電気通信大学60年史
前編2章 無線電信講習所の設立
第1節:電信協会
わが国の電信事業は明治政府の賢明な配慮によって、初期から電信事業国営の政策を堅持し、諸外国電信企業からの執拗な電信営業権獲得工作を退け、国内からの営業申請も却下してきていた。ただ、デンマークの大北電信会社に対しては海底電信という特殊技術と資金の関係から、国内通信系に直接干渉を与えない範囲において、対外海底線の敷設、維持及び対外通信(長崎-上海間海底電信)の取り扱いを協定した。わが国は1889年(明治22年)、帝国憲法を発布して帝制国家として列強の仲間入りをしたが、まだ後進国扱いの域を脱することができず、電信についても、1879年(明治12年)1月ペテルスブルグで締結された「万国電信条約」に加盟し、同年4月ロンドン第2回万国電信会議にも参列しているにもかかわらず、依然として不公平な取り扱いを受けていた。関係当局はもちろん、関心を持つ人たちの間ではわが国の電信、電話の技術に関して独自の研究、開発によって事業の育成、発達を期し先進国に対するの気迫が持たれており、通信の技術、行政に関する強力な研究、調査の機関を必要とする意見が高まっていた。電務局電気試験所長浅野応輔博士はこの情勢を若宮正音電務局長に進言した。若宮局長は、当時電気試験所で浅野博士を中心として技術研究に熱意を注いでいた松代松之助、中山竜次等の青年の一群に大きな期待をかけていたので、浅野博士の進言を受け入れ、行政方面に詳しい人材を加えて団体を組織し、その団体を電信協会と名付けた。1892年(明治25年)10月、若宮正音、浅野応輔、湯川寛吉、松永武吉、森島剛太郎等の間で検討を重ね、11月12日、交詢社で約40名が会合、会則委員を選出、12月3日、電気試験所に約50名が集合して会則を議決し、会長及び商議員を定めて、電信協会は成立した。12月19日会員募集の書状を各地に発送したが、翌1893年(明治26年)1月16日には790名の入会者をみた。1893年(明治26年)1月14日第1回通常総会において若宮正音は正式に会長に選出されて、就任した。1月から『電信協会誌』が発行された。編集委員は浅野応輔、沢井廉、湯川寛吉の3名で、創刊号は48ページであった。この会誌は逓信省管下における最初の専門雑誌で、発達途上にあるわが国の電気通信の技術・行政面に得るところが多く、後に外国にまでその存在が知られた。
電信協会発足のときに議決した会則第2章に定められた本会の目的は、
第2章 本会の目的 | |
---|---|
第2条 | 本会は左の各項を以て其目的となす |
第1項 | 電気通信事業に関する学術技芸を講究すること |
第2項 | 電気通信事業に関する法理を講究すること |
第3項 | 電気通信事業の拡張整理の方法を講究すること |
であった。当時としては電気通信関係全般にわたる研究、事業推進の唯一の機関であったといえる。月1回の会合、席上で行われた講演、研究発表等の貴重な資料を会誌に掲載して会員並びに関係官公庁、機関等に知識を注入し、内外の情報を提供して、わが国電気通信の認識と発達に貢献した業績は極めて大きかった。それゆえに、官界、学界、民間各層から続々と入会を申し込み、1903年(明治36年)には会員数4,300名に達し隆盛を極めた。本会の貢献は、1894~1895年(明治27、28年)の日清戦争、1904~1905年(明治37、38年)の日露戦争における戦時通信、とくに日露戦争における作戦、戦略、戦術、後方支援等のための電気通信が日本海海戦に象徴されるような驚異的威力を発揮したその陰には、本会及び会員のたゆまない努力と熱意が陰に陽に効果をあげていたことはいうまでもないことである。ところが日露戦争の後、社会情勢、思想激変の影響を受け、そのうえ財政難等も原因して協会は衰退の一路をたどらねばならない状態となった。更に1908年(明治41年)逓信当局首脳部の手によって『通信協会』(後の逓信協会)が創立された。電信協会会員構成の重要な部分であった電信従業員の大多数は、本会の純技術的研究に傾く方針に飽きていたため、二つの会に二重在籍となることを好まず、本会を脱退して通信協会に転籍していき、余勢は急激に下降線を描きはじめた。若宮会長はじめ、役員等は躍起になって会の維持、立て直しにあらゆる努力を試みたが、趨勢は電信協会に利はなく、再び来る春を信じながら落日の孤城を守り続けた。このころの電信協会の情勢は、その50年の歴史のなかでドン底といってよい時代で、最高期4,000名を突破した会員数も800名にまで落ち込み1年間の会員の会費納入額はわずかに9円という惨状であったが、1914年(大正3年)の第一次世界大戦の勃発、第1回、第2回万国無線電信会議の開催の結果、遠洋航路船舶の無線電信施設の強制条約の締結、無線電信法や私設無線電信規則実施等によって船舶無線電信の義務施設、更に海運会社の自発的要求によって、無線電信機及び従事者の大量需要の時代を迎え、1917年(大正6年)に至って無線電信講習所の建設経営という問題が持ちあがり、雌伏10年、苦難の途に耐えてきた電信協会はここに起死回生の好機をつかむことができたのである。
日本無線史第6巻によれば、電信協会は「電信協会会誌」を発行前述のようにしたが講習会を開催する等電信事業に寄与するところ多く、我が国電信技術の進歩に尽した。電信協会会誌は1892年(明治25年)1月25日第1号を発行、爾後毎月発行した。
1914年(大正3年)から1923年(大正12年)までは大体年4回「電信協会会誌」を発行し、(大正10年及び13年は年3回)、1924年(大正13年)以降は隔月発行となったが、1914年(大正3年)から1918年(大正7年)迄の問に於ける「電信協会会誌」に載った無線関係論文等は次の通りであった。
- 佐伯 美津留
- 「現時の無線電信」大正3年1月号及び4月号
- 吉田 芳男
- 「ラサ島の概況」大正4年10月号
1917年(大正6年)12月、電信協会は帝国無線電信講習会を継承することに決し、 大正7年9月社団法人の認可を得、同年12月8曰無線電信講習所を創設することとなり後半の活動期に入り、爾後協会の活動は講習所の経営に全力が注がれ、傍ら「電信協会会誌」を隔月に発行する状態であった。