電気通信大学60年史
前編6章 戦時中の無線電信講習所
第1節:戦時体制下の講習所
「清新な政治」を期待された近衛内閣の誕生から1ヶ月と3日、1937年(昭和12年)7月7日夜半、思わぬ戦争の口火は蘆溝橋で切って落され、日中両軍が衝突した。
1931年(昭和6年)満洲事変の柳条溝とは違って、この衝突は計画的なものではなく、軍関係者にも確固たる方針はなかった。4日後の11日にいたり、現地で停戦協定が成立したが、その日、東京では「華北派兵」を決定し「北支事変」が「支那事変」と呼び名も変わり、あちこちで戦線が飛び火し拡大していった。同年の12月、南京占領では大虐殺事件を引き起し、中国人民の戦意は確固たるものとなった。翌1938年(昭和13年)1月15日の近衛声明で、日本は自ら和平への道を閉じたのである。
広東占領、武漢三鎮陥落と破竹の進撃をつづける日本軍の占領地域は「点と線」に過ぎず、泥沼にはまり込みつつあった。その後、平沼、阿部、米内と内閣の首班は変わり、この間、独・英国を通じて和平交渉もあったが1940年(昭和15年)7月再登場した近衛内閣は、組閣5日後の27日、南方方面への武力進出を決定し、行きづまった事態の打開を、対米戦争への道に求めたのである。このような環境から無線電信講習所も次第に軍事色を強め、通信士の養成も民間から国家的事業へと変身したのであった。
1-1 通信士養成、国家的事業に
戦線の拡大がすすむなかで、無線電信講習所及びその他の私立無線学校の10数校では到底その需要に応じきれなくなった。その頃私立無線学校ブームが生まれ、東京及びその近郊だけでも15校を数え、全国的には約20校の多きに達した。しかしながらそれらの私立無線学校の大部分は教員も設備もまこと貧弱にして不充分なもので、卒業すればあたかも通信士資格が得られるような宣伝をしていた。ところが国家試験に依る所定の資格を取得できるものはその1パーセントにも達しない状況であった。そこで逓信省はまず電信協会管理の無線電信講習所を官立に移管して、その施設の拡充を図り、優秀な無線従事者を大量に養成する方針を決定したが、これにいたるまでには幾多の曲折があった。すなわち1941年(昭和16年)4月21日付けを以て船舶無線通信士養成に関する逓信省官船局長からの諮問事項に対し、同年6月船舶無線懇談会専門委員会は次の内容を答申した。
- 無線通信士養成制度改正の件
「わが国における無線電信はその創設の当初においては有線電信系の補助通信機関としてまたは船舶航行の安全を計り尚海陸連絡通信機関としての使命の下に陸上または主として遠洋航路船舶に施設せられたるが、爾来学理及び技術の進歩に伴ないその利用範囲の増大は多岐に亘るとともに、これが運用者たる通信士の使命は益々重要性を加うるに至り船舶に設置せらるるものに於ては、その運用の適否はただちに運航能率、航行の安全及びその他特殊使命に多大の影響を与うるに至った。
しかして現行の船舶安全法及び、その関係規程並びに無線電信法、その関係規則に於て通信士の配置、機器設備及び執務に関してこれが規準を定められたるゆえんは実に船舶無線電信の使命達成方策を明示せられたるものというべし。
船舶無線通信士の職責は単に円滑なる電気通信の取扱いをなすにとどまらず方位測定、気象、救難、航行警報並びに特殊哨戒通信等、ただちに航行の安全に関連を有するものが少くない。尚これが目的完遂のための要件たる機器の保守、運用の重要なることは論をまたざる処にして船舶無線通信士をいわゆる無線従事者としてのみに律するは当を得たものに非ず、むしろ他の乗組員同様船舶職員としての資格を与えることは、その本務遂行上はもとより船内体制上にも肝要な方策と信じられる。
現下船舶無線通信士の職責が既に前策の次第なるに於ては、その養成制度及び関連事項につき適当なる改正を加うるは船舶運用に対する国家の要請が、その能率の高度化に存する今日に於て最も急を要するものにして、ここに慎重検討を加え一方策を具申に及ぶ次第である。
