電気通信大学60年史
後編第6章 高度経済成長期の電気通信大学
第9節 物理工学科の設置
工学は常に基礎科学と緊密に連携していなければならない。技術革新は物理学・数学と工学の接点から生ずることは過去の歴史によっても明らかである。本学が将来に向けて常に最先端の研究を行い、目まぐるしい技術の変革に順応できる人材を養成し得るためには、基礎科学に重点を置いた学科を設立すべきである。われわれはこのような考えを持っていたのだが、昭和30年代の社会は、職場に出てすぐ役に立つ教育を大学に期待しており、本学にも電気通信を細分割した方向で学科新設が行われ(通信機械工学科、通信材料工学科)、学内の意見をわれわれの考えに向けるのははなはだ困難なことであった。このような時に渡部重勝教授と土方克法教授とが提唱した電子物理工学科及び計数工学科の設立案が学内識者の支持を得て、1964年度(昭和39年度)概算要求書に記載されたときは目標に一歩近づいたといっても過言ではなかった。
しかし、この2学科案は例の教育方法改善(通称多人数教育)に基づく改革案が登場するに及び、あえなく消え、結局1学科にまとめさせられてしまった。まず問題になったのが学科名称である。要するに物理と数学を合体させて何という呼称を与えるか、いろいろな案が考えられ、例えば「応用理学科」という名称も提起されたが文部当局との間を往復した結果、渡部教授も「物理工学科」という名称に同意されたのでそのようになった。物理3講座、数学2講座という編成で出発したのが1967年(昭和42年)である。
出発したといっても建物もなければ教官もいない。あるものは第1回生60名だけである。すべて学科新設はこうなのだから文句は言えない。渡部教授と土方教授とが兼担という形で運営することになった。1969年(昭和44年)建物が完成し、1970年(昭和45年)になって教官定員がそろった。残念なことに渡部教授は1968年(昭和43年)3月物故され、高野一夫教授がその代わりに兼担を務めることになった。
われわれとしては理学部的な学科を作るつもりはなかった。何しろこの学生たちは将来工学士として産業界に活躍すべき人々である。
本文の始めに述べた主旨に沿って、「数学・物理学の素養をもつエンジニアの養成」が学科の目的であった。しかし物理学系の人物は現代数学に関しては全く無知といってよく、その方面の教育は数学の専門家に委せる外はない。そこで第3学年から物工コースと計数コースに分けて異なるカリキュラムを組む方式をとった。しかもこれを一つの学科として運営してゆくためには、どうしても強力なまとめ役を必要としたのである。そこでねらいをつけたのが1968年(昭和43年)に東京大学工学部を定年退官になられる雨宮綾夫氏であった。
周知のとおり雨宮氏は長い間東大工学部で数学の教鞭をとられ、本学にはその教えを受けた人も多い。また原子分子理論の先駆者でもある。高分子物理・放射線科学と、その足跡は広い分野にわたり・そして何よりも東大の計算機を完成させた人である。物理工学科のみならず、本学にとってどれほどプラスになるかわからない。渡部教授と土方教授とは1967年(昭和42年)9月同氏を訪問し、極力勧誘に努めた。国立某大学と国会図書館からの誘いもあったようだが、その後、土方、望月、高野の3教授の東大研究室への訪問と説得の結果この年の終りころ、本学へ来られることについて承諾されたのである。
本学に遺された雨宮教授の功績は大きい。物理工学科を完成されたほか、電子計算機学科、情報数理工学科の設立はまさに先生の力である。先生と同時に講師として着任した重成武氏(現助教授)も物理工学科の功労者である。上級生の実験の授業の準備を一任したところ、これを峰尾助手と2人で見事にやってのけた。あとで「東大では20人でやることを私1人に押しつけられたのには驚いた。」といっていた。所属教官は1回生・2回生とはよくつき合った。彼らのコンパにはよく出席したし、成績不良の学生を呼び出してその理由を尋ねたりなどの努力を怠らなかったのである。例の大学紛争時には、この学科に関する限り比較的平静に対処することができたのは、彼らと所属教官との間に親近感が育成されていたからであったと思っている。
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