電気通信大学60年史
前編3章 無線電信講習所の発展
第6節:資格検定試験
通信士の資格検定試験は、1915年(大正4年)の無線電信法の施行からはじまる。私設無線に従事する者は私設無線電信通信従事者資格検定規則による資格検定合格者でなければならないとされ、検定試験が制度化されたのである。その内容については、同検定規則第2条に明らかなので、引用してみる。
第2条 検定は試験に依り逓信大臣の命したる私設無線電信通信従事者資格検定委員之を行ふ其の試験課目左の如し 1 無線電信学 無線電信に関する学理(第一級に限る)機器の調整及運営(第一級第二級に限る) 2 電気通信術 和欧文の送信及音響受信其の速度標準1分時第一級(片仮名80字欧文20語)
第二級第三級(片仮名50字欧文12語)3 無線電信法規 無線電信に関する一般の法令(第一級第二級に限る) 私設無線電信に関する法令(第三級に限る) 4 英語初歩(第一級第二級に限る)
民間の教育機関を出たものは、すべてこの規則に従い検定試験を受け、合格してはじめて通信士になれる訳である。ただ、逓信省官吏練習所無線科卒業者には内規として一級に銓衡される等の優遇処置があった。いずれにしても無線電信講習所出身者は、この検定試験に合格するという課程を踏まずには通信士にはなり得なかったのである。
そもそも卒業証書というものは、それにある社会的価値が付与されていてはじめて意味のあるものとなる。例えば、現在であれば、高等学校卒業、大学卒業とその資格の軽重はともあれ一定の社会的なポジションを占めるための免許状の意味を持つといってよいであろう。当時、通信士を目指す者にとってそれに値するものは「無線電信通信従事者第一級」であったことは前述のとおりで、無線電信講習所卒業証書は、いわば紙切れ同然であったと書いても疑義はないと思われる。つまり、私設無線電信従事者資格検定試験受験のための予備校であったのである。一方で、逓信官吏練習所無線科卒業生は一級資格を卒業と同時に付与された。このような実情から、当時半官的学校で、船舶通信士養成をほぼ独占していた無線電信講習所の内部(特に学生)から資格検定試験免除の動きが出るのは時間の問題であったとさえいえるであろう。
6-1 検定試験免除の動き
具体的にいつどのような形態で「動き」が出てきたのかはつまびらかにすることはできない。ただ、その発端ともいうべき事について、当時「海と空」社社長富永英三郎氏は同窓会座談会〈1940年(昭和15年)2月16日〉で次のように語っている。
富永 私は学校に入つたのは風間勝司君と一緒です。それから出たのは大岡茂君等と同じ年じやないかと思ひます。本科を2回やつたが中々免状が貰へない。検定で免状を貰ひました。
風間君の在学当時は変動期の学校であつた。といふのは、学生の質が、さう悪かつたとは思つてゐないが、本科が25人居りまして、其中で大学の本科へ行つたのが二人居りました。
風間君も高等学校を辷つて来たか何かで、順調に中学校から来たのが12人、それから大学生活、又は専門学校生活をしたことのある者が13人、其中に私のやうな大学の予科を終つた者23人居つたかと思ひます。偶然にも各大学のストライキ組が集合した変な学校だつたやうで真面目に中学校出て来た学生には、私のやうな不良学生は可成り御迷惑だつたと思ひます。併しながら質が揃はなかつたといふことは、検定試験に於て合格率を上げました。田沢君の時は15名もあつたさうですが、其後は合格は少かつた。ところが私達の時は、震災で卒業が延び、更に学校の火事に会つて、最後の学校教育は日出女学校で受けて、机が小さくて坐るのに困つたと言ふ様な凄惨な有様であつたが、試験の結果は成績が非常に好くて、大部分は合格した。通らなかつたのは私一人だつた。之が原因で無試験で一級でやつてもよいといふことが問題になつた。
どうやら、検定試験への合格率の向上も背景にあったといえるであろう。前述のように「動き」として当時の状況を知るのはいまとなっては容易な作業ではない。 同じ座談会で内山礼蔵氏はもう少し具体的に動きについて語っている。