- 現行船舶無線通信士に関する制度に付き改善を要すると認むる事項及びこれが対策
- 船舶無線が船舶安全上の強制施設なる以上、通信士は当然船舶職員法の適用を受けるべきものなり。
- 船舶無線が海運の発達に伴ない、船舶構成の一要素としての主要なる通信機関たる以上、通信士の職域は広義の船舶通信機関(情報通信、文化教育通信、安全通信、航海補助、統制通信及び経済通信機関)として業務を遂行すべき重大なる職責を有すべきものである。よって船舶職員法そのものの改正が第一義であり、その養成はこれを満足せしむる様考究すべきものである。
- 船舶無線通信士養成施設の整備拡充
- 現在施設の拡充
実験施設の充実を計るとともに、寄宿舎を設備し全生徒を収容し規律ある生活に慣らしめること、現在無線電信講習所に於て専門学科は専任の教官が少なく兼任者が多い。これは教育上影響する処が多いので専任教官をして、これに当らしむること。軍事教練に必要なる設備をなすこと(現在皆無)。現在の二級無線通信士は少なくとも中等学校程度以上の教養あり一般乙種免状船員との船内生活に融合し難きものあり、従ってこれらに対し上級免状受験の道を開き、かつ又甲種通信士拡充の意味より再教育すべき施設を新設すること。
- 運営改善の要旨
無線通信業務の国家的重要なるにかんがみ、その養成は一元的に逓信大臣の監督下に置き、甲種船舶通信士の養成は官立専門学校とする。
乙種船舶通信士の養成は中等学校程度とする。
丙種船舶通信士の養成は漁船密集地方に簡単なる養成所を設置する。
尚現存する多数の無線学校はこれらに適宜整理統合すること。
(註)これはのちに官立無線電信講習所の支所として再出発した。- 船舶無線通僧士養成上特に改善または重点を置くことを要する事項
- 最も多く養成を必要とする資格者
甲種船舶通信士
- 入学資格
甲種船舶通信士養成機関たる官立専門学校は中学校卒業者、乙種船舶通信士養成所に対しては国民学校卒業者に対しそれぞれ入学試験の際厳重なる体格検査を施行すること。
丙種船舶通信士に対しては国民学校卒業者に対し地方漁業方面の実情を考慮すること、尚各種共、入学の際は学科試験の外に無線通信士としての適性検査を施行すること。
- 修業年限の改正
官立専門学校 座学3ヶ年 海軍通信学校6ヶ月 汽船実習6ヶ月 合計4ヶ年 乙種通信士養成所 座学2ヶ年 海軍通信学校6ヶ月 汽船実習6ヶ月 合計3ヶ年 漁船通信士養成所 座学1ヶ年 主として通信術に重点を置く、海軍教育3ヶ月 合計1年3ヶ月 - 教育の内容改善
- 官立専門学校
- 語学 通信会話及び書簡文に重点を置く
- 数学 無線工学に必要なる高等数学
- 通信術 電気通信術の外に発光信号、手旗信号、旗旒信号、現行電気通信術教授法は純粋信号に依る有線方式にして実状に即せず、混信々号に依る受信訓練をおこなうこと。
- 電気学、高周波工学 高等工業学校電気科課程中、弱電学程度とし無線機器のみならず、高周波電気航用器具をも包含すること、特に実験及び実践に重きをおくこと。
- 海事関係法規 海事法規一般、税関検疫関係、港湾水路取締法大要、海運政策概論
- 海上気象学大要
- 船舶概論の高度化
- 軍事教練及び海軍予備通信将校として必要なる軍事学
- 通信法規中の電信法規
- 通信行政中の電信業務概要
- 平戦時国際公法中海上通信関係の大要
- 乙種船舶通信士養成所
- 国民学校卒業程度とし大体現在無線電信講習所にて教授しつつある範囲にて理論よりも実験及び実践教育に重きをおくこと。
- 初等英語
- 数学 電気数学の初歩
- 基礎電気学及び無線工学の初歩
- 通信術 おおむね甲種船舶通信士程度
- 海事関係法、海運政策概論及び気象学の大要
- 軍事教練及び海軍予備通信下士官として充分なる程度の軍事学
- 通信法規中の電信法規
