電気通信大学60年史
前編5章 拡張期の無線電信講習所
第6節:学内外の整備
6-1 校歌・校旗の制定
無線電信講習所の本質と、その使命、思想を明らかにし、機会あるごとに歌いあげるため、はじめて校歌が制定され1939年(昭和14年)2月11日の紀元節を期して発表された。
作歌は文学博士志田義秀氏で、当初在学生より募集したもの10数編を作歌上の参考資料に供するため、同博士に提出し志田氏はその内の優良作を選び更に構想添削を加えてようやく完成したもので、作曲は東京女子高等師範学校教授小松耕輔氏に依嘱したものである。
校歌 一、 みいつ
御稜威 燦たる千代田の宮のゆうひ
西南近き夕映が丘に鉄塔高き我等が母校 おうか はきよ
桜花に 映ゆる 姿は聖しいざや究めん世紀の科学 二、 滄溟の霧、碧空の雲 ひま
大地の嵐またゝく隙に貫き到る無線の言葉 伝うる我等が責務は重し いざや磨かん技術と心 三、 霊峰富士を雲居に仰ぎ みくにだましい
皇国魂雄々しく強く進む文化の先駆者我等 目黒無線の理想は高し いざや讃えん母校の使命
前記電信協会の事業成績報告書の中に、
「学校精神を発揚し、且つ、団体訓練及び、統制上の中心を表徴するため、講習所徽章入り校旗を制定し、各種挙式の際式場に安置し、又は団体行動の際、その他必要に応じて善用すると共に、鄭重に取扱い、校風粛正に資することゝせり。」
とある。
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6-2 目黒無線同窓会
本校の同窓会は、前章に述べられているとおり、無線電信講習所の卒業生数が300名を超えた1922年(大正11年)設立の「無線電信同窓会」を第1次とし、1930年(昭和5年)9月設立の「目黒無線海友同窓会」(富永英三郎主唱による)を第2次として、七つの海を舞台に、主たる職域が海運界にあった当時の卒業生が、種々の困難を克服しつつ、互いの親交と友誼を計ろうと努力したが、会報等で相互の消息を知り合う以上に、一堂に顔を合わす機会を得るなどは、物理的にも不可能に近い状況であった。
その後、陸上の職場も次第に拡大され、卒業生も増大するにつれて、海陸を併せ、組織と統制の整った同窓会の成立を要望する声に応えて、1932年(昭和7年)、大岡茂が同志と相謀り、同年4月、機関誌「無線研究」第1号を発刊し、無線同窓会の名の下に、1939年(昭和14年)3月発行の第25号(終刊号)まで続けられ、同時に、1935年(昭和10年)より1938年(昭和13年)までの間は、毎年同窓生の会合を開いて、講習所教職員を招待したり極力、会の育成に努めたが、なお一部同志の会合の域を脱するにはいたらなかった。この時期が第3次とよばれている。1937年(昭和12年)、広島庄太郎が講習所幹事に就任したころから、講習所内外の整備もいよいよ充実し、学校当局としても同窓会の本格的強化を意図して、1938年(昭和13年)6月ころより各方面の卒業生に相談を開始した。
1939年(昭和14年)9月はじめ、大岡茂が講習所教師に任命されるにおよび、有志と数次の会合を持ち、同年9月30日、講習所々長、若宮貞夫の決裁を経て、同年11月15日に、目黒無線同窓会設立趣意書並びに第1回総会の通知を全卒業生に発送した。
1939年(昭和14年)12月3日、母校記念日をトして設立総会を、有楽町の電気倶楽部において開催のはこびとなった。在京者はもとより、横浜入港中の者など103名が出席、開会の劈頭、発起人を代表して木村基身が設立の趣旨を述べ、ついで会則案を附議して満場の賛成を得、ここに首尾よく第4次同窓会は設立された。よって規程に則り左記のとおり役員を選出した。
