電気通信大学60年史
前編6章 戦時中の無線電信講習所
第7節:実習生、戦場へ
大東亜戦争突入以来、各地で戦勝を重ねてきた日本軍も1942年(昭和17年)6月5日、ミッドウェー海戦に於てわが海軍は4空母を失い、これを境にして戦局は転機と化した。同年8月アメリカ軍はガダルカナル島に上陸したが同島への補給に参加した輸送船団は海・空からなるすさまじい攻撃に依り輸送路は絶たれ多数の船舶を喪失するにいたったのである。孤立化したガダルカナル島は戦うに弾薬なく、守るに兵卒なくして翌年2月ついに同島からの徹退を余儀なくされ南方区域の制空・制海権も次第に米軍の手におちていった。しかしこのまま見逃しておくわけにも行かず、わが軍は南方諸島に増派して敵の北上を食いとめるしかなかった。
この頃官立無線電信講習所の第1部普通科第1期生は席上課程をおえ、1943年(昭和18年)4月勇躍して陸上(海岸局、無線関係工場)あるいは海上へ、実習課程へ、校門を後にした。これに続いて席上課程を3ヶ月短縮された第1部高等科生は翌年1月より、1普2期生は3月よりそれぞれ学窓を離れ、実習生として戦場に派遣された。これより先、前年の12月には徴兵猶予の廃止により学徒出陣が行われ、混迷化する戦局に立ち向って行ったのである。
7-1 1部(船舶)
このころ日本の制空、制海権は完全に米軍に握られており、日本列島の周囲は米海軍の潜水艦隊に包囲されていたといっても過言ではない。とくに危険な海域はバシー海峡で船舶の墓場とされていた。南方諸島と日本本土との輸送を断ち切ることは米軍の最も重要なねらいであり、海上実習へと巣立った生徒たちは必ず魚雷攻撃を受ける運命に立たされ、死との対決を覚悟していたのである。敵潜の攻撃がいつあるか判らぬ状況下では、安心して眠りにつくこともできず風呂さえ入れずにいた。恐怖感から開放される海は、瀬戸内海や湾部を航行中のときだけで、久し振りの入浴や、寝巻に着がえての安眠は何といっても最大の贈り物であったろう。
船舶実習に参加した官立1期生のうち高等科生だけでも戦没者24人、殉職者32人計56人がこの世を去った。普通科生を入れればもっと膨大な数字になる筈である。戦没者の海域は、沖縄、マニラ沖、バシー海峡、セブ島、トラック島、モルッカ島付辺、ハルマヘラ沖やサイパン諸島であり、死に至らざるも海中に投げ出された遭難経験者は跡を絶たなかったのである。こんな状態下において船舶の安全航行を確保するため無線局の無休聴守を強化、1,600総トン以上の義務船舶無線局は通信士3人を配置し無休執務体制とする規則の改正が1943年(昭和18年)6月になされた。
しかし無線通信士の補充が困難であったので官立無線電信講習所の船舶実習生を最下級通信士の職務代行者とすることを認められたのであった。
このことに依り当初月額30円であった実習手当は三席通信士の執職として月額50円の基本給となり乗船手当並びに戦時加算を合計すると倍額に近い100円ぐらいになった。(当時の本給は船長および機関長クラスで250円~300円、一等運転士、一等機関士、一等船舶通信士が150円~200円、職長で50~60円、員級で20円位であり職員と部員では相当の格差があったし、大体において船員給与は陸上職の2倍、職種においては3倍にもなり、現代と比較すると隔世の感がある)しかし統制経済下のことであり給料は貰っても自由に買える物がなかった。
さて、ここであらゆる海域に活躍した船舶実習生の苦闘の記録を2、3紹介することとしたい。
- 暗い波濤
昭和19年2月の寒い朝、私は横浜の通船待合所で生れて始めて船出する希望と期待に晴れ晴れとしていた。待合室は帰船する人達で一杯で彼等はどの顔も暗く陰うつで冴えなかった。それはあとで判ったことだが苛酷な航海の中で絶えず恐怖の連続を体験していたからである。それはいつ果てるともない自分の生命との戦いから生じたものである。私はこの雰囲気に耐えきれず待合室の外に出て船の見える場所に佇んでいた。このとき同じ同期の桜である西田から声をかけられた。話を綜合するとどうも同じ船団であるらしいことが判った。彼の船は南方の各地に送る砲弾と弾薬が5千トン位積載されて居り、魚雷攻撃を受ければ「あの世行きだよ」と語ってくれた。
横浜を出て散り散りバラバラだった5隻は東京湾を出ると完全に船団を組み、出港までは極秘にされていた行先がトラック島経由ラバウルだと発表された。この船団を護衛する駆逐艦が前方と後尾に各1隻づつ付き対潜警戒の関係から之字運動を開始した。船団スピードは9ノットであったが折からの冬季偏西風にあおられ、時化との戦いが先行した。誰もが経験する船酔いには抵抗出来ず、ムカつく胃袋を押えながら受信機の前にカジリついていた。何度も血ヘドを吐きながらまるで胃液はからっぽになってしまったような感覚がした。当直を終るとベットにゴロンと横になり身体は綿のように疲れ切っていた。戦時中であったのでまずまず送信機をスタートすることはなく、暗号に組まれていた潜水艦情報を受信する位で500kcのワッチは夜になるとUIK(ウラジオストック)の呼出応答のみがうるさい位に入感した。
船団が南下するに従い日を増して汗ばむ日が多くなってきた。私が1日のうちで一番困ったことは汗を流す入浴であった。「もし裸になって湯につかっている時、魚雷攻撃を受けたら」とこのことが心配でそんな勇気が湧かず汗まみれの何日かが続いた。昼問はドアーも舷窓もあけていられるから涼をとれるけれども夜になると一勢に灯火管制となり自室も無線室もまるでムシ風呂のようになった。1週間もすると船酔いには馴れたかわりにこの暑熱地獄に襲われた。しかし一夜があけると「今日も無事でありますように」と思わず祈らずにはいられなかった。
私達の船団がサイパン付近を通過する頃、太陽はギラギラと照り輝やき海面は油を流したように静かだった。時折スコールの嵐が天と海を結び涼が船内に漲った。この辺りからは最も危険な海面であり緊張度は殊の外高まっていた。そんな矢先の真夜中、私の当直中どこかで不意に腹の底までこたえる振動を感じたのである。ハッと思って無線室から外に通ずるドアーをソーッと細目に開けてみた。乗組員達もびっくりして飛び起き甲板上に出ていた。暗闇に目がなれると、本船の左手後方で一点ボーッとなっているのではないか。「5番船がヤラれたらしい」と誰かがいった。私は一体どうなるのかと一瞬考えていたが船団は何事もなかったように航走をつづけていた。それは出港前の打合わせに依り雷撃された5番船のために後尾に配置された駆逐艦が付近の警戒に当り4番船が救助作業に従事すべく残留しているのであった。
緊張を重ねた一夜があけると本船の回りには1番船から3番船までの3隻と、我々を護衛する駆逐艦は1隻となり心細い限りであった。更に見張りを厳重にするとともに警戒隊員7人が休みなしで配置についていた。本船の船尾には8サンチ野砲1門とフライングブリッジに15ミリ機銃2丁及び7.7ミリ機銃2丁を装備していた。目的地であるトラック島まではあと200マイル、約1昼夜の距離で相変らず之字運動を繰り返しながら敵潜の攻撃を避けることに熱中した。しかし悪夢は次の瞬問に丸裸同然のわが船団を襲撃してきたのである。
それは忘れもせじ2月17日、この日アメリカの強力な機動部隊は大挙してトラック島を空襲した。この空襲により在泊もしくはその周辺にあった商船隊60余隻が海没した。この余勢をかって敵機2編隊が私達の船団を捕促した。まるで蛇に睨まれた蛙と同然であった。
"敵襲"私は恐いもの見たさにドアの外に出た。敵機の最初の編隊は一番大きな3番船に攻撃をかけている。4機が一列になり急降下で突っ込んで行く。私の船と3番船は約2マイル程離れており本船の機銃は敵の編隊めがけて火をふいた。護衛艦も体型を崩してこれに応戦、いまやあたりは銃声と爆音のるつぼと化した。敵機は突込むが爆弾は仲々命中せず海上で無数の水柱があがった。そのとき私達の目の前で敵の1番機がヒラリと上昇した途端、味方の機銃弾が3番機の機尾に炸烈し黒煙がふきあがった。するとみるみる機首がさがり流れるようにして海中に突込んだ。「ヤッタア」と誰かが叫んだその声が終らぬうちに敵機の落した爆弾が3番船のブリッジの前で爆発したのを、はっきりとこの目で確かめたのである。「同僚である西田の船がやられた」私は怒りで全身が震えた。火柱がたった。火柱がブリッジの3倍位の高さまでふき上げ船体はそこから真二つに折れた。折れた両方の船体のサイドからパラパラと人間が海中にこぼれ落ちた。私は「西田よ死ぬな」と心より祈ったのである。
