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電気通信大学60年史

前編6章  戦時中の無線電信講習所

第2節:官立移管

1918年(大正7年)12月設立の電信協会管理の無線電信講習所は、24年間に亘るその長い歴史の幕を閉じ、1942年(昭和17年)4月官立の無線電信講習所として生まれ変わった。

時局の流れというべきか、その中にはぐくまれた幾多の諸先輩の感激もひとしおであったろう。しかし私達は官立への移管を、快よく歓迎した陰にかくれて無念の情を涙にした教師達の姿を決して忘れてはならない。歴史には必ず犠牲が伴うからである。その何年かがすぎて日本帝国主義が残した母校は、今日電気通信大学として立派にその遺志を受け継いでいる。

2-1 移管への各界の動き

無線通信士の需要は日支事変の進展とともに、ますます増大の傾向をたどり、質的方面においても飛躍的向上を期する必要が痛感されるようになった。このような情勢下において、国家助成というよりも、むしろ国立の無線電信学校を設立して通信士の養成をはかるべきだとの要請が、官、民各方面から起こり始めた。その結果主管庁である逓信省に対してこれらの投書あるいは意見書、陳情書の提出等が相次ぎ、ついには国会請願のかたちとなって表面化して来たのである。

政府としては1940年(昭和15年)8月企画院を中心として、関係省庁間において官立無線電信講習所設立に関する打ち合わせ会議が開催され、その後数次に亘る慎重な審議を重ねた結果、逓信省所管、官立無線電信講習所を設立することに意見の一致をみるにいたった。

しかしこれが内容決定に至るまでの民問の情熱たるや鋭いものがあり、まずは民間側の意見から記述して参考に供したい。以下は船舶無線懇話会より隅野久夫逓信省電務局無線課長に提出された意見書である。

拝啓

船舶無線通信士養成に関しては貴官始め、電務、官船両御局格別の御配慮に依り愈々官立無線電信学校創設の御成案を得させられ近く議会に上程せられる運びに至る趣き拝承仕り欣快にたえず、関係各位の御尽力に対し奉り衷心より感謝の意を表する次第に御座候。

右に関し過日貴官より其骨子案の御内示を蒙むり併せて当会意見をも徴せらるる御意向を拝承御配慮の段感銘罷在候。

既に御高承の通り現下海運の使命たるや極めて重大にして其目的達成の方途多々有之べきも運航能率の維持増進及船舶積荷並びに其の乗組員の保護にあるは多言を要せざる処にして、之が完遂の要素として無線通信の円滑なる運用は実に第一義的のものに有之、平常に於ては定期航行に資するは勿論時局の急変に対処し、よく其効果を発揮せる等、かの資産凍結令発布前後の緊迫せる情勢下に於て、無線の果せる使命の如き実に船舶の死命を制せりと云うも過言ならざる実況を呈したる次第にして従而其の運用に当る通信士の技倆に俟つべきもの一層大なるを想定せば之れが養成の事たるや直に大所高所より其の職能を洞察し立案に当るべきものと確信するものに有之候、就而は本件に関し左記及具陳候間何卒御審議の上之れが御採択相成とともに其実現に就き此上共御尽力賜はり度具申傍々御願候



一、養成分科及課程中改訂を要するもの
第一部
普通科入学資格 国民学校高等科卒業または中等学校第2学年修学程度以上
課程 座学4ヶ年
実習1ヶ年
但し検定試験に合格あるいは再教育を受くるに非ざれば一級資格を付与せず
高等科本科入学資格 普通科座学修了者(入学試験に合格したる者)及び高等科予科 修了者より夫々同一員数を入学せしむる
課程 座学2ヶ年(但し需要上已むを得ざる場合は半ヶ年繰上げることを得)
実習1ヶ年
高等科予科入学資格 中等学校卒業者及び、これと同等以上の学力を有するもの
課程 1ヶ年とし通信法規電気理論の初歩並びに電気通信術
受験資格 なし 但し無試験にて高等科本科に入学せしむ
別科 原案を廃止し旧二級資格者及び普通科卒業後一定の実歴を有するものより入学試験に依る再教育機関とする
特科 原案通り
現行無線通信士資格検定試験は右に準じ適当なる改訂を加うること
改訂理由
普通科

