電気通信大学60年史
前編3章 無線電信講習所の発展
第4節:若宮貞夫所長の就任
震災の翌年にあたる1924年(大正13年)、この年は電信協会にとって不幸な事件が相次いだ。一つは1月31日に発生した火災による本館焼失事件であり、もう一つは電信協会および無線電信講習所の生みの親、電信協会会長若宮正音氏が4月5日に死去した件である。
1月31日の火災は、午後5時に出火し、本館をほぽ焼き尽くした。不幸中幸いなことには、受信室、動力室、倉庫、門衛所は被災を免れ、重要書類、機械の大部分を搬出し得たのだが、電信協会の痛手は大きかった。事後、受信室を仮事務室にあて、安中電気製作所、日出高等女学校の校舎を借用し授業を継続することになった。仮住まいの練習所に逆戻りした訳である。この仮住まいは同年4月9日まで続き、かの大震災では、ほとんど被災しなかったのにもかかわらず、翌年早々火災に出会うとは皮肉なことと言える。これは、次の不幸な事件の前触れだったのであろうか。
さて、巨星墜つ。若宮正音氏が死去するという事件は、当時の電信協会の首脳にとって、こう書いても大袈裟ではないであろう。焼失した校舎の建設がようやく完成を見るという時に、まさに巨星は墜ちたのである。享年71歳、無線電信講習所の設立が氏のライフワークとなった。
正音先生が1924年(大正13年)4月に没後、この事業の後継者として、正音先生の末弟で養嗣子であり、逓信省管船局長として、また逓信次官として海運行政に対する貴い経験の持主であり、とくに船舶無線の重要性とこれが進歩に深い関心を持つ斯界の第一人者であった若宮貞夫先生がその経歴からその伝統から最も適任であるとの一致した世論に従って、同年5月電信協会の会長に挙げられるとともに無線電信講習所経営を引き受けられたのであった。そして兄弟一貫した指導精神の下に無線通信士の養成に尽くされることになったのである。
なお、「電信協会会誌」第242号の電信協会記事には次のような簡単な経過が載っている。
- 大正13年4月29日電気倶楽部に於て商議員会を開き役員の補欠選挙を行ふ 其結果満場一致を以て商議員若宮貞夫君を選挙し尚主理、監事の補欠は 其指名を後任会長に一任するに決せり
- 同年5月4日商議員若宮貞夫君は本会会長たることを承諾せられ嚮に 一任せられたる主理、監事の補欠に対し左の諸君を指名し三君は之を承諾せられたり
主理 久米金弥君 浅野応輔君 監事青木大三郎君
当時の電信協会の雰囲気をさぐれば、新会長の就任に相当な期待がかかっているように感じとられる。それは、氏が帝国大学法科を卒業し、高等文官試験に合格し逓信次官まで昇りつめたというような経歴とも無縁ではないが、相当な人物であるとの評判がその期待度に相当付加されたと考えられる。広島庄太郎氏「若宮先生を偲う」からその人物評に係わる部分を引用してみる。
若宮貞夫先生は初め官界を退くと共に郷里兵庫県から衆議院議員として何回も選ばれ、政治家として活躍せられて其の地位と名声高く、又実際身辺極めて多忙であられたが、一面講習所のことに付て微細に亘り熱誠を以て臨まれ、又後半は政界を退き講習所の事業のみに専念せられ、常に時代の進運に伴う、養成施設の進歩と充実に献身的努力を続けられ、万難を排して之を推進せられると共に、生徒を愛育指導し、機会ある毎に生徒を集めて生徒の本分「道徳の根本、人間としての在り方、特に国際的日本の触手としての通信士の精神など懇篤に申聞け、或は激励された。荒波の世に巣立つ多くの卒業生達は若宮先生に植付けられたこの光輝ある伝統気質に生き之が活躍の根本を為して居るのであると思います。
若宮先生の邸宅は青山御所の向側に在ってお屋敷風の家であったが、広い応接室には凡2、30名も列し得るような大きなテーブルが置かれてあった。朝な夕なに先生を慕い、或は指導を受くべく交々訪ね来る者も絶えなかったが先生は、どの生徒に対しても親心を以て迎え、その希望や、煩悶を聞き適切な判断に依り親しく指導せられたが一貫した精神に依り、些の情実なく公平無私、只何となく親しみを感ぜられていた。
若宮貞夫氏が所長に就任したという出来事は、講習所が発展、拡充し、徐々にではあるが、通信士養成という点で直接戦争に対面していかざるを得ない時期を担う講習所経営者が誕生したという意味を持つ。無論、いかに俊才、敏腕家の若宮氏であろうと来たる激動の時代を正確に予見していた訳はないのだが。
その後の若宮貞夫先生の思い出を大岡茂氏は次のように書かれている。
無線電信講習所が逓信省に移管され、電信協会が解散して、残務整理のとき、会議室に安置してあった若宮正音先生の胸像を、若宮貞夫先生はこれは私がもらって帰りたいと申し出られた。
広島庄太郎幹事だったか、長津定教頭だったか忘れたが、正音先生は無線電信講習所創立の功労者であるから、いつまでもこのまま無線電信講習所に安置しておいて欲しいとお願いしたようだったが、若宮貞夫先生はお聞き入れなく、お持ち帰りになった。年月が経つと何事も忘れ去られ、いずれは物置の隅に片付けられるようになるのが世の常だというのがその理由であった。
電信協会解散のとき、無線同窓会で、若宮貞夫先生の何かのお役に立ちたいと考えて、卒業生から募金した。その金額の一部で先生の肖像を描いてそれを差し上げたいと申したところ、お断りになった。肖像画は先生にだけではなく、杉精三先生(会計部長)、宮崎清則先生(教育部長)にも差し上げ、それぞれ御自宅に飾っていただきたいのであると申し上げて、漸く御承諾を得たが、そのとき、正音先生の胸像のことに触れ、お持ち帰りになった理由をお漏しになったのである。
なお、電信協会解散のとき、同会に保管されていた若宮貞夫先生書の掛軸を広島庄太郎先生がお貰いになったが、広島先生が御亡くなりになる前に、同先生から私がいただいた。
私はそれを約30年間、若宮先生と広島先生の思い出とともに持っていたが、私もすでに年令70を越え、死後のことを考えねばならぬ頃となったので、今年(昭和51年)6月、それを旧知の長井実行さん(若宮貞夫先生の御長女の御夫君)にお返しした。若宮貞夫先生のいわれたことが、心の隅に残っていて、それが心の負担となっていたからである。
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