突然そのとき「敵機正面」と怒鳴り声がすると私は前後の見境いもなく無線室に躍りこんだ。ドスンドスンとブリッジの上で射つ機銃の振動が無線室をゆさぶっている。しばらくするとドカーンと形容の仕様もない物凄い爆発音がすると同時に船体が激動した。思わず机にしがみつくと、点火し放っしであった送信機の灯がスーッと暗くなってまたすぐ明るくなり私は無我夢中でキーを叩いた。暗号文のSOSである。私は生れて始めて空中に向って電波を出した。送信中、敵機の爆音と機銃掃射の音が入り混り大粒のスコールが鉄板にミシンを掛けているような気がした。こんな最中サロンボーイが無線室に飛び込んできて私の足元から机の下にもぐりこもうとしている。「オイどうした」「ヤラレタ」「どこをやられた」見れば背中に長さ3センチ深さ3ミリ位のカミソリで切ったような傷がある。傷口はパックリと口をあけまだ血は吹き出していなかった。「早く医務室に行って治療を、つけてこい」「やられた」「コラ早くせんか」「やられた」何を言っても「やられた」の繰返しであった。大声を出してサロンボーイを送り出すと、私は無線室の外に出てみた。するとさっきまで浮いていた筈の3番船の姿はもう其処になかった。長い時間のようであったが僅か数分の出来事であった。
敵機は去り銃声が止んで元の静寂が訪れた。私の船は至近距離で爆発した爆弾のため、その振動で積荷の弾薬に火がついたのかマストハウスのベンチレーターから白煙が少し出ていた。船長は直ちにベンチレーターの蓋をして艙内に蒸気を送り込み消火すべく甲板部員を総動員した。ブリッジには船長と操舵手が残り私は局長の指令に依りブリッジでテレグラフを引くことになった。ブリッジから見渡すと本船の外には何一つ船影が見当らなかった。1番船は本船を襲った同じ敵の編隊にやられてしまったのであった。
1、2時間してからトラックの通信所より空襲警報解除の通信を受信すると、しばらくして護衛の駆逐艦が近づいて来た。そして本船を誘導しつつ、さっきの遭難場所に引返し始めたのである。現場に着くと遠く近くに人間や漂流物が浮いていた。駆逐艦は本船に停船を命じ遭難船員を収容するように指令してきた。船長は瞬間、息を飲んでためらった。なぜならこの海上で停船することは格好の潜水艦の餌食になってしまう。と云って浮遊している船員や軍人を救助しなければならない。
「ストップ・エンジン」船長は意を決して号令を発した。
火災は幸いにも消火隊の活躍によって鎮火した。危うく自爆するところであった。今度は全員で救助活動が始まった。私は僚友である西田君の姿をさがし求めた。救助された数は約200人程であったが、ついに彼は私の前に二度と姿を現わしてはくれなかった。南海の夕日はつるべ落しのように暮れ、救助作業を終えると再び駆逐艦に護衛されながらトラック島に向けて航走を開始した。生と死の間をさ迷い歩いた数時間であった。
その後私はトラック島に入港後、日本に帰港するまで二度にわたって遭難、その一度はパラオ島大空襲、一度は潜水艦による雷撃であり現在生あることが不思議でならないのである。
(商船三井 通信長 海野竹次)
- 死の海バシー海峡…敵潜との戦い…
私は山下汽船の満泰丸(約6千トン)の三席通信士兼無線実習生として昭和19年5月神戸港において乗船した。私(1普3期生)の時代から実習課程は船舶一本に絞られ海岸局・工場実習が中止されたことは如何に戦局が重大化し船舶通信士が不足していたことを如実に物語るものであろう。
同船は海軍の徴用船として横浜に回航、海軍設営隊の人員約900人と資材を満載しフィリピンに行くというのがもっばらの噂であった。三池港で船団を組み台湾の高雄港までは何とか無事にたどりつくことが出来た。高雄から船舶が更に増加し7、8隻の船団に対し海防艦および駆潜艇が3、4隻護衛に参加した。折りも折バシー海峡にさしかかるや、米潜水艦の魚雷攻撃を浴びたのである。それ真昼間に1隻の貨物船が血祭りにあげられ、アッという間に沈没してしまった。厳重な警戒体勢をとりながら夜にはいるや又もや集中魚雷はわが船団をとらえたのである。
もの凄い爆発音に驚いた私は無我夢中でしたが、ふと気がついてみるとバンカーハッチ付近に投げ出されており、石炭の焼け残った粉沫を顔と背中に浴びて火傷していた。甲板上に飛び出すと船は傾き始め海水がナダレの如く浸入してくるのです。老令船で船体もベラベラに破壊されたためか渦も巻かず全くの轟沈であったと思われるのです。救命胴衣もなく、漂流物であった木片にしがみつき、私達数名は波間に漂よい夜のあけるのを待つしか方法がありませんでした。さいわいなことに海面は静かであり海水も生暖かなことでした。時折り大きなうねりがやって来てともすれば波に翻弄されながら、頭の中をかすめるものは、両親や故郷のことでした。お互いに励まし合ったことはいうまでもありません。
そのとき、前方の暗闇を通して、敵潜水艦が浮上しているではありませんか。肝が冷えるというか息がつまると何と表現してよいのか、もう生きた心地もなく口をワナワナ震わせていたのです。敵の潜水艦は我々を視程内に捉えることが出来なかったのか、まもなく潜航し始めたときの嬉しさは何ともいいようがありませんでした。夜が明けてから駆潜艇に救助されましたが、船団は全滅で満泰丸の乗船者約1,000人のうち僅か1割たらずの90人が助けられたとのことです。
マニラの海軍病院で10日間程入院し退院後はくる日もくる日もマニラ湾の夕焼けを眺めながら、内地に帰る船を待っていたのです。8月に入ると捕鯨母船の第二図南丸(1万9千トン)が重油を積み日本に帰港するというので同船に便乗しました。この位の大きな船なら少々魚雷を受けても沈まないだろうと安心して乗船していました。敵潜をあざむくため航路はマニラから西寄りのコースを取り、インド支那から支那大陸を沿岸ぞいに北上していました。上海付近から済州島めがけて日本にたどりつこうという訳ですが、敵もさるもので仲々思うようにはしてくれなかったのです。
済州島にかかろうとする寸前、夜間に魚雷攻撃を受けましたが、沈没するまではかなりの時間があり、私も2回目のこともあり落ち着いて行動することが出来ました。救命胴衣をつけ、ロープにすがりつきながら海中に浸りました。しかしタンカーのため重油が海上に流出しかなり呑み込んで下痢をしてしまったものです。ガソリンでなく重油のため着火も遅く風の関係もあり火傷することもなく朝方になって海防艦に救助され佐世保港に無事上陸することが出来たのです。
(宮津市在住 藤井叙栄氏)
- 船団の全滅
わたし達5名は、日本海汽船に無線実習生として派遣され、最初は新潟から朝鮮の清津、羅津(日満定期航路と称していた)。往航は主として満蒙義勇軍や軍に徴用された人々を積み、復航は内地に帰還する人、並びに積荷として大豆粕等を運ぶ月山丸(4,500トン)に約2ヶ月乗船したが、この頃はまだ敵潜水艦の攻撃はなく平隠な航海であった。しかしそういつまでも楽はさして呉れなかった。
同社の熱田丸(2,800トン)に転船後、昭和19年8月末本船は大阪湾で僅かばかりの軍需物資を積載しマニラ経由シンガポール行きの予定であった。
門司に集結した12隻の船団は僅か4隻の護衛艦に守られて当時、制海権も制空権もすでに敵側に握られていた海域をマニラ目指して決死の航海に船出した。マニラに着くまでには何としても「死の海峡」といわれるバシー海峡を突破しなければならない。同僚たちからこの海峡の恐しさを何回となく経験談で聞かされていた。護衛艦の懸命な監視も空しくわが船団も2、3隻がアーッという間に敵潜の攻撃を受け沈没した。この中に第三吉田丸に便乗していた予科練出身者の殆んどが海底の藻屑と化したとあとで聞いた。同航していた当杜の満州丸もこのとき本船の前方で雷撃を受け沈没した。本船は無疵でマニラに入港したが、シンガポールからマニラ向け航海中、とうとう敵潜ならぬ敵機の攻撃を受けて遭難したのである。
