきで35円程度であった。この下宿のあっせん等は1941年(昭和16年)4月に設立された報国団の生活部で面倒を見ていたが、1944年(昭和19年)以降あいつぐ空襲で家を焼かれ絶対数の不足から生徒自身が部屋探しに奔走せざるを得なかったのである。生徒達は親戚や縁者を頼ってかけめぐり寝宿(ねぐら)を求めた。また、ある者は下宿先を焼かれ着のみ着のままで茫然自失、一時郷里へ引揚げることさえあった。

学校当局も下宿や宿舎の手配には最大限の尽力をした。私立無線学校の統合にともないそれらが使用していた寮を利用することになり、一部の生徒は寮長の指導により毎日規則正しい寮生活を送り、ここから目黒の本校あるいは各支所へ通学していたのである。また、海軍予備練習生制度が発足して海軍を志願した者は新装成った鵠沼の校舎(ここは全寮制)に移った。

日常生活に欠かせない生活物資はすべて配給制となり主食、調味料、魚貝類や肉そして野菜にいたるまでの食品は一定量に制限され、石けんやマッチまでも自由に求めることができなかった。また、衣料品も点数切符制度となり重衣料からタオルや縫糸までその範囲に及んだのである。以下はその学生々活の断片である。

食生活

主食である米麦が配給制度になってからは、地方の生徒はその居住地から転出証明書なるものを市町村役場から発行してもらい居住地の世帯に転入届をする必要が生じた。こんな関係から下宿屋は特別の好意を持たれている以外は賄付が姿を消し、生徒達は外食券によって食事をとらねばならなかった。この外食券は甲・乙・丙と3種類あり、その労働量により主食の配給量が異なっていた。すなわち職種により軽・中・重労働に仕分けされ、学生や一般サラリーマン及び主婦は1日2合3勺と決められていた。しかし、戦局が激しくなるにつれてこれらの主食の代替として小麦粉やパン類、さつまいもが配給されるようになり、米の配給は1月のうち10日ないし15日位になってしまったのである。このため外食券を必要としない雑炊食堂には学生を含めて餓えた人々が朝から立ちならび、飯粒の浮いたスイトン汁をすすっては腹を満たしたのである。しかしこれも長くは続かなかった。

食い盛りの生徒達は1日2合3勺の主食で済む訳がなく、外食券2枚を一食にとるいわゆる"二丁盛り"をやっていたせいか、1ヶ月分の外食券が20日位でなくなり、翌月分にまで手をつけてしまう有様であった。そしてニッチもサッチも行かなくなると食糧休暇をとって帰郷し、ふたたび上京の際は米やイモ等をどっさり背負い込んだ。しかし主食が配給制となってからはこれらの移動が禁止され、車中や駅の改札口では警察官の荷物検査がたまたまあり、見つかれば没収ともなるので、監視の目をくぐり抜けて下宿まで持ち帰ることは並大抵の仕わざではなかった。だから外食券がなくなれば、ふるさとに主食の救援を依頼しての自炊生活となり細々と炊煙をあげていた。こんな状態であったから自然に欠席者が増え、また、授業を受けていても血色が冴えず居眠りをする生徒が増加した。

やがて生徒達に朗報がとび込んできた。すなわち1944年(昭和19年)9月期の入学生より陸海軍の予備員制度が在学中から適用され、生徒には重労働級の丙食(1日に米食4合)の配給となった。この増量によって生徒の顔色もみるみるうちによくなり、おまけに1ヶ月当り25円の給料が軍から支給されるとあっては申し分がなく、全くの給費生であった。ちなみにこの頃の通信士の初任給は月額80円、大学卒が70円、中等学校卒で40円であった。その上、予備生徒としての証明があれば駅に長い行列をして切符を求めなくとも自由に窓口で乗車券を買うこともできたのである。

服装

食生活がかくの如くであったから肌身につける衣料品も意のままにならなかった。靴下一つをとって見ても今日のようなナイロンの耐久性のあるものではなく、あちこちが裂けてはツギをあててはいた。上着やズボンについても然りである。軍事色が強くなつてからは、背広を着た人々は非国民扱いにされ街では見られなくなった。これに代ってカーキ色をした国民服が愛用され、一般的に菜っ葉服が作業着や外出着として流行したのである。