内山 私が学校に入つたときは、想像した以上に随分変つた所へ入つたなと言ふ気がしました。
何だか予想が外れた、学校に欺かれたといふ気持でなくて、もう少し自分達がいい学校のやうに思つて居たといふさういう感じの人が多かつたのではないかと思ひます。そんな人が寄合ってゐて、結局何か一つ学校をよくして行かうぢやないかといふことで、当時はまだ学校を卒業しても免状を貰へなかつたから、これは一つ卒業と同時に一級の免状を貰へるやうな運動をやらうじやないかといふので、ストライキめいたやうな事を始めて、全部学校をさぼつちやつて、(以下略)
いささかではあるが、当時の学生の気質も一因したといえよう。引用の発言はその辺りの事情を明らかにしている。さて、引用文からも見えるように"ストライキ"めいたような事がはじまった。
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6-2 同盟休校
『電信協会会誌』は、電信協会管理時代の無線電信講習所の歴史を知る公的資料として第一級のものと位置付けられるが、同盟休校についての記述はただの一行も無い。これが講習所にとって大きな事件であったことはいうまでもないが、当時の講習所の幹部にとって"幸福な事件"ではなかったという証左であろう。残念ながらわれわれは種々の意見の援用を経て、いわば「からめ手から」真実を類推していく他はない。前の引用文に引き続いて、内山氏は次のように語っている。
内山 全部学校をさぼつちやつて、新聞の方からも少しアヂつて貰はうといふので、報知新聞社の前に集合して、当時の逓信大臣の犬養さんの邸宅へ夕方6時か7時に列をなして歎願に行つたことがあるのですが…
同盟休校中の学生・教職員の生態についてつまびらかな文書は現存しない。時々、偶然のように学友会誌・同窓会誌に"回想としての当時"についての記述が見つかる。大岡茂氏は「在学当時の思出」で次のように述べている。
大岡 以上述べたこと以外、公私共に余り変つたこともなく、二学期の終りに近づいて(11月か12月頃だったと思ふ)ここで特記すべき一つの事件が起つた。それは、学校を良くして、一級の資格を授与される様にして貰ひたい、と言ふ運動を起したことである。どう言ふ経緯で、此の運動が勃発し、可なり長期間、学業を休む様になつたのか、全く忘れてしまつたが、新聞にも可なり書き立てられたし、(当時は世の中が平静で、他に書くべき事件が無かつたのであらう)とにかく少からず騒いだものである。此の運動に対しても、私が一人で反対したと言ふ様に思つてゐる者があるらしいが(同期卒業生中の変り種である上野文雄君~現在満洲、北支でタングステン鉱山をやつてゐる~なぞ其の一人でどうしてもさうだと頑張つてゐる)之は入学早々の鉄拳制裁事件に、孤軍奮闘したことが、強く印象されて、大岡のやりさうなことだと言ふ所から、その様なことになつたのであろう。事実は、此の事件の初期には、委員の一人として新聞に名前が出たために(しかし、いつ委員にされたのか自分では解らなかつたし、又いつの間にか委員で無くなつてしまつてゐた)大洋海運から、何をしても差し支えないが、只退学させられる様なことだけはするな、と言つて来た位だし、皆の尻にくっついて、犬養さん(当時逓信大臣)の所へ行つたことも覚えている。しかし運動に熱心でなかつたことは確かに事実であつた。運動の最中に、どうせ学校が休みだからと言ふので、検定試験(第二級)を受けたし、運動の終らない前に、会社の命令で船に乗せられてしまつて、此の運動が成功して、後始末でゴタゴタしてゐる所へ帰つて来た様な始末だつた。
此の運動中特筆すべきことは、リーダーの統率宜しきを得たと言ふのであらうか、全てが紳士的であり、一つの不祥事件(此の様な際には、とかく乱暴な事件が起り易いものであるが)も起らなかつたことである。私の様に運動中試験を受けに行つたり、船に乗つたり、相当我儘な人間に対しても、理解を持つてくれたと言ふより、むしろ色々と援助してくれた位である。此の事実が成功をもたらしたものだと、私は考へるのである。