シンガポールでドラム缶入りガソリンを2,000本積載すると一路マニラを経由してレイテ島行きの予定であった。同じくガソリン運搬船3隻に対して3隻の護衛艦がついた。当時レイテ島を死守していた日本軍は甚だ不利な戦局にあり、この航空燃料が着くか着かないでは重要性を持つ大事な輸送船団でもあった。
ボルネオ島と比島との間に挾まれた細長いパラワン島沖に船団がさしかかったとき、突然島影からロッキード1機がみるみるうちに本船上空に飛来し、爆弾と機銃掃射を加えてきた。本船の2番船艙に爆弾は命中、ドラム缶は耳をつんざくような爆発音で火を吹き上げた。次々とドラム缶は誘発し黒煙はもうもうと空を蔽った。間もなく退船命令が出されたが、備砲隊員1人と連絡将校が敵機銃弾にあたり即死。ほかの隊員及び乗組員は総員救命艇で脱出、同じ船団の中村汽船、豊丸に救助された。
しかし、ほっとしたのも束の間、再び襲来した艦載機の攻撃に豊丸はあっけなく撃沈され、わたし達は、また海上に放り出されたが、さいわい間もなくかけつけてくれた護衛の駆潜艇に救助収容された。この二度目の敵襲で我々の4隻の船団は全滅した。
この駆潜艇もしばらくして敵機の攻撃目標となり機銃掃射を浴びる結果になった。死にもの狂いの応戦も、むなしくやがて航行不能となりパラワン島の砂浜につっかけて擱座させ、生き残りのもの達は、先を競って艇より脱出、ジャングルの林の中に駆けこんだ。3時間程して夜のとばりが降りようとする頃、救いの神の掃海艇が現われ私達を収容し翌朝マニラに無事たどりついたのであった。この世の中で何がさいわいするのか判らないもので若し私達の船団が無事マニラに入港していたら、そこから直ちにレイテ島行になっていた筈であり全員玉砕していまこうして生きていなかったろうと思っている。
(高岡市在住 野坂俊郎氏)
- 旭栄丸(日東商船)の最後
工場実習(住友通信工業)を終えた私は昭和18年7月長崎の三菱造船所で完工した新造船「旭栄丸」(1万570トン)に乗船を命ぜられた。船種はタンカーで重油やガソリンを積載する関係から敵潜からの魚雷攻撃を受ければまず生きては帰れぬものと覚悟はしていた。当時は厳重な電波管制が敷かれ、電波を発射することは遭難時以外になく、もっばら暗号に組まれた潜水艦情報を受信することが無線部の重要な仕事であった。処女航海はシンガポール~徳山海軍燃料廠間のガソリン輸送であった。魔のバシー海峡も往復とも乗り切ることができ、その完航を大いに喜んだ。揚切後は門司で船団を編成(音羽山丸、御室山丸、佐渡丸等の高速船)した。高速のためか敵潜も手が出なかったのか無事にシンガポールに入港、シンガポールからは単独航海でスマトラ島のパレンパンに行き、同地で重油5千トンを積載、再度シンガポールに引き返し、重油1万トンを満載し同年11月3日、高速船団(阿波丸、北陸丸、あまつ丸、護衛艦は水雷艇千鳥)は内地に向けて航海を開始した。何事もなかったのは中1日で11月5日南支那海に薄明りが訪れる午前5時頃、本船の左舷前部に潜水艦の雷撃を受けた。はげしいショックで飛び起きるや否や無線室にかけ上った。
船長は海水を浴びてビショ濡れになりながら退船を指令した。全員がライフボートに移乗する頃には船体が前方に傾斜し始め後尾があがり始めていた。1万トンの巨体から必死の面持ちでジャコブにつかまり片手は暗号書の入った袋をしっかりと握りしめていた。しかし暗号書の重みに耐え切れず(海底に達するようにおもりが入れてあった)やむなく海中に投棄した。ボートの回りは重油でドロドロの海と化していた。まだ完全に明けやらぬ水平線上には何やら小型の艦艇の姿が見えた。味方の掃海艇が敵潜と確認して攻撃を開始したが、小しゃくにも敵潜は浮上して旭栄丸に最後のとどめを刺すかのように砲撃し、その一発は船体の中央部に命中して大火災を発生、見る間に真二つに折れて海中に没し去った。
さいわいなことに当時の海上は平穏、ちいさなうねりこそあれ私達は護衛の掃海艇に救助されたが二航士と二通士はとうとう本船から脱出できず船と運命をともにしたのである。その後台湾の高雄に上陸、一週問の収容所生活を経て内地に向う大連汽船の奉天丸に便乗した。船団は支那大陸を左舷に見ながら台湾海峡を北上中、大陸から飛来したB52三機の敵襲を受けた。この爆撃によりN.Y.K.の箱根丸が沈没したが、船団は一応上海のウースン沖に投錨し船団は解散した。解散後、南洋海運(現東京船舶)日昌丸に移乗しなつかしい広島の土を踏んだのであった。
(浜松市在住 稲崎義一氏)
海上実習生の60%が遭難の体験を所有している。ある者は不幸にして戦死をとげ又ある者は砲弾、雷撃をくぐり抜けながら生還している。20才足らずの紅顔の美少年に託されたものは尽忠愛国、「祖国は必ず勝つ」という精神であった。かつての海の戦場であり墓場であったバシー海峡そしてソロモン群島に船が差しかかると、今でも一握りのオニギリ・煙草数本を何十万という英霊に対して供養のため海中に投ずる人がいる。こういう姿が時代とともに若者に受けつがれてゆく姿は美しい。
戦後35年、当時の実習生ははや海上労働の限界である停年に達しようとしているし、また海上の第一線から退いた友もいる。またある者はこの海上の恐怖の念情が去りやまず陸上に転出した組も多い。しかし共通していえることは「人生最大の思い出」として官立無線電信講習所入学から終戦までが人生の縮図であったと答えている。
第1部高等科1期生は230人中34人が実習中に戦死。
第1部普通科1期生は300人中その約16%に当る49人が乗船実習中戦死した。
社会の出来事 |
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7-2 2部(航空)
第2部高等科といえば「夜間において授業を行う学科」の意にとられやすいが、ここでいう「第2部」は官制のもとに定められた固有の名称、すなわち「航空科」を示すものである。航空機に搭乗して航空のために必要な無線通信を専門的に行う無線従事者の養成を目的として制定された第2部高等科は、勅令第274号〈1942年(昭和17年)4月1日〉をもって無線電信講習所官制の施行、逓信省告示第535号をもって無線電信講習所規則が定められ、新たに逓信省所管の学校として発足した無線電信講習所の3年の課程の一つである。
ときあたかも第二次世界大戦たけなわとなり、この年代の若者にとって十分に活躍できる場が与えられたといっても過言ではあるまい。しかしながら、1942年(昭和17年)4月第1期生の入学から1946年(昭和21年)3月28日官制改正により第2部高等科の制度が改正になるまでの間の卒業生は332名にすぎない。すなわち
- 1期生昭和17年4月入学 昭和19年9月卒業83名
- 2期生昭和17年10月入学 昭和19年9月卒業49名、昭和20年8月卒業30名
- 3期生昭和18年4月入学 昭和20年3月卒業58名、昭和20年8月卒業37名
- 4期生昭和18年10月入学 昭和20年9月卒業75名
これからもわかるように、2期生・3期生の卒業期の相違は学制の中にある練習課程を修めたか否かによって生じたものが大半であり、1期生は国情、4期生は終戦による繰上げ卒業である。
以下この項では、概して第1期生の軌跡をたどり記録にとどめることにし、2期・3期・4期生については断片的にならざるを得ないことをお断りしておく。
Ⅰ 席上課程
所長 | 昭和17年4月1日 | 中村純一 |
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昭和17年9月30日 | 藤川洋 | |
昭和17年10月24日 | 斎藤信一郎 | |
