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電気通信大学60年史

前編4章  不況下の無線電信講習所と無線通信士

第3節:通信士の労働運動

3-1 無線技士倶楽部の活動

1926年(大正15年)に船舶無線電信施設法が施行され、航洋船舶に無線電信設備が強制されるに従い、船舶に乗り組む無線通信士の需要が高まり、当時の電信協会管理無線電信講習所の無線通信士の養成人員が増大され海上への職場に進出する者が続出した。無線通信士という新しい職種が世間一般からも注目されるようになったのはそのころからである。

当時は船舶の無線通信士のまとまった団体はまだ結成されず、高級船員(船舶職員の当時の呼称)の団体としては、社団法人海員協会に任意加入する程度で独自な動きは見られなかった。海上の労働団体としては普通船員の日本海員組合があり、海員協会と並んで船員労働運動の主流をなしていた。

この時代は日本の海運界の中心地は神戸にあって、船舶通信士の小グループとして無線技士倶楽部というのが当地に存在していた。吉沢卯吉、富永英三郎などという目黒の講習所出身者が無線通信士の宿泊や就職など個人的な世話役活動を行っていたにすぎなかった。昭和初頭はこのような状態で過ぎていったが、1929年(昭和4年)の世界恐慌の嵐は日本の海運界にも波及し、1930年(昭和5年)ごろから空前の不況時に際会することになった。数百隻に及ぶ繋船が現出し、神戸は失業船員で満ちあふれる状態であった。

通信士もこの不況と失業の波から免れることは出来なかった。ところでこの不況に立ち至る直前の1928年(昭和3年)に日本海員組合による社外船の大争議があり、その成果としてわが国においてはじめての産業別の最低賃金制が実現した。それに伴って高級船員の協定賃金が制定されたが、無線技士(当時の呼称)の協定賃金は除外された。それが1930年(昭和5年)になって非常に不利な無線技士の協定賃金が制定された。この交渉当事者である海員協会は折からの海運不況の状況下にあるにしてもこのような低い差別的な賃金協定は通信士に非常に強い不満を巻き起こすことになった。一級は85円から125円、二級は70円から80円といったトン数区別によって定められたもので、甲機職員と比べて不当に低いものであった。また既得の賃金水準を一段と低めるものとなっていた。ところがこの協定賃金も1931年(昭和6年)には両海員労働団体が自ら減額を船主団体に申し出るという有り様で、協定賃金は有名無実化して、更に低い賃金で乗船して行く状況が顕著になってきたのである。無線通信士の場合は神戸の無線メーカーが船主からの注文で機器の発注修理と抱き合わせで低賃金で通信士の就職斡旋をするという悪習が一般的に行われていた。当時の船員の雇用状況は現在とははなはだしく異なり、予備員制度や公暇制度もなく、下船即失業であり、疾病や災害補償もないのはもちろん、8時間労働制を守る労働協約も存在していなかった。失業をおそれて同一の船舶に7年も8年も継続して乗船するという場合もまれではなかった。予備員制度等をもつ日本郵船、大阪商船、三井船舶以外の船会社を社外船と称していたが、社外船の乗組員の雇用や待遇は不安定なものであった。

船員の職業紹介機関としては海事協同会による船員無料職業紹介所があったが、この職業紹介は極めて機械的で賃金その他の条件は一方的に押し付けられ、乗船順位も船主側の意図によって勝手に変更されてしまうようなものであった。この海事協同会というのは船主団体と海員組合及び海員協会の船員団体との労使の協調機関として政府の要請により設立されたもので、船員の待遇条件はこの労使協議機関によって協定され、この協議がまとまらない場合のみ争議行為が行われるという協定である。したがって労働条件がいっさいここで決定され、これを不満としても争議行為が極めて制限されるので、これでは海上労働者の抑圧機関ではないかと、一部で沖の大衆の批判の的ともなっていた。

右のような状況のなかで、無線技士協定賃金に対しての海員協会のやり方や、船員雇用のあり方に対して、無線通信士の不満は強まり、新しい形の無線技士倶楽部の活動が開始されるのである。これに最も積極的であったのは、無線電信講習所を出てわずか数年の青年通信士である米山大甫を先頭とする数名の通信士である。ほとんどこの米山ら独自の奔走で1932年(昭和7年)2月ごろには神戸市下山手通りに事務所を開設し、新興の無線技士倶楽部の活動が開始された。

