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電気通信大学60年史

前編4章  不況下の無線電信講習所と無線通信士

第4節:学生生活

4-1 学友会の発足と会誌の発刊

目黒無線学友会が正式に発足したのは、1929年(昭和4年)1月1日のことである。この"正式"という意味は会則が機能したという意味であり、非公式には、それ以前に数度学友会が組織されたのだが、この世界大恐慌の年にはじめて永続的な学生組織が生まれたのである。その設立の目的として会則第2条に「本会ハ会員ノ人格陶冶ト親睦ヲ図リ兼テ無線通信ニ関スル学術講究上ノ便宜ヲ計ルヲ以テ目的トス」とあるが、ほぼ現在の大学の自治会機能に同窓会機能が付加されたものと考えてよいであろう。

ただ、現在とは時代の相違であろうか、名誉会長に、電信協会会長若宮貞夫、会長に講習所幹事小谷雄一郎と電信協会の幹部が名を連ねており、いわば、官制自治会といった風情が見受けられる。ともあれ、学友会の発足により、無線電信講習所の学生の課外活動がはじまり、ようやく学生生活の形とでもいうべき素地ができたといってよい。ここでその会則を全文引用してみる。

会則
第1条 本会は目黒無線学友会と称す
第2条 本会は会員の人格陶冶と親睦を図り兼て無線通信に関する学術技芸講究上の便宜を計るを以て目的とす
第3条 本会事務所を東京府荏原郡目黒町大字下目黒5番地社団法人電信協会管理無線電信講習所(以下単に講習所とす)内に置く
第4条 本会の会員を分ちて左の3種とす
名誉会員 講習所教職員を推薦するものとす
特別会員 講習所本科及別科の卒業生とす
普通会員 講習所本科及別科の在学生とす
第5条 本会に左の役員を置く
名誉会長1名 電信協会会長を推戴す
会長1名 講習所幹事を推戴す
理事若干名 講習所教職員中より2名を選任し其の任期1ヶ年とす但し再任を妨けす
其他は各学級毎に当該学級の委員に於て1名宛を互選す
委員若干名 講習所に於て定められたる委員を以て之に充つ
第6条 会長は本会を代表し且本会の事務を統轄し総会、役員会、及理事会の議長となる
第7条 理事は理事会の決議に依り常務執行の任に当り会長理事は互選に依り1名を会計主任、2名を会計監査とす
第8条 委員は理事を補佐し普通会員と役員間の連絡の任に当る
第9条 役員は何時にても会計に関する帳簿の閲覧を請求することを得但し会計事務上支障ある場合は此の限に非らす
第10条 本会の事業年度は毎年5月1日より始まり翌年4月30日を以て終るものとす
第11条 普通会員は会費として毎月金20銭を当月5日迄に納むへし但し毎年8月分は之を要せす
第12条 会員総会は毎年2回講習所内に於て之を開き会務及会計の状況を報告す
第13条 理事会に於て必要と認むる事は臨時総会を開会す普通会員の2分の1以上より会議の目的たる事項を示して臨時総会の請求を為したる時は之を開会す
第14条 総会招集の通知は少くも3日前に会議の目的たる事項日時及場所を定め講習所学生控所に掲示して之を為す特別会員に対しては予め特に申出てあるものの外特別の通知を為さす
第15条 役員会、理事会は必要に応し会長之を招集す
第16条 総会、役員会及理事会の議事は出席会員の過半数に依て之を決し可否同数なるときは議長之を決す但し会則の改廃は総会出席会員の3分の2以上同意を以て可決することを要す
第17条 本会は其の目的遂行の為左の事項を行ふ
  • 会報の発行但し毎年春秋2回発行し会員に之を頒つ
  • テニス、其他会員の保健に必要なる体育運動
  • 講習所学生の新入及卒業の都度夫々歓迎会、送別会の開催
  • 其他必要なる事項
第18条 前条事業遂行上必要あるときは各部に委員を置くことを得
第19条 会員にして左の一に該当するものは理事会の決議に依り之を除名することあるへし
  • 本会の体面を汚損するの行為ありたる者
  • 会費の滞納久しきに渉る者
第20条 本会則に規定せさる事項に関しては理事会の決議する所に依る
附則
本則は昭和4年1月1日より之を実施す
特別会員に対する第17条の会報は特に予め申出てあるものに限り之を頒つ