昭和19年2月25日 | 熊谷直行 | |
昭和20年4月7日 | 津田鉄外喜 | |
昭和20年6月18日 | 鶴田誠 |
教員 | 波多野述麿 | 沢野博 | 沢木譲次 | 鈴木力衛 | 森有正 | 長津定 | 川村武治 | 守屋勇一 |
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笹子道雄 | 狩野忠三 | 大川千国 | 田中英作 | 吉嶋豊作 | 瀧波健吉 | 咲賀次郎 | 尾方濃 | |
橘敬一 | 片岡定吉 | 本郷新兵衛 | 森謙吉 | 市川武夫 | 原太助 | 小林三郎 | 柏崎栄太郎 | |
藤井正平 | 伊藤隆之助 | 矢口軍治 | 田村寿夫 | 堀満 | 香西昭 | 宮本暁男 | 黒田吉郎 | |
菊地清 | 公平信次 | 伊藤乃扶夫 | 奥寺達 | 三枝豊 | 中野章四郎 | 一ノ瀬長治 | 石井照久 | |
(順不同) |
配属将校 | 陸軍大佐 川上明 |
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教員 | 久保山中尉 堀井中尉 |
学制に関する事項
1年次は1組(担任=柏崎栄太郎・片岡定吉)及び2組(担任=咲賀次郎)の構成になっていたが、2年次に至り合体して1組(担任=伊藤乃扶夫・菊地清)となり、席上課程を履修した。この間、受講した科目等を表1に示す。
学年 | 1 | 2 | |||
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学科目 | 担当 | 1学期 | 2学期 | 1学期 | 2学期 |
修身 | 波多野 | 1 | 1 | 1 | 1 |
高等数学 | 橋本 | 3 | |||
地理 | 川村 | 1 | 1 | 1 | |
英語 | 沢野・沢木 | 3 | 3 | 2 | 2 |
仏語 | 森 | 2 | 2 | 2 | 2 |
内国無線電信 無線電話法規 |
長津・狩野 | 4 | 4 | 3 | 2 |
外国無線電信 無線電話法規 |
尾形・咲賀 | 3 | 3 | 3 | 3 |
電気通信術 | 柏崎・本郷・藤井・片岡・菊池 | 10 | 10 | 12 | 10 |
電気理論 | 大岡 | 2 | |||
電気機械 | 大岡 | 2 | |||
無線電信 無線電話学 |
伊藤・磯木 | 3 | 3 | 3 | |
無線電信 無線電話実験 |
伊藤・小川 | 3 | 3 | 6 | |
無線航法 | 宮本・剣持 | 1 | |||
法学通論 | 一ノ瀬 | 1 | 1 | ||
国際公法 | 石井 | 1 | 1 | ||
経済学 | 安平 | 1 | 1 | ||
気象学 | 渕本 | 1 | 1 | ||
航空概要 | 巻幡 | 1 | 1 | 1 | 1 |
体練 | 奥寺・犬丸・川上・中野・久保山 | 3 | 3 | 3 | 3 |
36 | 36 | 36 | 36 |
席上課程における学年及び学期等
- 第1学年第1学期 4月1日~10月15日、 第2学期 10月16日~3月31日
- 第2学年第3学期 4月1日~10月15日、 第4学期 10月16日~3月31日
- 夏期休業7月26日~8月15日、 冬期休業12月25日~1月7日
- その他の休業日 日曜日・祭日及び祝日・創立記念日
学生の特徴
学生の一学年の入学者数が少ないゆえもあってか「一致団結して事を処する」の気構えが極めて強く、学校側との交渉のためにも何回か「血判状を添える」ような気概がみられたが、当時の教官は多分に迷惑なことであったと思う。卒業後、恩師長津定先生(故人、当時教頭)からこれらのことを裏付ける話"元気がよすぎて手がつけられなかった"の一言が物語っている。
Ⅱ 練習課程
練習課程は本来の意味からすれば、実習の意味とみるべきであろう。しかしながら時代の要請その他の要因から多岐の分野にわたる練習課程となったことは事実である。
すなわち、一般商船等の私企業による実習から工場のみでなく、1944年(昭和19年)にいたり、それまでの歴史的背景及び関係者の熱烈な努力が実を結び、第1期生の練習課程が現実に軍において行われるようになった。第2部高等科第1期生の卒業予定者83名中、21名は海軍へ、他の大半は陸軍でその課程を学ぶことになった。以下、海・陸にわけてその概要を示す。
- 海軍関係
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1944年(昭和19年)3月ごろに至り「海軍通信術甲種予備練習生」制度により、志願兵の形式によって採用されるための身体検査があった。そしてその結果採用者は21名で、公式記録による兵籍番号は横練通1~21、氏名(兵籍番号順)は次のとおりである。
岩崎武 泉地資郎 勇利次 尾形一成 岡和田宏一 渡辺勇 金井幸一 亀川正道 吉田定雄 中山正夫 有吉保秀 沢井良一 三宮忠幸 御影勇 三藤豊 三木和利 宮永近夫 宮坂武芳 志村鐺吉郎 清水道一 関根譲治
第2期生は32名採用されている。
- 高知海軍航空隊における教育
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横須賀鎮守府より第1期海軍通信術甲種予備練習生として、1944年(昭和19年)4月20日付で高知海軍航空隊に入隊を命ぜられ、同日着任した。同航空隊は第13連合航空隊(司令=市丸利之助大佐)に所属し、高知空司令=山本栄大佐(後の神風特攻発生の201空司令)、副長=香西房市中佐、飛行長=江川廉平少佐、第6分隊長=伊藤大尉、分隊士=富永兵曹長・篠崎兵曹長、教員=沖山上飛曹・上田上飛曹・練生川一飛曹であった。
2ヵ月にわたる地上教育で海軍々人としての躾をうけ、同年6月19日より機上教育に移った。高知空の教育の例を表2に示す。
表2 高知海軍航空隊における教育メモ (宮坂) 月日 教員名 飛行時間 教育内容 6.19 古賀・田中 1.10 0750~0900 航法、偏流測定 20 武内・沖山 1.10 0735~0845 航法、偏流測定、測風 21 古賀・上田 1.00 0735~0835 航法 22 浜口・佐土原 1.25 0300~0925 通信 23 藤本・明石 1.15 0905~1020 通信、偏流測定、見張警戒(赤間一伊野) 24 滋賀・練生川 1.20 0350~1010 航法、操偵連絡、旋回、降下時・夜間の計器の読み方、写真撮影 25 山本・田中 1.10 0855~1005 通信、写真撮影 28 志村・練生川 1.20 0730~0850 通信、偏流測定、通信文送受 28 柿崎・明石 1.05 1025~1130 通信、見張、目測訓練 29 竹内・上田 1.05 1005~1110 通信、見張、写真撮影 30 藤原・沖山 1.05 0845~0950 通信、見張、兵器愛護 7.1 野原・沖山 1.15 0915~1030 航法、送受信機調整 3 横山・明石 1.15 0915~1030 通信、風向に対する判断、総合 4 0925~警戒警報発令、出発中止 6 古賀・篠崎 1.20 0750~0910 航法 7 山本 2.05 0830~1030 航法(洋上)赤間-X点-室戸-r、総合 7 大橋・木戸 1.15 1300~1415 通信 8 武内・上田 1.40 0800~0940 通信 かくして同年7月31日、高知空における練習生教程を修了し、同日付をもって各航空隊に配属を命ぜられた。
- 鈴鹿海軍航空隊 吉田・沢井・三宮
- 大井海軍航空隊 泉地・三木・勇
- 徳島海軍航空隊 岩崎・尾方・岡和田
- 高知海軍航空隊 渡辺・亀川・宮永・清水
- 上海海軍航空隊 有吉・御影・宮坂・志村
- 青島海軍航空隊 金井・中山・関根
各航空隊における教育
