電気通信大学60年史
後編第7章 電通大紛争
第2節 本館封鎖
- 12月20日(木)
- 午後6時ごろから大学本部が三派学生の手で占領封鎖される。10時からの教授総会へ三派学生がなぐり込みをかける。マイクを奪って混乱。
- 12月26日(木)
- キャンパスには立看が林立し、反対・賛成で異様な状況となる。午後一時から短大を使って教授会。学長は封鎖派を訪れて交渉するがどうにもならぬ。大学は破壊寸前。
- 1月4日(土)
- 教授総会において連絡委・準備委を決定。
- 1月6日(月)
- 電通大、反日共系の学生大会
- 1月9日(木)
- 封鎖派学生は孤立化しはじめ、一般学生は授業を受ける。
- 1月10日(金)
- 教授総会で11日の学生集会の議長に荒川教授を決定。
- 1月11日(土)
- 学生集会へ三派系がなだれ込み、マイクを独占して議長さえ決められず、1学生の提案で他の会場で集会をやろうということになって集会が二つに割れた。
- 2月2日(日)
- 教職員が封鎖解除の行動をおこしたが失敗した。

寮にて集結し、何事かを謀議中

学内、本館前のデモ
- 2月3日(月)
- 午後2時緊急教授会(旧調布郵便局3階)、この席上学長は昨日の教授会で決定された機動隊導入を一応了承する形になっていた。学長は健康上の理由もあり辞任したいとの意志を表明したが、全員学長を慰留したので、辞意を撤回した。
- 2月5日(水)
- 学友会執行部選出の学生大会、三派から決まるからスト権確立かといわれていた。
- 2月10日(月)
- 午後3時よりB202教室において公開予備折衝とやらの学生集会あり、大学側からは講師以上ほとんどの教官と職員の一部が出席(学生側出席者約450名)、改めてスト権確立か。
- 2月12日(水)
- ストに突入。
- 2月19日(水)
- 教授会中の午後6時すぎ、封鎖学生が正門のロックアウトをアタックし、一般学生と対立して大騒ぎとなる。
- 2月20日(木)
- 早暁5時に正門のロックアウトは一般の学生の手で防いだが、他方の学生間での乱闘があった、明日ごろ外人部隊(三派系学生・他大学学生)の導入があるとの情報で、その前に先手を打ち警察力で追放しておこうという件につき緊急教授会で協議され、機動隊導入の判断は学長の一任というような措置をとったが、うわさのような外人部隊は現れなかった。
- 2月21日(金)
- 三派学生はスピーカーで暴力を用いても封鎖実行を宣言していた。この夜6時すぎ、一般学生、職員、助手等約120名がスト派学生が占拠している本館のバリケードの一部を解除して、会計、厚生課から書類を運び出した。このため本館内にいた学生やかけつけたスト派学生約200人が職員らを追い出し、午後7時すぎ再封鎖して正門と通用門(東西両門)にパリケードをつくった。
- 2月22日(土)
- 学生部長は連れ去られており、ゲートはすべて封鎖で教授は入構できない。公民館で12時半まで会議があり、多摩川の喜楽に移って昼食をとり、4時すぎまでかけて学長に機動隊導入を一任した。
- 2月24日(日)
- 多摩川の喜楽で12時半から教授会、健康上の理由という学長の辞意を正式に認める(欠席していた)。代行に岡田幸雄氏を選出。
その折、喜楽前でシュプレヒコールを叫んでいたヘルメット学生中の2学生が乱入し、教授にくいかかった。料亭の要請で調布署長以下の機動隊が到着し、2人を捕え連行し、三派学生を追い散らす。
午後7時すぎバスに便乗して読売ランドの広場へ行き、ここで教授総会を開きすべての承引をとりつけた。この夜本館と学生会館が封鎖された。
岡田学長代行の考え方は、国民の税金で運営されている国立大学では、例え1枚のガラスでも暴力集団に割られることを許さぬということであった。率先してデモ隊に向って体当りで近づくなど、極めて積極的で、教職員に対して一致団結事に処するよう求めた。
他大学紛争 関係 |
1969年(昭和44年)
新潟大、東大、東教大、東外大、電通大、東工大、横国大、山梨大、静岡大、京大、阪大、九大、日大、明学大、立命館大、その他。 |
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