電気通信大学60年史
女子部座談会
司会者 | 高野 一夫 | |
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出席者 | 加藤 皎子 | 昭20・6 第3部特科 女子部 |
長岡 美登利 | ||
前田 京 | ||
三谷 和子 | ||
四谷 信子 | ||
アドヴァイザー | 安部 宗匡 | 大9・6 別科 社団法人目黒会前会長 |
斎藤 洋一 | 昭52 経営工学科 |
- 司会
-
今日は、皆様方が無線講へどうして入られたかということ、無線講のことをどうして御存知になられ、どうして入学されたのか、どういう勉強をしてどういうふうな試験があって入られたか、その時にどういう方々がどういう意識で入られて、どういう勉強をなすったかということを話していただきたいと思います。
それから、卒業されて配属になったのだと思うのですが、その時に女子であるがゆえに重宝がられたこともあると思うので、ざっくばらんに皆さんの思い出もお話しいただければ、と考えます。
受験の動機
- 四谷
-
この入学した媒体というのは、私ひとつも記憶がないのです。何で知ったかというのはわからないですけど、受験をした動機だけははっきりしてるんです。当時私は会社の栄養士をやっていましてね。それで徴用になっているってことが、いかにも嫌で、それでなんとか外れたいと思っていました。
四谷信子氏そしたら無線電信講習所に入学すると、この徴用から外れるということが分かったのでこれが最大のねらいみたいなものがあったと思うんですね。それで受験した訳です。講習所の方からきちんと会社の方へ話しをして徴用を外してくださったのでした。
そして、この受験勉強とか入学試験というものは、私ひとつも記憶がございません。私が入ったんだから多分易しかったんじゃなかったかと思います。どういう試験をやったかということも。
- 三谷
- やらなかった。口頭試問だけよ。
- 前田
- あと学校からの内申書。
- 四谷
- ああ、そうでしたか。どうりで少しも記憶がないんですよ。
- 長岡
- 面接はありましたね。
- 三谷
- あれだけの試験だったのに、どうして前後の人がいなくなったんだろうかなと思ったことがあった。
- 長岡
- ずい分試験を受けるために行列で並んでいましたね。試験を受ける人が。
- 前田
- ずい分落とされていたわよ。
- 四谷
- 私は、ですから講習所を知った媒体もね、少しも記憶していないんですよ。何で知ったか、あれは新聞だったのか……新聞でしょうか、皆さんわかる?
- 長岡
- 私は新聞で知りました。
- 司会
- あの、長岡さん、新聞に出たのですか?
- 長岡
-
ええ。新聞に募集が出ていて、お友達が何人かで募集していると話しをしていましてね。それで、私、じゃあ受けてみようかなんて言って。やっばり、あの当時は工場に5年生の時だったかしら、女学校の動員で行っていまして、何か、もう作る材料がないんですよ。
長岡美登利氏ネジひとつ足りなくて組み立てられない状態だったんです。このままでいくのが、なにか物足りなくて、何かやってみたいと思っていたときに、そういうことが新聞に出たものですから、どうかしらと受けてみたら偶然入ってしまって。
- 司会
- じゃあ、その話しをひとりひとり伺いましょうか。三谷さんはどうして?
- 三谷
-
私の場合は、兄が鵠沼のほうに行っておりまして、それで、女子部の募集があるけど……。やっばり、皆さんと同じように川崎のほうの女学校から動員で行っておりましたが、あっちのほうが勉強が出来ていいじゃないかという訳でして。
三谷和子氏そんなに向学心に燃えてた訳じゃないんですけど、女子部に入ったら船に乗れるかもわからないしなんて思って入ったんです。
- 司会
- その試験は何処でやりましたか?面接みたいなものは?