一例として上海海軍航空隊をあげてみよう。 同隊は揚子江南岸戊基地にある内田部隊で、司令=内田市太郎大佐、副長・飛行長=金子義郎少佐、分隊長=徳川忠永大尉・磯部栄緑大尉、分隊士=木下経雄少尉・水谷冨士夫少尉・冨田三夫兵曹長・村山兵曹長、先任教員=小原斉上飛曹であって、8月17日より8月30日まで、航法・通信・写真撮影などの訓練を行った。 その飛行コースの点を列挙してみると、クンダ(橋)・南匯・座高鎮・崇明島・鎮花鎮・黄沙・松江・崑山・川沙・奉賢城・太倉。大場鎮・三合鎮などである。
各航空隊においてもほぼ同様な飛行訓練が行われたが、青島空では故障中の無線機をすべて修理して技術の高さを認められ、高知空においては英文の傍受を行い司令以下に無線講の通信技術の優秀さを深く認識せしめた。かくて1944年(昭和19年)9月30日、第1期海軍通信術甲種予備練習生の教育を終了し、10月10日官立無線電信講習所へ復帰を命ぜられ、同日目黒に帰り卒業式を迎えた。
2期生の課程
ほぼ1期生と同じである。すなわち、1944年(昭和19年)10月5日…高知海軍航空隊入隊、1945年(昭和20年)2月26日…講習所復帰、同1945年(昭和20年)3月14日…大井海軍航空隊入隊、同1945年(昭和20年)3月15日…各海軍航空隊に分散配属、同1945年(昭和20年)6月30日…全員大井海軍航空隊再集結、講習所復帰。
なお、2期生以外に1期生の出縄安男・原喜登・福崎輝麿・文字嘉一の4名が加わっていた。
月の名所は桂浜
まぎれもない土佐は桂浜海岸のことである。われわれの練習課程は軍におけるもので、海軍関係は高知海軍航空隊から始まった。桂浜とはこのようなことが縁のはじまりである。 海軍通信術甲種予備練習生総勢21名と若干の乙種飛行予備練習生とで高知空における最初の飛行訓練が開始された。兵舎も"まばら"なら兵員も"まばら"でとにもかくにも始まったのである。すべてが娑婆気タップリなわれらが"つわもの"やることなすこと板についていないのはいうまでもないこと。それでもやがて立派な軍人の形になってくるから不思議なものである。
一応の座学も終わり、1944年(昭和19年)6月19日から飛行作業が開始された。偵察員として必要な航法及び通信は愛機"白菊"に搭乗しての実地訓練である。出発点は通常赤岡の農業学校か高知城である。ここから航法が始まるのだから、うっかりして作業開始を誤まると"もどせ"とも言いたくなる。
本日は写真撮影の訓練である。注意事項(一)新聞社用の写真をとるのではない。(二)撮影方法は30度、60度または垂直撮影。(三)未露光に注意。(四)機体に写真機をもたせかけて撮影するな。いろいろあるもので、地上の景色を見る前にまず空からご挨拶ということなのだから、考えてみればぜいたくな話であることは確かだ。
桂浜上空、ヨーソロ。初めて見る桂浜の造船所が視野いっばいに拡がる。いまの針路ヨーソロ、パチリ。白菊は無情にさっさと上空を通り過ぎる。未露光は、カメラ振れは、…。まわりなど見る余裕などあろうはずもない。まして月の名所の風情を知ることもなく、坂本竜馬がどうのということすら考えるゆとりとてもない。血気盛んな若者の敏感なことの一つは空腹を満たすことのみと言っても過言ではないだろう。再び訪れた桂浜に昔日のおもかげを知る由もない。印象深い造船所も見あたらない。目にとまるのは竜馬の銅像と観光客の姿のみであった。
ガーデンブリッジ
「佐世保軍用郵便局気付イ33」といえば上海海軍航空隊の郵便の宛先である。高知海軍航空隊で訓練を終わったのち、鈴鹿・大井・徳島・高知・上海及び青島海軍航空隊にそれぞれ3~4名転属した。高知から阿波池田を経てやっとのことで竹松駅に下車、途中列車の鎧戸がおろされているから注意は怠れない。夏の暑いさ中、大村海軍航空隊に仮入隊、上海への便を待つことになる。有名な戦闘機隊基地であるだけに雷電の地上試運転のすさまじさ、「96戦墜落救助艇用意」の号令、目のあたりに見る長崎空襲迎撃のための月光22の出撃、滑走路端で土ぼこりを立てて横転する雷電、短期間ながら若きわれわれに強い印象を残すには十分な光景であった。
数日後、上海よりの軍用便DCⅢ型機に便乗、東支那海のほぼ中間からの濁り水をまのあたりにして揚子江の巨大な流れを感じながら、直航で約3時間、無事上海空港到着。飛行場は揚子江南岸、江湾鎮競馬場跡にほど近いところにある。滑走路は特定の方向にないかわりに離着陸は全方向から可能のように全面舗装、周囲約20 kmと聞いていたから、当時の規模としては相当広いものだったのだろう。
飛行作業は飛行予科練習生の偵察員の教育訓練に明け暮れた。飛行コースは定常的ではあったが、上海を中心にして揚子江に浮かぶ崇明島、潮の干満によって極端に海岸線を変え、電力線・電灯線・電話柱などに類するものいっさいなく、見渡す限りの水田と防風林、小川に遊ぶ多数のアヒル。飛行場からの見張りも届くまい、ときには超低空でという気にもなろうかというもの。卵形をした町並みの外周に沿って流れるクリークに囲まれた緑濃き松江、半分壊れかけた土の塔がそびえる崑山、そこから単線のレールで結ばれた先の太倉の町々。不時着は都市か鉄道線路沿いとする……。
操縦士は多彩な面々で、木下経雄少尉(早稲田大学出身)、水田稔上飛曹(逓信省松戸航空機乗員養成所出身)などである一方、通信関係の教員としてわれわれが加わっていたのである。
市街への外出は2名以上共同で行動し、ガーデンブリッジを越えるならば5名以上とする。市街地での巡羅の目は厳しい。航空隊付近から鉄道を利用して市街地入口付近で下車すると間近の右側に上海海軍根拠地隊、左側のほぼ等距離に上海神社がある。航空隊と根拠地隊員は意外に対抗意識が強く、なかなか油断がならない関係も加わって軍生活に不慣れのわれわれにとって敬意の表し方にも苦労が伴うことにもなってくる次第である。
はじめて見る上海の第一印象は、さすがに国際都市上海だなと思う。日本では見られない年を経た町並み、しかし一方では人を乗せるというよりもむしろ鈴なりの人をぶらさげて走る路面電車、何かこれらが適当に調和している町というところか。町の中にあるもう少し見ごたえのある橋と思えるかの有名なガーデンブリッジは古ぼけた何の変てつもない普通の橋梁である。その橋のたもとに円形のビルが建っている。たしか十数階の建物であった。空から見る上海の町並はとにかく、このビルの上からどのあたりまで見渡せるものかと螺旋状の階段を何階かまで登ってみたが、途中数メートルおきの扉及び人が1人やっと通れる通路の狭さになにか背筋に流れる冷汗を感じ、見物どころか早々にして建物の外に出てしまった。歌になれば美化されても現実にはどうもということである。
われわれの年代は小学校入学時が満州事変、中学時代が支那事変、そして専門学校で太平洋戦争。いろいろな型があるにせよ、学生時代に上海の土を踏めるとは夢にも考えていなかったことである。 いまでもガーデンブリッジのたもとにある上海港は出船入船でにぎわっているとのことである。
陸軍関係
1944年(昭和19年)4月、航空局依託学生として水戸陸軍航空通信学校に入隊。第1中隊長=宮沢大尉、小隊長=関谷吉春(昭和14.本科卒)少尉、以下小野寺・西郷曹長、長瀬軍曹、神田・斉藤伍長、航空局側=小野・加藤・安田官補であった。入隊学生48名(うち田村孝男健康上の理由で退隊)は第1、第2小隊に分かれ、内務班の所作の第一歩から教育され、3ヶ月にわたる訓練の内容を示すと
- 机上訓練
- 通信実習をはじめ軍隊生活に必要な各種学習
- 屋外訓練
- 長野県の松本・上諏訪・赤穂に分散し、山岳地帯を利用しての固定通信訓練
- 機上訓練
- 双発高等練習機による水戸-八王子-銚子の飛行通信訓練
であったが、空中勤務者育成のための訓練はまこと厳しいものであった。

水戸日記昭和19年4月×日1期生練習課程の第一段階として約40名がここ水戸陸軍航空通信学校に入ってから約3週間過ぎた。身分は航空局依託学生で、貸与の制服に翼を形どった記章をつけている。仲間はこの記章を自嘲の意味も含めて「ハトポッポ」と名付け、以来依託学生そのものの俗称にもなっている。もちろん、軍籍に入っているわけではないが、兵長相当の待遇で、月々4円也の小遣いもいただけることになっている。しかし内務班長は現役で、百戦錬磨の鬼の軍曹であり、伍長である。そのしごきは凄まじく、はじめはどうなるかと心配していたが、よくしたもので、ひ弱な連中もここへきてすっかりたくましくなり、少しずつではあるが要領を身につけてきた。