わが無線電信講習所の制服は蛇腹つきの紺のチューニックで官立になってからは襟に黄金色の「官」の文字が入り、その辺にある怪しげな私立無線学校の生徒と区別されていた。このことは「おいらは違うんだゾ……」といった自意識を働かせ胸を張って堂々と歩いていた。確かに彼等から見た場合この「官」文字は羨望の的であったことは事実である。帽子も恰好よかった。しかしこの姿も長続きしなかった。せいぜいこの輝ける制服に身を包めたのも1943年(昭和18年)が限度であった。翌年になると衣料不足から自由自在の服装になり、紺サージがあるかと思えばカーキ色の詰襟あり、霜降りもあれば色あせたピンク色もあるといった多種多様で、まさに服装から見る限り烏合の衆であった。特に私立無線学校が廃校となり統合されてからは、襟に輝いた「官」の文字はなくなり、コンパスマークの帽章も先輩達のものより二回りも小さくなった。そしてコンパスマークの中に描かれた「R」という文字も、敵性語の頭文字であるということで片カナの「ム」に変化してしまったのである。服装がかくの如き状態であったから帽子についてもマチマチであった。卒業生から譲って貰ったのであろう無線電信講習所の初期のものや学生帽、はたまた戦闘帽もある始末で無帽の生徒も何人かいた。

ただツギハギだらけの衣裳ではあっても心は錦とばかり、空腹つづきの食に耐え、そして何度も焼け出されては手狭な住で息をしながら、戦勝の祈願を一生懸命していたのである。

空襲警報発令下の学校生活

空襲警報発令中でも敵機が頭上へ来ない限り授業は続行された。1945年(昭和20年)はじめの東京大空襲の際ももちろん授業中であり、席を立ったり騒ぐと教官に叱られるので、横目で窓越しに市街地等の炎上する煙を望見したものである。

当時一般学生や生徒(中等学校や高専、大学)は勤労奉仕に駆り出され、女学生等は女子挺身隊と称して軍需工場に勤労を余儀なくされていたが、無線電信講習所の生徒は特別扱いで、在学中1~2回近くの飛行場へ整地作業に動員されたのみにとどまった。これも国からの計いで、教官から「勤労奉仕もなく然も給費生として勉強させて貰っているのだから、空襲警報下であろうと授業は続行する。そのためには1日も早く学業を修得し、実戦に役立つ通信要員として完成するよう努力せよ。」と刻苦勉励を命題にされたのであった。

8-1 軍事教練

  • 陸上教練

    官立無線電信講習所に軍事教練課目が正科として採用されたのは1943年(昭和18年)の4月からであった。初代の配属将校には川上陸軍大佐、同教練に久保山教官(陸軍中尉)がそれぞれ就任した。何といっても目黒の本校々庭は狭あいなため、各個教練しか実施できず、従って実戦教練となると広大な土地を必要とするため戸山ヶ原(山手線新大久保駅下車)まで赴いて行われたのである。

    大体において支那事変が勃発してから、各中等学校では教練が正科にとり入れられていたので、本校入学者はそのほとんどが軍事教練の経験者であったし、基礎訓練から実施する必要はなかったわけである。実技教練のほか、軍事学がとり入れられたが、これは官立無線電信講習所に陸軍予備生徒や海軍予備練習制度が適用されてからの教科であり、当然のことであつた。教官は前述した川上明陸軍近衛大佐でこの人は陸軍幼年学校から陸軍士官学校そして陸大とエリートコースをすすんだハエ抜きの軍人であった。みるからに軍人らしくキリキリっと引き締った端正な容貌は謹厳そのもので「動かざること山の如し」で、さながら昔の武将そのものであった。

    1943年(昭和18年)からは富士の裾野において数日から1週間にも及ぶ野外演習が行われ、まるで実戦さながらの訓練であった。この演習場には他の大学生もいて、野営そして炊事と困難を克服し、常日頃の軍事教練の成果を確かめることに意義があったのである。特に1945年(昭和20年)になつてからの野外演習は極端に食料事情が悪化し、ひなびた蕗であるとか、さつま芋の茎などが食用に供され、まことに戦場を思わせるものがあった。

