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電気通信大学60年史

前編序章  無線通信のめざめ

第2節 日本における無線通信の黎明

2-1 研究を開始

わが国がヘルツ波無線電信の実質的な調査・研究に着手したのは、マルコーニの電波式無線電信の発明が伝えられた後であるが、無線通信という意味からいえば、導電式や誘電式も一つの無線通信である。わが国無線通信の先覚者工部大学校(後の東京帝国大学工科大学)志田林三郎教授は1885年(明治18年)電気試験所の加藤木重教氏を指導して導電式無線電信の実験を行い、学術上または実験的にはある程度成功している。しかし、実用上からみれば電波式無線電信導入から研究が開始されたことになる。

マルコーニの電波式無線電信の発明については、1897年(明治30年)5月、英国郵政庁技師長プリースがこれに関する講演を行い、その内容が雑誌エレクトリシャンに掲載されてわが国に伝えられた(一説には同年1月のイギリス新聞の記事で知ったともいう)。

雑誌エレクトリシャンの記事は、逓信省航路標識管理所石橋絢彦所長から電気試験所長浅野応輔博士に伝えられた。浅野所長は松代松之助電信主任に伝え、ヘルツ波無線電信の研究を命じ、逓信省内に無線電信研究部が設けられて、本格的な研究が開始された。

マルコーニの発明の詳細については秘密に付せられており、一雑誌の記事が唯一の参考であったから、理論の研究、機器の試作・実験などに多大の苦心が払われ、実験用部品はすべて自作するなど幾多の難問を克服しながら試験を進めた。

研究はまずコヒーラーから始められたが、同年11月には実験施設が完成して、東京の月島と品川第五台場との間で実地試験を行う準備ができた。

2-2 実験に成功

松代松之助を主班とする逓信省無線電信研究部の無線電信実地試験準備は着々と進められて、1898年(明治31年)5月に空中線を建設して本格的試験に移り、同年12月24、25の両日、月島海岸と芝金杉沖の船舶との間、海上1海里(1.85 km)の最初の無線電信通信の実験に成功した。

当時の送信装置はインダクションコイルと球形火花間隙を組み合わせて高周波振動電流を発生し、高い空中線と大地の間で放電して電波を発射する普通火花式で、受信装置はコヒーラー検波器とモールス印字機を組み合わせた印字受信式であった。

1900年(明治33年)千葉県津田沼・八幡間10海里(18.5 km)、千葉県八幡・神奈川県大津間29海里(54 km)、千葉県船橋・神奈川県大津間34海里(63 km)の通信試験を行いいずれも成功を収めた。

1903年(明治36年)長崎県・三重崎に送信所を、台湾の基隆八尺門に受信所を設けて、その間630海里(約1,170 km)の長距離通信試験を行って相当の成績を挙げたが、まだ実用通信に使用するまでに至らなかった。この通信試験は後に海軍の無線通信に混信を与えるおそれがあったので中止することになった。

マルコーニの無線電信発明以来、各国で無線電信機と無線通信方法の研究・改良及び新しい発明が盛んに行われたが、わが国の研究・実験の結果は諸外国に劣ることなく、むしろ優秀な成績を挙げていた。

2-3 海軍も注目

わが国で無線電信を最初に実用化したのは海軍である。

マルコーニが電波式無線電信の発明に成功したことかわが国に伝わった1897年(明治30年)当時、海軍では数隻の軍艦をイギリスに発注しており、それら新造艦の回航員やその他多数の海軍士官がロンドンに駐在していたので、このニュースは話題の中心となり、無線電信を軍用に供することも論議された。

1899年(明治32年)5月17日、英国公使館附川島令次郎海軍中佐は、マルコーニ式無線電信の効用や価値について所見を述べ、その研究についての意見を海軍省に提出した。