- 平戦時国際公法中海上通信関係の大要
- 丙種船舶通信士養成所
- 中央に設置することは漁船通信の本旨に添わず、依って地方(漁港地)に設ける。
- 初等英語
- 電気学の初歩及び無線工学の初歩
- 簡単なる機器の操作法及び修理
- 簡単なる内国電報の取扱法及び外国法規通論
- 電気通信術、発光信号、手旗信号
- 漁業政策の概要、船舶法規の大要
- 平戦時国際法中船舶無線関係の大要
- 教育方針
- 海員として規律ある生活訓練及び徳育の教養に努むること。
- 甲種船舶通信士は長期の航海に於て完全なる機器の保守、故障の発見及び修理技術を体得し、いささかも通信の杜絶等をなからしむること。併せ将来の通信長として遭難、統制経済通信機関及び事務機関として万遺漏なき教育を施すこと。
- 乙種船舶通信士は短期航海にて陸上より手配をなしたるものにつき、一般乙種免状船員との船内生活を円滑に運ぶ意味に於ても高等教育は必要とせず、むしろ実際的取扱いに重点を置くこと。
- 丙種船舶通信士は地方に於て漁業家の子弟をもってこれに当らしめ通信のかたわら漁業の手伝いをなし得るようにすること。
- 海軍予備員たらしむること
一旦緩急の際は万全を期する為
官立専門学校卒業者に対し 海軍予備通信科将校 乙種船舶通信士養成所卒業者に対し 海軍予備通信科下士官 丙種 〃 海軍予備通信科兵
以上はあくまで船舶無線懇話会における専門委員会の答申に依るものであったが、この内容を受けて逓信省内部では真剣に論議をかわし、運用面において本答申を妥当とする結論に達したものは少なくはなかった。しかしいざ実現性の方向をたどる時、先立つものは資金であり同年の暮れに大蔵省への説明も終り、その査定の内示を俊っていた。ところで第1次の査定ではゼロ、復活要求に対する第2次査定も、そして第3次査定もゼロであった。しかし当時の隅野久夫逓信省電務局無線課長および石川武三郎事務官は諦めることなく、再三再四復活要求を提出したが大蔵省の最終的な査定内示が翌年の1月10日頃にあったがしかしその最後の内示もゼロであった。隅野課長は唇をかみこのまま泣き寝入りは出来ないとして、その夜のうちに電務局長及び経理局長に嘆願した。そこで当時の手島経理局長から海軍省整備局長に対し、このことは軍としても是非必要だから大蔵省に申し入れを依頼した結果、このことが効を奏したのであった。これはあくまで船舶通信士が有事の際に於ける海軍予備兵籍に編入するための答申案が有効に作用したためと思われる。
かくて船舶通信士の養成は単に民間のみに頼ることなく、官・民合同による協力態勢のもとに国家的事業に進展したのである。
社会の出来事 |
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1-2 逓信省から派遣講師
前述した通信士養成の国家的事業に端を発した教育計画に基づき、無線電信講習所にも逓信省からの講師が積極的に派遣されるようになった。従来は民間の教官や講師でうづめつくされていた講習所内部にも一つの変換が求められてきたわけである。
社団法人電信協会管理の無線電信講習所は長年に亘り政治経済、文化の中枢神経的なつながりを施す通信を担当する無線通信士の養成を使命として活動をつづけてきた。いわば民間における私設無線通信関係に大きなシェアーを持っていた。
一方、同じ通信士を養成するにも官設の逓信官吏練習所無線通信科があった。ここの卒業生は、もっばら官設の無線電信局である海岸局とか船舶局に派遣されていた。いわばお役人の通信士であった。前述した無線電信講習所にも逓信省からのお役人を派遣して通信士の養成を図ることは、需要の急増をつげる通信士の質の向上と国家的使命からくるものであったし、ひいては、当講習所を官立に移管しようとする意見や、各界からの陳情書が多く寄せられていたからである。
