電気通信大学60年史
前編5章 拡張期の無線電信講習所
第4節:通信士の需要増大
1937年(昭和12年)7月の日支事変勃発以後、大陸における戦線の拡大とともに占領地行政並びに日本、大陸間の交通、通信に必要不可欠の船舶、航空機による輸送網の大幅拡充に伴う要員の不足は各方面に厳しさを加えてきたが、無線通信士もその例に洩れなかった。無線電信講習所においても、これらの需要増にこたえるため、逓信省のバックアップの下に各科の増設、定員増を図り校舎の増築、教師の確保に懸命であった。
4-1 特科を年2回募集
無線電信講習所における特科生の養成は、1926年(大正15年)大日本水産会が小型漁船無線電信通信従事者の養成を電信協会に委託してはじまったものであるが、1933年(昭和8年)からは社団法人漁船技術員養成所が大日本水産会からその業務を継承し、年1回7ヶ月の修業期間をもって無線電信講習所に教育を委託し卒業後は漁船及び漁業無線海岸局の要員として就職していた。
これら漁船通信士も遠洋漁業の発展と大陸沿岸への進出によるわが漁船隊の拡充により急激に不足時代に入っていた。1937年(昭和12年)末以来要望されてきた特科の増員養成が漸く実現の運びとなり、従来の秋期入所の特科生が6ヶ月の教習を終え、162名が卒業式を迎えた1938年(昭和13年)4月2日の1週間後4月8日には、早くも漁船技術員養成所よりの新たな委託生132名が春期特科生として入所した。これにより今後、春秋2期毎年300名以上の第三級通信士要員が目黒から送り出されることになったのである。
4-2 第2選科の設置
1937年(昭和12年)3月、海運界の急需に応じ新設された第二級無線通信士養成のための選科は、翌1938年(昭和13年)2月、第1回の卒業生51名を送り出し、続いて第2回入所生を迎えたが、特科生の春秋2期の増員にならい、秋期入所の臨時選科を設けることになり、8月以来講習所は逓信省と協議の結果1938年(昭和13年)10月開設を決定した。1938年(昭和13年)9月9日、日本放送協会(NHK)東京中央放送局のラジオニュースでまず募集を発表後一般募集に移った。その結果入学志願者271名、9月29、30の両日入学試験を施行、10月5日、92名の合格者を発表した。修業期間は春期と同じく1ヶ年で、卒業者は全員第二級無線通信士の資格を付与されることになり、第二級通信士要員の養成は特科に続き倍加される態勢となった。
4-3 定員をふやす
前項各科の増設とともに、本科も含め定員増加も次第に顕著となり、数年前まで目黒夕映ヶ丘で静かに学んでいた100名足らずの学生は、1938年(昭和13年)秋には各科併せて700名に達し、1938年(昭和13年)10月29日の漢口陥落祝賀提灯行列には、皇居前まで長い行列を作って行進するまでになった。
定員の増加により1935年(昭和10年)から1940年(昭和15年)までの各年の卒業生(修業を含む)数は次のとおりである。
年度 本科 専科 特科 昭和10年 61名 / 100名 昭和11年 95名 / 125名 昭和12年 83名 / 125名 昭和13年 101名 51名 220名 昭和14年 125名 174名 338名 昭和15年 140名 271名 337名
社会の出来事 |
|
---|
4-4 校舎の増築
無線電信講習所本館は1924年(大正13年)1月31日、火災により焼失後同年6月25日新築落成したもので、以来13年間増改築はほとんど無かったが、養成人員の増加とともに教室の狭隘を緩和するため、1937年(昭和12年)9月、第2校舎として2階建建坪200坪の新館を第1校舎(本館)の隣りに建設した。更に1939年(昭和14年)3月には第2校舎より一段高くなっている西北側に、2階建建坪158坪の教室が落成したのであるが、校舎の増築だけで教育の拡充はできず、実験機械設備の整備と教師講師の充実には困難も多かった。
第2、第3校舎の建設で3段の段差のある講習所敷地は下段より次第に校舎に占められ、残るは東北隅台地に静かな澱みを見せていた千代が池の一角300余坪を埋め立てて校舎建設用地とするほかはなかった。元来講習所敷地一帯は、松平主殿頭控屋敷の跡で千代ケ崎、衣懸松、銭亀井など口碑、伝説に富んだ地域で東京の名所旧蹟に数えられているので、千代ケ池の埋立てにもいろいろ考慮が払われたのである。
新編武蔵風土記に
「松平主殿頭控屋敷のあたりを云う、この屋敷は三田、上大崎、中目黒および下目黒入り会えり。邸内に池あり、昔はいと水ゆたかなりしと云う、古くは新田義興居城の跡なり、義興の侍女、千代女、義興の死に殉じて池に入りて死す、よりてこの名あり」
とある。また、「目黒大観」によると
「千代ケ池を含む一帯の地は松平主殿頭が別荘を営みし所に当り、このあたりは夕日ヶ丘に続く丘陵の地で、現在でも富士箱根一帯の山系を一眸の下に収むる絶景の地なり」
とある。この由緒深い千代ヶ池は、時代の流れに従って影を失うのであるというので荘厳な修被式が行われた。
しかもそれは尺八寸の大鯉や亀など多くの生霊に関する神事というので、1939年(昭和14年)10月某日の深夜にとり行われた。
埋立地384坪は1939年(昭和14年)10月27日着工、翌1940年(昭和15年)3月31日完工し、同年7月2日、この地に新講堂が落成した。
