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電気通信大学60年史

前編6章  戦時中の無線電信講習所

第5節:私立無線学校の吸収

5-1 統合の閣議決定

全国の私立無線学校を廃止し、すべて官立無線電信講習所に統合するという閣議決定が下されたのは1943年(昭和18年)8月20日のことである。公平信次氏はその経緯について次のように述べている。

官立無線電信講習所が発足して以来、無線通信士の養成は着々と軌道に乗ってきたのであるが、一方太平洋戦争はますます熾烈となり、無線通信士の大量急需を訴えるに至ったことは別項でも述べた通りであるが、政府は各種私立無線学校対策を之に結びつけて考えることとなった。というのは、全国私立無線学校の生徒は1万数千人も居るにも拘らず資格を取得しうる者はまことに僅かであって、この時局下においては人的資源の遊休存在と目されるに至ったからである。ついで、企画院、文部省、陸軍省、海軍省及び逓信省は協議の上、これら私立無線学校を全廃閉鎖し、現に在学する生徒は、官立無線電信講習所及東京芝浦高等工芸学校に収容し効率的仕上げをして、無線通信士の急需対策の一つにするという根本方策を樹て1943年(昭和18年)8月20日閣議決定をみるに至ったのである。この政策の実施に当って、きわめて立派な態度で協力を申し出で率先して、すべての施設を提供して国策遂行に協力したもの(東京高等無線電信学校、校長中村梅吉氏、後の国会議員、法務大臣)あり、或は頑強に抵抗し、調査員などの調査を妨害し、その校舎を使用しての支所開設を拒み、最後まで非協力だったもの(中野高等無線電信学校、校長高木章氏)等色々の事情や経緯はあったが9月28日ついに官制改正となり、官立無線電信講習所に凡てを包含することとして、全国的規模のスタートとなったのである。

全国25校の生徒約1万5千名の中から1万1,208名が入学移籍考査に合格し、次のような分類で各支所に入学許可され、夫々課程を経て卒業していったのである。

別科中学卒業程度の者 第一級(修業期間1ヵ年)
選科中学3年修了程度の者 第二級(修業期間6ヵ月)
実科国民学校高等科卒業の者 第三級(修業期間3ヵ月)

現在、閣議の詳しい内容を明らかにはできないが、以上の引用から決定にいたるまでの経緯、その後の決定内容の実施から、その意義を思うことはできるであろう。これは、閣議決定という一つの事実からして国策的なものであったと言えるのである。ともかくも戦時下において何よりも一定水準以上の通信士が必要であった。この要請に対して爆発的と言える程急速にその策は実施されていったのである。

社会の出来事
  • 昭和18年6月1日 東京に都制公布。(7月1日施行)

5-2 生徒引継と支所の設立

『無線電信講習所報』は官立時代の公的文書としては、現存する唯一のものだが、支所の設立についての記事がみえる。

支所開設ニ関スル件(無線電信講習所報第51号昭和18年10月20日発行)

先に閣議決定を見たる無線通信士の計画養成方策に基き在来の私立無線電信学校の全部を閉鎖し、其の在籍生徒の中より必要員数を別表の通り銓衡し之が素質の向上と現下の急需とに即応すべく本所に於て急速に之が養成をなすこととなり取運び中の処10月1日東京に2箇所、大阪に1箇所の3支所を開設し四谷分教場と併せ一斉に授業を開始せり