この報告は海軍部内の無線電信に対する認識を一段と強め、調査研究を行うことを決め、同年10月軍務局長は外波内蔵吉海軍少佐にその調査を命じた。外波少佐は逓信省小松謙次郎文書課長に海軍の意向を伝え、共同研究を申し込んだ。小松課長の取り扱いで浅野応輔電気試験所長と交渉の結果、松代松之助無線電信主任に転任を求めることとなった。一方で、仙台の第二高等学校には木村駿吉教授がおり、電波に関して私費を投じてまで熱心に研究していたのであったが、このことを知って、実兄木村浩吉海軍少佐を通じて教授の協力を求めることになり、同教授は海軍に転任した。

海軍は、1899年(明治32年)2月9日無線電信調査委員会を設置した。その構成は、委員長外波内蔵吉海軍中佐、委員田中耕太郎海軍大尉、委員附野俣寛治海軍技手、委員嘱託松代松之助通信技師、委員附嘱託池田武智通信技手で、その後委員木村駿吉海軍教授、委員種子島時彦海軍造兵中技士、委員附益山万熊海軍技手らが追加された。はじめ松代技師を中心として、電気試験所で取り扱った機器を使用して可視近距離の試験を行い、十分な成功を収めて非常な感興をひいた。当時各国は軍事上、商業上の関係から、研究結果等、技術上の発表は行わなかったので、参考資料の入手が極めて困難であったことと、予算の問題で、研究・実験に非常に苦心したが、委員長はじめ各委員はあらゆる困難を乗り越えて研究を進め、1902年(明治35年)5月の海軍大演習後に行われた観艦式において、御召艦浅間、供奉艦明石と軍艦敷島に装備した無線電信機を天覧に供し、最大18.5海里(34 km)の実験通信成績を得た。

委員会は3年以内に確実通信距離80海里(148 km)に達することを目標として鋭意研究を進めていたが、1901年(明治34年)ついに艦船間40海里(74 km)、陸上と艦船間70海里(約130 km)の通信成績を挙げて初期の研究は一応一段落を告げた。これに使用した無線機は34式無線電信機で、日本海海戦で名声を轟かせた36式無線電信機の前身である。

2-4 安中電機、機器製作に着手

電気を応用して実用に供し、最も早くしかも広く文化に貢献した最初の電気機械は電信機である。わが国の初期の電信機は外国製品に依存したが、1875年(明治8年)田中久重が田中製作所(後の芝浦製作所)を創立して電信機の製造を行い国産の道を開いた。ついで1881年(明治14年)沖牙太郎の明工舎(後の沖電気)、1883年(明治16年)三吉正一の三吉電機工場(後の日本電気)などいずれも電信機製造に力を尽くした。マルコーニが無線電信の発明に成功した1895年(明治28年)ごろは、わが国では日清戦争の終わった後で、電気通信産業が大きく伸びた時代であり、電信機器のメーカーが輩出した。逓信省燈台局用品製造所の石黒慶三郎・杉山鎌太郎の合資で石杉社(後の共立電機)もその年創立し、電信機・同附属品・絹巻線・エナメル線を製造したが、安中電機とは密接な関係があり、石杉社は電信用機器の先駆者、安中電機は無線用機器製作の始祖として世に知られた。

安中電機製作所の創立者安中常治郎は1889年(明治22年)工手学校を卒業、1898年(明治31年)帝国大学工科大学の助手を勤めていた当時から無線電信電話事業の将来に着目、X線機及び無線電信の主要部分インダクションコイル並びに蓄電池を研究していたが、1900年(明治33年)個人経営の安中電機製作所を創立した後もその研究を熱心に続け、ついに安中式インダクションコイルの完成に成功した。これは国内はもちろん、ドイツ製及び英国製インダクションコイルと比較してはるかに優秀で、1903年(明治36年)の第5回内国勧業博覧会にこれを使った安中式無線送信機を出品したが、その性能は観客を驚嘆させ官民各方面の称賛を浴びた。無線電信を兵器として実用化の研究を急いでいた海軍省は安中製作所の製品を採用することになり、海軍36式無線電信機の主要部分を注文した。これによって36式の改良は進み、日露戦役開戦前に海軍艦船全部に無線電信が設備された。かの有名な哨艦信濃丸の『敵艦見ゆ』の無線警報がわが艦隊大勝の端緒をひらいたのもこの無線電信機で、無線電信通信の効力と必要性を世界に示した。