今日は食事当番である。炊事場まではかれこれ1 kmはあり、40人分の食事は3食ともリャカーで運搬することになっている。この当番は肉体的にはかなりきついものであるが、これにかかっている時間だけはしごかれないですむので楽しい作業の一つとなっている。ところが今日は朝から風が強く、吉田(水戸)名物の砂塵が吹き荒れ、リャカーを引く仲間の目から鼻、口にまで砂が入り込む。炊事場から受取る飯や汁の木桶には一応ふたはしてあるものの、長年使いこんだかなりの代物である。内務班にたどり着いて各自の食器に分配する段になって驚いた。なんと飯の上に数センチもの赤土が積っているではないか。これをどう処置したかは当番仲間だけの秘密である。
5月×日今日は初外出の日である。各自の手には金4円也とはいえ、小遣いがある。 思わず顔が緩むのも無理からぬところである。しかし永年軍人をやっている班長のカンはさすがにプロ、全員たるんどるということで危うく中止というところ。もっともこれはどうやら集団外出させるための口実であったらしく、ともかく集団で、しかも駆け足で偕楽園へ行くことになった。ただ心配なのは肥満児K君のことである。ほぼ8 kmの駆け足に耐えられるかどうかである。案の定、半分くらいのところでアゴを出した。ここで我慢させなければ肝心の外出が中止となってしまう。本人もこれを支える方も懸命であったが、その甲斐あって待望の偕楽園に着くことができた。ここで自由行動である。景色はどうでもまずは食い気である。といっても街にはもう甘いものなどはない。塩味あんなどにかぶりつきながら喚声をあげているうち、またたく間に時間がきてしまった。帰校すると直ちに小遣帳の検査である。たった4円の収支が合わない者がいたりして、またしてもビンタの雨である。
5月×日今日は初飛行の日である。生まれてはじめての飛行機、まだ興奮から覚めていない。入校からわずか1ヵ月ほどで飛行訓練というのは前例のないことだそうで、皆かなり緊張していた。同じ兵舎にいる少年兵などは1年以上もたっているのにまだだそうで、彼らの羨望のまなざしを見ると少々気の毒になった。昨晩は飛行のための注意をくどいほど繰り返し聞かされた。フンドシは新しいものにせよ、ゲロ用の靴下を用意せよ等々である。さて、いよいよ搭乗の番がきた。ガソリンと潤滑油の匂いが印象的であったが、あとは夢中で、ほとんど何もしないうちに着陸してしまった。ところがわが班だけでなく大部分の班が通信にならなかったというのである。この惨たんたる結果に対して教官方の落胆ぶりは見られたものではなかった。われわれにしてみれば明日があると思うのだが、結局F君の落度をきっかけにして、またもやビンタであった。しかし今日は気流こそ不良ではあったが、白い雲の浮かぶ大空にわれわれの夢をのせて練習機は飛んだのだ。
陸軍航空輸送部へ昭和19年7月1日、依託学生は陸軍航空輸送部の所属となる。この輸送部は空の運送屋といわれたところで、主として戦闘機・人員・各種資材を日本の各地はもちろんのこと台湾.満州.支那.南方諸島へ輸送していた。これに使用した飛行機は、97式重爆・MC120などで、依託学生はこれらの輸送に従事しながら通信・航法の実地訓練をうけた。配属を以下に示す。
第1飛行隊(新田原→武蔵高荻) 稲垣義男・稲富弘之・大森正士・奥山光雄・植田善則・松田繁男 第2飛行隊(群馬太田) 浅野良・金沢進・瀬尾信治・園原亮人・竹内周治・田中栄二 第3飛行隊(宇都宮→雀の宮) 鴨脚正彦・今井良三・斉藤正一・和田晃・黒川善雄 第4飛行隊(岐阜→浜松→亀山) 田中準1・千田保夫・林田義信・松岡幸人・吉村衛 第5飛行隊(小牧) 河野毅史・源田満昭・杉下武佳・武岡正治・田辺義夫・平尾昭 第9飛行隊(所沢) 川原芳郎・佐川英雄・佐藤貢・宮坂俊雄・高村泰司・寺井勇・下島省吾・大野雅美・二川義信・三石勇・麓潤一郎
大日本航空株式会社熊本訓練所へ昭和19年8月12日、各飛行隊より当所に集結、9月までDC-3による五島列島から熊本へのホーミングや伊丹往復の通信・航法等の訓練をうけた。担当教官は、軍から小林少尉、日航から佐藤・宮原・清都が参加し、操縦士は加藤・北原であった。
2期生の課程練習課程がなく、昭和19年卒業、同年10月水戸陸軍航空通信学校へ甲種予備候補生として入隊。昭和19年11月機上通信と航測に分かれ、それぞれ飛行第1隊と通信第2隊に配属され、昭和20年5月陸軍少尉となって各戦隊・各部隊に転属となった。
メーカー実習昭和20年6月30日講習所に復帰後、早川電機及び三洋電機株式会社に1名ないし2名が派遣された。
社会の出来事 |
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7-3 3部(陸上)
無線電信講習所が官立に移管されてから初の実習生が巣立ったのは1943年(昭和18年)4月の第1部普通科生が初めてであった。翌1944年(昭和19年)1月から第1部高等科生もこれに加わったが、第2期生からは戦争の苛烈から船舶実習一本となったので、陸上実習の経験者は後にも先にもこの第1期生のみであった。といって第1期生全員が実習に参加した訳ではなく、そのローテーションに於て船舶から実習には入ったものは極端な船舶通信士の不足から陸上実習に従事することなく海軍の予備練習生あるいは陸軍の予備候補生として軍事教育を受けたのである。ただ第1部の高等科生は席上課程が3ヶ月短縮となり実習は3ヶ月のみにとどまった。従って陸上実習の殆んどは第1期普通科生が主たるものであった。
陸上実習は海岸局3ヶ月工場3ヶ月の計6ヶ月であった。その主な場所は、海岸局では銚子、長崎の両中波短波併有局のほか若狭(現舞鶴)汐岬の中波局で、また工場は無線通信機メーカである日本無線、安立電気、松下電器、日本電気、東京電気、住友通信等であった。その殆んどが軍管理の工場であり徴用者もかなり多く含まれていた。海岸局に至っては軍用通信を取扱わないせいもありまずもって一般通信は閑散で、この頃は戦時中といえども比較的平穏であった。しかし空襲は覚悟しておかねばならず、海岸局は日暮れとともに厳重な灯火管制を施し局舎は緊張の連続でもあった。
ここに数少ない陸上実習の記録を掲載することとしたい。
- 若狭無線通信局
1943年(昭和18年)3月25日の夜、第1部普通科24組の生徒は目黒雅叙園に集まり担任の片岡定吉先生を囲んで謝恩会を催した。この会は同時に級友の別れの会でもあった。当夜何人の生徒が集まったかは定かでないが、1年間にわたる席上課程を終了し、めでたく進級して第2学年つまり実習課程に入る前の春休みといった気楽さで当時すでに満足な料理もなく淋しい宴であったにもかかわらず大声放歌のつづく盛会であった。
しかしこの日を境にしてクラスメートとは散り散りになり、あるいは再びまみゆることのない友との別れの夜であり、夢多い学窓生活から戦乱の真っ只中へと放り出されることになるのだが、生徒一同はのびのびとして笑い何度も乾杯して酔った。そういう生徒の笑顔とは対象的に、ひとり片岡先生だけが暗い顔の記念写真が今でも残っている。
1943年(昭和18年)4月に入ると実習課程が始った。船舶、海岸局、無線工場を順次に実習するというものでその順序は人によって異なっていた。私は海岸局、工場、船舶と決まったため4月早々に横浜の家を出て福井県の若狭無線局に向った。米原と敦賀で2回乗り換えたが、敦賀を出た小浜線の汽車は、2、3輌の客車を引いて日本海沿いの線路をゆるやかに走り、かなりの時間をかけて三方(みかた)駅に着いた。