其の設立経過及現況概ね次の如し

  • 設立経過
    8月31日 逓信省電務局長を委員長とする無線通信士臨時養成実施準備委員会初会合
    9月7日 文部省専門学務局に於て私立校生徒引継に関する打合
    9月10日 文部省に於て企画院、文部省、逓信省、陸海軍省各関係官列席各私立無線電信学校々長の集合を求め文部次官其の他より現下の情勢を説明し私立無線電信学校は之を閉鎖すべき旨を示達し、之に関し具体的事項の協議をなせり本所より長津教頭出席
    自9月15日
    至9月18日
    私立無線電信学校生徒の錠衡試験を各当該校に於て執行す(電気通信術、英語及数学) 受験者総数11,208名
    自9月24日
    至9月28日
    文部省(東京高等工芸学校)及厚生省との間に収容生徒に関し打合
    9月28日 銓衡試験合格者発表 合格者総数6,482名
    9月28日 本件臨時養成に関し臨時職員設置制中改正勅令公布
    9月30日 支所設置及本所規則中改正告示公布
    10月1日 本所(四谷分教場収容生徒に対し)及各支所に於て入所式挙行
    10月4、5日 本所及支所に於て体格検査執行
    10月6、7、8日 組編成其の他の必要に依り学科再試験(電気通信術、英語、数学及電気学)を執行
    10月11日 再試験の結果発表
    10月12日 授業開始
    10月14日 東京第1支所に於て支所開所式挙行、陸海軍支部其の他関係官庁、東京高等無線、武蔵野無線各学校関係者其の他を招待東京支所、分教場の生徒出席
    10月25日 大阪支所に於て同支所開所式挙行
  • 現況
    支所、分教所在地
    東京第1支所 東京都板橋区練馬高松町1 元東京高等無線電信学校
    東京第2支所 東京都渋谷区幡け谷原町830 元武蔵野高等無線電信学校
    大阪支所 大阪府中河内郡矢田村 元大阪無線電気学校
    四谷分教場 東京都四谷区四谷四丁目
    生徒銓衡状況
    区別 人員数
    私立校在籍生徒数 13,334
    (通信科生のみ)
    受験者総数 11,208
    厚生省体格検査不合格者 516
    学課不合格者 4,210
    学課合格者 6,482
    不参者 949

これらの記録から読み取れるものは、東京で2支所、1分教場、大阪で1支所が支所設立発足時の陣容であるということ、私立無線学校在籍者の8割以上が選考試験を受験し約6割が合格したことの2点が重要と考えられる。この時の合格者数は6,482名であり、毎年度1万人以上の卒業生を出せという軍の要請からはまだ遠い数字と言える。その後、支所は北海道を除くほぼ全国にそれこそぞくぞくと開設されていったのである。

なお、この臨時的措置が終わっても、各支所は閉鎖することができず、むしろますます増設の一途を辿り最盛期には次表の如き状況であった。

全国的支所の分布状況(最盛期の昭和20年6月)
支所名 所在地 収容人員 備考
東京第1支所 板橋区 1,885人 東京高等無線電信学校々舎
東京第2支所 渋谷区 1,227人 武蔵野高等無線電信学校々舎
四谷支所 四谷区 391人 四谷郵便局
高輪支所 芝区 300人 明治学院高等部
仙台支所 仙台市 200人
弘前支所 弘前市 100人 仙台支所分教場的支所
大阪支所 大阪府守口 1,591人
防府支所 三田尻市 200人
熊本支所 熊本市 400人
大州支所 大州市 200人
藤沢分教所 藤沢市 200人 本所第一部高等科専用

