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電気通信大学60年史

前編5章 拡張期の無線電信講習所

第2節:私立無線学校の増加

2-1 増加の原因

1918年(大正7年)12月7日、電信協会管理無線電信講習所が設立され、従来の安中電機及び日本無線電信電話等における養成機関を継承統合し、一応の教育体制を整え、爾来10数年間私設無線電信施設への無線通信士の安定供給は、無線電信講習所通称「目黒無線」の一手にゆだねられてきた。しかし満洲事変後各方面で無線通信士を多数必要とする情勢となったにもかかわらず、日本唯一の電信協会管理無線電信講習所の通信士養成の拡充も思うように伸びず、更に急激な通信士需要に直面し、ついに各所に私立の無線学校が設立されるにいたったが、それは濫立ともいうべきもので、その原因としては次のようなものが考えられる。

一、無線通信士の需給の逼迫

満洲事変後の大陸進出政策の進展に引続き、1937年(昭和12年)7月には支那事変が勃発し、急激に通信士の需要が増加し、供給はその数分の1を満たすに過ぎなかった。1934、1935年(昭和9、昭和10年)までに設立された私立無線学校は5校であったが、その後14校が濫立し19校に達した。これは無線通信士が、他に代用者を求めることのできない職種であり、需要者側においてはいかなる方法によっても、この充足を計らねばならず、また、独学により無線通信士資格検定試験をパスして、この要望にこたえようとする者もあったが、無線技術、通信術等は独学で修得することは事実上不可能であった。この間の情勢を察知して、各所に学校設立が計画され、また、検定試験受験のための予備校が出現した。

二、学校経営の手続が容易であり、かつ利益が大きいこと

学校の設立経営は経済的理由以外にも難しい点が多く、殊に無線通信士養成のような特別の教育を施すものは、その機械設備の点において、また専門的技能を持つ教師を得る点で、良心的かつ満足すべき養成施設の経営を実現するのは至難の業であるが、この種私立無線学校にあっては、例えば各種学校の認可を受けると、監督官庁は外形上学校の形式を整えておけば、それ以上の取り締まりをせず、内容の取り締まり、監督については全くなす所ない実情であったから、設立者はまことに簡単に設立運営ができた。そしてこれら学校の授業料は高等無線学校の名前をつけることにより、専門学校令による専門学校程度の月額7円から10円の授業料を徴収しており、一方教師は資格を必要とせず、かつ専任者を極力少なく、時間給的教師を多く採用したため、経常費の最も多い教師給料を最低に抑えるとともに、専門教育に不可欠の機械や実験設備を少数の模型的設備で糊塗したので、相当の営業利潤があげられた。

三、授業内容、時間を任意に編成できること

無線通信士は国際的に一定の水準に達していることが要求されている関係上、その資格別に正規な教育を施すことはなかなか困難なことであるが、監督の衝に当る当局がこれらに関し放任の状態であるのを利用し、経営者側においては、授業時間の内多数時間を通信術教授に当て、他の課目についても、英語、数学等一般的のもののみを選び、法規、無線実験等の特殊的のものを避けて安易につくものを常としていた。一般学科はその成果が授業時間に比べ、判然としないのに引きかえ、通信術とくに受信術は日1日とその成果が見えるので、他の課目の無責任な教授をこれで覆いかくしているような有様であった。なおこの種学校における無線通信術の教授は単なるブザー受信の範囲で、送信術に不可欠の印字機すら、その台数が極めて少なく、一般生徒が使用することはほとんど不可能で、そのため送信術の熟達は望めず、自己流の弊に陥ることが多かった。ブザー通信の教師は有線通信技術者で充当できるほか、自校で養成した者でも教師に採用できるので、容易にこれを求めることができた。

四、無線科学への関心増大と海事、航空思想の普及

無線科学の発達はひとり通信界だけでなく、社会全般に拡まりとくにラジオの普及により、無線科学が国民生活に浸透し、将来の生活設計に若者たちが「無線科学」を活用しようと意識してきたことが、私立無線学校の数多い設立を見た一因でもある。また、海事、航空思想の普及に伴い、海洋、航空に憧れた若者が、その希望を満たす最短ルートが無線通信士であると即断し、無試験入学を看板にした私立無線校に殺到し、その設立を容易にした点もある。

2-2 私立無線学校の内情

東京、大阪周辺における私立無線学校の存在は、大日本無線史によると、次のようである。

学校名 所在地 設立年月 生徒数
(内夜間生徒)
教員数
(内専任)
大阪無線電気学校 大阪 昭和7.3 1,092(0) 54(30)
東京高等無線電信学校 東京 7.3 1,140(0) 50(16)
中野高等無線電信学校 東京 8.4 2,977(1,072) 62
武蔵野高等無線電信学校 東京 10.3 1,300(800) 40
東京第一無線工科学校 東京 10.4 885(485) 31
鶴見無線通信士養成所 横浜 12.4 76(76) 9
東京無線技術学校 東京 13.3 815(330) 16
大阪通信工学院 大阪 15.3 350(150) 16(6)
横浜高等無線講習所 横浜 15.4 115(80) 10(2)
目本高等無線工科学校 東京 15.4 620(324) 37
九段高等無線学校 東京 15.9 406(323) 23
東亜無線通信工学院 東京 16.1 80(70) 6
目黒高等無線工学校 東京 16.3 777(411) 48(4)
亜細亜高等無線工学校 東京 16.3 200(140) 26
東亜電気通信工学院 大阪 16.3 1,100(690)
第一無線高等工学校 東京 16.4 443(343) 30
本郷高等無線工科学校 東京 16.4 35(35) 14
南方無線通信工学院 東京 17.3 140(90) 4(1)
大阪青年会無線電気学校 大阪 260(150) ?
合計 19校
合計生徒数13,811名

これら私立無線学校19校の内、各種学校として府県知事の認可を受けたものは10校であるが、府県知事は認可はしたものの、この種教育に対する認識を欠くためか、内容的に適切な指導監督は行われなかった。また、無線通信士の直接監督官庁である逓信省は、これら私立無線学校の取締監督権は持っていなかったが、こと無線通信士養成を目的とするものである以上、無関心ではいられないので、当面の対策として逓信部内在職者のこれら私立無線学校への講師受託を禁じ、また、生徒募集の広告、宣伝に「逓信省公認」の文言を入れたために利用される実験用私設無線施設の不許可等を実施したが、効果的な制約はできず、私立無線学校は繁栄していた。これら私立無線学校はごく一部を除き、その経営方針は営利主義で、校長に貴族院議員や退役将官等の肩書を持つ人を据え、ロボット的存在とし実際の経営者は別にあって、新聞、雑誌の広告をもって全国の青少年を勧誘し、無試験入学で入るを拒まず、入学金、授業科を前納させ、貧弱な教授内容であった。したがってこれらの私立無線学校においては、長期間在学しても無線通信士資格検定試験に合格することはまず難しく、絶望的になった生徒は退学するか、非行に走るか等で新聞紙上にも私立無線学校の名前が散見されるようになり、私立無線学校の評判は地に墜ちた。しかし通信有技者の需給逼迫の時局柄、通信術だけで資格を必要としない大陸軍関係の需要が急激だったため、卒業者の約半数が無資格のまま通信に従事することになり、この間太平洋戦争に突入し、次第に計画的教育、配員の必要に迫られ、1943年(昭和18年)8月にはついに、私立無線学校の全面閉鎖が命ぜられ、官立一本に統合されることになるのである。