しかし無線電信講習所が電信協会の所管で、いわゆる私立であった頃、官側からの講師が全くいないわけではなかった。特に1940年(昭和15年)4月1日からは大量14人もの現職官吏を専任講師として派遣したあたり、まさに半官半民の色彩を強くしていたのである。だがこの逓信省からの派遣講師の導入を、快しとしない教職員がいたことも事実であった。これらの反対組は将来、無線電信講習所が官立に移管するという噂が翌年末頃から耳に入り始め心の動揺が、かくし切れなかったようである。
どのような時代、どのような場合にでも、小さな機構が大きな組織に吸収されるとき、旧職員は片隅に追いやられてみじめな思いを味わされるのが通例である。自分の後輩が上司として天下ってくるのではなかろうかとの心配が多かった。後日、任用についての内示があったとき、高等官への任用はただ一人(黒田吉郎先生)で、その他は判任官及び嘱託であった。管理職(課長、科長、係長)への任用は皆無であって、心配が現実の杞憂となってあらわれ、これを不満として退職した人もいた。また逓信省の幹部(電務局長あるいは無線課長)に直接不満を訴えたということである。また、不公正な処遇の元凶は教頭だと考えて同教頭を批判する投書が数多くあったとのことである。
このように逓信省からの新たな派遣講師問題は当時の講習所教職陣の中にあって、いくつかの波紋を残したが、ここに一つのエピソードを紹介しようと思う。それは旧教職員の任用についての内示があって間もなくのことであった。電信協会の旧役員と旧教職員のお別れのパーティがあった。それぞれの挨拶のすんだあと、沢野博先生が無線電信講習所の旧教職員に対する待遇があまりにもひどすぎるとし、会長の若宮貞夫先生に訴えられた。普通なら、このような場合、事情をくわしく説明するなり弁解されるところであるが、このとき若宮先生は静かに立たれて、頭を深々と下げ「誠に申訳ない、すべて私の不徳と無力のいたすところである。深くお詑びする。」と申されたので、その瞬問、会場は静まりかえり、突然、沢野先生が声を出して泣き出された。この当時のことを回顧するとき、若宮先生の真情と沢野先生の余りにもの純情さに会場にいた諸氏は感動したということである。
この顛末を当時逓信官僚でもあり、のちに東北電波監理局長になられた石川武三郎氏は、逓信史話の中で次のように述べられている。
時代の進歩に従って過去20数年間続いた無線電信講習所は発展的に解消して、この施設並びに教職員一切を官に移管することになった次第を、若宮会長は述べた。
教職員は寂として声なく異常な沈黙に包まれていたが、突然隅の方にいた某先生がオイオイと大声をあげて泣き出した。そして「今更官立など、自分の知らない世界に入って行くのはいやだ。会長頼むからこの講習所だけはいつまでも電信協会でやっていってもらいたい。」と嘆願するのであった。この光景に他の教職員のなかにも肩をふるわして欷歔する者が見受けられた。
しかし、やがて官側も電信協会側も次第に心が溶け合って、なごやかな空気がかもし出され、お互いに無線従事者養成という重大使命を認識して、大いに努力しようということで会が閉じられた次第である。
現在、各方面で尚活躍されている官立以前の卒業者の報告に依れば、逓信省からの派遣講師は、本省に於ける本業のかたわら、あるいは勤務終了後、来講されるので時間も不特定で午後1時から8時半すぎまでの時間割にならざるを得なく、普通校にくらべて戸惑っていたそうである。
社会の出来事 |
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1-3 報国団の設立