また、当時本所長から支所長への通達が『無線電信講習所報』に残っている。これは支所長の地位・権限を指し示す資料として興味深い。

達第27号
各支所長

無線電信講習所支所長分任規程左の通定め昭和18年10月1日より之を施行す

昭和18年9月30日
無線電信講習所長 斉藤信一郎

無線電信講習所支所長事務分任規程
  • 無線電信講習所支所長(以下支所長と称す)は無線電信講習所長委任規程第3条に依り左の事項を分任すへし
    1. 部下職員の服務を指定すること
    2. 雇傭人を傭役すること(大阪支所長に限る)
    3. 部下職員の帰省、看護、墓参、転地療養並に受験願を処理すること
    4. 部下職員の除服出仕を命すること
    5. 共済組合支部局事務を処理すること
    6. 在学生徒の休学、退学願の処理並に各種証明書を発行すること
    7. 資金前渡官吏に交付されたる資金の範囲内に於て左の各項を専決施行すること(大阪支所長に限る)
      • 庁費に対しては物資の引当を要せずして購入又は修繕し得るもの但し将来永続的に経費を要する物品の購入を除く
      • 校舎保導上緊要を要する軽微なる小被修繕
      • 市内及隣接市町村への日帰り出張
      • 常用雑費の支出但し諸謝金は一件50円を超ゆるものを除く
    8. 授業料の分納又は延納許否を決定すること
      但し其氏名、事由等の報告を要す
    9. 其の他前各号に準ずる軽易なる事項
  • 支所長は前条の分任事項と雖も重要と認むるもの又は異例に属するものは所長の決裁を承け、分任の範囲に属せざる事項と雖も軽易と認むるものは支所長限り処理すべし
社会の出来事
  • 昭和18年9月4日 上野動物園の猛獣、空襲時に備え射殺。
  • 昭和18年9月23日 閣議で勤労対策として店員、車掌、改札係、理髪師など 17職種の男子就業を禁止、女子に代える。
  • 昭和18年10月21日 学徒出陣壮行大会、神宮外苑競技場で挙行。
  • 昭和18年11月1日 国民兵役を45才まで延長。

5-3 藤沢分教場の建設

藤沢分教場の建設までの経緯については、公平信次氏によれば、次のようである。

藤沢支所については、1943年度(昭和18年度)の計画として大蔵省に予算要求したが、ほとんど認められず、ようやく63万円が成立したにすぎなかった。しかし、校舎の建設は急を要したので、藤沢市の市債により260万円を調達することとなった。(これは、25か年賦で償還することの約定となった。)

その計画は、本館、校舎、学生寮、講堂、武道館などあわせて2千坪に及ぶ膨大なものであるが建設に着手してから戦局はにわかに不利となり、資材の調達は困難をきわめた。或る日の会議の席上、海軍省の石原中佐は次のように発言したことがある。

「大日本海軍が後援することに決定している、これしきの施設の資材についてあれこれ云うのは恥ずかしいが、実際は今、電車で来るとき車窓に見てきた2、3室住いの木造の家でも、さかさにして海に浮かべたいと云う心境です。出来るだけはやるが、自主的方途についても格段の努力を期待する。」

実はこの藤沢支所(俗称鵠沼校舎)は海員専用とし、平和回復後は本部本所をここに移す計画があつたので、当時割方融通のきいた陸軍には応援を求めて行けぬ義理あいであった。

時折、艦載機の機銃掃射を受けるようになった1944年(昭和19年)の初秋、ようやく教室と寮とを合せて延べ200坪のもの2棟が竣工したので、目黒の本所より約200名の学生と数名の教職員を移転収容し、やつと開校式を行うことができたのである。その後、食糧事情の緊迫に加えて寮用の燃料の調達等のため教職員はその方の奔走に疲れ果て、学校の建設はまことに困難をきわめたが、ついに終戦とともに閉鎖するのを止むなきに至った。

藤沢分教場が開場したのは、正確には1944年(昭和19年)8月25日である。また本館の所在地は、藤沢市辻堂浜見山である。当時の困苦はどれほどのものであったろう。そしてその生みの苦しさにもかかわらず、ほぼ1年後の終戦とともに一時閉鎖された(なお、1945年(昭和20年)4月1日、藤沢分教場は藤沢支所に改名された)。

社会の出来事
  • 昭和18年11月5日 大東亜会議を開催。日本、満州(中国東北部)、タイ、フイリピン、ビルマ、中国汪政権の代表が参加。

5-4 芝支所の増設

第二次世界大戦の戦線拡大とともに、南方各地との通信連絡を充実するため、軍部は無線電信の全面的採用を決定。そのための要員の大量養成をいかにして行うかを、逓信省と協議して無線電信講習所を全国的規模で拡充することが実施されたのである。そのため養成定員は万を越したのであるが、その後戦運われに利あらず、今思えばむなしく数多くの諸先輩が第一線で尊い命を、散らして行った。拡充された各支所の命も、したがって、2年足らずと短かった。