名誉会長 無線電信講習所長 若宮貞夫 会長 無線電信講習所幹事 広島庄太郎 副会長 木村特許事務所 木村基身 常務理事 日本放送協会 田沢新 同 日本郵船株式会社 菅原喜栄二 理事 東京電気株式会杜 石井喜高 同 同盟通信社 大滝鹿二 同 海事協同会 大内義夫 同 中央気象台 風間勝司 同 三井物産船舶部 吉川栄 同 東亜海運株式会社 内山礼蔵 同 焼津漁業組合 山口市次郎 同 大日本航空株式会社 森六平 同 東京都市逓信局 深潟修二 同 日本放送協会 安藤照雄 同 朝鮮郵船株式会社 林田 続 同 国際電気通信株式会社 肥田茂一郎 同 大連汽船株式会社 鹿江憲義 同 満洲航空株式会社 田原豊 同 満洲国郵政総局 榎戸国光 同 華中電気通信株式会社 伊藤良之助 同 中華航空株式会社 海江田信夫 理事兼主事 無線電信講習所 大岡茂 監事 陸軍技術本部 見上進 同 大日本航空株式会社 塩田陽三
新同窓会は、「目黒無線同窓誌」第1号を1940年(昭和15年)4月に発刊し、1941年(昭和16年)12月までに第5号を出した。毎号平均100頁を超えるものであった。第1号会誌には、2月6日に開催した卒業生座談会の記事が掲載されたが、その中に海軍の無線通信士に対する無理解を非難する部分があり、発言者、茂泉和吉郎は弁明書を取られ、大岡茂は編輯責任者として始末書を書かされた。しかし、この事件後、海軍の無線通信士に対する態度が変わり、同窓会はスタート早々大きな貢献をした結果となった。
第2号会誌には、日本郵船株式会社通信士、香西昭の「船舶通信士養成機関としての母校」と、同社の同じく通信士、宮入鎮の「船舶無線雑見」の2論文が掲載された。前者は、船舶通信士の教育制度を論じたものであり、後者は、船舶通信の本質を論じたものであった。また、この第2号では、小林勝馬を委員長とする同窓会館建設計画が発表され、会の活動がようやく積極性を加えた。
1942年(昭和17年)4月、無線電信講習所が逓信省に移管となり、同窓会は第5次の転換を遂げるのである。
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6-3 クラブ活動と対官練戦
本章の対象とする数年の間は、とりわけ無線通信士の活躍舞台であった各業界の不況からの脱出並びに当時意図されたわが国の諸政策の進展などが相まって、いわゆる『戦前のよき時代』と称される時期に当たっている。本講習所の教育内容の特殊性は、稀少価値として各方面より迎えられ、学生は資格さえ獲得して卒業すれば、就職の不安などまず念頭には無かったと思われる。一部の小規模な商業活動などでは、物資の統制強化によって次第に活況を失いつつあった面などを思えば、まことに申し訳ない感すらあった。したがって学生生活はおおむねおおらかで、文化、体育活動にも広く若い情熱と体力を傾注して、日々充実した青春に恵まれた。
文化、体育活動は、教職員、卒業生、在学生を一丸として、1929年(昭和4年)3月に発足した目黒無線学友会を中心に行われていた。学友会は設立以来、細部の規則変更を重ねているが、1934年(昭和9年)2月施行の会則には次のクラブ名が記されている。
1. 会誌部 年2回の会誌発行 2. 弁論部 講習会、討論会、雄弁大会を開催する。 3. 無線研究部 4. 音楽部 音楽の普及 5. 庭球部 春秋2回の大会を開き選手制度を認めず 6. 卓球部 同上 7. 野球部 同上 8. 籠球部 同上 9. 角力部 同上
この学友会は、おおむね自主的に運営され、年2回発行の会誌に、各クラブの活動状況が報告されている。なかでも、23号〈1940年(昭和15年)2月発行〉には、同年までの各文化、体育部の興亡、変遷が、当時の会誌部員の調査によりまとめられている。主に存続困難な部に関してであるが、次に引用しておく。
- 1. 図書部
1930年(昭和5年)当時の文芸部委員によって設立運動が起され、小谷幹事の熱心な賛助を得て、第2号教室に無線文庫が生れた。これ以前においても、月5円の維持費をもって、毎月、読売、報知、英文日日の各新聞、改造、中央公論、無線と実験等の雑誌を購入し一般の閲覧に供していた。