    このほかに持久力を訓練するものとして、錬成行軍もしばしば実施され一億国民火の玉となって戦争の遂行に励んだのである。以下は1生徒が記録した行軍記である。

    錬成行軍記

    1943年(昭和18年)7月5日。曇天。7時50分部隊編成、8時15分校門を後に蘆花公園に向う。隊伍を整え、歩調を揃えての堂々の市街行進である。わが第3中隊第1小隊も靴音高く颯爽として続く。2ヶ月振りの行軍に全員の緊張も物すごく歩度も相当に速い。世田谷太子堂付近で最初の小休止あり。

    太陽こそ顔を出していないが7月の暑気に身体はしっとりと汗ばんで来た。拭うひまもなく出発、以後しばしば現れる電車線路の踏切はすべて駈足である。これに加えて舗装道路の照り返しの熱気に漸く疲労の色を見せ始め、小休止を繰り返した。

    出発後少時にしてついに甲州街道に出た。拡張中の道路を軍歌の声にはげまされ、ばく進にまたばく進、雲間をついて照りつける太陽はヒリリと痛い。既に顎は出、尻は後れて難行軍、しかし落伍は小隊の名誉にかけてもできない。「頑張れ、もうすぐだ」と互いに無言の中に励まし、敢闘精神に燃えて頑張りつづける。路傍の停留所に電車を待つ人々の顔は、ホームから柵越しに我々の全身流汗の姿を見て、その烈しさに打たれたように頷いている。やがて正面に緑畑が展け、その向うに黒い森が見えてきた。目指す蘆花公園である。踏み出した豆の痛さも忘れて急に元気が出た……。時まさに正午。大休止1時間をとり昼食となる。

    公園の緑蔭で弁当を頬ばりながら、先頭小隊の者の語る所を聞けば、汗が目に泌みこんだせいか迷路隘路へ踏みこんで予定より6キロ近く多く行軍したとのことである。13時に全員再び点呼をとり集合、更に大宮八幡に向う。甲州街道を逆に戻り上高井戸よりそれて北上する。浜田山を通過する頃、疲労はその極に達したが、軍歌を高唱し歩調を揃え歯を食いしばっての強行軍だ。この時道路の両側に亭々とそびえる杉の並木が現われた。一瞬疲労を忘れて武蔵野を讃美する。道は担々としてどこまでも続き、歩いて歩いて歩き抜いた。

    14時30分目的地に到着、一同厳粛裡に八幡宮に参拝、境内の杉木立の中に集結して講評を受ける。「………おおむね良好」との教官殿の声に一同息をこらしホッとした。

    「本日の行程では良好なのは当然である。近々更に強度の行軍を実施する予定である。」と生徒監殿の講評を我等は肝に銘じた。そうだこれしきの行軍は行軍の中には入るまい。遠く前線の将兵に思いを致すとき、そして幾千里昼夜を分たぬ行軍を偲ぶならば、我々は更に一段と奮起せねばならないのだ。

    晴れあがった空にまた雲が拡って来た。蝉の声が聞えてくる。汗ばんだ頬をさっと風が撫でて行く。

  • 海洋教練

    陸上教練が正科であったのに対し海洋教練は自主参加であった。海洋国である日本にとって毎年、海洋教練並びに海事講習が実施されたことは誠に意義深いことであった。短期間の合宿訓練ではあるが、ハードなスケジュールのもとに参加者は大いに意欲を燃やし、よく耐えよく勉学にいそしんだのである。毎朝6時起床と同時に海軍体操が行われたが、この体操は相当猛烈なもので、初心者は30分位でヘトヘトに疲れ汗ビッショリになって、翌日は体の節々が痛む程であった。

    日課は午前中が座学、午後は訓練として短艇操練、水泳等がギッシリと組込まれていた。学課としては航海術、運用術大要、海図使用法などであるが、短時間のことゆえ極めて概略だけであったが、船位測定にしろ速力算定、海図の見方など一応良く呑みこめるものであった。午後の実技訓練の前には再び海軍体操が始まり、本教練の参加者一同は相当きびしい訓練を受け、一時は立って歩く事にさえ苦痛を感じた程である。期間はたとえ短くとも実に有意義であった。