芝支所は、1944年(昭和19年)10月20日、東京での支所拡充の一環として通信院告示第487号をもって設立されたが、他の支所が私立無線学校を廃止しその設備を利用したのと異なり、芝区内の私立中学の校舎を借用したのである。

芝第1支所(高輪中学校) 芝第2支所(慶応大普通部)
芝第3支所(正則中学校) 芝第4支所(芝中学校)

そして、1945年(昭和20年)4月1日に芝第5支所(明治学院)が設立された。

設備の点では全くのところ十分とはいえず、いかに速成であっても通信要員を送り出さねばならなかったとしても、やっつけ仕事であったことは否めない。私立無線学校接収といい、尋常小学校、高等小学校の卒業生等わずか14才の紅顔可憐な少年たちが、養成期間6ヶ月という短期間ののちに、ぞくぞく第一線に投入されて行ったのである。

ちなみに、1943年(昭和18年)の学制を記してみる。

選科 (中4年修) 修業年限2ヶ年 無線通信士二級付与
特科 (高小卒) 〃 6ヶ月 〃 三級付与
実科甲 (中3年修) 〃 4ヶ月 〃 三級付与
実科乙 (高小卒) 〃 6ヶ月 〃 三級付与
実科丙 (尋小卒) 〃 8ヶ月 〃 三級付与
選科 (中4年修) 〃 1ヶ年 〃 二級付与
別科 (選科卒) 〃 1ヶ年 〃 一級付与

当時の支所の一つの側面を、佐藤鉄雄氏〈1944年(昭和19年)5月板橋実科丙〉は次のように記している。

(要約)

"昭和18年当時は14才であった。日本は国民総動員令が発令され、国家総力戦に突入していた。同郷の仲の良かった先輩が学徒出陣で戦場にたって行った。神宮競技場は小雨に煙っていた。送られる者、送る者の涙は雨と混り合った。神宮の森に学徒兵の靴音が轟いた。戦局は頓に急迫し強力な米軍を相手に激しい消耗戦を強いられ、軍部の動揺は焦りと変っていった。

無線通信士の早期養成もこうした時局を背景として決められていった。私立無線を廃止し、官立無線に吸収、軍籍に組み入れ、動員員数の確保を容易かつ確実なものとしたのである。私も私立から官立に移った者の一人である。18年9月1日、実科丙、幡ケ谷支所へ入所。厳しい授業は当然のことであったが、一つ余計な神経を使うことを、官立になってから余儀なくされた。それは本科生(目黒の本所)との接触である。本科生は官帽に海軍式チューニック服、襟元には白く映えるホーロー引きの「官」の襟章。それにひきかえ、私どもといえば、学生服、国民服や教練服。よれよれの戦斗帽と巻脚半。襟に「官」の襟章をつけてはいるが、薄い真鍮製の粗悪なもの。授業が終る頃、正門近くに本科生が待っていて、「全員グランドに集合」の声がかけられる。往復ビンタは恒例となった。「気を付け」。「動作が遅い!」。「目が動く!」。全く通学するのが嫌になる程であった。小雪の舞う冬の夕刻。グランドに整列させられ、全く訳も分らずビンタをとばされたこともあった。本科生達は大声で、「貴様ら、たるんどる。目黒魂を打ち込んでやる。これが官立魂だ!分ったかッ!」と喚きながら、容赦なく殴りつけていった。誰がこうした風潮を許していたのだろうか。軍隊の亜流的なこの悪弊は卒業まで続いた。

就職は学校の斡旋であった。〇〇航空、〇〇陸軍通信隊とか言って可成り選択の余裕はあった。南方通信を私は選んだ。マニラにある南方軍通信隊司令部行で、軍属雇員、月給50円であった。原隊である相模ヶ原本部第88部隊に19年6月13日入隊、7月13日には門司港から輸送船吉野丸に乗船壮途についたが、途中バシー海峡で米潜の魚雷攻撃を受け遭難、数多くの友人を失ってしまった。"