商船部門に無線電信設備が全面的に活用されるに伴い、職業としての新奇をもちながら船員としての新たな職種分野を確立して行く過程は、当時の時代背景のなかで、やはり近代労働者としての自覚を通しての発展であった。

社会の出来事
  • 昭和6年6月1日 官吏1割減俸を実施したが、反対運動が起こった。
  • 昭和6年6月15日 「たばこ」を大蔵省の専売とした。
  • 昭和6年6月22日 福岡で日本初の旅客機事故が発生、死者3人を出した。
  • 昭和6年8月1日 本格的トーキー映画「マダムと女房」(松竹)が封切られた。
  • 昭和6年8月26日 リンドバーグ夫妻、霞ケ浦に飛来。
    リンドバーク機救援の記

    物情騒然とし始めた1931年(昭和6年)夏、米国リンドバーク夫妻は、華府(ワシントン)—霞ケ浦1万2千kmの飛翔に成功した。

    昭和6年8月18日、カムチャッカ半島を経て、愈々リ機は日本への飛行の緒についたが、8月19日中部千島を南下中悪天候に阻まれて、遂に計吐夷島に不時着を余儀なくされた。落石無線局からの緊急連絡により、危険な深夜の濃霧をつき、極めて微力な出力の交信に苦労し乍ら、救援に駈けつけたのは新知丸(木造機帆船56屯)唯一隻であった。

    新知丸の無線局長は、わが同窓生柏崎栄太郎氏であった。8月20日未明、新知丸は漸く同島に到着、柏崎局長はリ機フロート上でリ夫妻と固い握手を交し、その無事を喜び合ったのである。その後の軽度のエンジントラブルをも克服、リ機の恙い離水を乗組員と共に見届けた。

    時に昭和6年8月22日午後2時14分であった。

3-2 求職者通信士運動の展開

この新設の無線技士倶楽部が結成された1932年(昭和7年)は、ようやく不況も底をつき海運界も上昇気運に向いてきたとはいえ、船員の賃金低落は回復されず、船員の雇用状況も当時既に悪名高かったポーレン(船員宿)制度に代表されるような状況は一向に改善を見ず、無線通信士も無線メーカーその他の縁故を求めての乗船など従来の悪弊は跡を断たなかった。この状況を打開するためには、数少ない就職口を多くの求職者が順序よく、かつ賃金低下を来たさないで乗船して行く方法をまず考えなければならない。それには神戸で待機している者を中心として、求職期間の長い者からの順位制と、経験年数の多い者は大型船すなわち高賃金の船に乗るという原則をお互いに認めることからはじまる。そのためには通信士の自主的結束をはかり、あらゆる情実や船主の任意選択に任せないことがお互いの申し合わせとなった。そのうえ低賃金を喰い止め、更に有利な条件で契約して乗船して行くことが不可欠な目的となる。これらを実現していくためには、紹介所からの通知で有利な口があっても自らの順位でない場合には拒否し、反対に多少不利な条件であっても自分の順位であればこれに従うという互譲的な気持ちがなければ成功しない。このような困難な条件がその趣旨とともに漸次滲透していった。この求職者の自主的な統制が「求職者同盟」という独自の機構を生み出したのである。1933年(昭和8年)にはこれらが誓約事項として次のように決められた。

  • 本同盟は求職者の互助、互譲の精神によって結合し就職の合理化、最低給料の維持、失業状況の緩和を計るを以て目的とす。
  • 前項の目的を達成する為の乗船順位制を設け自主的な統制を行ふ。

この乗船順位は、一級10年以上の経験者は5500総トン以上、以下7年、4年、2年といった経験年数とトン数区分を組み合わせたものである。これはあくまで自主的に決めたもので、第三者が認めたものではないので、これを無視して不当な条件で雇用しようとする側と絶えず衝突が繰り返された。紹介所の強制、船主の切り崩し、無線メーカーの取引き、無線学校の売り込み、その他少数ながらまぎれ込んでくるスキャップとの戦いが常に続けられていった。

これは無線通信士だけがもつ連帯性の発揮によるもので、他の船員職種部門では真似のできないものであった。この「求同」の成功は通信士の差別と賃金向上の運動にまで高められて、1934年(昭和9年)7月無線通信士の独自の争議まで高揚発展していくことになる。