引用文にもあるように、当時この事件は小さからぬ扱いで新聞記事となっている。ここでは収集できた範囲ですべてを掲載することにしよう。また、新聞によれば、同盟休校は1924年(大正13年)11月29日にはじまった。
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6-3 逓信大臣へ直訴
内山氏の座談会での発言の後を継いでみよう。
内山 私も一番後にボチボチくつ付いて行つて、お巡りさんが2、3人後の方にくつ付いて来たのですが、そのお巡りさんの曰く「君達は何をするのかね。」「実は学校に対して余り面白くない事があるから、改善してもらふ為に逓信大臣の所へ歎願に行くのだ。」と言つたところが「さうかね、やり給へやり給へ。」と言つて、少し尻を突つ付かれてけしかけられた恰好で、すつかり気をよくして、もう電燈がついて居る頃であつたが、犬養さんの所へ行つて、代表だけ中へ入れてもらつて、其時犬養さんは居られたかどうか、兎に角吾々の要求を諒とされて、それぢや極力奔走するからという言質を得て、得々として帰つて来て、実際其の通り実現出来て、吾々の卒業の時から一級の免状がもらへるやうになつたわけであります。
また、この時、富永氏は次のように内山氏の話を受けている。
富永 犬養さんの邸に行つた時ね、あの時は閣議で、犬養さんはゐなかつた、それを途中で帰つて来て呉れたんだ。それ程熱心だつた。その時犬養さんを知らないで、押し出さうとしたら「俺だ俺だ」と言つたんで(笑声)あの時実は学生を検挙して呉れといふ要求が実はあつて市ケ谷見附で検挙する手配がしてあつたが、ところが学生は列をなして歩いてゐるし、検挙する理由がないといふのでしなかった。
内山 つまり頗る紳士的であつたのですね。
富永 あの時中に入つたのは中村と、君達のクラスの永野と菅野だつたね、あとは外で待つていた。
内山 あの時の記事は新聞に写真入りで出て居りましたね。
富永 併し犬養さんは非常に好意を持つて居りましたよ 閣議の途中で帰つて来た程心配してゐたんだね。
内山 併し有効であつたですね、その卒業生の時から一級が貰へたのですからね。
直訴の結果は上々だったのである。ただ、ここで注意したいのは、全員が無試験一級とはゆかなかった点である。1925年(大正14年)6月本科卒業生から無試験で一級以下をもらえるようになったというのが正確な表現であろう。つまり成績により一級から漁船級まで振り分けられたのである。また、引用文中からも明らかなように、この事件こそ大いに新聞紙上をにぎわした事件といえる。
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6-4 運動の成果
前出の新聞によれば、当時学生たちはさまざまな要求を掲げて同盟休校を行い、また逓信省への陳情事件を起こしたのだが、この運動の主眼は、本科1年制を1年半制もしくは2年制にすること、私設無線電信通信従事者資格検定試験に合格しなくても、つまり無試験で卒業と同時に無線通信士第一級の免状を付与すること、の2点であった。この2点に限れば、一方は達成されず、一方はほぼ満足し得る結果を得たといってよいだろう。学生たちの意気は大いにあがったと想像される。『電信協会会誌』第247号にはその成果についての記述がある。
無線電信講習所卒業生特典拡張昨年6月以降無線電信講習所本科卒業生に対し無試験にて資格付与の特典を与へられたるも別科卒業生には及ばず又本科と雖も其特典二級に止り之を以て満足すべきに非ざるを以て電信協会に於ては経費の許す限り同所の内容充実を計りたる結果主務省に於ても其改善を認められ特典を拡大せらるることとなり、左の如く官報に告示せられたり。之に依り今後の特典は卒業成績に依り等差を設けらる。即ち本科卒業は其の成績に依り甲乙に分ち甲に対しては一級、乙に対しては二級又別科卒業に対しては甲は二級、乙は漁船級の資格を与へらるることとなれり。