近年船舶無線設備は益々精巧多岐となり来りたるが、保守及び取扱上に必要なる学術技能を授くるとともに運用上必要なる関係規程を修得せしめ、その他特殊業務取扱いに際し四囲の状況(救援気象、防空通信等)を正確敏速なる判断並びに措置を執り得る為に必要なる知識を付与せしむるは必須のことにして、これらを修得し得る素地としての普通学は、前記改訂案の入学程度を以てしては未だ不充分なりと云い得ざるも、第一級資格者指導の下に執務せしむるを原則とすれば不可なかるべし、但し収容人員に関しては予算獲得上の便法として、すべて原案に反対せざるも、その実施に当りては特に一般需要関係に重点を置き適宜、取捨すること

高等科

座学を1ヶ年延長したるは前述の理由と同一にして尚本科卒業生はすなわち一級資格にして一般に主任者として乗船し、平常はもとより非常事態に遭遇せる場合に於て独自の判断に依り四囲の状況に即応し適当措置に関し、船長を補佐するの要あるものにして、かかる判断措置に必要なる素養を充分に会得せしむるにあり、すなわち、大手筋の船主または航空会社等に於ては従来の経験にもとづきこれら一級資格者の一般常識の向上とともに専門技能の充実に対しても期待する所大なるものあり。

次席通信士としても尚一級資格者を配置するは全く前記の目的に添わんが為なり、又定員問題に関連して卒業生全部に対し、海軍予備士官の資格を得る事が困難なる場合は本科卒業生中より選抜の事とする。

高等科予科

前述した通り普通学の素養を有する中等学校卒業生を普通科座学修了者とともに高等科本科に収容すべき基礎学力を授くるを目的としたるものなり。

  • 本施設卒業生の配乗と船内体制について

    船舶運航能率増進の為、船内体制の確保と融和協調の肝要なるゆえんは多言を要せざる所にして特に有機的体制の下に担務者、各々その本分を尽すは運航能率増進の要諦なるが一部船舶会社当事者及び海運報国団にして無線通信士が船内に於て融和を欠くものと称し、その原因が教育程度の高きにある如き虚言を弄するは、甚はだ遺憾とする所にして、本件御立案に当りても、その辺に関し特に御配慮を蒙むりたるやに仄聞せるに付き、その実状を明瞭卒直に申し上げわが海運の使命達成に御指導を賜わる貴官はじめ関係各位の御参考に資し得れば幸に存じ上げ候

    敬具

次に官側の企画原案は次の如くである。

  • 官立無線電信講習所設立の必要性

    太平洋戦争中における無線通信の演ずる業務分野の拡大と、その任務の加重せられるほど、これが運用の適否は、その影響するところ甚大であって、これを小にしては産業文化の隆替にかゝわり、大にしては一国民族の盛衰興亡の岐路ともなるのである。かく見るとき無線通信に携わる従事者、すなわち無線通信士の責務の大なることは云うまでもないところである。

    無線通信士は有線電信等の通信従事者と異なり、日ごろ携わる通信業務それ自体が、既に激甚な空電、フエージング、混信、エコーなどの障害に合い乍ら、しかも戦時となれば電波謀略戦線をくぐって臨機応変の処理を要する関係上、優秀な技倆と広範な常識とともに、卓越せる裁量能力を要請せられるのである。

    かくて時間の進展に伴ない、無線通信士は不可欠な人的要素として一般に認識を深めるに至況ったのである。すなわち国民職業能力申告令の規程の対象となり、無線通信士の現生状は一目瞭然たらしめられ、もってこれを有効適切に動員する準備が整えられたのである。また船舶運航技能者養成令に依り、無線通信士の養成機関に対して、政府は養成員数または養成設備について必要なる命令を発し得ることとなった。これらの事情にかんがみ、無線通信士の職能は国家総動員法上、重要なる位置を占めるに至ったことが歴然である。