社会の出来事
  • 昭和6年9月18日 「満州事変」ぼっ発。
  • 昭和6年12月16日 浅草オペラ館が開場した。 また、12月31日 新宿ムーラン・ルージユが開場した。
  • 昭和6年 農村不況が深刻化。 また同盟罷業864件。「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」などが流行。
  • 昭和7年1月28日 上海事変が始まった。
  • 昭和7年2月22日 肉弾三勇士が戦死、話題となった。
  • 昭和7年4月24日 第一回日本ダービーが目黒競馬場で催された。
  • 昭和7年5月14日 チャップリンが来日した。
  • 昭和7年9月15日 日満議定書調印。(満州国を承認)
  • 昭和7年12月16日 白木屋デパートに火災。死者14人を出す。
  • 昭和7年 この年、映画「弥太郎笠」「天国に結ぶ恋」「自由を我等に」。 流行歌「影を慕いて」「涙の渡り鳥」など。

3-3 日本無線技士会の独立

無線技士倶楽部の下で新たな団体活動により強固な結束をはじめたとはいえ、労使協議機関の海事協同会に参加し待遇条件を直接交渉する条件は与えられることができないので、通信士の所属団体である海員協会に、協定賃金の改善を申し入れ、その要求を提示しでその実現を迫る以外にはない。そのためにはいっそう団結を強めようと、1934年(昭和9年)になると無線技士倶楽部は神戸本部と大阪支部の他に、東京、小樽にも支部を設けるに至った。目ぽしい活動家には下船を求め本支部に配置して陣容を固めた。目的は1934年(昭和9年)7月の海事協同会の月例委員会に賃金要求案を決定せしめるため実力行動として下船ストを敢行することにある。ストに備えての、当然加わる弾圧を考慮し、その場合でも下船ストが実行できる手配も行った。予想どおりスト指令寸前に本部常任は警察に検束留置された。しかし沖の方の決意はいっこうに衰えることなく、下船通告を発した船舶は百数十隻にも及んだ。予定された7月27日には阪神の各港で順天丸以下数隻が停船、その他の各港で強硬な通信士の下船表明がなされたが交替する通信士は一名も現われず、解決まで停船が続行された。

このような予想外な通信士の強硬な態度は関係方面に多大の衝撃を与え、海事協同会は遂に無線通信士の賃金を大幅に改訂せざるを得ないことになった。これにより決定された最低賃金は、5,500総トン以上船舶は150円、1,600総トン未満80円の最低からなるもので、要求案としての次席三席の協定は実現を見なかったが、多経験者(10年以上)の最低賃金としての150円は要求どおりであった。他に要求案より10円ないし25円下回るものがあったが、現実には二級経験者の80円が115円に、30%をこえる大幅賃上げに成功したのであった。この戦いは今日でいえば山猫争議とも呼ばれるものであって、停船ストとして全面的に実現したものではなかったが、この実力的な行動で通信士は強い自信をもつことができた。自主的な団結によってこそ正しい海上労働団体が作られるということ、職業的な組合幹部によらずしても自らの地位の改善ができるという自信であった。

1935年(昭和10年)になると満洲事変は日支事変と拡大しわが国は臨戦体制に入り、国内の経済的社会的矛盾は大きくなる一方で、1935・6年の危機という言葉がいいふらされるように国際情勢も険しくなってきた。このような戦時的要請の下で海運界も活況を取り戻してきつつあった。無線通信士も国内では陸上方面からも需要があり、満洲方面に飛び出す者が現れるようになるとともに、私立無線学校が輩出されるようになってきた。御用船に臨時の次席通信士の求人も出るようになった。変態輸入船と称する外国船は、通信士に限って日本人であることを条件として日本の船会社が運航するなど通信士の需要が増大してきた。「求同」を通じての活動もいよいよ必要性が加わり、船主も「求同」を頼るほかに通信士を雇い入れることは不可能になってきたのである。しかし無線通信士の社会的地位の向上を求める気運はいっそう強くなってきており、無線三直制の実現を通して海上安全の確保や、通信士の労働条件の具体化としての各種手当の設定など通信士の要求はようやく多岐にわたるようになってきた。