逓信省告示第252号 私設無線電信通信従事者資格検定規則第五条二依り銓衡検定を受くることを得るものと認定したる講習所名及検定等級左の如し 大正13年6月逓信省告示第843号は大正14年2月28日限り之を廃止す 大正14年2月23日 逓信大臣 犬養毅 講習所名 検定等級 社団法人電信協会管理・無線電信講習所 大正13年6月10日より大正14年2月末日迄に本科を卒業したる者 第二級 大正14年3月1日以降本科を卒業したる者 第一級以下 大正14年3月1日以降別科を卒業したる者 第二級以下
ここには、決して同盟休校の成果とは書いていないが、そもそも同誌には同盟休校事件そのものも黙殺している有様であるから、当然の帰結といわなければならない。
ともかく1925年(大正14年)6月17日に第12回卒業式が挙行され、このときの卒業生112名(本科67名、別科甲組14名、別科乙組31名)ははじめて無試験で資格を付与されている。その内訳は、一級34名、二級67名、漁船級11名である。
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6-5 補修科の新設
前項で明らかにしたように、同盟休校の成果は非常に大きなもので資格検定試験規則の改変さえ果たした。当然のことながら、この改変に伴い無線電信講習所のさまざまな規則にも影響を与えずにはいない。まず、以前は資格検定試験受験のため再入学を許可していたのだが、卒業と同時に資格が付与されるようになった現在、一級を付与されなかった者による再入学の激増が予測されるところとなった。1925年(大正14年)3月3日の学則改正は特にその点に留意し、実施されている。
無線電信講習所の学則別項の通り無線電信講習所の特典拡張せられたるに伴ひ学則は相当改正せられたるを以て茲に採録することとせり。其の内補修科制度は今回始めて設けられたるものなるが其制定趣旨は従来は卒業間近に於て二級資格者又は資格なきも一旦卒業したる諸子の再入学を許したるも今度は之等中途入学を許し難きこととなりたるにより之等諸子の為特に設けたるものなり。
主旨はこの引用文において明白である。更に補修科規則を引用してみる。
補修科規則 第1条 補修科は左記各号の一に該当するものにして私設無線電信通信従事者一級資格検定試験を受けむとする者の為に之を設く 1 私設無線電信従事者第二級又は漁船級の資格を有する者 2 本所を卒業したる者 第2条 補修科に於て教授する科目左の如し其の毎週平均教授標準時間数各下記の通とす 1 電気通信術 8時間 2 無線電信実験 6時間 3 英語 5時間 4 無線電信学 3時問 5 内国無線電信法規 1時間 6 外国無線電信法規 1時間 第3条 補修科の修業期間は2箇月とし毎年左の2期に之を開設す 但し日曜日及大祭祝日に於ては授業を行はす
春期 4月1日より5月末日まで
冬期 10月1日より11月末日まで第4条 補修科の学費は左の通とし入学許可の際之を徴収す 1 入学料2円 2 授業料一期間に付12円5月又は11月に入学する者に対しては4円を減す 3 所費一期間に付一円5月又は11月に入学する者に対しては50銭を減す 第5条 一旦納付したる学費は如何なる場合と錐之を還付せさるものとす 第6条 本所に於て授業上支障ありと認むるときは中途入学を許ささることあるへし 第7条 入学希望者は付録書式に従ひ保証人連署の入学願書に履歴書を添へて 本所に之を差出すへし保証人は東京府下に於て一家を立つる成年者たるを要す 第8条 補修科生は出席の都度本所交付の授業券を携帯すへし 第9条 補修科生は必す洋服又は袴を著け上草履を用ふへし 第10条 本所の器具機械を毀損したるときは相当の賠償を為さしむ 第11条 補修科生は本所教職員の命令に遵ふへし 第12条 本規則に背反し又は本所名を殿損するか如き行為ある者は情状に依り 停学又は退学を命す
修業期間は2か月となっている。これは補修科の性格が資格検定試験受験のための短期講習会であることを示している。ある意味で、これは目的の検定等級を獲得できなかった者への受け皿となったといえるであろう。
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