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電気通信大学60年史

前編6章  戦時中の無線電信講習所

第6節:支所とその独立

官制改正によって1945年(昭和20年)4月1日、東京目黒の本所は「中央無線電信講習所」と改称され、板橋、大阪、熊本、仙台、新潟の各支所も独立の無線電信講習所となった。さらに岐阜と岡山の一部、山口(防府)の一部が板橋へ合流した。独立の経緯を記した資料はないが、それぞれの支所がそれぞれ独立の無線電信講習所に「昇格」したと表現したメモがある。

元来、地方支所の設立は主に漁船乗組みのための第三級無線通信士の需要の増大に対処するためのものであった。また、第一級、第二級無線通信士の培養源ともしたのである。それが独立昇格によって定員増と上級の二級通信士の養成が図られた。

熊本電波工業高等専門学校創立30周年記念誌〈1973年(昭和48年)10月〉によれば、………

1943年(昭和18年)10月5日、財団法人熊本無線電信講習所が設立されたが、同年11月1日逓信省移管となり、官立無線電信講習所熊本支所となった。特科(修業年限1年・第三級無線通信士資格付与)を設置。

1945年(昭和20年)4月、従来の支所から独立して、官立熊本無線電信講習所となり、特科を拡充したばかりではなく、普通科(修業年限2年・第二級無線通信士資格付与)が中心となっての大量養成が、陸海軍の強い要請で実施された。第五高等学校、熊本中学校、熊本商業学校などの教室を借り入れ各分校とし、生徒は市内の代表的旅館を、多数借り入れて宿舎とした。当時一般の学校はすべて授業を休止し、軍需工場へ動員され、当所のみが授業していた。

しかしながら、独立した地方の官立無線電信講習所が、実質的にその本来の目的に即して機能したのは、敗戦までの半年にも満たない期間であった。支所の卒業生に特に戦死された方が多く、しかも何の身分保障もない軍属としてであった。卒業式での卒業生総代の答辞「死んで参ります。」の言葉は、今でも重すぎるほど重い。パシー海峡での輸送船の遭難、ルソン島での栄養失調死、沖縄地方での戦死等々、目黒の本所を含めて卒業生が数多く戦死、病死、負傷、抑留されたのである。遺族への補償、慰霊祭の具体的な事例は皆無である。

他に大洲支所の事例がある。目黒へ入学した生徒の中から、四国、九州地方の出身者を疎開させ授業をうけさせるために、1945年(昭和20年)6月27日、県立大洲中学校内に、官立無線電信講習所大洲支所が開所した。本科(一級通信士資格付与)を設置。目黒本所の高等科に相当。その後半年余で閉鎖され、1945年(昭和20年)12月20日、大阪無線電信講習所に吸収された。

支所設置から閉鎖までの時の流れは、………

18.10.1 東京第1支所(板橋)
 〃  東京第2支所(渋谷)
 〃  大阪支所(大阪)
18.11.1 熊本支所(熊本)
 〃  仙台支所(仙台)
19.4.1 東京第1支所を板橋支所と改称
 〃  東京第2支所を四谷へ移し四谷支所と改称
 〃  渋谷支所を新設
19.8.25 藤沢分教場
19.10.20 芝第1支所(高輪中)
 〃  芝第2支所(慶応)
 〃  芝第3支所(正則中)
 〃  芝第4支所(芝中)
20.3.31 四谷・渋谷支所閉鎖
20.4.1 芝第5支所(明学)
 〃  藤沢分教場を藤沢支所と改称
 〃  無線電信講習所を中央無線電信講習所と改称
 〃  板橋・大阪・熊本・仙台各支所の独立
 〃  新潟を新設
 〃  岐阜・岡山・山口(防府)の一部を板橋へ合流
20.5.10 芝第2・芝第3支所閉鎖
20.6.21 仙台の弘前支所新設
20.6.27 中央無線講大洲支所
20.11.3 仙台・弘前・新潟の閉鎖
       再試験で仙台再発足
20.12.5 芝第4支所閉鎖
20.12.20 大洲支所閉鎖
21.3.30 芝第1支所閉鎖
21.3.31 板橋閉鎖、中央無線電信講習所板橋支所とする
22.3.31 板橋支所閉鎖
社会の出来事
  • 昭和19年3月31日 米機動部隊パラオ急襲、古賀峰一連合艦隊司令長官ダバオに向け飛行中に行方不明。(4月5日殉職発表)