8-2 課外活動

1941年(昭和16年)4月1日、学友会が解散して報国団が結成されるや、新体制のもとに報国団鍛錬部が発足し、相撲、柔道、剣道をはじめとして15班が設けられ、全校をあげて体育鍛錬に務めるようになった。これらはすべて課外に行われたことはもちろんであるが、夏期休暇や冬期休暇を有効に活用してもっばら体力の育成につとめたのである。その活動たるや活発を極めたことはいうまでもない。その尊い記録を、ここに紐解いてみることとした。

海洋班

報国団鍛錬部海洋班が結成されるや大日本海洋少年団に加入、同少年団へ加入の東都各種大学専門学校学生生徒合併により大日本海洋学生団を組織することになり本格的に訓練を開始した。初代の班長には生徒監補小川教官が海軍生活の経験から迎えられた。毎週の土曜日には月島の東京高等商船学校内ボンドに繋留してある海洋少年団カッターを借用し、猛訓練を重ねたのである。 この結果、規律と訓練に立派な結晶となって現われ、他校生の驚歎の的となった。なお、その訓練内容は以下の如く広範囲なものであった。

訓練
  • 練習艦船訓練
  • 航海術、運用術、通信術
  • 海洋航空術
  • カッター、ヨット、和船操法
  • 機動艇訓練
  • 海軍諸学校及び海兵団訓練
  • 海洋道場における訓練
海洋・講座
  • 海上努力史
  • 海軍戦略
  • 海洋国防国家論
  • 大東亜共栄圏経済研究
  • 現代海運論
  • 水産事業事情
  • 造船、造兵、造機事項の研究
  • 海洋文学について
  • 海洋航空一般

この成果について述べれば、1942年(昭和17年)2月11日海洋建国式典に参列し、漕艇態度につき日暮海軍少将より讃辞あり、4月には海洋講座「大東亜共栄圏経済について」及び「現代海運論」についての座学、5月「海軍戦略と日露戦争」及び「海上努力史」に毎回15人ずつ参加聴講。6月「機動艇の構造と原理について」の座学を研修後、王子の日本機動艇協会に於て機動艇実習を行い、同月24日の水上練成大会(於隅田川)では出場選手諸君の健闘により準決勝まで進出したが、惜しくも明大に破れ去った。7月15日より21日までの1週間、海の記念日の行事として第1回学徒海洋展覧会を銀座三越で開催、本所より2点を出品して多大の好評を博した。この問7月20日には横浜沖に航海練習船「日本丸、海王丸」を訪ね、第1本科生7人が乗船訓練を受け東京湾を巡航した。

また、この年の夏期休暇を利用して全国の各鎮守府、各高等商船、普通商船学校、水産学校に於て夏期訓練を実施し、海洋訓練と海洋精神の徹底を期し、海に志す者にとっての意気を昂揚したのである。

野球班

何としてもグランドを持たないことは大きな欠点であったが、キャッチボールと軽いトスバッティングの練習に重きを置き、もっばら試合という実戦に臨んで技を練った。無線講野球部は、その昔から対官練試合において伝統を持っているせいもあり、 ひたすら猛練習に励んでいた。班長木村先生の指導のもと、1年生から練習に熱心な者のみをピックアップし、チームワークに重点を置いていた。

昨年芝浦グランドにおいて挙行された対官練試合に華々しく活躍した、大石、有村、拒鹿、栗山の4先輩を送り出したとはいえ、岸田、藤田、笹野、加藤、近藤、木村、田中、田代の8人を残し、岸田の攻守に加藤の好打が加わり、かつまた、ノーヒットに封じた記録をもつ田代、藤田のバッテリーを擁して破竹の勢いを示していた。対官練試合を目前に控えた本所チームは明電舎チームと対戦(1941年(昭和16年)6月22日)し8対0とシャットアウト勝ちしたのである。そのベストメンバーは次の通りであった。

  • 8 岸田
  • 7 近藤
  • 3 加藤
  • 2 藤田
  • 1 田代
  • 9 太田
  • 4 須藤
  • 5 笹野
  • 6 長南

しかし翌年の対官練試合にはメンバーが一新したせいもあって11A対1と大敗を喫し2年振りの優勝とはならなかつた。しかし戦局がとみにきびしさを加えつつあったこの頃、野球は敵国のスポーツ扱いとされ、また、食糧不足を補うため、野球場という野球場は耕されて農地と化していったのであった。