会則には、その遂行すべき事項として会報の発行、体育運動(現在のクラブ活動とみてよかろう)、歓迎会・送別会の開催の3点があげられている。いうまでもなく、体育運動、歓迎会、送別会の開催は、学友会活動の実体であり、会報の発行はその鏡の役割を果たしていた。現在、われわれはその鏡によって当時の活動の実体を知ることができる。『目黒無線学友会会誌』創刊号が発行されたのは1929年(昭和4年)5月23日のことである。中に若宮貞夫氏をはじめとし幾人かが創刊の辞を寄せているが、ここでは帆足実氏の「目黒無線学友会の出生」から少し引用し、その雰囲気だけでも味わうことにしよう。

目黒無線学友会の根幹をなすものは、それがその成立の時にさうであった如く、その自治的精神であらねばならぬ。そのためには第1に意見としては如何なる意見も呈出され得ねばならぬ。如何なる種類の意見も暴力或は圧制によって封ぜられるようなことがあってはならぬ。極端に自分と反対の意見であるにしても一応は相手の語らんとするところを理解せんとする誠意が払はれなければならぬ。

十分相手の意見を聴取した上で尚それに服し得ない人々は堂々とその反対意見を述べ、最後に主要な件に関する学生の意見は多数決により決定される訳である。多数決については種々議論があるに違ひない。しかし小数の人々の独裁にくらべて危険性の少ないことは確かであると思ふ。他の団体と違ってこの学友会に議論沸騰するやうなそんなむづかしい問題が起ることはあまりないことと思ふ。且ここに云ふのは、一々議会政治にならって、こむづかしく決をとれといふやうなことを云ふのではない。学友会の根本精神として、勢力のある少数の人達が他の意見を封鎖し、或は専制的に事を為すのが断じていけないと云ふのである。我学友会に於てはかかる醜いことは永久にないことと信ずる。然し若し将来かかる傾向が生じた場合には我々は断乎としてそれを排撃しなくてはならない。

今、幸いにしてその現物を見ることができる。サイズはA5判で34ぺージ、週刊誌とじの粗末なものであるが、少なくともその意気や良し、と微笑み返すのも悪くはあるまい。内容は、創刊の辞7編、雑文4編、文芸作品4編、それに会則が主たる構成となっている、学友会としての主張という形でその肉声はわれわれには届いてこないが、その後の無線電信講習所の学生生活を飾る一つのエポックとして記憶されるべきものと考える。

社会の出来事
  • 昭和11年5月18日 阿部定事件起る。
  • 昭和11年8月1日 ベルリンオリンピック開会、田島直人、孫基禎、前畑秀子らが優勝。

4-2 対官練戦スタート

対官練(逓信官吏練習所)戦がスタートしたのは1932年(昭和7年)の秋のことである。残念ながら、今その正確な日付をつまびらかにすることはできないが、その経緯については語ることができる。

当時、既に無線電信講習所にはクラブ活動の萌芽が見えており、特に野球部・庭球部がある程度組織的に活動を行っていた。対外試合の活発化の機は熟していたといえるであろう。対官練戦のスタートにも活動の活発化が背景にあったということは書き留めておかねばなるまい。

さて、1932年(昭和7年)の秋、無線電信講習所野球部の面々は、どこか他の学校と試合をやりたいな、と漠然と考えていた。当時、無線電信講習所内での野球は結構愛好者が多く組単位の対抗戦等が活発に行われていた。このような雰囲気の中で対外試合への志向が強まるのは当然である。

官練と試合をやったらどうであろう。講習所の先生は、ほとんど官練出身者である。それに卒業すれば、彼らは陸上局、われわれは船、と通信術でお互いに協力し合う仲ではないか。対官練がスタートする契機はこのようなものであった。