わが無線電信講習所においては、課程外の各種技芸の練磨、あるいは学生自治体育等の指導機関として学友会なるものが存在した。学校当局はこれに対し会費の微収及び会計事務に軽い監督を加える程度に止め、実質的には干渉しなかったのである。しかるに時局の進展ば学友会をより以上、有効適切に活用することが求められていた。そこで新体制に移行すべく学校の最高幹部を指導者として、教職員、学生を一体とした強力かつ実行力のある団体に改造するよう当局から指導されることになったのである。その機がようやくにして熟し1941年(昭和16年)4月学友会を発展的に解消させ、翌5月27日無線電信講習所報国団を組織するに至ったのである。初代の団長には広島庄太郎無線電信講習所幹事が任命され名誉団長として電信協会々長でもあり無線電信講習所長の若宮貞夫先生が就任された。本団の事務組織と担当部長は次の通りである。
報国団 総務部長 黒田 士郎 先生 〃 文化部長 沢野 博 先生 〃 国防訓練部長 本間 寿行 先生 〃 生活部長 本郷 新兵衛先生 〃 鍛錬部長 森 謙吉 先生
尚各部の内容について簡単に説明すると
- 鍛練部は勤労奉仕作業、剛健旅行、合宿訓練等を行うとともに武道及び各種の体育運動に関する事業を行い、行的な心身の鍛練を通じて強健な体躯を錬磨し濶達なる気宇を涵養する。
- 国防訓練部は高度国防国家の建設が叫ばれる折柄、将来の国家を担って立つ生徒に対して一般国防的訓練の外、国防上に役立つべき特殊通信連絡、例えば水上または野外に於ける発火信号、通信訓練、手旗信号通信等の訓練及び当所の特設防護団訓練が含まれている。
- 文化部は皇国民としての雄深な教養と高雅な情操の涵養に役立つ各種の施設を行うもので図書館の設備、無線科学の研究、講演、写真、音楽等の事業を行う。
- 生活部は生徒の校外生活の全般に亘り積極的に監督指導及び下宿等のあっせんを行い、質実剛健かつ明朗な生活を営ませることを任務とするもので、戦時学生生徒の生活刷新に関する事項の実行についても当部が担当する。
- 総務部に於ては会計事務、人事等のほか事業計画の立案及び企画を主任務に第一項より第四項までに属しない、例えば学生思想の善導、衛生思想の普及、あるいは団員相互の懇親融和を図ることなどを推進する。
なお鍛錬部は、籠球、相撲、剣道、柔道、弓道、庭球、野球、卓球、陸上、および海洋班をもって編成し、生徒が幹事役を担当することとなった。
無線電信講習所の目的は、学則に明示するが如く、優秀なる通信士を養成することにあり、従って本団の使命もまた講習所の補助機関として如何にして錬達した通信士を送り出し得るか諸種の事項を計画し実施することがその使命であったのである。同年12月8日大東亜戦争が開戦され講習所は軍事色に塗りつぶされ、このため報国団規則も改正する必要にせまられた。これは時局下青年学徒の錬成が益々重大性を加えつつある実情に鑑み、報国団の使命を一層強化し積極的活動を図るために取られた措置で発足してから1年4ヶ月後の1942年(昭和17年)9月29日より施行のこととなった。その概要は次の如くである。
- 報国団事業部の各班を左の通り編成替えし各部の均衡を図るとともにその活動の積極化を期することとした。
- 従来鍛錬部所属の剣道班、柔道班、弓道班、海洋班及び滑空班を国防訓練部に、力行班の一部を生活部に移管し新たに排球班及び山岳班を設けたこと。
- 従来国防訓練部所属の防護班及び野外班を全廃し(イ)より移管の班を以て新しくこれを編成したこと。
- 右に伴い講習所特設防護団を独立した一つの組織としたこと。
- 文化部に新しく音楽班及び図書班を設けたこと。
- 生活部に新しく厚生班、園芸班及び勤労班を設け風紀班及び調査班を廃止したこと。
- 役員及び団の機関を次の通り整理簡素化した。
- 従来本部役員たりし、理事、幹事の制度を廃し本部役員を以てこれを構成のこととした。
- 生徒たる団員を以て充つる班委員は各班全部に亘り指名せらるることなく必要と認むる班のみにつき団長がこれを指名しかつその員数も少数にとどめることにした。
- 其の他
- 従来生徒たる団員は各希望する班に所属することを原則としたのであるが、各班の収容可能員数等を考慮し実際その所属する班に於て充分活動し得るように各事業部長に於て各学級別に所属班員の員数割当を行いその割当に従って各学級担任に於て生徒の希望を参酌しこれに添って所属班を決定することとした。