- 長岡
- 日出女学校という所で、目黒校舎のとなりではないんですけどすぐ近くにありました。
志望の動機というと、勤労動員で機械を組み立てるなら組み立てるだけで、それがどういう兵器か秘密でわかりませんけどね、ネジ一本にしても何でも足りないものばっかりなんですよ。全然品物が出来ないんです。そういう状態でなんとなくふらふらしてたんですよね。だから受験したような……。
- 四谷
- 志望の動機はさまざまだと思うんですよね。ひとつは、今いわれたようにその仕事そのものに対する不満みたいなものとか、あるいは、その当時の状況の中で本当にこんなことをやってていいんだろうかとか、あるいは、もっと積極的に戦争に協力したいという気持ちも。これはもう率直にいってあの当時、通信技術を身につけて、そしてお国のためにがんばりたいなどという殊勝な心掛けもあったと思うんです。そういうさまざまな事情で皆さんがここを受験されたというふうになったんですよね。ですから入学者のタイプだとか地域分布なんか全国的でしたね。
- 一同
- 山形もいましたね。青森、静岡も。
- 前田
- じゃあ、全国的な新聞に出た訳ね。
- 四谷
- 全国的にやはり応募してきたと思いますよ。新聞でしょうね、やっぱり。媒体は新聞しかなかった訳ですから。
飛行機か船か
- 前田
-
私、今日はぜひ言いたいなと思ったことがあるんだけど、入学試験の口頭試問の時、「あなたたちは飛行機でも船でも乗るつもりですか」というのを聞いたのよ。私今でも覚えているんですけど。
前田 京氏今常識的に考えればあんな短期間で飛行機や船なんかに乗れる訳ないわけよ。だけど私たちにしてみれば、その時にはそういうふうに言われたし、何にも知らない18や19才の子供が言われたらその気になるのは当然でしょう。それなのに、この前の時(1978年(昭和53年)9月17日(日)に30数年ぶりで東京中野のサンプラザにての同窓会)、公平先生が、「あの時皆さんが飛行機や船に乗るなんて言われて困りましたよ」なんて言われて、私たちがいかにも世間知らずであったので納得させるのに困ったというふうな発言だったのよね。私、あの時そういう気にさせたのはそちらではないかと言いたくなるんですよね。このことは、面接の時にあったんですよ。「あなたたちはこういう非常事態に向かって、こういう所に勉強しに来たのはまことにけっこうである。飛行機や船に乗る覚悟は出来ていますか」と言われたんですよ。愛国心の塊で行った訳でしょう。それで入学したら皆さんは電報局へ行ってなんていう話しになったから、電報局になるというと飛行機や船じゃないっていうことがだんだん分かってきたけど、就職先の希望を書く所に私なんか調布の飛行場なんか書いたわよ確か。何も飛行機に乗れなくても飛行機の通信はするっていう意味でね。そういう人が結局行った先は中電とかいうような所ばっかりだったんですよ。だけど、入試の時にそういう事を言われて、後で「納得させるのに困りましたよ」なんて言われるとね、本当はその気にさせといてという気がしますよね。それは学校側の責任ですよ。
- 三谷
- でも最終的にはだんだん、「三級は船に乗ったとしても漁船ぐらいなものですよ」と言われたわ。
- 司会
- それを言われたのは、三谷さん、入って間もなくですか?
- 三谷
- そうそう。
- 長岡
- 押し掛けて行ったのね。職員室に…。
- 三谷
- 「皆は船に乗りたいだの飛行機に乗りたいんだというが、皆さん、三級だったら漁船程度で、もう、荒くれ男といっしょになってやるんですよ」なんて言われて驚き。でも、やっばり私なんか船にあこがれていましてね、それで、じゃあ横浜へ行くんなら船舶無線に行こうなんて言ってね。船舶無線に行ったらいくらか船に乗せてもらえるんじゃないかと思ったら、とんでもないですよ。
- 司会
- 今、長岡さんからちょっと話しが出ましたが、押し掛けたと言いましたがどこへ行きましたか。
- 長岡
- 職員室へ。本所の方の職員室へ皆で押し掛げて行きました。飛行機に乗せてくださいとか船に乗せてくださいとか。
- 前田
- 中電に行った人たちなんか皆すごく怒ってたわよね。私はなんだかその時には私自身はそこまではとてもと批判的だったからね。なんだか、血判を押して行くとかやっていたんです。私も入れと言われたけど、とてもこれは出来そうもない相談じゃないかなどと思っていたから。だけど、そういう気にさせといて、後から「非常識だよ」というふうにはぐらかす態度がよくないと思うのね。
- 三谷
- 私たちあの時、愛国心に燃えていたのよね。
- 一同
- 第一線に行きたかったのよね。
- 加藤
- もうそれしかなかったのよ。だから、小さな工場で旋盤と取り組んで、 もう、工員さんたちにギャーギャー言われて嫌で嫌でね。それから逃げ出すために……。
- 司会
- それでは伺いますけど、クラス編成などについての思い出は……。
- 長岡
- 2クラスありましてね、担任は女の先生なんです。
- 三谷
- 私たちは室井先生ね。もう一人は、野辺先生でした。
- 三谷
- お二人とも英語の先生でした。それが、私たち女学校で英語は廃止になって来てね、 家庭科になっちゃって皆英語がわからなくて業務英語に…。
- 司会
- 英語は女学校では授業はなかったんですよ。
- 加藤
- それをやらされてチンプンカンプンでね、こんなんだったらもっとやっとけばよかったと思ったけど。だけど教科書も何にもないんですからね。
- 三谷
- 作業してるか家庭科やってるかでしょう。
学校生活のあれこれ
- 司会
- それではだいたいはっきりして来ましたけど、その、約束手形が不渡りになったと、結局ね。(面接の時うまいこと言ったけど結局はそうでなかった)まあ、乙女心の夢を無残に砕かれてしまったということが、実際にそういうことになっちゃったんですけども…。四谷さん、毎日の学校での授業とか生活ですが、友達同士・生徒同士で何かありませんでしたか?