駅といっても小さな駅舎があるだけの名ばかりの駅であった。駅前には街らしいものも見えず、黒煙を吹き上げて遠ざかってゆく汽車を見送って一行9人は甚だ心細い思いをしたが、それでも駅には宿の男の子が大八車を引いて迎えにきていた。私達は手荷物を大八車に積み、大手を振って、ほこりっぽい道を元気一ぱいで行進した。希望に満ちた若狭無線電信局実習生は次の9人である。
- 田中義春(のちに戦死)、千味忠雄(のちに戦死)、
- 児玉清治(のちに戦死)、中村将一(戦後病死)
- 亀野三郎、神下喜春、藤尾栄一、上野修、阿部健一
大八車の出迎えは宿の主人の配慮らしかったが、一同は宿の名前を聞いていなかった。無線局あてに到着日を書いたハガキ一本を出したきりでやってきたのである。そこで一人の生徒が男の子に宿の名前はなんというのかとたずねてみた。子供は何々旅館とはいわず「久久子(くぐし)の次郎吉だ」と答えた。
「オイ、宿の名は次郎吉だそうだ」生徒は皆に伝えながら気味の悪そうな顔をしたが、その生徒は一行中の年長者だったこともあって、それから3ヶ月間の海岸局実習中のリーダー格となった千味忠雄である。一行は急に静かになり宿に着くまで心中不安であった。
一同の宿になった久久子の浜の「次郎吉」は旅館ではなく、いまでいう民宿である。つまり夏の間だけ京阪神方面からの海水浴客のために家の2階を貸して民宿にするような広い座敷があるのを、無線局が借りてくれた仮宿の屋号であった。翌日から私達は、海が近くて静かな気分のよいその宿から無線局へ通勤することになった。
戦後は舞鶴無線局と改名したので「若狭無線局」というなつかしい名前はいまはないが、戦前は敦賀―北鮮の客船との交信で多忙であったという。客船「気比丸」の遭難通信のときも活躍した、と古い局員はいうが、1943年(昭和18年)4月は船舶の電波管制のために交信することは殆んどなく、1隻か2隻を一括呼出しして電報を放送した。あとは500kcを緊張してワッチしていたが、その頃の日本海はまだ敵の潜水艦は入ってきていないので戦争の緊迫感がなく、ウラジオストックUIK局がソ連船と交信するのが間近に聞えていた。
海岸局実習とは言っても本格的な公衆通信送受信の実習にはならなかったが、実習生は局員とダブルワッチに入り、時々は実際に電鍵の前へ座ることを許されて電波を発射した。キーイングすると、1キロワット送信機の大きなパワー管が太陽のように輝いて周囲を威圧した。「電波を出したぞ」と胸を張りたい気分になった。
局の通信士や有線係員との交流や、近所の人達とのつき合いは面白かった。日曜日には三方五湖へ遊びに行ったり、美浜の町へ「かやくうどん」というのを食べに出かけたりした。小学校の運動会に招待されたり、夜になって校庭で見せる活動写真を見に行ったこともある。それ以外の日は映画館もパチンコ屋もない、ひなびた土地では9人の若者達は夜の時間をもて余した。そのために時折りは西の小浜町まで酒を飲みに脱出する者がいたり、仲間同志で口論して不仲になるなどした。こわいもの知らずの自我の強い年頃だったから9人が揃って気が合った訳でもない。3ヶ月間の合宿が終ったあとは友人のことなどケロリと忘れてしまった位だが、年を経るに従ってかえって鮮明な記憶がよみがえってくるのはどういうことなのか。やはり若狭での合宿が平和で活き活きとした生活の最後だったから、二度と取り戻すことのできない青春の毎日だったから、ではなかろうか。
9人が別れ別れになった直後、千味、児玉、田中は船に乗って実習中戦死した。中村は2年後に病死した。戦争がなければ生き永らえたものを無残な運命が待っているとは露しらず4月から6月までの良い季節を夜な夜な談論放歌して青春を謳歌した。
6月に入ると日本海の海岸も気温が上り初夏の風が吹いてきた。若狭の生活にもなじみ、局の勤務にも慣れてきたので局にある1台の英文タイプライターを練習して腕を上げてきた頃に実習が終った。局の人達は海辺の小さな料亭で終了式を兼ねた送別の宴を張ってくれたり、局員と実習生の全員で記念写真を写すなどして別れを惜しんでくれた。僅か3ヶ月の生活ではあったが、温かい人達の中での暮らしに私達は満足し、名残りを惜しみながら若狭を去る日がきた。それは1943年(昭和18年)の春の終りであった。
(1普1期生、船通労事務局 阿部健一)
- JOSそしてJRC
…長崎無線電信局…当局は銚子無線局と並んで短波を併せ保有する有名局であり戦前は中近東、欧州方面に就航する船舶局と交信し豊富な通信量を誇っていた。諌早市から赤ちゃけたダラダラ坂を50分も上りつめると、局舎がひらけ無数の受信アンテナが空に向って背伸びをしていた。そのまわりには局員が寝泊りする官舎が10数軒立ちならび、あとは一面の野原であった。野原といっても立派に開墾された畠もあり農家がポツンポツンと申訳程度に建っていた。
この長崎無線電信局は受信所と送信所からなり、送信所は島原半島の愛野村にあり送受信は完全に自動制御されていた。実習生一同8人がこの名門であるJOSの戸を叩いたのは4月の初旬であった。通信主事の案内で局長に紹介されたあと、一軒家の官舎が我々のために開放された。現在の3DKの庭付である。一行8人は我々の班長である馬場正勝君の指導のもとに部屋割りがなされ、3ヶ月に亘る局舎通いが始まったのである。以下箇条書きにして当時をふりかえってみることにした。
- 作業内容
長波143kc、中波500kc、短波帯の聴守、局員の横に補助椅子を設け受話器による聴守のみで実際通信はやらせて貰えなかった。
- 当直時間
03~09 この当直に入るとその日は休みで翌日の09~12、18~21 09~12、 18~21 次直は翌日の12~18 12~18 次直は23~03、21~23 23~03、 21~23 次直は03~09 すなわち四直制で1日7時間の日は4日に1回あとはすべて1日6時間当直である。 03~09の当直時間を明けワッチ、23~03を中明けワッチと称していた。
但し陸線系上の電信係員は09~17のデーワークで17時以降翌日の09までは当直通信士の兼務。
- 当直割
長波席、中波席、短波席に各1人が入直し、1ヶ月おきに当直席の移動がある。つまり3ヶ月の実習期に全席を回ることになる。
- 日常生活
3・3・2人の割合で入直しているので、全員が顔を合わせる日はなかったが、当直から解放されて愛野送信所、長崎電信局、諌早電話局を全員そろって見学したことがあった。男ばかりの世帯であったので食事は近所の農家で賄ってもらい1ヶ月いくらかの食費を支払っていた。都会には食糧危機が訪れていたが、毎日腹一杯の銀メシ(白米)や八ちゃん(方弁でさつまいものこと)の御馳走が食いざかりの私達を満足させてくれた。
- 実習手当
なし、全額自費で毎月家からの仕送りを受けていた。
- その他
局員はその殆んどが官練出身者で何といっても無線講の先輩がいなかったことは淋しかった。しかし私達をまるで弟であるかのように可愛がってくれたことは忘れられない。非直の時などは独身の局員とともに島原半島を一周したり、当地方が誇る多良岳登山に満汗を背負ったこともある。そしてささやかな局舎内でのひとときを、デッキゴルフでたのしんだ思い出が脳の裏にこびりついて離れない。
しかし遊ぶことだけではなかった。3DKの部屋にそれぞれオシレーターを設置しての通信実践訓練を身近かに覚えたこともあった。
ねむたくて仕様がない夜中のある時、同僚に顔を叩かれての寝をゆさぶられた一瞬、燈火管制に包まれた官舎の門をくぐって通信室に踊り込んだわれわれはいつもその瞬間、真の眠りから醒めるのであった。データイム以外の入直で一番苦労したことは、何といっても有線当直だった。電磁力の開閉で一定のリズムしか聞えてこないカチャ、カチャの信号は何としても判読できなかった。一同はこの難門を突破すべく知恵を働かせて、この回線に並列にオシレーターをつないだのであった。こういう私達の作為を当時の中島通信主事は快よく認めて下さった。
当直中、中波の呼び出しで、JOS、JOS、DE JX××のコールがスピーカーを伝わって流れ込んできた。これは軍の徴用化が進んでいない船舶が自社宛に打込んでくる電報であった。陸海軍に徴用された船は軍用通信の指揮下におかれ、自社への打電はおろか一般公衆通信の道はとざされていたのである。こんなせいもあって日本の海岸局は通信量も少なく、送受電は極めて少量であった。