- 生徒たる団員は前記した(イ)の区別に拘らず剣道班、柔道班または弓道班の一つに必ず所属し準正科として修練のこととした。
- 事業部各部長に講習所各科長を以てあてる等、役員の改任を行い上席者の陣頭指揮を計ることとした。
- 報国団事務と各科事務の円滑化を計るため、その役員は講習所規程に定める各科係員の分担事務を考慮し指名せられたること。 かくして報国団の使命と任務にのっとり、各部各班の活動は活発化し、その内容は報国団誌に掲載されるようになり士気はいやが上にも高揚されたのである。
社会の出来事 |
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1-4 第2・第3本科の設置
無線電信講習所が開設されてからの学制、あるいは科制の新増設や廃止については、第2章より第5章までに述べられているので、ここでの重複はさけたい。ただ本科については昭和初期に2年制となってからは今日まで変更はなかった。しかし戦局がはげしくなるにつれて1941年(昭和16年)4月の入学生より6ヶ月短縮され1ヶ年と6ヶ月で学窓を巣立ち、船舶通信士不足時代の需要に応えたのであるが、在来の本科生が第1本科生と呼称されることにいたったのは、これから述べる本科生の中にも第2及び第3本科生が出現するにいたったからである。歴史的にいえば本科一本の教育方針であったものが、漁業界の発展とともに特科が増設され、その後十数年を経ずして選科の設置につながっている。参考までに修業年限は前述した本科が2ヶ年、選科が1ヶ年、特科が6ヶ月となっており、資格取得にしても本科が第一級無線通信士、選科が二級、特科が三級を、卒業時に国家試験を受験することなしに授与されていた。しかし余談にはなるが、卒業試験が国家試験を兼ねるため、落第者も多く、ひどい時はその三分の一がふるい落され留年のやむなきに至ったそうである。ただ修業制度が採用されており、本科修業者・選科修業者には1ランク下の資格、すなわちそれぞれ一ランク下の第二級及び第三級の資格が無試験によって交付されていた。
さて本論に戻ることとしよう。第1より第3本科生の名称は次のようにして生まれたのであった。
第1本科生 | 1941年(昭和16年)4月に入学し翌1942年(昭和17年)10月卒業 |
第2本科生 | 1941年(昭和16年)10月に入学し、1943年(昭和18年)4月卒業 |
第3本科生 | 1942年(昭和17年)2月選科卒業生を本科に編入し同年8月卒業 |
この第3本科生は別名で特設本科とも呼んだ。これは1942年(昭和17年)1月6日及び7日の両日、選科生の4クラスより本科への編入試験を受験の上、認められたもので、3ヶ月を1学期として6ヶ月で本科第2学年分の課程を修得したものであり、この卒業生は50余名であった。あくまで第一級通信土の需要拡大という時局の要請にこたえた臨時的措置であったといいかえることができる。ついでながら号数のついた科生は本科生にとどまらず、選科生にもあったことをつけ加えておきたい。それは次の如くであるが第3本科生と密接なつながりがあるのである。
第1選科生 | 1941年(昭和16年)4月に入学し翌1942年(昭和17年)2月卒業 |
第2選科生 | 1941年(昭和16年)10月に入学し翌17年7月卒業 |
当時の記録によると第1選科生はA・B・C・Dの4クラスから成り、募集人員は320名のうち応募者は594名で入学許可者306名、卒業試験受験者が286名、卒業試験合格者240名、修業者25名であった。この卒業試験合格者のうちより本科編入試験を受験して、前述した50余名が第3本科生として学窓を巣立った訳であり、この第3本科生は第1選科生の分身であった。