- 四谷
- そういうことならいっばいあるんですよ。私は2組だったんです。授業はそれなりに一生懸命やっていましたよね。私は一人で下宿してたから、家へ帰ってもしようがないから暇さえあればトンツーをやっていたからね。面白くてずいぶんやったわね。私はよく皆からお弁当をもらったわね。
- 加藤
- 家庭から通っている人はやっばりよかったから。
- 四谷
- 皆さんずいぶん苦労しながらお弁当を持って来て、それをみんな私がもらっていたよね。
- 前田
- 時々、空襲警報になると学校がすぐ解散だったでしょう。そうするとね、ほら、学校で生徒を集めておくと危ないって訳ですぐ帰したのね。そして、途中で電車が止まっちゃったりしてさ……。
- 加藤
- 私は池袋から目黒まで歩いたものです。
- 司会
- 朝は何時からでしたか?
- 三谷
- 普通の学校と同じでした。
- 長岡
- ですけど、皆早く行ってトンツーを個人個人で練習していましたね。
- 加藤
- 結局開放されたでしょう。通信の機械は。
- 三谷
- 皆一つずつ持っていたけどね。時間があるごとにトンツーの練習をやっていました。
- 加藤
- 1日も練習しなきゃって言うんでね。それで全部自分たちでそろえた訳よ。
あのころで一組120円取られたかな。そうしたら、父に怒られてね、「俺が月給120円しかもらっていないのに、お前がこういうことをした」って怒られた事があったのよね。
加藤皎子氏
- 安部
- それは真空管のやつですか?
- 四谷
- うちのは真空管だった。
- 加藤
- 私のもそうだったね。
- 前田
- だけど、それに反対にって言うかしら、すごく私らの乙女心は歌やなんか、ずいぶんそういう潤いのあるものにあこがれていたんじゃないかしら。 私大事に持っていた音楽の本が5、6冊あったのよ。次の日学校に行ったら焼けていたのよね。何も無くなっていたの。あれが一番惜しかった。
- 斉藤
- 空襲ですか?
- 前田
- そう。
- 一同
- 日出校舎全部焼けたの。
- 四谷
- あれは20年の4月じゃなかったかな。
- 司会
- それで、三谷さん、授業はどんな事をやったんですか?
- 三谷
- 法規……。
- 長岡
- 数学もやりましたね。電気工学法規と業務用法規と……。
- 三谷
- 電気工学というのは……。
- 安部
- 一番簡単なやつ。
- 三谷
- 並列とか直列とか。
- 長岡
- 卒業証書なんかみんな焼けて……。
- 三谷
- 2回ぐらい焼けたのよね。あの時はまだ本所は残ってたんですよ。日出の方が先に燃えたんですよね。それで、私たちの卒業式は本所の講堂でやったんですよ。
- 司会
- 皆さん在学中は連帯意識が強かったんでしょうね。
- 加藤
- そうね。それはね。
- 前田
- だって、空襲の激しい中を皆通って来るんですもの。来られなかったり学校の帰りいつ死ぬか分かんないっていう感じだったんですものね。
- 安部
- やっばり戦友愛ってやつだ。その当時の感じでいけば皆戦友だったんですよ。
- 前田
- だから、最後までがんぼろうと言っていたんだけど、いつ自分が死ぬか分かんないし、いつ焼け出されるか分かんないっていう緊迫感ね。だから学校へは毎日行けなかったし、行けたとしても近所まで空襲で焼けてススけてやっとの思いで行く訳よね。
- 司会
- そうすると、前田さん、学校が始まったのはいつでしたか。
- 加藤
- 19年の12月、生徒手帳で見ると12月1日になってる。
- 司会
- 12月に授業が始まった……?それまで何をしていたんですか?