芝支所はその後1945年(昭和20年)4月1日、官制改正に伴い目黒本所と各支所がそれぞれ独立の講習所となったのを機会に、逐次廃止されていった。

昭和20年5月10日 芝第2支所、芝第3支所廃止。
昭和20年12月5日 芝第4支所廃止。
昭和20年12月14日 芝第5支所廃止。
昭和21年3月30日 芝第1支所廃止。
社会の出来事
  • 昭和18年12月15日 横文字抜きの紙幣を発行。
  • 昭和18年 この年「敵性用語」を一掃。野球用語の場合ストライクを「よし1本」、アウトは「ひけ」。

5-5 女子部の設置

約30年にわたる無線電信講習所の歴史の中で、目黒の門をくぐった女子生徒は、この時の女子部の生徒だけであった。1945年(昭和20年)の敗戦以降、特に女子に対して特定の分野への進出を妨げるということは少なくとも「たてまえ」として許し難いことという理念が正しいとされるが、戦前の家父長的社会では、女子に実務的な教育を行うという発想は皆無であったといってよい。この女子部の設置も決して女子を一流の通信士に育てようとした訳ではない点でその考えの延長にあるが、戦争という危急時に際して、男子が足らないために速成通信士としてではあるが、進出の場が与えられたといえるであろう。しかし、この女子部の設置は、日本の国家意識の崩壊を象徴する「一つの惨めさ」を指し示しているともいえるのである。そもそも、女子を直接的な戦役につけないという国家意識がその禁を犯さざるを得ない窮地にまで追いつめられた。これがこの出来事の本質である。

さて、ここでも当時指導的立場にあった公平信次氏によれば女子部の設置の経緯、及びその後は次のようである。

太平洋戦争の戦果が拡大し、占領地域が広がり各地に於ける施設工作などが進むに伴い、無線通信従事者の需要はその極に達した。1944年(昭和19年)3月卒業の生徒配分会議などは全く喧嘩腰ですさまじいものであった。のみならず、陸軍(接触する主任は中原大佐)、海軍(接触する主任は石原中佐)は双方ともよい生徒を選り抜かんとしてあらかじめひそかに教務科長より成績表を提出させるなどのこともあって、その間、陸、海、大陸、国内の四方向の調整をとることは、之また並々の仕事ではなくなってきた。

一方、逓信省所管の無線電信局からも吏員が続々と南方に行く、さてその穴をどうするか。あたかもサイパン島などでは講習所の練習生40名を含めた大損耗を受けるなどのことがあり、また教官の中からも次々と南方の司政官として派遣者が出る有様であった。

講習所としては臨時に生徒を募集しても、一般中学校の卒業期以外は殆んど応募者が無い有様であった。もっとも、ぶらぶらしていれば徴兵か、徴用か、いづれかにひっかかる時代なので無理のないことである。

そこで、女子部の設置に踏み切ることとなった。正直云って、開講まで陸、海、空、大陸、民間船舶方面等の配分計画は未完のまま、差向き無線電信局、電話局の欠員充足を主目的とした企画としてスタートし、卒業期まで最終方針を確立することとなった。

当時、高等女学校出の良家のお嬢さん方は、学校卒業と同時にお嫁に行くか、あるいは徴用で工場などに行き、筋肉労働に従事せねばならなかった。しかし早々に結婚すればたちまち若後家となる可能性も強く、全く困迷の時代であったといえるのである。そうした社会一般のムードが影響してか無線電信講習所女子部の生徒募集はきわめて好結果で、募集人員100名のところ応募者は全国から306名という盛況であった。学科試験のほか、次のようなぜいたくな条件で生徒の選考ができたのは全く予想外であったのである。

  • 容姿端麗であること
  • 壮健なこと
  • 高女の成績3分の1位以内にあること
  • 学科試験が優秀なこと(算数、国語、英語の平均80点以上)