結果的に見れば実習効果は少なかったといっても過言ではない。しかしその中で暖かすぎた局員の友情は確かな無線人をつくりあげようとする、そんな熱情にも似ていた。現代には感じられないぬくもりが其処にあった。
局舎を去る前日、局長、通信主事を交えての歓送会が催された。未成年の者が多かったが皆んな盃を汲みかわし飲歌した。その思い出の中に長崎でのロマンを訴えた人もいた。しかし局舎から往復2時間もかかる山道を上下しながら諌早の街を遊歩した記憶は未だに心の中を去ってはいない。それが十代の若さであると云い切ってしまえばそれまでなのだが、………このほかに現代ではいい現せない何かがあったことを私は痛感するのである。
- …日本無線株式会社…
長崎の思い出をあとに筆者は再び東京に帰ってきた。帰ってきたといっても次の実習場所である三鷹の、日本無線(株)に赴任するためである。目黒の無線講の担当教師の指示を受け一同5人は1943年(昭和18年)の7月初旬、汗ばむひたいをふきふき井の頭公園寄りの道路を歩いていた。時折り公園の木立から吹き抜けてくる涼風が心地よかった。7月1日より東京府は都制を実施し、日本無線三鷹工場も東京都の管轄となった。正門の表札をみると海軍省軍管理工場といかめしい文字が配列され、守衛の道案内で、小畑と称する責任者と対面し、翌日から腰弁をぶら下げての工員と早変りしたのである。
我々の出勤時間は午前8時と全くの工員なみで事務職員よりも1時間早かったが夏場という事もあり通勤にはさ程、苦はなかった。正社員でないため入門時間を刻印するタイム・レコーダーのカードはなかったが、通勤時には工員で道路があふれていた。当工場の人員は当時あきらかにされていなかったが、私の目で見た限り最低でも数千人はいたのではないかと考えられる。海岸局生活から菜っ葉服に着替えた5人組は次の通りである。
- 菊池信一郎
- 川崎松雄
- 富木秀一
- 梶輪芳夫(故人)
- 渡辺正史
我々は2班に別れての実習となった。3ヶ月の間に送信機、受信機、方探とローテーションが組まれていたが、組立工場から運び込まれてきた各機器を調整後最終点検して出荷するいわばルートとしては最後の工程実習であった。以下3部門について実習の概略を説明することとする。
- 送信機工場
私達に与えられた作業は組立工場から配送されてきた各種の送信機の配線調べから始められた。各種と云っても当時の機種は戦時標準型で商船に装置される規格品であり、各メーカーとも同じものでネームプレートには必ず(商)と打込まれてあった。軍用の通信機器もこの工場内で製作されていたが、私達はその見学さえ許されず立入り禁止であった。もっばら船舶向けの送信機であり、このことは乗船実習あるいはその後の乗船勤務に大いに役立つ原因ともなった。
このマル商型の機種には次のタイプがあった。
- 短波
- 500W送信機
- 中長波
- 500W送信機
- 中短波
- 250W送信機
- 補助装置
- 50W送信機
参考までにこの頃の造船業界でもいわゆる戦時標準型の船舶が建造され始め、2TL型(1万総トンタンカー)、A型(6,800総トン型貨物船)B型(5千総トン型貨物船)C型(3千総トン型貨物船)D型(2千総トン型貨物船)E型(880総トン型貨物船)の6タイプがあり、その後、改良型がこれに加わった。すなわちB型5千総トン以上の船舶には空中線電力500Wの送信機が設置され、トン数区分に依って機種が異なった訳である。
ところで配線調べが終れば火を通す(電源投入)のだが、この瞬間が一番私達にとっては緊張の連続であった。しかしこの作業は1台のみで終り、いささか我々に対しての勉強道具であったような気がした。その次に与えられた作業は、50W型の補助装置のパワーテストで本工員立合いのもとで行われ、あくまで補佐作業程度だった。電源テストから始まり発振、並びに電力調整と続くのだが、一つ一つ手を取るように教えてくれた。自励式から水晶制御方式に移り変った直後のことであり、座学で教わった無線実験よりは遙かに有意義であった。モーターの起動だけは一人前となったが、250W以上の送信機調整には従事させてくれず、この係には技術力と経験豊かな年長者が従事していた。
- 受信機工場
送信機工場で、ベテランの技術実習生になった私達は1ヶ月半程して受信機工場にまわされた。この頃の受信機はオートダイン方式からスーパーヘテロダイン方式に移行しつつあり、本工員達は発振器を駆使しての高周波部の調整に余念がなかった。しかし中長波の受信機はオートダイン方式であった。現在のようにダイヤル直読式のものではなく、正面から見て左側に周波数転換器、右サイドにパリコンと称する0度から100度までの目盛付きのダイアルがあり、その目盛に依って受信周波数をサイトする代物であった。それ故に周波数曲線をグラフに描き出すことも本工場の主要な作業であった。
受信機の種類は2種類で、中長波並びに短波から成り、送信機と同様にマル商の規格品であった。私達は本工員のそばに座り、スーパーヘテロダイン受信機の調整を眺めているに過ぎなかった。理論的に幼稚な面もあり、実習用受信機を前にしてあちこちイジクってみたり、ハンダ付けの練習をしては日を過していた。ただこの工場は、あっちでピイピイ、こっちでビイビイとうるさいことについては極まりなく、送信機工場とは打って変って雰囲気が違っていた。ここで約1ヶ月程を経て最終実習コーナーである方探工場へ回されたが余り得るものはなかった。
- 方向探知機工場
期間的にいえば最短のコースで機器の説明や修正カーブのとり方などで終った。この方探だけは各社各様に開発した機種を売りものにしていた。日本無線の製品はテレフンケンのタイプであった。暇をみては一番なつかしい送信機工場へ出掛けて行っては作業を手伝った。というのもこの方探工場は手狭であり工員が最も少なかったからである。
私達が御世話になった各工場の現場の責任者は次の方々である。
送信機工場 川又係長 受信機工場 後藤係長 方探工場 角係長 特に受信機工場の後藤係長は、無線講出身の先輩と聞き最も親しみを感じた。また当工場には大先輩が数多くいられるとのことだった。
夏期実習でのこともあり、とにかく暑かった。特に送信機工場では何キロワットという灯が入るためか、それは暖房をともす熱にも似ていた。クーラーとてなく電波を発射すればダミーアンテナに集熱された空気が工場内に発散していた。工員はすべて半裸身となりこの暑熱と戦った。軍需工場に指定されている関係もあり残業者のみには夕食が支給されていた。若さのためか腹が減った。食うことが何よりの楽しみでもあった。私達は残業者の食券を貰っては食堂に駆けこみ、むさぼるように空腹を満たしたのである。朝な夕な通勤時に横切った井の頭公園には武蔵野の面影が深かった。その自然がそっくりそのまま生きているかのように池畔にたむろする水鳥が数羽エサを求めて泣き叫んでいた。
実習がすべてを完了した日、私達は総務部に呼び出され、思いがけもしなかった手当を戴いた。「いくら入っているだろうか」と実習生の一人が封を切った。正味3ヶ月足らずではあったが一金30円也がそこに包まれていた。各工場に御礼の挨拶回りをした。そして工場の門を出ようとしたとき、一人の女事務員(古閑陽子さん)が駆け寄ってきて、通信機関係の女事務員一同の寄せ書きを手にしたのであった。私は今でもその面々を思い出すときがある。それにも増して当時の送信機工場の同僚であった田中四郎君(日本無線大阪支店勤務)何かにつけて我々を指導してくれた山本吉之助氏(現在、焼津市山本無線工業所経営)と未だに交誼があるのは私の誇りだと思っている。
参考までにつけ加えるとしたら私の同期生に日本無線に勤務する人が3人いる。高田広夫、藤尾栄一、そして実習をともにした菊池信一郎がそれである。
(1普1期生、晴海船舶職場委員 渡辺正史)