電気通信大学60年史
前編3章 無線電信講習所の発展
第2節:創成期の講習所
ようやく新校舎も完成し、本科、別科、短期科の三つの専攻科を持つ無線電信講習所を見て、 電信協会の首脳陣、講習所の生徒、またその他の無線通信関係者は、創成の喜びを隠せなかったであろう。 ここに,1921年(大正10年)1月6日に行われた、本科、別科、短期科の3専攻科「第4回始業式」における 若宮会長の訓示があるが、そこには、明らかに、一種創成の高ぶりといったものが感じられる。
第4回始業式に於ける若宮会長の訓示本日此新築校堂に於いて始業式を挙行するを得たるは老生の深く嘉悦する所也
茲に満腹の嘉悦と共に満懐の希望を開陳し諸氏の満胸の賛同を懇求せんと欲するものあり即ち其 第一は学術勤勉其第二は品性修養其第三は規律恪守の三点とす
諸子は蓋し学術勤勉の一事は他諸学校生徒に比し敢えて一歩をも譲らず此最大最新の学術を研修し 以て坤輿球上列国の無線電信従事者と相対峙して優秀の名誉を博取することを期せらるは固より疑を容れずと 雖諺に言ふ如く油断大敵にて少間も怠らず益勉学せらるるに非れば皇国の名声を揚ぐること能はず瞬間も 油断すべからざることを心肝に銘刻せらるることを切望せざるを得ず又何程学術に堪能にても心性正しからず 品行修まらざれば折角薀蓄する所の学術深遠なるも終に社会に立つ能はざる復た弁を須たず故に46時中 唯除睡時品性修養の工夫に孜々努力せらるること実に肝要なりとす而して紀律恪守は自ら 学術勤勉及び品性修養の素地を成すものなれば細大軽重を問はず之を謹行し明暗に由りて 趨捨を別たず天地日月の照覧を畏懼して必ず之を恪守せられんことを希望して止まず。
此三要件の励行に関し細密に幹事其他職員に対し厳重に訓令し置きたる次第あり幹事其他職員は 訓令の趣旨を奉じ今日以後諸氏の紀律恪守に付き充分の注意監督を為し最大指導訓戒誡する所 あるべし
諸子は今日克く此意を体認し今後篤く励行に勤められるべし
本会は以上三要件の実行を期する為め今般特に特待生待遇に係る規定を創定し大に之を奨励することと為したり 蓋し特待生に選抜せられたる生員は成業の後社会は必ずや其人を歓迎優待すべく従ひて其人は事業に就いて 学び得たる学術を実行して名を揚げ父母を顕し高尚なる士人の面目を発揮すべき素地を成就し得ることなれば 諸子は各競ひて此三要件を励み特待生に採択せらるることに努めらるべし此は是れ老生の千万冀望して日夜 措かざるところなり
また、同年1月22日に目黒の新校舎において第3回卒業式が挙行されているが、とくに今回から 逓信大臣を招き、式辞を述べさせている。何事においても創成の時代というものは、常に活気に満ちて いるものであるが、各々その躍動の姿形には特徴的なものが何かあるはずである。はたして無線電信講習所に おける躍動の姿形はどのようなものであったろうか。目黒の地に腰を落ち着け、ようやく生徒たちにも、 無線電信講習所特有の雰囲気が感じられるようになり、一つの躍動の姿形をあらわにして来たのであった。
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2-1 「目黒気質」めばえる
世間では、ある特定の学校を指して、日く「~精神」、日く「~カラー」というように呼ぶことがある。例えば、早稲田大学には早稲田精神、慶応義塾には三田カラーと。言い換えれば、これは創成の気質とでもいうべきものである。「初心忘るるべからず」という言葉があるが、この「~精神」「~カラー」というものも、創成期にある学校の志ある生徒たちが意識的に膾炙したものが自然に巷間に流布していったものであろう。大正期も10年代となったこのころ、校内に満ちていた無線電信講習所特有の雰囲気が徐々に巷間で「目黒気質」として称せられるまでに発酵してきたのである。
ところで、いったい、船舶通信士となろうとする者とは、どのような特質を持った者たちだったのだろうか。ここに大岡茂氏が「学友会誌」第24号に「在学当時の思い出」として寄稿している文章があるので引用してみる。