社会の出来事 |
|
---|
4-5 委託生を置く
日支事変の進展に伴い大陸各地における無線通信網の整備が急務とされ、現地北支に国策会社として華北電信電話会社が設立されたが、同社が逓信省の斡旋で逓信部内から採用した有線電信従事員に無線通信士要員としての教育が必要となり、無線電信講習所にその養成を要請してきた。講習所としては、各科の増員により教師その他諸設備にほとんど余裕のない状態であったが、現下の緊急性からみてこれに協力することになり、1938年(昭和13年)11月下旬より1939年(昭和14年)5月中旬まで約6ヶ月間の養成期間をもって、第二級無線通信士を目標に専修科の科目で授業することになり、1939年(昭和14年)5月16日33名の委託修業生を華北電電会社に引渡した。また、1939年(昭和14年)4月に入学した第1選科生の中に鉄道省委託生5名、同年10月に入学した第2選科生の中には、満洲航空会社委託生30名、中華航空会社委託生50名が含まれているが、これらのうち鉄道省委託生は同省で募集のうえ推薦してきた15名中より、また航空会社委託生は同社で募集のうえ推薦してきた261名中より、いずれも一般入学試験を経て入学させたものである。
1939年(昭和14年)10月逓信省航空局は新聞に航空無線通信士委託学生の募集を公告した。公告内容は、養成期間1ヶ年、その間月額40円を支給するとの簡単なものであった。養成所が無線電信講習所であることが分かったのは、受験申込書を受け取ってからであった。当時、逓信省の現業員は日給月給制で、中卒で日給1円20銭、1ヶ月28日制の勤務であったから無欠勤でも33円60銭にしかならなかった。したがってこの養成費40円は、当時としては大いに魅力あるものであった。しかも授業料免除、書籍代等すべて支給、制服代のみが自弁という好条件であったため、応募者は本科在学者の転入者をも加え、現役組、就職組の混成部隊が殺到し、競争率も相当なものであった。
翌1940年(昭和15年)4月この難関を突破した71名が第6回選科D組として1クラスを作ったのである。この中には、後に戦死した台湾出身者1名のほか、その出身地は、北海道、朝鮮はもとより3府29県にわたる広範囲なものであった。入学後、間もなく、大日本航空会社が最初に15名採用、続いて中華航空会社が25名、満洲航空会社が31名を採用、全員の所属会社が決定した。
授業内容は一般選科と全く同じであったが、航空通信士としての特色をもたせるため、航空概要の科目が追加され、航空局よりの派遣講師による教育がなされた。講義は、軟式飛行機(飛行船)、硬式飛行機の区別からはじまり、簡単な航空工学等であり、例えば、エンジンストップ時の飛行高度と、滑空距離の計算方法などは特異な学習内容であった。今では笑い話であるが、当時は真剣に講義を受けていた。
月末になると学生は所属会社に養成費をもらいに行き、一人前のサラリーマン気分にひたっていたものである。大日本航空会社のみは日比谷にあった本社から一括受領して教室で渡すものだから、他のクラスからは、大いに垂涎の目で見られたものであった。
このころ、講習所では学生の収容力も限界に達し、教室はフル回転となり昼間だけでは間に合わず、選科は午後1時から夜6時、7時までとなり、窓のあかりは夜遅くまであかあかと、ともされていた。附近の屋敷街が暮色に包まれた中に、教室の灯だけが輝いている景色は印象的なものであった。この年、校庭の一角に講堂が完成し、祝賀式には海軍省から海軍大佐が来賓として出席し、講習所の海軍色は増していったようである。また、ときまさに紀元二千六百年祭にあたり、在校生全員が宮城広場まで提灯行列を行ったのもこの年の秋である。
翌1941年(昭和16年)4月、66名が卒業し、それぞれの任地に赴任して行った。大日本航空会社の委託生はこの1期生が最初で最後であった。選科は卒業時2級通信士であるので、乗務通信士として不適格な場合も多く、大半が地上局勤務に従事させられた。そのため、ほとんどの者が朝鮮総督府、台湾総督府等の外地で1級資格を取得したものである。時代は第二次大戦に遭遇していた。その結果多くの戦死者、殉職者を出すこととなり、この委託生からも日航4名、中華5名、満空3名、計12名が空に散って行った。戦後、物故者7名、消息不明19名、卒業時66名のうち、生存確認はわずか28名である。このうち、半数近くが官庁、他は自営、会社勤務として現在も活躍中である。
本科、選科生募集及び収容数を電信協会会誌336号〈1940年(昭和15年)5月15日発行〉電信協会記事より引用しておこう。
本年度に於ては通信士不足の実況に鑑み可及的多数を収容することと逓信省関係方面とも協議の結果左の通り決定せり 本科 240名(4月収容) 第1選科 160名(同) 第2選科 160名(10月収容) 右4月収容の分に付ては昭和13年12月より又10月収容の分に付ては6月より募集に着手したるものなるか其の応募数及実際の収容数等左の如し。 応募数 入学数 本科 625名 239名 第1選科 268名 163名(鉄道省依託生5名を含む) 第2選科 632名 161名(航空会社依託生81名を含む)
社会の出来事 |
|
---|