電気通信大学60年史
後編第6章 高度経済成長期の電気通信大学
第10節 菅平宇宙電波観測所の建設
- 建設の背景
宇宙電波・全衛星の研究に従事するにつれて、調布キャンパスの電波雑音レベルが非常に高く、全く観測不可能の状態にあって、東京より比較的近い地点に、宇宙電波観測に適した場所を見付け、将来・観測所を建設したいとの強い希望をもっていた。もとのような施設が所有できなければ、電気通信大学には、以後、この分野の発展は望めないのではないかと憂慮し、建設の手がかりを探し求めていた。
話は1962年(昭和37年)の3月はじめ、郡馬県旧鹿沢温泉に飛ぶ。このとき、体育教室のスキー講習会が開かれており、体育担当の金子教授、芳野教授、当時スキーの指導に出張を願っていた群馬大学教育学部体育科の萩原豊教授(いずれも当時は助教授)のぬるいぬるい温泉の中、イロリ端での会話から事がはじまった。当時のスキー講習会の人気は非常に高くなりつつあり、これに反して指導教官の数も少なく、講習生を連れて行く場所も無かったことから、電通大には藤沢市にキャンパスがあったことから、「辻堂海岸には浜見寮という海の家があるのに山の家が無いのはおかしい」「ぜひ山の家が欲しい」との話に花が咲いた。山の家は、冬以外の季節にも学生・教職員のスポーツ施設として利用できる方が良いとの意見も出た。この山小屋建設の声は学内に急速に拡がり、1963年(昭和38年)には服部学順教授(故人)を委員長とする「山小屋建設委員会」(初代委員長服部教授、昭和41年より遠藤耕喜教授)ができて学生、教職員、OBによびかけて、108万円の寄付金が拠金された。宇宙電波観測所の建設は、この計画と合同し土地購入を行うこととし、1962年、1963年(昭和37年、昭和38年)にかけて土地の選択を行った結果、両者の満足すべき土地として菅平の現在地を選択した。
宇宙空間の自然電波受信観測を行うためには、次のような点について十分考慮せねばならない。
- 空電・人工雑音が非常に少なく、少なくとも雑音電界強度が毎メートル0.5マイクロボルト以下であること。また近くに直流鉄道が無いこと。
- 人工衛星を追尾するため、空間が拡がっていること。
- 安定した電力が得られること。
- 比較的近くに重油等の燃料が得られ、また本学より簡単に数時間で行くことができること。
- 常駐職員の生活のために、比較的近くで生活物資が購入できるし、また子弟のための学校等にも通学可能であること。
- 風当たりが弱く、積雪も少なく、良質の水が得易いこと。
以上である。
菅平は地形的に東側がやや開けた浅い盆地状を成しており、平均高度は1,250米で南側は大松山から保基谷岳にかけて山脈があり、西北から東北には根子岳、四阿山の両休火山がある。したがって、これらの山脈を乗り越えて来る雑音電波の電界強度は、大きな回折損失によって、調布キャンパスの1,000分の1のレベルと、菅平を本邦でも数少ない低雑音地としている。さらに盆地内及びその周辺に雑音発生源となる工場が無く、また盆地中央には菅平区の集落があって、生活物資を購入することが可能である。今日では別荘地の数が増え、人工も増えて、人工雑音強度が当初のレベルより若干悪化している。
- 建設までの経緯
前記の条件を満足する土地として、福島県裏磐梯、長野県戸隠高原等数ケ所を候補に立て、スキーと電界強度計を持って実地検証を行い、最終的に長野県菅平の現在地に候補地を定めた。この土地の購入に際しては、前述の群馬大学の萩原教授の並々ならぬお世話になり、当時の菅平観光協会理事で有力者の渡辺才智氏を紹介され、渡辺氏の仲介で現在地の所有者であった竹村十郎氏から土地を購入することとなった。
1965年(昭和40年)、いよいよ竹村氏に前記の募金を手付金として支払うに当たり、幾多の困難に直面することになる。 その第一は、金の支払い方法として、目黒会にこの金を委託して目黒会名儀でこの土地を購入し、これを大学に寄贈する方法を採ろうとした。しかし、この土地は農地として登記されているため、他目的使用のための変更は、名儀人が目黒会では農地委員会の地目変更許可が下りず、1年間も長野県庁農地委員会との交渉に明け暮れたがついに許可されなかった。しかし、国が直接購入する場合は農地法の適用がされないことも判明した。そこで文部省と交渉の結果、目黒会の購入した土地の現物寄付は国有財産法として困るとのことで、これを打開する方法として、この金を国庫に寄付し、これに対し同額を文部予算につけてもらい、国有財産購入として農地委員会の目的変更の許可を得て、いよいよ1966年(昭和41年)3月、校地9,817平方米を購入した。
土地購入とともに、昭和41年8月、文部省に建築費の予算請求を行った。これは前述の経緯のように多くの紆余曲折があったため、前年度中に概算要求し、教授会の議を経たものでなく、当年度中の予算要求であった。この要求に当たり、文部省に対して
一、学生厚生施設を建てる。二、宇宙電波観測所を建てる。
の二本立ての申請を行った。これに対する文部省側の回答は、厚生施設に対して許可を得られず、宇宙電波観測所の建物の建築が認可された。認可とともに工事業者の入札を行い、土地の東信土建株式会社がその任に当たることとなったが、予算決定時期が遅れたため、地質調査の段階で雪が降りはじめ、またボーリングの結果、地盤軟弱のため年度内竣工は不可能となり、予算執行を1年度延長することを認可され、1968年(昭和43年)12月、最後の突貫工事の結果、根雪の直前に完成することができた。
1968年(昭和43年)12月12日、地元有力者、土地購入関係者等を招いて、松村定雄学長出席のもとに開所披露式を行った。この完成に対し、当時の学長をはじめ、建設委員会の委員、とくに大変面倒な手続きを、あらゆる困難を克服して行い、また交渉に当たられた当時の細井房夫・荒木五六両事務局長、施設課長磯松幸四郎、土地の財産購入に際し直接その任に当たられた当時の会計課長土居源太郎及び同補佐引地章、管財係長佐藤正治の諸氏に深謝するものである。
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