電気通信大学60年史
前編5章 拡張期の無線電信講習所
第5節:通信士不足時代の就職
第4章第1節に詳述されているとおり、不況下の身を切るような就職難が、それが特殊な職域であったことと同様な理由で、国内外の情勢の変化と、無線科学の技術の向上に敏感に反応し早いテンポで、需給の均衡から供給の不足という現象へ移行していった。主なる要因と考えられるものは、わが国の種々の態様における海外への進展と、短波の利用技術の進歩であると考えられる。
物理的に数字の上で、需給均衡期に入ったと思われるのは、1933年(昭和8年)前後と考えられる。学友会誌11号〈1933年(昭和8年)発行〉の巻頭言で小谷雄一郎幹事は次のとおり述べられている。
我が理事者の企画された学生数調整策は、昭和8年度で美事に其の目的を達成した。何となれば同年度の卒業生は、自己の都合に依るものを除いては、今日迄にその全部が就職したばかりでなく、昭和7年度とそれ以前の卒業生27名をも就職せしめ得たからである……。
ここに1935年(昭和10年)4月卒業生の就職先と人数を掲げておく。
三井物産船舶部 5名 大阪商船株式会社 11名 日本郵船株式会社 10名 日本無線電信株式会社 2名 満洲電信電話株式会社 6名 辰馬汽船株式会社 2名 近海郵船株式会社 3名 川崎汽船株式会社 4名 粟林商船株式会社 1名 山下汽船株式会社 1名 逓信省電気試験所 3名 日本放送協会 3名 三陽杜 1名 東京逓信局 1名 南洋群島ヤップ島郵便局 1名 広島逓信局 1名
1936年(昭和11年)に入ると明らかに均衡を失し、供給不足の様相がうかがえる。学友会誌15号〈1936年(昭和11年)3月31日発行〉によると、同年4月卒業生数に対し求人のそれは、20%上回ったと記されている。ここで触れておきたいのは、この好況も当時の世間一般では必ずしも同様ではなく、むしろ就職難が叫ばれていた。また2・26事件など一方では物情騒然として、世情の去就は予断を許さなかった。この間のやや特異な形態を指摘して、識者の督励とも警告ともとれる一文があるので引用しておく。それは、学友会誌第16号〈1936年(昭和11年)10月31日発行〉巻頭言(小谷雄一郎幹事)、
「近年我が講習所の卒業生は、世間の所謂、就職難の渦中に投ぜられることを免かれて、卒業後問もなく職に就く者が、殆んどその全部であることは諸君周知の事実である。
回顧すれば、数年前の卒業生は真に気の毒であつた。成績優良、堂々一級の資格を獲得して、尚その上に幅広く完全に実力の備つた者はいざ知らず、その他の人々は、いくら焦慮しても、いくら奔走しても船舶はもとより、陸上でも全然所要がなく、遂には窮迫のあまり、或いは電話店の傭人となり、或いは新聞配達を余儀なくされた人もあつた。このやうな時代に遭遇した人々の艱難辛苦は、実に名状すべからざるものがあつたので、斯く申す筆者も、折角専門の学芸を修得せしめながら、之を実用に供することのできない社会を、憾めしくも思ひ、果ては内心悲憤慷慨の念に駆られざるを得なかつた。これを最近の状況に比較するとき、これらを称して隔世の感とでも言ふのであらう。けれども、如何に高い山でも、登り詰めれば降り坂となり、秋天明朗のお月様でも、盈れば虧けるのは世の習ひであつて、栄枯盛衰、忽ちそのところを変転するの例は少しとしない。然れば今年の全盛をもつて明年を測ることはできない。いつも柳の下に鰌はいないのである。
油断すな、警戒せよ。諸君が最後の勝利は実力に在る。たとえ現在が如何に全盛を極めて居ても、世の中の推移変転には、人力の及ばないものがあることを、深く認識しなければならない。もし諸君の中に、眼前の小康に安んじて、吾々の就職は何等の痛神を要せず、極めて易々たるものである、といふやうな考へを抱いてゐる者があるならば、それは余りにも楽天に過ぎた軽卒極まる見解である。……」
くどいくらいに、重ね重ねの訓示であるが、それほどに需給の好況が推察されるのである。