    かくの如く無線通信士の職責の重要性の増大は、その質的方面において、また飛躍的向上を要請されるに立至ったことは理の当然というべきである。

  • 無線通信士の検定試験制度と養成施設について

    無線電信並びに無線電話の機能の偉大さは、これが運用者たる無線通信士の責務を重加するに至ったことは前項に述べた如くであるが、国際電気通信条約は無線通信士に対し、一定の資格要件を定めており、又わが国では無線電信法においても無線通信士の資格並びに無線局に配置すべき員数は命令の定めるところによるべき旨を示している。その要件等については無線通信士の資格は次の6階級からなり、それぞれの資格に応じ、その従事し得る通信の範囲を異にするのである。

    第一級無線通信士
    第二級  〃
    第三級  〃
    航空級  〃
    電話級  〃
    聴守員級 〃

    これらの資格を取得して無線通信業務に従事する無線通信士となるためには、次の二途のいずれかを選ばなければならないのである。

    • 逓信大臣の認可した無線通信士養成機関を卒業して一定の資格を取得すること。
      従来は電信協会管理無線電信講習所が、その主たるものであったが、海軍通信学校、高等商船学校卒業者などに対しても、夫々の技倆に応じて第二級ないし聴守員級の資格が付与されることとなっていた。
    • 無線通信士資格検定試験を受験し、これに合格すること。

    この検定試験の制度は独学者の登竜門であり、各級ごとに毎年1回施行されている。

    而して無線通信業務に関する諸般の学術、技倆を独学で修得することは殆んど不可能に近い状態であり、又学校教育にしても不完全な設備では、これを修得することは容易ならざるものがある。以上の観点から無線通信士の需要の大激増に対応するには検定試験制度は、まことに微温的であり、かつ私立無線学校の存在に対しても無線通信士の需給調整上、多くを期待することは出来ない。

    日支事変以後、無線通信士の需給調整をはかる応急策として、まず事変中にかかる応急措置として一定資格者の銓衡検定を行なう一方、本邦唯一の国家認定校である社団法人電信協会管理無線電信講習所を官立に移管せしめ、その施設の大拡張を実施し養成人員を倍加することが必要である。

かくして、官民の合同による熱望は受け入れられることになり、第79議会において、1942年(昭和17年)度予算が通過し、官立無線電信講習所の設立が確定したのである。当初大蔵省に提出された予算額は200数十万円であったが、それが復活要求のつど減額され、最終的には120万円程度に減ったのであるが、復活予算として認められたのは更にその半額の63万円余であった。

これでは校舎、設備の拡充はほとんどできない額であったが、それでもまず橋頭堡を獲得した喜びは格別であった。成立予算の63万円は官立に移管になる電信協会管理無線電信講習所の従来通りの運営費だけで一杯となるので、校舎の新設等は、藤沢市当局を動かして同市鵠沼海岸に建造して、これを貸与させることにした。その所要資金約260万円(ちなみに当時の藤沢市の年間予算総額は80万円)は藤沢市の市債を発行することとして内務省に対する交渉など一切は逓信省において斡旋することとし、数回にわたり内務省地方課長と交渉して成功した。この市債260万円で、土地約1万坪の他、校舎、寄宿舎、講堂、武徳殿など約2千坪の建築を行う予定であった。

2-2 政府へ無償譲渡

電信協会の管理であった無線電信講習所が官立に移管されたとき、果してこの財産がどうなるかについて問題になったことがある。当然電信協会は解散する手筈になっていたが、当時の隅野久夫逓信省電務局無線課長から次のような提案があったということである。ただこのことは、隅野無線課長が自ら考えられたのか、それとも他の誰かが隅野無線課長を通じて逓信当局の了解を得て、若宮貞夫電信協会々長に話されたのか未だに不明であるが、一説によると無線同窓会を社団法人に改組して、社団法人電信協会所有の無線電信講習所の土地並びに建物一切を継承させ、その土地と建物を逓信省が借り受け賃貸料を無線同窓会に支払い、その金で生徒の寄宿舎や食堂などを経営させてはどうかということであった。