- 長岡
- 皆それぞれ学校に行ったり、卒業してお勤めしてたりしました。
- 司会
- 2期生は9月でしたね。
- 加藤
- 2期生を募集して人数が決まったんですよ全部。それで授業を始める段階になって終戦になっちゃったんです。
- 四谷
- いずれにせよ、私たち1期生は12月からですよ。
- 司会
- 12月から6月まで、それでひと月強お勤めになって皆クビになったと……。
- 四谷
- そうですね。だいたいそんなもんですよ。
- 三谷
- だって、8月の15日が終戦記念日ですから。
就職先
- 司会
- そうすると6月に卒業になったんですけど、どういう所へ皆さん配属になったんですか?
- 加藤
- 気象台、中央電信電話局、私は大阪の中電でした。
- 四谷
- 卒業間際に道正先生じゃなかったかな、一人一人呼ばれて「あなたはこういう成績ですよ」とかなんとか言われた記憶があるんですよ。それで呼ばれて行った時に、言われたのは「あなたは成績の方はまあいい、しかし、男子部の生徒と何かあるとかあったとか」という話しをその時点で言われましたよ。それで、もう私はどこそこの就職を希望したところで絶対に干されると思っていました。一方的に「あなたは陸軍の中央気象部へ行きなさい」ということで何人か連れだって行ったんです。
- 前田
- 三上さん、水口さん、三谷さんと「み」の字が全部行ったり、だから電波庁の課長が困って「み・み・み」なんて3人並べて誰か分かんなくて笑っていましたけど。就職先の決定はイロハ順だかなんだかで、そんなに真剣に考えてなかったように思うわ。
- 司会
- わずかな間だけ就職口があったんでしょう。初任給はいくらぐらいでしたか?
- 長岡
- 68円でした。
- 三谷
- 私は、42円だったかな。
- 前田
- そうだ、その位だ私も。
- 三谷
- あなたは多かったでしょう。軍隊は。
- 四谷
- 私は100円ぐらいもらった。
終戦になって
- 前田
- 終戦当時の最後の通信した時は本当に泣けたわね。
- 司会
- 前田さん、それはどこで受けたんですか?
- 前田
- 中電の外信です。その電文は家族の方へ打つ通信士が、通信の最後に「これから拉致されて行きます。さようなら。」って言うのよ、あの時は泣けたわね。通信士がこれを終った時点で「さようなら、悪い電文があっても読み返しが出来ない、最後の通信です、さようなら、さようなら。」と言って電源を切る訳よ。あの時はもう……。
- 司会
- それは8月の?
- 前田
- 8月の終戦になってからです。終戦の前前日あたりからもうおかしいっていう事が分かったんですよね。中電でね。そして、ソ連が戦争に参加したっていうニュースが入る訳でしょう。ああ、これで駄目じゃないかなと、私たちとしても勝たなきゃいけないんだなと思ったけれども、ソ連が、参戦したという事に皆ガックリした訳なんですよ。そうしたら、ある時に誰かが裕仁なんだこりゃ…裕仁……。その裕仁の名前で降伏したっていう事を向うに打つ訳よ。そしたらまた、今度は裕仁あてに来たから、「これ何だ、裕仁って何だ」って言ってたら、すぐ課長が来て「その人の名前を言うな」と言われたんだけど、「今の何だったの」ってきいたら、「天皇の名前だ」って言う訳よ。「それじゃ電文は」って聞いたら、降伏を受け入れた電文だったの。もうだめよ皆シーンとしちゃって。
- 加藤
- あれは2日前に分かったのよね。13日に。外信課にいた人たち皆知ったの。
- 前田
- 私なんかだめだっていうもんで仕事なんかほっぽり投げちゃって。中電の中で通信の人たち皆ヒソヒソ「終戦になるんだ」なんて、終戦の発表の前の日に私たち泊りだったから、朝夜明け前に、「宮城に最後の参拝に行こう」と言って、渡辺さんや泊まり明けの人皆で明け方宮城に行った訳よ。そしたら、憲兵が立ってて入れないのよ。それで私は立ってチョコチョコしているだけだったけど、最後のジャリを拾って来たの。そうして、私たちが泣きながら歩いていたら、道を歩く人たちが変だなあと思っていたんでしょう。それで中電の中へ行って、自分の寝る時間に行ったもんだからそれまでの通信がもう……。終戦の時は、もう一生忘れられないわよね。
- 安部
- もちろんその電報は暗号ね。
- 前田
- 私見たわけじゃないけど、暗号じゃなかったんじゃないかな。
- 加藤
- そう言ってたよ。
- 安部
- 英文の平文?