やがて、100名の立派な生徒が決定し、1944年(昭和19年)9月15日から授業が開始された。校舎は本所より権之助坂寄りに150メートル程の所にある日の出高女の校舎を借用することとなった。(日の出高女は疎開して空校となっていた)制帽に制服は一見威厳あり、よく見ると華麗さがあり、なかなかユニークなものだったが、日の出高女の疎開で淋しがっていた町の人々の目をびっくりさせたのは事実である。びっくりしたのは町民ばかりではない。本所の男子生徒の心を侵害させた事も事実である。その為に全校生徒の成績が向上するようであれば幸甚なれど、皮肉にも宮内生徒監より教務科の方にきつい申し入れがあった。その内容は、本所より女子部へ、また女子部より本所への連絡に生徒を使わぬようにということであった。修業年限は6ヶ月とし、第3部特科と呼称することとし、卒業後は第三級無線通信士の免許を渡すこととなった。

担任の先生は、1組室井氏、2組野辺氏と決定されたが、両女史とも東京中央電話局から特に強引に割愛して頂いた方で担任兼英語の先生ということである。授業課目は次の通りである。

  • 無線電信電話学
  • 無線電信電話実験
  • 電気通信術
  • 無線電信電話法規
  • 英語
  • 体練

卒業後は東京中央電信局、中央電話局、気象台、東京逓信局などに配属になったのである。なかには船に乗せろ、飛行機に乗るんだ、話が違うなどと駄々をこねて教官を困らせた方もあった。これら卒業生は総計101名で(入学者数より1名多いのは謎)その中には引続いて今日まで在職し、郵政省や日本電信電話公社の幹部となっている方もいる。

女子部の第2期生は、同じく100名とし、日の出高女が空爆で焼失したため、第1支所近くの富士見高女を借用して開講することとなった。開講予定日を1945年(昭和20年)9月1日として入学許可書を発送後に終戦となった。その後はあの通りの混乱で、開講取り止めの通知が届かなかったり、行き違ったりして、実際に上京した方々も相当数あった。

一時は、練馬の第1支所を使って少数でも1組編成して開講することを強調された教官もあったが一切取り止めの命令が来たのが8月28日であった。以上のようにして第2期生はついに誕生しないで終ったことになる。

この引用の文脈をたどれば、ほぼ女子部の全容は把えられたといってよい。「かくの如く」女子部はあった訳で、その歴史は公平氏の掌中から解き明かされたのである。しかし、もう一つの側面、つまり生徒からの肉声も我々は"幸いなことに"把えることができた。断片的ではあるが、座談会からその肉声を拾うことにしよう。

加藤皎子 (私は看護婦になるつもりでしたから)看護婦になれば外地勤務は覚悟していたから。出来るならば何もこんな狭い所にいないで、それこそ外地に行きたいという気はあったですよね。
三谷和子 でも最終的には段々、「三級は船に乗ったとしても漁船ぐらいなものですよ。」といわれたわ。
前田京 最初の入学試験当時には何も言わない訳よ。
三谷和子 そうよ、それで一級ぐらいでしょう、飛行機に乗れたのは。二級、三級は船なのよ。
高野一夫 それをいわれたのは、入学してまもなくですか。
三谷和子 そうです。
長岡美登利 押しかけて行ったのね、職員室に……
三谷和子 「皆は、船に乗りたいだの、飛行機に乗りたいだのというが、皆さん三級だったら漁船程度で、もう、あらくれ男と一緒になってやるんですよ。」なんていわれて、驚き。やっばり、私なんか船にあこがれていましてね。それで、じゃ横浜へ行くんなら船舶無線会社に行こうなんていってね。船舶無線に行ったらいくらか船に乗せてもらえるんじゃないかなと思ったら、とんでもないですよね。
高野一夫 それで、長岡さんがちょっとお話しになりましたけれども、押しかけたといいましたが、何処へ行きましたか。
長岡美登利 職員室へ。本所の方の職員室へ皆で押しかけて行きました。飛行機に乗せて下さいとか、船に乗せて下さいとか、皆で押しかけていったんです。
前田京 何だか、血判を押して行くとかやっていましたね。私も入れといわれたけど、とてもこれは出来そうもない相談じゃないかと思っていたから。
三谷和子 私達、愛国心にあの時燃えていたのよね。看護婦さんになるか、むしろ、女だてらに…
加藤皎子 第一線に行きたかったのよね。