しかしこの案は残念というべきか、とにかく実現しなかった。評価額はその当時の金額で約160万円であったが、若宮会長は何もかも無償かつ無条件で国に寄附したいとのことで承知されなかったのである。

ところで無線通信士の養成機関として国策に沿ってきた、わが無線電信講習所は、官立への移管時に「国家に買上げられた」といういい伝えがあるが、これは多分にその真実性を欠いているので説明をしておく必要がある。

当時電信協会の会長は若宮貞夫先生であったが「目黒の無線講を官に売り渡した」という報道が流れた。若宮先生はこのことについて、はなはだ遺憾の意を表明をされた。すなわち先生は大臣及び次官達といろいろ会談し結局1942年(昭和17年)の2月になって、若宮会長から時の逓信大臣に対して「無線電信講習所の施設一切の寄付申請書」なるものが提出されたのである。もちろん、本信は戦時中のことでもあり、あとになって焼却されてしまい再見することは出来ないが大体の内容は次のようなことであった。

「社団法人電信協会は長い年月に亘り、主として船舶、航空機、陸上で社会に貢献してきた通信士の養成の使命を達成してきた。しかし今般、政府に於ては協会と同じ趣旨のかつ又社団にまさる大規模な計画を進めつつあることを知り、むしろこの際協会は、その計画に没入することによってこそ目的達成の近道であると信じ、当協会所属無線電信講習所の施設一切を教職員及び生徒を含めて国家に引取らせ、聖業の継続を期待し、ここに施設の寄付受納方を願い出た次第であります。」

これを受けて逓信省側は早速、省議を開催し、右の如き寄付申請の受納を決定し、その旨協会に示達されたのであった。それから数日して、この行為に対して政府より感謝状と藍綬褒賞の授与が決定した。ところが、この内達を行った隅野無線課長に対し若宮会長は極めてつよくこの褒賞を固辞された。その理由として次のように答えられている。

「私は一心に使命達成に努力して参りましたが、それは多くの役職員一同の絶大な協力によって、成果を得たものであります。このたびその事業が国家によって継承されることとなったことは、その事自体だけでも無上の名誉と思います。その上藍綬褒賞という勲章まで授与されることは、とんでもないことでありますので、これは是非ともあしからず辞退申しあげます。」

こういう先生の固い決心から、さすがの豪放らい落の隅野課長も、この時ばかりはしょんぼりと肩を落され戻って来たが、若宮先生の立派な考え方、態度そしてその人格等について痛く感激されたとのことである。もちろん、いろいろととりなしをしてくれた方々もあり各方面からの説得も効を奏することなく、結果的に宮崎理事(教育部長)と杉理事(会計部長)に褒賞が授与されることになって一件が落着をみた。

この伝達式には大臣不在で手島栄次官から手渡されることになり立会者は吉田弘苗秘書課長と隅野無線課長、石川事務官などであった。式のあと若宮先生は末輩の席まで立廻られ「関係者がこんな栄誉を受けることになり、本当に申し訳ありません。」との挨拶に参列者はことのほかの感激に涙したのであるが、自分のことしか考えない現代の風潮に比較して若宮先生の高潔な風格が思い出されてならないのである。

かくして社団法人電信協会管理の無線電信講習所は国家への移管については一銭たりといえども金銭の授受はなく完壁に無償で譲渡されたのである。あくまで「買い上げられた」という報道は事実無根であったことを敢えてしるしておく。

このことは戦後の1948年(昭和23年)GHQのメモランダムによって当官立無線電信講習所が文部省に移管するに当って、逓信大臣と文部大臣間にかわされた覚書にも明らかな通り、「当時の電信協会管理無線電信講習所は逓信省に無償で譲渡されたものである。」と記されている。

このことは若宮会長が「電気技術の振興によって人類社会に貢献する」という理念一本で貫かれたものであることを知るべきである。