一方、海上労働団体は大衆から遊離する傾向がはなはだしくなり、内部的に民主化を求めての郭清運動が次々に起きるような状態が続いた。かかる状況では無線通信士の問題は彼らの手によってはいっこうに改善されない。無線通信士は従来のような親睦団体の域に留ることではなく、この際独立の労働団体を結成すべきであるとの声が大きくなり、1935年(昭和10年)10月の無線技士倶楽部の定期総会において、日本無線技士会と改称し独立の労働団体として発足することを宣言するにいたった。

このように独立するにいたった経緯は各種の事情が重なって成ったものであるが、通信士の強固な結束に、船主側は通信士の需給関係に目をつけ、通信士の養成人員の増大と養成機関の増設とを逓信大臣に陳情するようになった。明らかに通信士運動に対抗するためのものであった。これは日本無線技士会を著しく刺激することになった。通信士の雇用条件は若干好転したとはいえ、待遇条件等は大きな改善が見られたわけではなかった。当時の統計は次のように示している。

昭和10年8月末無線通信士数
一級 1,883名
二級 1,019名
三級 747名
聴守員級 1,620名
私設船舶無線電信局数(昭和10年1月現在)
公衆取扱所 602(一級及び聴守員級の職場)
托送発受所 687(二級、三級の職場)

三直制の確立していない当時として、しかも無線通信士の職場として船舶以外にはほとんど存在しない当時としては、通信士の予備軍としては相当数に達していたことは明らかである。

このような事情の下で独立した日本無線技士会の掲げた運動目標は次のようなものである。

協定給料の是正、二席・三席制度の確立、退職金制度の確立、共同予備員制度の確立、有給公暇制度の確立、航路手当、時間外手当、その他諸手当の改善、居室及び機械室の改善、一人一部屋の実施、差別的待遇の打破、過労及び職務執行の妨害となる事務兼任絶対反対。

これらの目標に向かって以後3年間にわたる華々しい技士会の活動が続けられることになる。なお日本無線技士会なる呼称は、1931年(昭和6年)から検定規則などの改正により無線通信士という資格名称が制定されたのではあるが、この名称が当時まだなじまず戦後船舶職員法による船舶通信士なる名称が定着するまで無線技士なる呼称が続いた。

この独立宣言は沖の無線通信士の熱烈な支持を受けたことはいうまでもないが、一般乗組員からの支援は予想をこえて大きなものがあり、航海中の数十隻の船舶から高級、普通を問わず乗組船員からの激励祝電が寄せられた。この無線通信士の運動は平組合員運動=ランクアンドファイル=として多大の期待がかけられ、腐朽化した海上労働団体を郭清するものとして歓迎されたものである。

社会の出来事
  • 昭和8年3月3日 三陸に大地震・大津波襲う。死者1,535人。
  • 昭和8年3月24日 日本、国際連盟を脱退。
  • 昭和8年6月19日 丹那トンネル貫通。
  • 昭和8年12月24日 日本劇場が開場。
  • 昭和8年 この年、治安維持法で検挙4,288人。ヨーヨーが大流行。
    映画「伊豆の踊子」「滝の白糸」「制服の処女」「巴里祭」。流行歌「島の娘」「サーカスの唄」「19の春」など。
  • 昭和9年3月16日 初の国立公園として瀬戸内海、雲仙、霧島の三か所を指定。
  • 昭和9年3月21日 函館に大火、2万2,600戸を焼失。
  • 昭和9年6月1日 文部省に思想局が設置された。
  • 昭和9年9月21日 室戸台風、死者行方不明3,036人を数えた。
  • 昭和9年11月1日 満鉄、特急「あじあ号』運転を開始。
  • 昭和9年12月1日 丹那トンネルが開通、東海道線は新路線へ移る。
  • 昭和9年 この年、東北地方冷害、大凶作の惨状を呈したが、一方に軍需景気が巻き起こった。
    映画「会議は踊る」「街の灯」「にんじん」「商船テナシチー」。流行歌「国境の町」「赤城の子守唄」。
  • 昭和10年2月11日 東京中央卸売市場が開場。