本科については第1から第3まで、選科については第1から第2までと号数のついた理由は従来、1年に1回の募集入学であったものが、船舶通信士の需要が日々に高まり、1年に2回も募集入学させねばならなかったことにもつながり、1942年(昭和17年)4月、従来の無線電信講習所が官立に移管されるまで、創設以来、初めてにして最後の学制であった。そしてこれらの学生はいずれも大東亜戦争勃発時に講習所に在学し、各科生とも次項に述べる繰上げ卒業を受ける程、戦局がいかにしてきびしかったかを物語るものである。
また、これらの学生達は官立無線電信講習所の第1期生の学生と校門の出入りを同じくし、私立時代に入学した学生との間がしっくりといかなかったようである。
最後に官立へ移管する前の本科、並びに選科の学科目そして、毎週の授業時間数を、参考に供する。
選科 毎週授業時間数 |
本科 毎週授業時間数 |
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学科目 | 第1学期 | 第2学期 | 第1学年 | 第2学年 | ||
第1学期 | 第2学期 | 第1学期 | 第2学期 | |||
修身 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 |
無線電信無線電話学 | 6 | 6 | 6 | |||
〃 実験 | 6 | 6 | 6 | |||
電気理論及電気機械 | 6 | 6 | 6 | |||
電気通信術 | 17 | 14 | 13 | 9 | 9 | |
通信実践 | 14 | 4 | 4 | |||
内国無線電信無線電話法規 | 6 | 2 | 6 | 6 | 3 | 3 |
外国 〃 〃 〃 | 3 | 3 | 3 | 3 | 3 | 3 |
英語 | 2 | 3 | 4 | 4 | 3 | 3 |
仏語 | 1 | 2 | 1 | 1 | 1 | 1 |
交通地理 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 |
船舶概要 | 1 | 1 | 1 | 1 | ||
航空概要 | 1 | 1 | ||||
体操 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 |
合計 | 40 | 40 | 38 | 38 | 38 | 38 |
社会の出来事 |
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1-5 戦争勃発と繰上げ卒業
1941年(昭和16年)10月18日に成立した東条内閣は、対米開戦のための内閣であった。9月6日の御前会議で決定した「期限つきの開戦」をつきつけて近衛内閣を総辞職に追い込んだ人こそ東条陸軍大臣であったのだ。この間、野村駐米大使は日米間の和平交渉に尽力したが、その結果は思わしくなく同年11月5日及び12月1日の再度の御前会議で対米開戦が決定された。「ニイタカヤマノボレ」の開戦電は遠くハワイ沖にある日本軍の全艦艇に打電され、ついに12月8日未明、真珠湾の急襲、マレー半島上陸の奇襲攻撃を決行したのであった。同年の末までにグアム、ウエーキ島、香港が陥落、翌1942年(昭和17年)に入ってもマニラ、シンガポール、ジャワ、ラングーン等の東南アジアを制圧した。かくして緒戦の半年間は「軍艦マーチ」と「抜刀隊の歌」にのる大本営発表は「赫々たる戦果」を電波で伝え、皇軍の向うところ敵なしと国民に多大の信頼感を与えたのである。
しかし軍官民の信頼をよそに、ポート・モレスビー攻略作戦が珊瑚海海戦でつまづき、これが勝敗の帰趨を分け始めた。1942年(昭和17年)6月5日のミッドウエー海戦の大敗北で日米の戦力のバランスは完全に逆転を開始、ガダルカナルの"撤退"を体裁のよい"転進"と称して国民をあざむいたが、山本五十六元帥の死を国民の一人一人は肌で感じとっていたに違いはない。