しかし、図書部設立後、図書室の管理、蔵書の充実を計って、1930年~1933年(昭和5、6、7、8年)と4年間続いているが、その後は杳として消息を絶っている。
- 2. 新聞部
1931年度(昭和6年度)会誌々上に、会誌部と別箇に、新聞部なる存在が認められる。これは学友会の自治権確立と共に設置されたもので、その内容は、校内新聞の発行及びジャーナリズム研究とある。惜しむらくは、その新聞は現に残っていないし、確かなことは解らぬが、その支出金の28円20銭よりすれば、僅か1回であえなくも姿を没したものと思われる。
本年〈注、1939年(昭和14年)〉わが会誌部でも新聞の発刊を企図し、いざ発行という段取りになって内務省で許可してくれず、さんざん奔走の末1回だけどうやら出して貰えたが、その後は中止と決定された。これは紙の資源愛護上、今後新たに発行する新聞は一切禁止とされたことによる。
- 3. 無線研究部
同部は1931年~1934年(昭和6、7、8、9年)と4年続いているが、この4年間に使った費用は僅か30円足らず、その内容は無線技術研究とあるが、この支出をもってしても、有意義なる研究をなし得たとは想像され難く、また実際にこれらの費用は、各無線会社の見学や、パンフレットの配布程度に使っていたものらしい。昨1938年(昭和13年)にも、予算総会にこの部の再建が提案されたが、多額の経費を要するところから、否決となった。
- 4. 水泳部
1930年(昭和5年)に組織され、その年の7月20日より、森、北条両先生と一行11名は千葉県北条館山で10日間の合宿を行った。毎日泳ぎ廻ったり、ヨットに乗ったり、軍艦を見学したり、釣りに興ずるなど甚だ愉快だった様子である。水泳部の支出を調べると、1930年度(昭和5年度)が100円58銭、1931年度(昭和6年度)は60円、この部は年1回の大会を開くことになっていたのだが、果して開催されたものか、1931年(昭和6年)には沼津で合宿を行った以後は、部として存在しなかったらしい。
1939年(昭和14年)、再び部として正式に承認されたが、プールの問題等、色々難点もあり、はなばなしい活動は期待できなかったようである。
- 5. 蹴球部
この部は、名前の表れているのは、1931年、1932年(昭和6、7年)の2ヶ年間だけで、これに関する資料は乏しい。ただ支出によって同部をしのぶならば、1931年度(昭和6年度)、41円33銭、1932年度(昭和7年度)は、1円70銭ということである。グランド等の関係で充分な活動のできなかったのは、当時としては、手先を使わない運動であっただけに、まことに惜しい。云々……。」(しかし、蹴球部は1941年(昭和16年)に至って、蹴球班として復活している)
- 6. 学友会の部ではないが、1930年(昭和5年)1月、エスペラント会なるものが設立された。
エス語は当時の流行であったらしいが、「日本は、米国の植民地でも、英国の自治領でもない筈である。我々は、自国内では外国語を強いられたくない。外国人との応対は須く、中立語のエスペラント語で対当のレベルに立って行うべし」、と主張して同志17名をもって、学校外の、どこかの邸宅を借り、エスペラント語講師の下に、真摯にして熱烈な研究を続けること30余時間の後、会員は海外のエスペランチストと文通を開始し、美麗な絵葉書、絵入雑誌等がしばしば教室を賑したとあり、またその多くの翻訳は学友会誌に載せられている。残念なことに、後援続かずの形で、1930年(昭和5年)の1年間でこの会も終っている。
以上、消長の歴史を経て、前記1934年(昭和9年)施行の会則による各部は、無線研究部の特例を除いて、いずれも順調に年を追って発展し、1938年(昭和13年)に写真部、1939年(昭和14年)に武道部(柔道、剣道、弓道)の創立を見るにいたっている。文体活動の充実には、背景として講習所の拡充による学生数の増加、また就職状況の好転による精神的な安定感などが大きく作用していたものと容易に推察できる。
