電気通信大学60年史
前編4章 不況下の無線電信講習所と無線通信士
第1節:不況と就職難
暗黒の木曜日と称せられ、ウオール街を混乱に陥れた株式市場大暴落が起きたのは1929年(昭和4年)10月24日のことである。この日を起点として世界大恐慌が始まった。
無論、日本もこの大恐慌の渦とは無縁とはいえなかった。失業、就職難、賃金のべースダウンというつきものの現象も露呈するにいたり、日本は経済的混乱期を迎えた。大学は出ても就職はなく、突然の会社倒産、首切りといった事態が日常茶飯事となったのもこのころである。
さて、通信士、無線電信講習所の卒業生はどうであったろうか。そもそも通信士の世界というものは特殊技能の社会であり、不況による影響も特殊な現れ方をした。話は、4年前、船舶無線電信施設法の公布にまでさかのぼる。
船舶無線電信施設法が公布されたのは、1925年(大正14年)3月27日のことである。この法律の主眼は、規定規模以上の船に無線施設の設置を義務付けるという事にあった。既に諸外国では法制化が進んでおり、日本も法制化を余儀なくされたというのが実情のようである。「船舶無線電信施設法の公布」についての事情は、次のようであった。
- 船舶無線電信施設法の公布
第50回帝国議会の協賛を経たる船舶無線電信施設法は3月27日法律第11号を以つて公布せられたり其の全文左の如し而して其の施行期日は勅令を以て定めらるることとなり居れるが未だ其の公布を見ざるも各種の事情より総合するに其の施行は少くも1年位後なるべし。
船舶無線電信施設法 第1条 左の各号の一に該当する日本船舶は無線電信の施設なくして遠洋航路又は近海航路に於て之を航行せしむることを得す但し航海の目的其の他の事情に依り巳むことを得すと認めらるるときは主務大臣は期間を指定し其の施設なくして之を航行の用に供せしむることを得 1 総噸数2,000噸以上の船舶 2 50人以上の人員を搭載する船舶 前項第2号の人員は旅客に付ては旅客定員に依り之を算定す 傷病船員の補充、海難救助其の他已むことを得さる事由に因り臨時に搭載したる人員は之を第1項第2号の船舶にして総噸数2,000噸未満のものに付ては主務大臣は別段の規定を設くることを得(以下略)
この法律が公布された要因として、忘れてはならない事件があった。それは1924年(大正13年)7月11日に起こった松山丸の沈没がそれである。日本近海郵船株式会社の松山丸は五島沖にて数日間漂流し、沈没した。生存者はただ1名で他は全員行方不明という悲惨な結果を招いた。漂流期問中SOSが発信できれば救助の可能性は高かった訳で、この事件が法制化への直接の引金となったといえるであろう。
とにかく、この無線電信施設法によって各船会社は、人と機械、つまり通信士と通信機の獲得に躍起になり、このころより無線電信講習所の卒業生は引張り凧といった有様であった。ところが、1927年(昭和2年)の年も明け、各船会社の通信士定員はほぼ充足され、逆の事態を迎えねばならなかった。卒業しても職無しという不況状態が通信士には1927年(昭和2年)にはじまっていたのである。そのことについて、1927年(昭和2年)3月本科を卒業した清都誠一氏は次のように語っている。
昭和2年、それは、確か3年前に施行された通称、船舶無線強制法の設備猶予期限の終る年であった。講習所は逓信省のアドバイスもあり、本法の発効と共に通信士の需要は激増し、かつ、急を要すると見込んで(実は、大きな見込み違いだったのだが)、普通なら、本科生の卒業期と同期するように、本科の後期に合わせて募集していた別科(6ヶ月修了コース、有線通信経験者向け)を2ヶ月繰上げて8月に入学させたことから問題になった。
この事実の前に、本科生は大きなショックを受け大騒ぎとなった。つまり、別科生が2月卒、本科生が4月卒(当時は1年1ヶ月制だった)ということになると、別科生も本科生と同様に、卒業試験の平均成績によって、甲なら一級通信士の、乙なら二級の無試験検定(国家試験の)が認められていたので、一足先に卒業する一級の別科生に、良い会社などの口を先取りされてしまうということから騒ぎが始まった訳である。
本科生代表として、松行利友君(故人)を選び外数名と共に小谷雄一郎主事との掛合いが始まった(所長の若宮貞夫氏は殆んど来校していなかったので、小谷先生が事実上の最高責任者だった)。
我々の要求は、本科の卒業期を2ヶ月繰上げるか、別科の進度を緩めて本科の卒業期まで遅らせよというものであった。
これには、温厚な小谷先生も困り果てられた様子で、早速所長に報告し、逓信省に伺って見るとの事であった。結果は、予想していた通り、逓信省の回答は「ノー」であり、理由としては、「本科生は既に前期を終ろうとしており、今から期間を短縮することは、教科のスケジュールをこなし切れない。また、別科は修業期間を決めて募集したものであり、延長すれば授業料などの問題もからみ、今度は別科生の方が承知すまい」とのことである。
如何にも尤もで、と言ってしまっては引込みが付かない。そこで、ストを構えようということになり、そこで、戦術会議を重ねた揚句、授業料値上げという珍条件になった訳である。即ち、決まった条件というのは、
というものであった。これを受けた講習所側では随分御苦労されたようである。
- 卒業期を別科と同時、即ち、大正16年2月末(大正15年9月のことだったので 大正天皇は御存命中)とせよ。
- 在学期問短縮による学業の不足分を補うため、授業時間を延長せよ。
- 授業時問延長による講師謝金等に対処するには、授業料の増額による。
- これらの条件を呑まなければ、別科の授業阻止も含めるストで断固戦う。
結局、我々の要求は容れられ、次のように決まったのである。
であったが、このうち、三、は大正天皇の崩御があったことから実施されなかった。
- 卒業期は明年(大正16年)2月、別科と同時期とする。
- 午後6時まであった授業を午後9時まで延長する。
- 冬休みも短縮する。
- 授業料は、月額5円50銭のところ、後期は9円とする。
以上が当時のスト騒ぎの経緯である。ところが、さて、卒業期になってみると、前述のような授業の強行が響いたためか、例年に似ず60名のクラスメートのうち、一級が3分の1の20名、二級が30名(これらの殆んどの人は数年内に一級にパスはしたが)そして10名もの人が落第するという惨状を呈した。また、それに追打ちを懸けたのが求人状況である。卒業日までに、学生控所に張り出された求人票が、なんと、只の1枚、しかも、二級でよいから有線通信の経験のある人(本科生には勿論該当者なし)1名(長野県の電報局)という有様であった。
つまり、当時は、国内的には関東大震災後の一過性の復興景気が過ぎ去った後であり、国際的には第一次世界大戦の傷痕が癒り切っていないという不景気のドン底であったこと、また、無線強制法に引っかかって停船の出ることを恐れた船主達が、猶予期間中に設備も通信士も手配済みであったことが、このような状態(求人0)になった原因である。
このような状態で、船舶を希望した我々は3ヶ月から5ヶ月も待機してから、やっと、乗れたような時代だった。私もNYKの公募が無かったので、僅かな縁故に頼って社内からの推せん者を対象とする入社試験を受ける機会を得たのは、5月も末の頃であった。
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