当時の野球部の部長は増井稔氏(1933年(昭和8年)本科卒)、主将は岡本功氏(同)であったが、二人は小谷雄一郎幹事の紹介状を持って逓信官吏練習所を訪ねた。定期試合を申し込むためである。官練の応対者は第一教務係長の内山浜喜地氏であったが、氏は主旨をよく理解し、対抗試合の挙行を快諾した。残念ながら、今となっては内山氏の肉声を聞くことはできないが、氏は今後とも定期的に試合を開催し交流していこうと言い添えて快諾した旨、岡本氏は語っている。

こうして、第1回対官練戦の御膳立ては整い、まず、野球部と庭球部の対抗試合が行われた。場所は、野球が官練の芝浦グランド、庭球が1928年(昭和3年)9月15日に開かれた無線講コートであった。岡本氏に当時のメンバーを回想してもらったところ、次のような名前があがっている。

ピッチャー 中村正三、キャッチャー 渡辺伊作、ファースト 神谷博、 セカンド 小泉安平、サード 川中紀男、ショート 岡本功、ライト 畑信清、センター 横山義寿、レフト 増井稔

試合の方は、野球は僅少差で無線講が勝ち、庭球は無線講の大敗ということである。ともあれ、対官練戦はこの時以後、年を追うにつれて活発化していく。

「学友会誌」第12号〈1934年(昭和9年)10月〉にある次の記事はその証左である。

目黒無線対官練野球戦 森田泉記

10月16日(日曜日)夜来の雲は破れて我等の復讐を遂ぐべき、絶好の野球日和となった。 この日、午前10時、芝浦グランドに於て、応援団の熱誠なる拍手に送られて、プレイボールされた。

1 2 3 4 5 6 7 8 9
目黒 0 0 0 2 0 0 0 1 0 3
官練 2 0 0 2 0 4 0 3 A 11A

第9回(目黒)8点をリードされた我軍の最後の攻撃に入る。工藤二匍失に出で、攻撃の幕を切って落としたが、松山の左飛左翼手落球する所となり、工藤二塁に封殺さる。松山二盗成り石村四球を利したが、浜田の二匍に松山三進すれど石村二塁封殺を喰ひ二死となり、愈々最後の一死を残して門脇ボックスに入ったが、遂に釣球に掛って三振に終る。時に0時40分、我等の必死の苦闘報ひられず、涙をのんで再たび官練の軍門に下る。

社会の出来事
  • 昭和11年 この年、人絹生産が世界一となった。映画「浪花悲歌」「人生劇場」「ミモザ館」。流行歌「忘れちやいやよ」「ああそれなのに」「男の純情」などが流行した。
  • 第1回文化勲章の授与式が昭和12年4月28日に行われた。

4-3 学生生活あれこれ

当時の学生生活については、『目黒無線同窓会会誌』にその断面がうかがえる。これらの原稿群は当時学生であった"彼ら"青年たちの肉声といっていい。そのうちの一つに、次のような記述がある。

無線校雑評 R・K生

目黒無線講は恐ろしく職業意識の働く学校だ。教室に於ても、校庭に於ても其れが善いか悪いかは又自ら問題は別になるが……。何れにしてもロマンチストの来るべき学校ではない。

目黒無線講は断然急き立てる学校ではある。来る日も来る日も詰め込みに湯気を立てる。繁忙、又繁忙……。せめて飯を食ふ時問丈けは1時間欲しい。

目黒無線講は位置としては絶好の地点を占めてゐる。静寂と見晴らしと清らかさと一…。願くば敷地としてもっと余裕があり度い。

目黒無線講は何う見ても背景が貧弱だ。今度出来た学友会を足だまりとして色彩の鮮やかなバックが出来るか何うか。

目黒無線講は何んとしても気の落付かぬ学校だ。絶へず然り絶へず何かにおびやかされる思ひがするのは何に起因してゐるかああ春の日長にたった一瞬でよいのびのびと心の底からあくびがして見度い。