体育関係各部は、春秋2回の校内大会、秋の対外試合を山として、選手はもとより、それぞれ多数の応援を繰り出して、教職員、学生ともども青春の日の貴重なぺージを、意気と汗とで一枚々々積み重ねていった。
校内大会の盛況を、一例として1936年(昭和11年)春の記録〈学友会誌16号、1936年(昭和11年)10月発行〉から拾ってみる。
- A、籠球部
6月に大会開催、チーム数17、参加人員85名・優勝「突撃軍」、メンバーは、RF東海林、LF渡辺、C大芦、RG香西、LG稲川
- B、野球部
6月4日、5日、参加チーム13、決勝戦は、2年B組「青酸加里」対1年A組「殺人」の計らずも1年対2年の対抗となり、スコア18対9にて1年の優勝、このメンバーは、投佐野、捕鈴木、一石原、二中村、三伊藤、遊小柳、左米本、中並川、右奥村
- C、庭球部
春季の詳報がないので、秋季については、9月4日、参加人員90名、決勝戦は、中山・前田組対松田・内脇組、優勝は前者で、中山・前田組は、春季も優勝している。
- D、卓球部
期日不詳、参加100余名、2面の卓球台を使用して、トーナメント方式で行われた。決勝戦は2年野坂対1年下保、優勝は後者で、1年下保は、この年の秋季にも優勝している。
当時の全校生徒数が、200数十名であることからすれば、ほとんど全員が何らかの競技に参加したことになる。この春、秋の大会を終えると、当時唯一ともいうべき対外試合であった逓信官吏練習所との対抗戦に、体育各部の熱気が引き継がれ、選手の選考に、また練習に、短い秋の日の暮れるのが惜しまれた。
対官練試合は、1932年(昭和7年)10月2日、野球部誕生後2年にして行われた野球試合を以て嚆矢とする。 球場は芝浦グランドを使用したが、当時の有様を学友会誌から引用すると
「あゝ遂に初陣の決戦迫る、若人の血は湧き肉は躍る、こゝに歴史的な対官練第1回戦の幕は切て下された。あゝ敵、名にしおう官練を向うに廻して、秋空にバツトがカンと鳴る。この日、我が軍の健棒大いに振い、大物続出、最初より敵を圧して意気凄し、あゝ栄冠、遂に我等が上に、勝つたのだ。狂喜、乱舞、80有余名の応援団の大歓呼のうちに、劇的第1回戦の幕を閉ず。スコア9A対7。ゲームセツト後、直ちに、第2回戦の申込あり、欣然として快諾す。我が選手のユニホーム制定の議、学生大会にて可決す。この間、森先生のお骨折は涙の出る程であつた。1週間後の10月9日、天候険悪、暗雲低迷す。森、永井両先生を始め、数十名の応援団こゝを先途と声援して下さる。この日選手は、真新しいユニホームにて出場、接戦また接戦、小雨降る中の試合はいよいよ白熱化した。7A対6。2戦2勝の戦績を残して、芝浦球場、陽まさに没せんとする頃感激に咽びつゝ、母校に凱歌す、…」
要するに、すばらしい出足しではあったが、その後、毎年野球は連戦連敗となった。
昭和 8年 記録不詳 敗 〃 9年 11A対3 敗 〃 10年 6対1 敗 〃 11年 5A対4 敗(10月11日、市電球場: 本所の近隣にあった) 〃 12年 9A対3 〃(9月26日、星製薬グランド) 〃 13年 2対1 〃(10月25日、芝浦球場) 〃 14年 5A対0 〃(9月24日)
1940年(昭和15年)にいたって、ようやく積年の汚名をそそいだ。スコア4A対2。部長は大石勝美君で、試合の前日、中目黒の八幡神杜に勝利の祈願をなし、勇躍、埠頭公園球場に駒を進めたという。
庭球部の初の対官練試合は、1932年(昭和7年)10月9日(野球部の第2回戦と同日)、本講習所の夕映ケ丘コートで挙行されたが、相手の2組を残し、力尽きて敗れている。その後の成績は、