3-4 技士会の活動と無線会館の建設

当時の海上無線通信の状況のひとつを反映するものとして、オートアラームの出現がある。この性能は今日と比べて極端に劣るものであったが、これを設置することによって聴守員級2名に代え得る法規を盾にこれを設置する船舶が逐増してきた。これに反対して次席、三席通信士を乗船させて三直制を確立することがこの当時より通信士運動の中心目標となったのである。機居室の分離、一人部屋をという要求も長い努力の結果実現したものである。今日ではみることができないが、以前は無線室にAB受信用電池がおかれ、充電装置はすべて無線室内に装備されていた。更にこれら無線機器に重なり合うように通信士の寝台があり、受信卓の椅子に座るだけのスペースしかないというのが当時の無線室の状態であった。目鼻に染みわたる充電で発生するガスに耐えながら、また通風の不十分なむし暑い無線室に送信用充電抵抗器の熱に苦しみながら、1日に10数時間も当直するのが通信士の状態であった。船主交渉としては傷病、退職に対する補償要求など日常の技士会活動は活発を極めた。支部として更に横浜、函館、若松にも設けられ、通信士集団はかつてない活況をみせた。

1936年(昭和11年)には技士会会員数は1,200名、日本郵船、大阪商船などの所属通信士も漸次加盟し、商船部門では80%の組織率であった。また「無線通信社」という事業部を設け通信日誌等無線業務書類の作製販布を行い、後には局名録の編さん発行、技術研究委員会の活動など多面的になってきた。

技士会幹部は常任委員として1年ごとに選挙により投票順で下船し就任する制度であったが、実際にその都度下船就任は困難で再任する例が多かったが、あくまで交替制が原則で職業的幹部の発生する余地はなかった。このように通信士運動の自主性が保たれ団体統制として破綻なく続いたことは、昭和初頭から目黒無線電信講習所出身者が海上の無線通信士の大半を占め、通信士の年齢格差も今日ほど大きくなく、活動的な若い年齢層が厚かったことも大きな要素であったことは間違いないことである。無線技士倶楽部から日本無線技士会にいたるまで、常任として再任を繰り返してきた活動家は、米山大甫、御園潔、堤三郎、大内義夫、勝又温志、大出孝則、永山正昭、大黒洋二、小倉要作、井上武臣、山科二郎、加々美文雄などの人たちでいずれも目黒出身者であった。戦争中はほとんど海上の職場に戻ったがそのうち半数近くは戦死をとげて仕舞った。

技士会は機関誌「無線通信」を月刊として発行してきたが、1941年(昭和16年)6月号をもって戦時統制による用紙割当てを受けることが出来ず廃刊となる。通信士運動は戦前はこれでとどめをさされたことになる。労働団体としての技士会は1938年(昭和13年)には海員協会と合同し、時局下で耐える努力を続けるとともに、無線通信士の職業的生命の続く限り、後世に残す事業として1936年(昭和11年)の技士会総会で無線会館の建設を運動目標としてとりあげた。この資金はすべて通信士自らの拠出によるものとして、外部からの援助は求めないこととし、1名100円の負担をかけることにした。100円は当時通信士の平均月収に等しいものであった。この不可能と思われた会館建設も1939年(昭和14年)に至って遂に成就する。

神戸市生田区下山手通7丁目に当時大阪商船属員協会の新築の建物の譲渡売却の話があり、これを購入することになった。この建物はこの年の3月に落成したばかりのもので、土地300坪、会館180坪(2階建)、別館は宿泊設備のある別棟の100坪という相当規模の大きなものであった。戦争中はこの無線会館の存在により無線通信士の団体組織はなくなったにもかかわらず、通信士の拠り所としてお互いの連絡と内部的な結束は保たれてきたのである。

この無線会館は終戦直前に、戦禍により烏有に帰したが、戦後直ちに復活した通信士運動は、この旧会館跡に小規模ながら無線会館を再建し、東京には本部無線会館として港区芝浦1-14-8に建設された。現在では船舶通信士労働組合本部として、神戸会館は同組合支部として使用されている。

社会の出来事
  • 昭和10年2月 湯川秀樹氏、中間子論を発表。
  • 昭和10年3月8日 忠犬ハチ公死ぬ。
  • 昭和10年 この年、平均寿命男44.8才、女46.5才。
    月賦販売が流行。映画「未完成交響楽」「外人部隊」。流行歌「二人は若い」など。
  • 昭和11年2月26日 皇道派将校が兵を率いて首相官邸などを襲撃、内大臣斎藤実、蔵相高橋是清、教育総監渡辺錠太郎氏らを殺害、永田町一帯を占拠した(2・26事件)。翌27日東京市に戒厳令が発令されたが、2月29日説得に応じて帰順した。