昭和の初期の学生も、時代を超えるようにして他の時代の青年たちと変わらず、さまざまな"青春"を描き出し、見せてくれる。詩作を為す者があり、エッセイをものするもの、小説を書くもの、バイオリンに凝る者、忙しい講義スケジュールの間を縫ってさまざまに生活を為していた。引用文は、いわば青年のアンニュイな気分の表出であるが、一つの"生活"の断片を示している。

現存する資料には、当時の日常的な、本当の意味での生活を知り得る材料は無い。ただ、地方の次男、三男が多く、貧しい下宿生活を送っていた者と東京在住の下町の次男、三男坊の像が交錯するのを禁じ得ない。当時の目黒近辺の様子について中沢禎三郎氏(1934年(昭和9年)本科卒)は次のように述べている。

私達は、ある意味で花の9年組であったと思う。私達のあいだに人物が多かったという意味ではない。暗い不況がようやく終りに近づき、光が雲間に見え出した8・9年頃、それから再び戦争という黒く煤けた隧道へと入って行く束の間の、その渓谷のほとりに咲いた白い花の群という意味である。

目黒権之助坂を下りて行った先に大鳥神社がある。私達の在学中その境内で、桜花の下の東京音頭大会がしばしば催された。

老いも若きも群がって、桜の古木に欄漫の、花びら散る、石燈籠の影黒く、太鼓の響き笛の音冴えて、紅色の提燈ゆれて、櫓をめぐって踊る乙女のしなやかさ、煌めく眸の視線のゆくえ、燃え立つ炎男の笑声、なまめく肢体に嬌声のせて、あでやかに流れゆく、うねりの蜿蜿たる、その華の宴は信濃の辺地から出てきた私にはめくるめく光景だった。

だが、この春酣わの桜花の季節にはきまって我々には学期末の試験が課せられていた。私達は横眼でその華やかな輪舞を捉え、それから思い直して、しぶしぶとノートや参考書に視線を落とすのが常だった。

「こんな調子だと、そのうちに戦争になるって話だ。面白くないな」

田中康夫君という友は憮然とした表情であごをなでた。この友はのちに実際にその戦争の犠牲になって死んでしまった。私が非常にお世話になった北条先生は当時からすでに殆んど禿げていた。

森先生は薄くなりかけた頭部を補うかのように、鼻下に黒々と髭を生やし、あたかも機械送信のようなモールスを我々へ送ってよこした。合調法の創始者である北条先生の特徴あるモールスに慣れていた私などは、森先生の流麗な流れに耳がなじまず、却ってまごつくことが多かった。禿頭、殊のほか輝く金子先生、しばしば着流しという渋い姿でやってくる内外法規の両先生、肩幅あくまで広く上背のあるダブル服の見本のような穴沢先生、当時の諸先生で特徴著しくない人は一人もいなかったと言っても過言ではなかろう。猪のように肥えた英語の沢野先生は、A man を「男一匹は」と訳して、私に終生忘れ得ぬ印象を与えた。

我々が二階の廊下の窓から顔を出して下を眺めていると、すでに試験を終り、丘の下の小径を通りかかった仲間の連中が、「実験」の出題が何であるかを手信号のモールスで我々に教えた。モールスはどこかで役に立つ。

モールスで実験の出題を教える等というエピソードは無線講ならでは、とほほ笑ましいが、「…戦争になるって話だ。面白くないな」という表出は、この時代の青年のニヒリズムを表している。いずれにしろ、1927年(昭和2年)から1934年(昭和9年)ころというのは、不況とそれを因とする戦乱の時代である。青年たちは一方でいらだち、一方でその若さを謳歌している様相が読み取れる。

さて、ここで学生生活の断片という意味で学友会の活動を取り上げてみよう。学友会誌第12号に記述がある。

総務部報

卒業、進級と云ふ二重奏の中に総務部の事務引継ぎも終了し新入生100余名を迎へた本年度の未経験なる委員にとっては実に多難事である。

我が学友会の真価が時の流れに論なく大正7年創設当初より今日迄日に月に花を開き実を結んで向上し行った事は、会員諸君の斉しく知る所であろう。

本会の進展如何は一に会員諸子の協力にかかってゐる。敢て会員の少きを歎きはすまい、少きは少きながら開拓すべき方面はある。

学徳の研讃、身体の練磨は学校の正課のみで終結するものではない。学友会の事業は陰に在って吾々の向上を促す自治機関であり、溌溂として伸びんとする吾等を更に伸ばしめる鍵である。