この女子部には、ほぼ全国から生徒が集まった。これは新聞紙上において公募したことも一つの理由となっている。公平氏は1944年(昭和19年)9月15日に授業が開始されたと述べているが、実際にはその年の12月1日に始まり、彼女達第1期生は1945年(昭和20年)6月に卒業している。藤田光子氏は、その在学から就職、終戦当時の生き様について次のような話を寄せてくれた。

女子部1組  藤田光子

母が新聞で無線講の女子生徒募集の欄を読み、私に受験する事をすすめました。母は自分の夢を私に託したのでしょう。

合格した私は女学校とは全然違った教科に興味を持ち、私なりにかなり一生懸命勉強したものでした。殊に自宅でオシレータでの送信の練習は想い出深いものがあります。

卒業しまして、私達12人は陸軍気象部隊に配属され、ジャンケンで勝った2組の人達は高円寺の馬橋にあった本部へ、負けた1組の6人は気象台の分室に、そこで送信、受信に分れ、私は野村さんと受信の2班に属することになりました。この2班は非常に居心地がよく優遇され、雑用は一切しなくて済み、ただ仕事のみ一生懸命していればよかった所で、感度はよいが雑音が多く受信機の調整の大変な北支、中支、南支。感度の悪いウラジオストック、ハバロフスク。感度が悪い上に途中欧文の入る(軍略数字の中に欧文が入るとまことにまぎらわしいのです)マニラ、グァム。本数字なのでブルンブルンと感度明瞭の関東軍司令部、張り切って毎日を過ごしました。

終戦近くなりますと、夜勤が終りほっとして仮眠室で寝入り鼻に空襲、夜が明けて寮に帰ると一室に集められて見習士官からの訓話、居眠りすると容赦なく指名され本当に眠いのが辛かったです。食事の悪さ(軍なので民間よりは良かったらしい)と寝不足のため骨と皮でしたが、気持ちだけは気丈なものでした。

間もなく終戦、復員する時「万一のときに」と青酸カリを貰い家族の疎開先の花巻へ、軍用列車に大勢の復員兵と一緒に乗って帰りました。

戦争も個人にとって天変地異の一つといえるなら、この女子部の生徒もそれに巻き込まれた一例としてよいであろう。彼女達の"ほんろう"は一つの時代を明示するが、彼女達の生き方に対する様々な思いは、それとはまた別といってよい。四谷信子氏は「女子部の生徒とは」という問に次のように答えてくれた。

女子部というのは、当時の国策として設置されたと思うんですけれど、目的はどうあれ、やはり講習所を受験し、そこで勉強した婦人たちは、何かを求めて積極的に行動を起こしていったということでこれは非常に評価されていいんじゃないかと思うんです。そして、しかも現職で働いている人がいるんですから、これは非常にすばらしいことだと思いますし、そういう意味では女子部に入った1期生というのは、それなりにきちんとした意識を持ちながらその期間を勉強し、卒業されてからもそれなりの生き方というものを私はやっているんじゃないかと思うんです。そういう意味で、この女子部というのは高く評価されていいと思います。それこそ今日的にも一定の評価を受ける何ものかを持っていた人達といわれてもよいと思います。

社会の出来事
  • 昭和19年1月26日 内務省、大都市で防空法による建築物、強制取り壊し開始。
  • 昭和19年2月 東京都、雑炊食堂を開設。(11月25日都民食堂と改称)
  • 昭和19年3月5日 警視庁、高級料亭、待合、バーなど閉鎖。