昭和 8年 記録不詳 敗 〃 9年 〃 敗 〃 10年 記録不詳 敗 (10月24日、夕映ケ丘コート) 〃 11年 親善試合で勝敗は不明 (10月11日官練の運動場にて挙行) 〃 12年 全体として、7勝5敗 (10月26日、夕映ケ丘コート) 〃 13年 記録不詳 敗 〃 14年 〃 〃 〃 15年 〃 勝
籠球部は、1933年(昭和8年)9月17日、官練チームより挑戦を受け、初の試合を本校コートで挙行している。結果は、40対25のスコアで敗戦。以後の成績は、
昭和 9年 記録不詳 敗 〃 10年 40対25 勝 〃 11年 30対16 敗 (10月11日、官練運動場) 〃 12年 56対13 勝 (9月26日、本校コート) 〃 13年 13対10 勝 (不詳、官練運動場) 〃 14年 20対12 勝 〃 15年 記録不詳
卓球部は、1933年(昭和8年)が初の試合と思われるが詳細不明、どうやら敗戦であった模様、その後の成績は、
昭和 9年 記録不詳 勝利 〃 10年 記録不詳 勝利 〃 11年 1回戦7対3、2回戦3対1 勝利(10月3日、官練卓球室) 〃 12年 記録不詳 敗戦 〃 13年 〃 〃 〃 14年 9対5 勝利 〃 15年 1回戦4対3、2回戦4対3 敗戦
角力部も、1938年(昭和13年)体育関係他部の例にならって、官練に対し定期戦を申し入れたのであるが、これに応ずる選手が相手方になく、実現にいたらなかった。この年は、他校試合として、東京高等獣医学校との対戦が予定されたが、双方が試験の時期に当たったりして、不発に終っている。
最後に、武道部(初代部長吉田茂)である。大陸における戦線の拡大など、内外の時局は多端を加え、心身鍛練、精神高揚の叫びを背に、前記のとおり1939年(昭和14年)春、華々しく発足したのであるが、当初は道場の不備、用具の不足など、関係者の骨折りは大変なものであった。しかし意気だけは極めて盛んで、柔、剣道の日ごろの練習並びに初の春期校内大会は、橋元邸内の道場を借用して行われた。この年の秋から対官練定期戦に、はじめて剣道と弓道が加えられ6種目となった。柔道は相手方にクラブが構成されておらず、不参加となって当時の部員を残念がらせた。
1939年(昭和14年)は、剣道が圧勝で弓道が惜敗、1940年度(昭和15年度)は逆転してそれぞれ1勝1敗の戦績であるが、弓道の記録には、両校応援団の声援(隣接コートでの)が余りにもやかましく、気が散って精神統一が阻害された、とある。特に1939年(昭和14年)には、種目が増加された上に、優勝旗が初登場したり、学生数の増加もあって、対抗戦もにわかに盛大となった模様である。両校ともに組織立った応援団が結成されており、試合の雰囲気を盛りあげる上で欠かせない存在であったらしく、学友会誌第23号〈1940年(昭和15年)2月発行〉に、団長宮島仁一郎の報告が掲載されているので引用しておく。
「残暑やゝ厳しき、昭和14年9月24日、官練応援団400名を目黒の地に迎え、両校合せて1,200名の応援団並びに選手の入場式後、両校代表者の挨拶が終つて、剣道、弓道、籠球、卓球をトップに、猛烈な応援合戦の火蓋は切って落された。
本校応援団は官練の2倍、約800名が各試合場に配置されて、練習に練習を積んだ見事な声援で、応援歌、拍手の雨を降らせれば、官練もさるもの、小数とは言え一致団結して、元気に満ちた応援を返す。
両校応援団とも、午後はさすがに咽喉はかすれ、声はかれて来たが、学生の意気と熱で、それ位い何のその!、最後の勝利を得る迄は、「声が出なくとも、手がはれ上ってもやるぞ」と、互に譲らぬ。そして最後の庭球の試合!、接戦に次ぐ接戦、両校応援団、この試合が勝敗の別れ目と、必死に応援、狂喜乱舞、声のかすれて出ない者が、あちこちに見受けられる。
また、手から火が出るほど拍手している者!実に、何とも言えずただ感動。もうここまでくると、意地と意地の声援だ。選手も必死なら、応援団も必死だ。
だが、とうとう勝敗は決した。天のいたずらか、勝てる試合に惜しくも1点の差で、優勝旗を渡さねばならぬとは!
