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電気通信大学60年史

前編1章  無線電信講習所設立の歴史的背景

第2節 講習所以前の無線通信士教育

2-1 逓信官吏練習所、養成に着手

無線電信が実用通信実施の時期に入って、運用技術者すなわち無線電信通信従事者の養成が必要になって来たのは前述のとおりである。とくに、太平洋航路客船に船舶無線電信局、これと陸上通信系を結ぶ海岸局を設置し、内国電報、外国電報を取り扱うことが計画されていた時でもあり、その通信従事者を当時、唯一の通信士養成機関と言えた逓信省通信官吏練習所(後の逓信官吏練習所-通称官練または逓官)で養成することになった。

1907年(明治40年)12月、第一期生25名を通信科(後の電信科)卒業者の中から選抜して6ヶ月間訓練を施し、翌1908年(明治41年)5月卒業、海岸局及び船舶無線電信局に勤務させた。もちろん当時はすべて逓信省直属の無線電信局(後の私設無線局に対して官設無線局)の官吏である。以来1910年度(明治43年度)9名、1911年度(明治44年度)30名と以後大正末期まで必要に応じて臨時養成を行ったが1925年(大正14年)、2年制の無線通信科が設置され、以後、太平洋戦争終結まで陸上局勤務の通信官吏として定期的に教育されるのである。

2-2 民間でも養成開始

私設無線電信規則施行初期の代表的私設無線電信は船舶の無線電信であった。1915年(大正4年)に制定された無線電信法、私設無線電信規則及び私設無線電信通信従事者資格検定規則の適用を受ける船舶の無線電信施設は、船舶所有者または運航者等その船舶の無線電信を施設する者の負担と責任で無線電信装置を設備し、資格ある無線通信従事者を選任して無線通信業務を行うことになった。しかし、何の教育施設も持たない施設者が急に熟練した通信従事者を養成することは不可能なことである。以前から官練で養成している者は官吏であるから私設無線局に配置するわけには行かない。また、官練は専門の官吏を教育する機関であるから民間人を養成することはできない。ロンドン条約及び国内法規によって無線電信施設を強制された船舶は、無線電信機を設備しても通信従事者がいなければ航海は出来ないので、逓信省は臨機の措置として1916年(大正5年)11月の官練無線科卒業者を私設船舶無線局に配置した。そしてその後の私設無線通信従事者の養成を無線機製造会社にまかせた。

結局製造会社は無線機と通信従事者とを同時に供給する形となった。当時船舶職員の社員制度が確立していない社外船(日本郵船、大阪商船、東洋汽船の3社の所有船を社船と称し、その他の汽船会社の船を社外船と称した)の会社から製造会社に無線機を発注する際、通信従事者の斡旋を依頼し、あるいは特定の学生を講習機関に委託する等、通信従事者の獲得には相当の苦労があった。

Ⅰ 帝国無線電信講習会

そのような背景の中で、逓信省の方針、海運界各方面からの要望に応えて、まず安中電機製作所(現安立電気株式会社。当時逓信省式無線電信機の指定製造会社)が1916年(大正5年)9月11日、天現寺(現港区南麻布四丁目)の自社工場内に「帝国無線電信講習会」を開設して、同工場の設備一切を教育実験用に提供、自社の無線機関係技術者及び逓信省通信局の業務・外信・工務の各部課から佐伯美津留、若松直蔵、広江恭造、舛本茂一、牛沢為五郎、近藤太郎、船橋無線局から米村嘉一郎、伊藤豊の各氏が出講して最初の私設無線電信通信従事者の養成にあたった。この講習会は、1918年(大正7年)12月に開講した社団法人電信協会管理無線電信講習所に譲渡するまでの間に講習会を6回実施し、300余名の検定合格者を出した。私設無線電信通信従事者供給の至上命令にこたえ、従事者払底の危機を救って、ロンドン条約の実施のために果たした功績は大きいと言える。なお安中電機製作所は神戸の無線講習に同社神戸営業所構内の機材倉庫の二階大広間を提供して関西においての通信従事者養成に協力した。

Ⅱ 日本無線電信技士学校

もう一つ書きとどめておかなければならない。それは帝国無線電信講習会についで合資会社日本無線電信機製造所(後の日本無線電信電話株式会社、現日本無線株式会社)が1918年(大正7年)11月、私立日本無線技士学校を創立した事実である。同社恵比寿工場に隣接して校舎を設け、工場施設を教育実験用に提供し、小島社長以下社内の第一線技術者を技術面の講師とし、別に官練無線科出身の岡田定幸氏が招聘されて、モールス通信技術、国内外関係法令、無線通信業務、無線通信用英語等の必須科目を担当した。この学校も1920年(大正9年)10月、いっさいの設備を社団法人電信協会管理無線電信講習所に譲渡してその幕を閉じたが、開校中に20数名の一級、二級資格検定合格者を出して海運会社に就職させた。養成に着手した時期が遅かったこと、専門の講師に恵まれなかった等のこともあって、帝国無線講習会に比較して、養成の業績は劣るが、岡田定幸氏の発案で、わが国ではじめての試みである専門技術関係の校外生教育、すなわち、講義録を発行して、無線通信従事者に必要な知識、技術の初歩を自習させ、後に本校に集めてより高度な技術、実地の技術を教育する方法を実施し、当時一般には未知の世界と考えられた電波の神秘、無線通信の知識の普及と、青少年に電波科学への興味と憧れを持たせた点でその貢献を評価すべきであろう。

Ⅲ 東京無線電信講習所

1920年(大正9年)、新しく業界に進出して来た"東京無線電信電話製作所(後の東京無線電機株式会社)"は、東京月島の工場内に、東京無線電信講習所の開設を計画し、同年9月開講予定で準備を進めていたが、同年6月、私立の無線通信従事者養成機関は、逓信省の斡旋で、すべて電信協会に統合されることとなり、建築中の同協会管理無線電信講習所目黒校舎完成に伴って、この講習所も目黒講習所に吸収された。