本無線電信講習所でも戦局の動向を重視しながら、需給関係がきわめて急迫を告げている船舶通信士の補充を果すべく、繰上げ卒業を実施せざるを得ない状態に立ち至って来た。この問題は通信士のみに限られたものではなく、当時の海運界にもたらせた現象でもあった。特に3直3名定員の戦時体制のもとに於ては一級通信士の不足が極度に達し、ついに講習所本科生にいたっては従来2ヶ年の修業課程が、1941年(昭和16年)4月期の入学生より6ヶ月間も短縮され、在学1ヶ年半にして繰上げ卒業となり、ただちに船舶に配乗勤務となったのである。このことは単に本科生のみならず選科生にも適用され、従来1ヶ年の修業課程が2ヶ月短縮されわずか10ヶ月の教育で学窓を巣立ったのを始め、第2選科生については、更に1ヶ月短縮されて卒業したのであった。
このことは無線電信講習所が官立に移管された後でも発生した。すなわち第1部(船舶科)の高等科生は席上課程2ヶ年、実習課程1ヶ年、合計3ヶ年の専門学校令に準ずる学制であったものが、席上課程1ヶ年と9ヶ月で実習課程に入り実質6ヶ月の繰上げ卒業となったのである。これは第2部(航空科)高等科生についても同様であった。ただ第1部(船舶科)普通科生については、1ヶ年の席上課程に変更はなかったが、実習課程のうち海岸局3ヶ月、工場実習3ヶ月、船舶6ヶ月のスケジュールが各個人に依って大幅に変更されていた。最初から船舶実習にまわされた者は、海岸局や工場実習のローテーションを経ずにまるまる船舶実習で終わる者も多数見受けられたが、このことは高等科生についてもいえることであった。
船舶実習生は当初、アプレンテスということで実質の通信士定員から除外されていたが、実習開始後6ヶ月にして定員と認められ、俸給も実習時代の30円から50円にアップされ、名実とも三級通信士としての職責を果たしたのである。しかし、この船舶実習の課程の中で何名かは大東亜戦争の渦中に巻き込まれ還らずの人となってしまったことは、戦局がいかにきびしかったかを無言に物語るものであった。このことは後段に述べることとしたい。
とにかく、本題における繰上げ卒業については、前述した1941年(昭和16年)4月からはじまり終戦前までつづいたことは事実であり、このことは本講習所のみならず、高等商船学校、あるいは普通商船学校、またこれに付随した船員教育機関を含めて一般上級学校にまで波及していたことも真実であった。戦うに兵なく、これが後になって学徒動員の姿を現実に見たとき、まさに日本の戦局は不測の道をたどっていたというその証拠めいたものを感ずるのである。
公平信次氏は、陸・海軍における無線通信士を次のように書かれている。
陸・海軍の軍用無線通信士の需要は、戦争の激化に伴い益々増大するばかりで、逓信省としては逓信官吏練習所および官立無線電信講習所をフルに動員し、養成人員を極力増員したが、とても軍の要求に応じきれない状況であった。そこで止むを得ず繰上げ卒業を行わなければならなくなったのであるが、それも次第に年限を短縮して、しまいには短縮教育の限界まで追い込まれるにいたった。
情況下当然の結果として陸軍と海軍との間において、これら卒業生の争奪が行われることとなった。官立無線電信講習所の卒業生で軍通信の要員となる者は、初めのころは軍属としてであったが、いつのころからか軍人として徴兵される型となっていた。陸軍と海軍が、少しでも多く自分の方に卒業生を採用しようとするために、その初任の階級を競争して引上げていく結果となり、海軍ではまず卒業と同時に兵曹長として採用し、1年過ぎれば少尉に任官させることとした。一方陸軍ではこれに負けていない。陸軍の方は初めから少尉に任官させて採用することとなった。以下省略
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