しかし、選手も応援団も、全力を尽して頑張った。悔ゆるところは少しもない。立派な試合であった。
本校応援団は、各自が良く自覚して声援に当った。行動敏速、リーダーの号令によく従ったので、目黒無線の名に恥じない立派な出来であった。来年こそは、更によき団の統制のもとに、各部選手、全校生徒一丸となって、必ず必ず優勝旗を取り戻して来るように、頼む。……」
スポーツ関係と並行して、1937年(昭和12年)5月発足の写真部は、官練学芸部と交渉、合同主催の写真展覧会の開催を計画し、以て当時唯一の友誼校との親睦を深めようと努力した。
また、学友会各部の春秋の試合大会とは別に、講習所の創立20周年を記念し、同年9月下旬、丸子多摩川の河川敷を目蒲電鉄から借用して催された第1回全校運動会の当日は、学友会よりの依嘱により、会員20余名を動員してスナップ撮影会を行ったり、学友会誌18号〈1937年(昭和12年)7月発行〉からは写真ぺージの挿入が実現するなど、活発な動きを示した。
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6-4 無線電信講習所記念日(電信協会の創立記念日)
電信協会会誌第335号〈1940年(昭和15年)1月発行〉に、講習所記念日に関する以下の記事がある。
昭和14年12月3日、第21回講習所記念日に当り、午前9時半より若宮会長以下理事、職員、生徒等講堂に参集して記念式が行われた。先ず宮城遥拝の後、国歌斉唱、次に若宮会長の式辞があり、校歌を合唱して式は閉じられた。
引き続いて母校の誉ともいうべき、空の勇士、世界一周ニッポン号の通信士、佐藤信貞君の講演があり、また東京日々新聞記者の従軍講演もあった。
一方、この記念日に当り、生徒のいろいろの記念の催しもあり、午前10時から校内開放、一般の観覧に供することゝなった。
前夜まで、平常通りの授業も行われたのに、一夜明くれば、記念日気分横溢、1、2、3号館の各室、廊下、何れも多彩のテープのデコレーションで、内部は満艦飾の姿である。講習所内の機械類は言わずもがな、中央気象台、大日本航空、同盟通信、東京日々、東京電気、海と空社などの縁故深き各方面より提供の、機械、模型、地図、写真、統計図表などの陳列あり。また生徒の作品、漫画、その他珍品、珍景あり、うどん、しるこ、おでんの模擬店あり。余興としてニュース映画、劇などもあった。講習所としては、生徒の通信練習ぶりを観覧に供したことは勿論、来観者の需めに応じ、電報受付から送信と、室を異にした巡路先の受信室で、着信交付の実演をもやった。
この日の来観者は、定刻から引きもきらず、総数凡そ、4,000名を超える盛況であった。(略)
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