- 前田
- 当時は山形で受けていたから……。
- 安部
- 海底線のやつ?電波通信の……。
- 前田
- だけど、どっちにしても裕仁って名前は訳し様がないから裕仁って来る訳だから。その内容は何か知らないけど、 ただどうもあれらしいっていうことで。
終戦のエピソード
- 司会
- 前田さんのお話しの"裕仁"っていう話しは終戦のエピソードだな。分かったのは2日前ですか、3日前ですか?
- 加藤
- 私が聞いたのは12日です。だから、3日前じゃないかなあ。2日前の気がするけど。外信まで持って来たから3日前じゃないかな。
- 前田
- 通信士にはもう分かってたわよね。
- 加藤
- 13日にはもう分かってたわよ。
- 前田
- それで14日の泊まりで宮城に行ったんだから。
- 安部
- 13日が正式な受託になりますからね、国際的に。だから、12日ごろじゃないですか?
- 前田
- 向こうが受け入れたっていうことは、その前にこっちが出してたことになるんだからね。
- 斉藤
- それは、裕仁名で外信課へ回るっていうことは、あて先がどちらかっていうのが分かりますか?
- 加藤
- そういうことは分からないわよ。
- 前田
- いや、あったかもしれないけど、覚えてないのか見せられないから分からなかったのか。「裕仁あてに来たよ」って言う話しだけだったから、裕仁の名で出したかどうかという、そのもの自体は分からない。
- 斉藤
- 外交官が、外地で打診をしてると、その通信だったような感じだったんですか?
- 安部
- そうじゃないでしょう。正式のものです。裕仁の名前が出ているんですから。 正式の特別官報があるんです。軍事官報と特別官報が天皇の名前でもって出る訳ですね。
- 司会
- しかし、だめになるっていうのは1週問前からうわさがあったんですね。
- 安部
- そうです。
- 司会
- 僕も聞いていた。もうだめだと。
- 斉藤
- 通信士の資格試験についてはいかがだったですか?
- 三谷
- 本所でやったんです。先生1人に私たち1人ついて2回ぐらいやったんです。
- 長岡
- 先生がレシーバーをつけて。あれ落ちた人ずいぶんいたわよ。
- 三谷
- あれ、落ちた人いたんですよ。私なんかあの時、家でオシレーターを練習してたから 適当に速さがあれば出来る訳よ。私なんか60でゆっくり打てばいいのに上がるほうだから 80位で打っちゃって、書体はいいけど訂正分が8回ってやられちゃった。
- 斉藤
- その試験を受けて三級を。
- 三谷
- 頂く訳ですよ。
- 斉藤
- 落ちた方は就職関係はどうしたんですか?
- 三谷
- だけど、皆んな取れたわよ。やり直してたから。
- 斉藤
- やり直しって、追試みたいな形でやったんですか?
- 司会
- その免状というかライセンスはいつごろもらったんですか?卒業と同時ですか。
- 三谷
- はい。卒業と同時に頂いて。
- 加藤
- こんな小さなあれだったよね。
- 三谷
- 後で、兄の言うには「あれから何年か後に書き変えたらちゃんとしたかもよ」って言ったんですけどね。
- 加藤
- 私も失敗したんですよ。知らなかったから。
- 前田
- あれは現場に半年いて二級を申請するともらえるんですって?
- 前田
- 私なんか現場にいるんだから欲しいんだけどなあ。
- 加藤
- 試験を受けなきゃ、今は国家試験を。
- 前田
- でも、申請すれば出来るって。
- 加藤
- いや、その当時はね。今は国家試験を受けなくちゃ。
最後に
- 斉藤
- 四谷さんには最後に総括的に女子部について御感想をお伺いして。
- 四谷
- まあ、女子部っていうのはさっきお話しがあったように、当時の国策として設置されたと思うんですけど、 しかし、私は目的がどうあれ、講習所を受験し、そしてそこで勉強した婦人の皆さんていうのは、 要するに何かを求めて積極的に行動を起こしていったということで、 これは非常に評価されていいんじゃないかと思うんです。 しかもまだ現職で前田さんのような方もいますしね。
- 加藤
- そうね、溝内さんもいるしね。
- 四谷
- 現職で働いている訳ですから、これは非常にすばらしいことだと思いますし、 そういう意味では女子部に入っていた1期生(だいたい100名)の皆さんていうのは、 それなりにきちんとした意識を持って、その期間を勉強し、卒業されてからもそれなりの 生き方というものを私はもっているんじゃないかなと思うんですよね。 そういう意味で、この女子部っていうのは今日的にも一定の評価を受ける何物かを持っていた というふうに言えるんじゃないかと思います。