籠球班

学友会籠球部も新体制のもとに報国団鍛錬部の翼下に入り籠球班として従来からの活躍を維持していた。班長には当所の先輩であり中堅教師として尽力されている岸本末吉先生をいただき、20余人のハリキリボーイをもって完壁なる陣営をひいていた。報国団の編成とともに、新運動場の開設に着手、また、第4号館建設のため従来のコートは無くなつた。

しかし対官練試合に連勝の栄を有している当所は、新入生をまじえ練習に励もうにも根本的要件たるコートがない。このため班員の努力に依り近所の、田道国民学校のコートを放課後に限り使用できるはこびにまで漕ぎつけたのである。班員諸君は熱心に夕暮れがせまるまで練習をした。

待望の校内大会を6月に開く予定であったが、田道国民学校のコート借用の許可は得たもののついに不可能となった。7月に入って、ポールドの注文ができ上り、臨時的に朝礼を行う場所に、不完全ではあるがコートをつくり、遅まきながら試合を開始したのであった。校庭のコートであるため雨天となれば使用できず、天を仰ぎみる日が多かった。このため本科1、2、選科1、2の予選は施行できたが、天候不順のためリーグ戦のはこびとならなかったのが残念であった。

翌1942年(昭和17年)9月6日、日頃の練習の成果が問われるときがやってきた。先輩達が築いた勝利の伝統を立派に保持したのである。炎熱のもと黄塵を蹴ってボールを追い、あるときはまた肉体のあらん限りの熱汗を振りしぼって白線上を走り廻った鍛錬の賜であったともいいかえることができる。とにかく勝ったのだ。そして対官練試合に於ては堂々連勝不敗の金字塔を打ち建てたのであった。ちなみに本試合のスコアーは42対24である。

相撲班

相撲はわが日本の国技でありその伝統たるや神代の昔にさかのぼり、武士道の精神を養うには最適の競技である。日光に、大気に、その赤銅色の肉体をさらし、肉と肉がぶつかり技と技が火花を散らす。そのもっとも男らしい姿こそ戦時を飾るにふさわしいスポーツであった。

その最たる目的は鍛錬にあった。しかし錬成の成果を検討するため各班の各科予選を行い6月28日にはその決勝戦が行われたのである。本科からはD組の岡本、古家、田岡、川上、野口、選科からは旧選B組の富田、宮原、木村、古藤、東、特科からはA組の徳久、手塚、中村、高木、下夷等の堂々たる体駆の力士が選出された。各科から選抜された選手だけに真剣さがあふれ、熱のある敢闘絵巻がくりひろげられた。各科からの割れるような声援のうちに結局は旧選B組の優勝となったが、相撲班がかくも盛大なるうちに、その成果があがった最大の理由は、日本古来からのスポーツであり、春秋の2場所、国技館で開催される大相撲の人気の強さにあったことといえる。

蹴球班

団体精神の涵養、体力の練磨から見て青空の下でのびのびとした気持で競技をたのしめるその一つでもあるが、悲しいことにわが無線講にはこれまたグランドがない。このせいもあって学友の入班を大いに歓迎したくともできない理由がそこにあつた。そのため春の校内大会もついに中止のやむなきに至ったのである。されど昨年の再設以来、月々の練習にさえ事欠く状態の本班としては当然のことながらグランドの入手が最大の課題であった。
幸いにして、学校当局もグランドを完備するように聞いていますので、過去のハンディキャップを征服し、よりよき強力な鍛錬班にすることを期待していたが、課外活動としての実りは少なかった。

剣道班

「自我を去り大我に生きる」は剣の心である。この剣を通じて通信士たらんとする肚の練磨に充実を見てきたのが我が剣道班であった。特に剣道師範として、剣道界の第一人者たる宮沢先生を迎えたことは班員の大きな喜びであった。

鍛錬道場として近く建築される道場の完成まで講堂を借用することになり、泥だらけの所を毎日の清掃により、かなりのところまで磨きあげることに成功した。道具は当初稽古用6人分、試合用6人分、木刀50本、竹刀多数を整備し、人的物的に見ても錬鍛部の大班としての陣容を備えていた。この問、校内大会を開催し、各クラス7人の対に依る優勝戦を行い、青年の意気と負けじ魂とに元気のあふれる試合が随所で見られた。