扨、本年度の学友会は昨年度と大なる変遷もなく一進一退の態なり、昭和9年度初旬に於ける秋季総会に依り35銭の会費を50銭に値上してより、昨年度と比較して会計は楽になれり。(総務部々費の件は会計より報告あるを以て本稿には記せず。)

本年度総務部行事左の如し。(但し原稿締切日迄)

  • 卒業生送別会
  • 新入生歓迎会
  • 春季総会(別項記載)
  • 臨時総会
  • 春季校内大会
  • 中央電信局見学(2年生のみ)
  • 対官練野球試合(別稿記載)
弁論部報
本年度委員
顧問 沢野先生
部長 佐藤隆就
委員 後藤平三、安藤遠章、永井与惣門

春季大会記

100余の熱血児を迎へて、夢の如き春は将に逝かんとし緑ケ丘は新緑の若葉は燃えたって初夏のシンボル鮮かに、春季弁論大会は訪れた。ささやかではあるが「若人」の集ひの此の会である。神秘と熱情が薄いヴェールを通してほのめいてゐる様な気がする熱と野次とに浮かされて動いた筆の跡の連鎖が之れである。時に2時20分。

開会の辞に次いで若人の大獅子吼は開始された。

  • 開会の辞 佐藤隆就
  • 非常時に処する青年の信念 1年 武者新衛門

冒頭より豊富なる声量と悠々迫らざる態度にて説く処、流石練磨の君にして言論聴衆をしてよく法悦せしむる。蓋し本校雄弁家の第一人者。惜しむらくは論旨の内容平凡にして、重点に力が足りない。この秋の活躍を待望する。

  • 大我に殉ぜよ 2年 大橋久蔵

名論卓絶。論旨整然として、小我を捨て大我に殉ぜよと、絶叫する処音声豊富にして当日異彩を放つ。只態度に若干の癖あり。野次に左右される等は欠点も無く大いに可なり。此の秋の活躍を期待する次第なり。

  • 英雄を憶ふ 1年 服部義道

英雄、故東郷元帥に就いて語る。整然たる論旨、朗々たる音吐、真摯なる態度聴衆粛として声なし。蓋し当日の白眉なるか。

(以下略)

弁論部の春季大会をのぞくと、それぞれ時代を表象するテーマで面白いが、それとは別に、このような活動が活発であった時代と結論づけられるであろう。時は、日本軍が中国大陸に進出していたころである。一方で、アンニュイな一種退廃的な気分が満ちており、一方で、軍国調の戦争謳歌がわれわれに聞こえてくる、これは決して矛盾したものではなく、青春の互いに裏返しになった両面といってよい。われわれは、ある時代の中の生活というものを明確に直勘しなければならないだろう。当時、無線講の在学期間は、2年間であった。

社会の出来事
  • 昭和12年7月7日 蘆溝橋で日中衝突。(日華事変=日中戦争の発端)
  • 昭和12年9月11日 東京後楽園球場が落成、開場した。
  • 昭和12年10月10日から東京の朝湯が廃止された。
  • 昭和12年は日華事変ぼっ発で応召、出征する者多く、出征のぽり、小旗が売れ旗屋が繁昌した。また千人針、慰問袋が盛んであった。
    ラジオ、レコードの人気は浪曲で、広沢虎造の「次郎長外伝」、寿々木米若の「佐渡情話」等がはやった。
  • 昭和13年1月3日 岡田嘉子、杉本良吉とともに樺太国境を越え、ソ連に亡命。
  • 昭和13年4月1日 国家総動員法が公布され、5月5日から施行された。
  • 昭和13年4月10日から灯火管制規則実施。(空襲警報の場合、サイレンは6秒10回、警鐘は1点と4点連打に統一)