1936年(昭和11年)4月卒業生の就職先 日本郵船株式会社 18名 大阪商船株式会社 10名 三井物産船舶部 10名 国際汽船株式会社 6名 中央気象台 5名 日本放送協会 9名 日本航空輸送株式会社 4名 日本無線電信株式会社 4名 国際無線電話株式会社 3名 満州電信電話株式会社 2名 参謀本部 2名 逓信省燈台局 2名 東洋汽船株式会社 1名 栗林汽船株式会社 1名 川崎汽船株式会社 1名 中川汽船株式会社 1名 大連汽船株式会社 1名 水産講習所練習船 1名 三菱商事株式会社 1名 広海商事株式会社 1名 三陽社 1名 明昭電機株式会社 1名 東京逓信局 1名 海軍々令部 1名
この年の就職先を見て異色なのは、航空界からの新卒者の求人であった。もちろんこの年以前1929年(昭和4年)ころから航空機乗員としての無線通信士は、少数ながら本所卒業生の活躍分野ではあったが、おおむね、海運界から転職するのが例であった。このころより航空機の性能が、輸送機関として次第に世間の認めるところとなり、その技術的進歩は重要な位置を占めるようになった。この年を境に卒業生の活躍舞台として、海運、陸上に次ぎ、航空という第三の途が急速に開かれてゆくのである。そして1939年(昭和14年)4月新学期から、新たに、航空概要が教授科目として加えられることになった。
翌1937年(昭和12年)3月31日発行の学友会誌17号における巻頭言は、この間の推移を如実に物語っている。筆者は同じく小谷幹事である。
「昨年の春頃から、新造船が多数に上りつつある、といふことは仄に聞いていた。其の後追々聞知するところによれば、来年の春頃までには、その新造屯数は、7、80万に達するさうである。各地の造船所では、注文が多過ぎて困つてゐるとまで噂されてゐる。恰も欧州大戦の好景気時代を彷彿せしめるので、我が海運界のためには大いに祝福すべきである。とは言へ、新造船が出来るために、旧式の古船中には解体されるものもあらうから、新造の全部が、必ずしも増屯数となるか、どうかは判らないが、兎に角目覚しい増加となるだけは、疑ひのない事実であらう。(中略)
ひるがえつて陸上無線を顧れば、是また年を逐ふて、その利用範囲が拡大し、ただに通信や写真ばかりでなく、人体保護の医療方面にまで進出している。また航空路の開発も着々と準備中であるから、近き将来に追々之を実現せられるであらう。尚この上科学の進歩に伴つて、無線の利用は何処まで進展するのか、そのとどまるところを知らない状態である。将来会員諸君の活躍すべき舞台は、陸、海、空に跨つて、益々汎く倍々大である。前途好望とは、正に此事であらうと思ふ。……」
小谷幹事の巻頭言における表現の著しい変様ぶりを見ても、本所卒業生に対する需要の急激な進展の様相がうかがえる。この年、1937年(昭和12年)の7月には日中戦争(支那事変)勃発、世人の心中には、何となく更に大きな事態への突入が予感されていたようであった。そして無線通信士の稀少価値のようなものが、広く評価されてきたのも、わが国をとりまく時局と無縁ではなかった。
1938年(昭和13年)4月卒業生(本科)の就職先(計105名) | |||
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日本郵船株式会社 | 24名 | 栗林商船株式会社 | 1名 |
大阪商船株式会社 | 11名 | 近海郵船株式会社 | 1名 |
山下汽船株式会社 | 9名 | 日本航空輸送株式会社 | 8名 |
国際汽船株式会社 | 3名 | 中央気象台 | 8名 |
東洋汽船株式会社 | 3名 | 満洲航空株式会社 | 4名 |
川崎汽船株式会社 | 3名 | 国際電気株式会杜 | 3名 |
大連汽船株式会社 | 3名 | 日本放送協会 | 3名 |
池田商事株式会社 | 1名 | 華中電信電株式会社話 | 1名 |
原田汽船株式会社 | 1名 | 中華航空株式会社 | 1名 |
岡崎汽船株式会社 | 1名 | 東京芝浦電気株式会社 | 1名 |
三菱商事株式会社 | 1名 | 海軍技術研究所 | 1名 |
三井物産株式会社 | 1名 | その他 | 12名 |
無線通信士に対する需要の変動につれて、各就職先における本俸初任給も、種々の推移をたどつた。当時社船といわれた日本郵船の例では次のとおりである。