1907年(明治40年)に行われた東京勧業博覧会に出品した安中式無線電信機は一等賞を授与された。1908年(明治41年)逓信省が本格的に無線電報の取り扱いを開始するために設置した銚子・大瀬崎等の海岸局及び天洋丸・丹後丸等の船舶局の無線電信機を完成して、わが国最初の海上公衆電報サービスに貢献するなど、初期の無線電信機の技術開発と無線通信の発達に多大の功績を残した。

2-5 「敵艦見ゆ」

無線電信発明以前の船舶の通信は視聴覚による極めて近距離の通信に限られていた。殊に広い海面に展開して行動する艦隊の通信連絡は、つねに不便と困難を伴っていたので、海軍はマルコーニの電波式無線電信の発明に多大の関心を寄せ、無線電信の実用化の研究とその成果に大きな期待をかけた。外国駐在武官等からの報告や意見を熱心に検討し、1899年(明治32年)外波内蔵吉海軍少佐に調査を命じ、逓信省の助力を得て翌年無線電信調査委員会を設置し、逓信省から松代松之助技師、仙台第二高等学校から木村駿吉教授を迎えて、研究と実験を始めた。通信距離海上80海里(約148 km)を目標として機器の試作と試験を行い、乏しい参考資料のなかから改良点を求めて鋭意目的達成を急いだ。改良の要点はイシダクションコイル、コヒーラー及び空中線の構造で、委員会メシバーの不屈の研究と実験の繰り返しは、ついに海軍34式無線電信機の製作に成功したが、その通信距離は目標に達し得なかった。更に研究は進められたが、民間から初めて無線電信機製造に進出した安中電機製作所のインダクションコイルが極めて優秀であり、その他の無線電信部分品も良好であることを認めて、同社製品を採用し、34式のつぎにできた海軍36式無線電信機の改良を行って相当の成果を得たが、これに加えて継電器を英国から購入した優秀なものと取り換えたため、通信距離は80海里から一躍200海里(約370 km)に伸びて、新兵器としての無線電信の実用化に一応成功した。時あたかも日露間の国交が重大時期にあたったため、海軍艦船全部に36式無線電信機を装備する必要に迫られており、1904年(明治37年)日露戦争開戦の直前までにすべての工事を完了することができた。

1905年(明治38年)5月、わが艦隊はロシア海軍の最後のバルチック艦隊の日本近海到着を手ぐすねひいて待ち構えていたが、5月27日午前5時、哨戒にあたっていた仮装巡洋艦信濃丸は朝霧の晴れ間から敵艦隊を発見し、『敵艦隊203地点に見ゆ。敵は東水道に向かうもののごとし』と無線警報を発信した。これを受信した鎮海湾で待機中のわが連合艦隊は、直ちに『敵艦隊見ゆとの報に接し、連合艦隊は直ちに出動、これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し。』と大本営へ第一報を送りて全艦隊に出航準備を命じ、午前6時5分、序列に従い順次抜錨し出航した。以後実録に示すごとく、27、28の両日で、バルチック艦隊をほとんど全滅させて世紀の大捷を博した。信濃丸の発した『敵艦見ゆ』の無線通報はわが艦隊の戦闘行動を最も有利に導き、緒戦30分にして完全に勝敗を決したことは世界の耳目を驚嘆させた。この戦闘中、各艦は無線電信の威力を遺憾なく発揮して刻々正確な情報を交換し、戦況をつねに有利たらしめた点は各国陸海軍に大きな刺激を与えたのである。