翌年1月、木の香も真新しく新設された武道々場で大寒中に行われた寒稽古には50人の班員が参加し、班長中野先生の指導は身心両面に痛烈なるものがあった。何といっても剣の極意は校内大会などでは物足らず、毎秋開催される対官練試合にすべてを賭けていたのである。そのためには酷寒あるいは猛暑さえいとわず、班員は放課後、道場へ通いつめた。

その日がやってきたのは意外と早く感じられた。わが無線講剣道班は全技を発揮すべく、9月6日敵方剣道場に乗りこんだのであった。試合は双方11人ずつ出場、すなわち11回の組合わせとなり三本勝負の対抗試合である。結果的に見るならば左記の戦績が物語るように実力はあくまで伯仲していた。

戦績
無線講 5 官練 6
(先鋒) 井上 -------- ◎南風原
植野 -------- ◎古瀬
◎河上 -------- 須藤
◎和田 -------- 岸本
北沢 -------- ◎上野
(中堅) ◎矢野 -------- 小林
◎橋本 -------- 志岐
山鹿 -------- ◎浜田
◎沢田 -------- 松本
副将 宮下 -------- ◎花房
大将 小林 -------- ◎元吉

この結果、我等の先輩が先年苦心さんたんして得た優勝旗を再度官練に渡してしまった。

柔道班

古来武士道の精神の中にも「柔よく剛を制す」という言葉がある。この精神にのっとり、わが柔道班は報国団の結成を見ざる前に中尾道場より同場主催の紅白試合参加の招待を受けた。当時本所には道場もなく、班員の有志はこの設立を当局に依頼した結果、新築校舎四号館の送信室に畳を敷きつめ仮道場ができ上ったわけである。このため試合期日まで、幾日もなく充分なる練習が積めなかったにもかかわらず、それなりの成果があったことは選手諸君の奮闘の賜であった。

試合後問もなくして、大野先生の御尽力により中尾先生を師範として迎え、7月2日より13日まで暑中稽古を行い、納会には本科対選科の紅白試合は当所柔道班史の一ぺージを飾るにふさわしいものであった。下目黒の旧競馬場跡に堂々たる錬武の殿堂が建設されてからは酷寒、酷暑の夏冬を問わず年中意気に燃えた若人の気合いが漲り、窓外にまで聞えてきたほどであった。

絶えず高等商船学校等と大いに戦いを交えた経験を生かして、対官練試合始まって以来、最初の柔道戦には見事、6対3でこれを撃破した栄誉は賞されてしかるべきであろう。これこそ毎日夕闇の迫る頃まで畳を血に染めて頑張り通した汗の結晶でもあった。

以下に官練試合の戦績を紹介しよう。

無線講 6 官練 3
(先鋒) ◎竹中 前田
◎阿部 松野
古田部 ◎八塚
◎泉地 川島
(中堅) ◎福田 鈴木
◎井原 河田
田島 ◎玉木
(副将) 三隅 ◎中田
(大将) ◎飯田 伊集院
弓道班

弓道もまた、古来から武士道精神を涵養する上においては主たるものであった。息の音も聞えない静寂に浸り、その心を、おもむろな動作の内に一点に集中する。気持がうわついていたり怒っている時、そして悲しんでいる時等は決して本当のあたりは出ないのである。矢を射ることは自分の心を鏡にうつしているのと全くおんなじである。

学校当局の弓道班に対する御助力と、森謙吉先生の寸暇をさいての熱心な尽力により、あるいは特に師範として来校された船田先生の指導のもとに、その技能も着実に向上し、班員も百余名を有することになった。7月18日には講堂裏の弓道場で弓場開きが行われたが、一般班員の礼射、また余興として源平競射などが終ると、一滴の神酒が各員にさずけられた。本弓道場は実に粗末なものであるが、これは先輩の残した尊い、また、親しみ深いものである。すなわちこの場所は初め池のあった所で、先輩諸氏の協力により埋立てられたもので、この業績がやっと開花したのである。

1942年(昭和17年)の秋には柔剣道とともに弓道も準正科として取り上げられ、班員が膨らんだせいもあり、練習できない生徒が数多く続出した。これと時を同じくするかのように、9月の6日対官練試合には堂々と、34対20という好成績で快勝したのも日常の鍛錬が物をいったと断言できる。