大正 9年 一級通信士 本俸初任給 90円 〃 10年 〃 〃 75円 〃 11年 〃 〃 65円 〃 14年 〃 〃 50円 昭和 8年 〃 〃 45円 〃 9年 〃 〃 45円 〃 10年 〃 〃 50円 〃 11年 〃 〃 50円 〃 12年 〃 〃 60円 半年後の10月に65円にすると約束 〃 13年 〃 〃 65円 ほかに支度金、50円 〃 14年 〃 〃 65円 〃 15年 〃 〃 70円
社外船については、1936年(昭和11年)ごろの資料によると、おおむね、50円から90円までの間で、各社まちまちであった。
陸上における就職先では、同じく1936年(昭和11年)ごろ、軍、官、民、いずれも、本俸初任給45円前後であった。
航空方面については、日本航空輸送株式会社(のちの大日本航空株式会社)の例があり、次のとおりである。
昭和 12年 一級通信士 本俸初任給 60円 〃 13年 〃 〃 50円 ほかに仕度金、15円 〃 14年 〃 〃 55円 推定 〃 15年 〃 〃 55円
満洲航空株式会社、中華航空株式会社は、いずれも、5割程度、本俸初任給において高額であった。
1938年(昭和13年)4月、国家総動員法公布、ついで1939年(昭和14年)9月、欧州大陸に第二次世界大戦の火ぶたが切られ、1940年(昭和15年)9月には、日独伊三国同盟がベルリンで調印された。国家非常時という声に呼応し、ますます無線通信士の需給の不均衡が拡大される事態にかんがみ、その質、量ともに急速な向上、増大を計るべく、特別の対応措置を講じたのであるが、電信協会会誌第331号〈1939年(昭和14年)5月1日発行〉の1938年度(昭和13年度)事業成績報告書の中に次のとおり記されている。
「支那事変の発展に伴い、無線通信士の需要は益々激増の情勢にあるため、本会の養成業務も亦これに順応し、拡張改善を計らざるべからざる勿論なり。此を以て、定期の生徒収容人員も、でき得る限り増加を計り、その他、本期においては、特に特科、選科は定期によるものの外、各臨時養成を実施せり。即ち臨時特科は年度初頭より、臨時選科は10月初より授業を開始せり。尚この外北支における華北電信電話会社の依託に係る生徒50名を引受け11月下旬より6ヶ月間の授業を行うなど、何れも主務省の認可を経て実行し、業務の大拡張を実施せり。
また、昭和12年度定期試験に及第し得ざりし者等に対し、主務省の認可を得て、本年5月再試験を行い、これにより卒業生を増加せしめたり。
本年度において、新たに入学せしめたる人員は、総計592名、卒業生の総数は、411名にして、これを前年に比すれば、202名の増加なり。
更に、校舎の増築を実行し、次年度における収容人員の大増加、および本科夜間の授業時間を、昼間に繰上げ授業能率の向上を計った。」
ちなみに、1938年度(昭和13年度)、本科及び選科の定員、応募者数、入学許可数は次表のとおりであった。
定員 応募者数 入学許可数 本科 140名 583名 158名(3組とす) 選科 60名 135名 70名(1組とす) 計 200名 718名 228名
就職に関し、自らの希望先を選択し、採用試験に応ずる通常の姿は、おおむね1939年(昭和14年)4月の卒業生までで終わり、時局がますますエスカレートし、太平洋戦争に突入する前年、1940年(昭和15年)春の卒業生からは、一部軍事的なものを含め、各業界の強い要請に基づき、陸、海、空の所要分野へ、所要の人員数を割当てる形式をとるようになった。いよいよ本格的な戦時態勢に移行してゆくわけである。
電信協会会誌336号〈1940年(昭和15年)5月15日発行〉に掲載されている北京、中華航空株式会社の広告をみると
募集要項 1. 募集人員 約50名 1. 待遇 無線通信士第一級 月収 213円(初任給) 無線通信士第二級 月収 202円(初任給) (尚常務通信士には毎月30円以上の常務加俸あり) 1. 入社手続 履歴書、戸籍謄本、健康診断書、写真(半身、手札型)を提出のこと
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