私の入学した1924年(太正13年)は、漸く学校としての形態が、整ひかけた時代だったと思ふが、全く変わった所へ入ったという印象を受けた。学生も正規に中学を出た者以外に、上は大学から、下は中等学校中退やら、数年の浪人生活を経て来た者やら、とにかく相当種々雑多の人間の寄り集りだし、先生に対しては、失礼かも知れぬが、現在の元老的存在である広吉先生、北条先生、沢野先生、森先生、永井先生、小川先生、田村先生等々も、私たちより少し前、又は在学中に入って来られたのであるから、全てが寄合世帯と言ふ感じを、受けずには居られなかった。
其の上入学した私達~或は私と言った方がよいかも知れぬが~自体が、現在の学生の如く、ハッキリした目的や考へを持って居たらしくも無く、大部分が他の学校に入れなかったからとか、経済上の事情とか、或は漠然と船に乗りたいと言ふ様なことだった様に、考へられる点があり、全てがフラフラして居た様に、思はれたのである。
私達が入学した当時は、制服もなく、全てが自由だったから、着物を着て来る人間もあり、之が下駄のままガタゴトと教室へ入って来る様なこともあった。
大岡氏のこの文章からは、創成の高揚感は余り感じられないが、無線電信講習所の生んだ最高の学究の一人である大岡氏の眼に、当時を回想して冷めた観察をしているのも無理からぬところがある。この文の発表当時〈1940年(昭和15年)〉は、創成当時とは比較にならぬほどの隆盛を示していた無線電信講習所であるから。
とにかく、創成の無線電信講習所は、あくまでも自由な校風であり、海外に雄飛しようと夢を抱くある意味でのつわものたちの集まりであると言える。
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2-2 初任給は帝大卒の二倍
高野一夫 そうすると、抽せんで就職が決まって、どうなんですか。皆さん待遇はよかったんですか。 田沢 新 待遇はよかったです。大体において初任給85円。それから東洋汽船かなんかが、95円。ですから一般の待遇としては、決して悪くはないですな。また、私が無線電信講習所へ行こうと思ったのも、それが目的です。家がそういうわけですからね。T君はどこへ入ったのか、85円、手当4割、航海手当170円、仕度金150円。東洋汽船、本俸95円、手当26円ぐらい、航海手当50円。国際汽船、本俸が百円、すべての手当が10割。こういうような記録があります。 高野一夫 当時、大学出の給料は、どのくらいだったのですか。 鈴木真一 55円ぐらいですよ。 田沢 新 そうです。私が日本放送協会に入りましたときが、70円ですね。それで大学卒が、65円ないし70円。その当時としては、オペレーターの給料は、ずっとよかったわけです。 高野一夫 こたえられない待遇だったのですね、ほかの人に比べると。 田沢 新 そうらしいですね、私は家へどんどん送っちゃって、兄弟が多いから。 〈1979年(昭和54年)9月9日「座談会」〉
田沢氏は1920年(大正9年)6月の第1回本科卒業であるが、このころの就職状況の一端を伺わせてくれる。
当時、日本郵船、大阪商船の初任給はさほど高くなかったらしいが、他のいわゆる社外船の給料はきわめて高給というべき額だったのである。1年に満たない短期講習とでもいうべき職業教育を受けた者が、職前、最高学府であった帝大卒の初任給の2倍というのは他に類を見ないだろう。引用した同じ座談会の席上で、安部宗匡氏は、その給与額の標準について述べている。
安部宗匡 85円という給料の標準は何かというと、電信局の官立の無線局の局長が、大体判任官の四級職から三級職で、三級が80円ですから、それが標準になりまして、一級が110円。それから郵船会社、商船会社、東洋汽船は、少し安いんです。
どうも給与額の決定については資格給的な意味が強く、それが高額である根拠となっていたようである。
いずれにしても、当時、通信士の給与が破格であり、その高給を夢見て無線電信講習所に入学したとしても不自然ではない。また、当時の日本の状況から考えて、比較的貧しい家庭が多く、そこから志ある青年たちが通信士となっていくという過程は、近代日本の創成という点からも一つのシンボリックな状況ともいえるであろう。このような「初任給は帝大卒の2倍」の状態は1925年(大正14年)、船舶無線電信施設法が公布された前後まで続いた。無線電信講習所卒業生にとってよきなつかしい時代であった。