庭球班

当班が結成されてから、何等目立った活動はなく半年間は無為に終った。それというのもいくつかの班にあったように練習すべきグランドとかコートのないことであった。やむを得ず貸コートを使用して技能を伸ばすことに専念したが思うに任せなかったことは事実であるし、対外試合においても大きなハンデを背負っていた。
9月6日の対官練試合においてもそれがいえた。昨年電研コートに破れて以来、雪辱を期したのであるが、彼我の差は余りにもありすぎた。各選手は練習不足をものともせず善戦したが、完敗に終ったことは何よりも残念だった。

無線講 0 官練 5
河原、古川組 1----4 正木、吉川組
須藤、山岸組 3----4 津島、征矢組
小林、長野組 2----4 田島、松本組
阿藤、内藤組 1----4 田舎館、田中組
脇本、山口組 2----4 中田、大野組

官練試合が終れば、我等のコートも生まれ出る。そのときこそ庭球班も新生すべき時である。

卓球班

卓球班においては班長に柏崎栄太郎先生の指示のもと、各々放課後及び休憩時間に技を磨き、忠実に身体を鍛えてきた。また、対官練戦に出場すべき選手達は昨年の雪辱を果さんものと、他の者の数倍も練習し、設備不充分にもかかわらず、各選手達は数段の進歩を遂げたのである。何しろ班員は各部各科を合せて数百名を擁する大世帯であった。

正確にいうならば1942年(昭和17年)6月末、対官練試合が定まるや、折出主将を中心に松田、日比谷、近藤、川辺、大塚、八戸、杉本の諸君は放課後、あるいは日曜日に勉学の余暇を割き猛練習を開始し、大日本卓球連盟の篠田氏をコーチに迎え必勝の信念も固かった。夏期休暇中、わずかの休養のあと、中電チームに挑戦して試合度胸を培い、総仕上げの猛練習が続けられた。

鍛錬部における重要行事の一つである対官練戦は卓球のみではなく、各種の競技でその覇が競われたのである。残暑に汗ばむ9月6日その幕は切って落された。わが方の猛練習にもかかわらず、相手の巧妙な攻撃は鋭く、左記の戦績を残して昨年に続き敗退したのである。

  • 第1回戦 官練 6--1 無線講
  • 第2回戦 官練 6--1 無線講

敗因を考えるとき、敵のカット、スマッシング、ショートと非常に変化のある球に悩まされ、足場が定まらずして失点を重ね、自滅を招いたといえる。わが選手はストレートに数日の長があり、力よりも技に屈したといっても過言ではない。

陸上班

これまた、グランドがないのが大きな悩みの種であり、また、機器類も何一つとして揃っていなかった。将来は運動場も目黒の競馬場の方にできる予定と聞いているので何かと楽しみである。わが校においては、陸上競走というと一寸縁がなさそうに聞こえるが、これからの社会と国家を背負ってゆくためには、健全な精神はもとより頑健な体力も必要なのである。

これといった活動はなかったが、敢闘精神だけは他校に劣ることはなかった。

以上、鍛錬部各班の課外活動について当時の模様を概略説明したが、錬成の成果を各班それぞれに対官練試合に投入したことは事実であった。このほか、山岳班は、官練の諸君と北アルプスを走破したり、水泳班は館山へ合宿訓練と、夏期休暇を利用しての鍛錬に励んだのである。

報国団団誌2号〈1942年(昭和17年)〉より、守屋勇一氏による「報国団規則等改正に就て」をあげておこう。

今般報国団規則等改正せられ9月29日より施行のこととなったが、右は時局下青年学徒の錬成益々重大性を加えつつある実情に鑑み、報国団の使命を一層発揚し之が積極的活動を計る為必要なる改正を加えられたもので其の概要は以下の如きものである。

  • 報国団事業部各班を左の通編成替し各部の均衡を計ると共に其の活動の積極化を期することとしたること。

    従来鍛錬部所属の剣道班、柔道班、弓道班、海洋班及滑空班を国防訓練部に、力行班の一部を生活部に移管し新たに排球班及山岳班を設けたること。 (以下省略)