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2-3 無線電信同窓会
『電信協会会誌』第236号に同窓会設立者池田周作氏の設立趣意書とでもいうべき記述がある。
- 無線電信同窓会
学校生活は人生の生活の内で最も有意義な一つである。然し学校と云つても小学校から初めて中学校、専門学校と幾つかの階段があり、各々その在学の年齢が異ふ様に在学中の生活が変つてゐる。その内で社会に出る直ぐ前の学校が一般にその人の評価さるる基となるのである。
それ故社会に出た後も人は最後の学校生活を営んだ母校に対し一段の懐しさを覚えその同窓に対し深い友情を抱く者である。
この母校を慕ふ心と同窓生を思ふ情とが現はれたのが同窓会である。
電信協会の管理して居る無線電信講習所が開かれてより卒業生を出すこと7回その数実に300名以上に達して居りその大部分が現在海運界に貢献してをられる。
この多数の卒業生は在学当時から同窓会設立を考へて居られた事と思ふそして乗船中四囲の事情から自分達にも強力な団体が欲しいと思ふ事が度々あったに違ひない、此等の希望を満し次第に多数となる同窓生相互の親睦を計り向上を期する為めに無線電信同窓会を組織するの議が目下陸上に在る同窓生間に熟して居る。
尚会則は本来から云へば卒業生諸君の意向を尋ねて定むべきであるが多数は海上勤務にあり通信に長時日を要する為め不取敢次の如きものを立案したと云ふことである。
右は甚だ結構な事であると思ふ。会則には多数の意に満たぬ点もあらふが、先づ之れで成立せしめ而して卒業生諸君が例外なしに会員となられ、大に会則の趣旨を実行せらるるがよいと思ふ。
- 無線電信同窓会会則
- 本会は無線電信同窓会と称す
- 本会事務所は東京府下下目黒電信協会内に置く
- 本会は左に掲けたる事項を以て目的とす
イ、会員相互の親睦を図ること
ロ、会員全体の向上発展を図ること- 本会会員は電信協会管理無線電信講習所出身者より成る 但無線電信従事者にして本会会員たらんと欲するときは随時入会することを得
- 本会記事は電信協会会誌に記載す
- 会員の会費として1箇月金10銭を納入するものとす
- 本会会長には無線電信講習所長を推挙す
- 本会の事務を執行するため理事1名幹事若干名を置く理事は 会員より選出し幹事は理事の指名にょるものとす
- 本会会計は毎年2回之を報告す
- 新に会員たらんと欲するものは姓名会誌送付先を記し会費を 添へ本会に申込むへし
- 本会会則を改正せんとするときは会員の発議により本会事務所に 於て協議を開き出席会員過半数の賛成を以て之を決す
同窓会設立については、同会誌に戸川源司氏の「無線電信同窓会の意義と将来」があるが、その記事の日付が、1922年(大正11年)9月11日となっていることから、無線電信同窓会の発足は、その日か、その日の前後と推測される。
ところで、おおやけに向けた同窓会設立の趣意は以上のとおりだが、同窓会設立の主眼は、船を降りた通信士の陸での就職を斡旋することにあった。当時、通信士の団体というものが皆無であった点から、通信士の陸での就職については全く個々に手だてを捜す以外にないのが現状であったのである。
また、電信協会との関係で同窓会の設立を見てみると、会則第7条に「本会会長に無線電信講習所長を推挙す」とあり、「電信協会会誌」第238号には「電信協会会誌は今後発行回数が増加される事になり内容も豊富になる事と思ひますそれで同窓会員の内で未だ電信協会会員となられない方には是非此の際電信協会に入会される様切に希望いたします」の記述が見え、互いに協力的であったと推測される。
設立時の入会者数は不明だが、「電信協会会誌」第237号に「本会創立以来入会者66名会費納付者61名会費は郵便貯金となって金61円96銭あります」の記述がある。第237号の発行日は1923年(大正12年)3月25日であるから、設立から約半年で60名強の入会者をみたことになる。
ここに、現在の電気通信大学同窓会・社団法人目黒会の前身が誕生したのである。
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