電気通信大学60年史
後編第6章 高度経済成長期の電気通信大学
第6節 大学院大学となる
新制大学制度が発足して10年前後が経過したが、戦後の新制大学は種々の内患をかかえていた。大学は学生の教育を一つの目的として、同時に教官の研究を遂行するにふさわしい環境を求めるのは当然のことであった。特に旧制大学は多くの新制大学に比して当時としては学生の教育・実験・研究設備に格段の差があり、その上、研究の中心となる旧制大学院、その後新制の大学院を擁していた。このため各学会の論文誌に掲載される論文は殆んど旧制大学のものであった。戦後のテレビ放送の開始等による電子工業の発展を含めて多くの工業分野でいわゆる技術の導入とその改革が行われている問においても、大学の研究費の増加は微々たるものであった。
新制大学は劣悪条件のもとに置かれており、このため電通大も将来の発展を期して何らかの対応策を考えなければならなくなって来た。30年代後半になり電子工業の発展の基が弱電業界を中心に行われ、一つは大学卒業生の需要の増加に対応するために多人数教育を導入し、それに付随した文部省から予算の増加により各研究棟・講座の設備充実に意を注いだ。もう一つは大学院の修士課程の設置であり、これにより各専門講座は約50%の予算増が見込まれ、さらに卒業研究を含めて3年間のより高度な研究成果が電通大から学会に出ると考えた。前者は教育の対象であり、後者の大学院生は研究志向のものである。ところで大学院を設置するには設置基準があり、大学院生を指導する教官の資格と実験設備等が求められる。しかしながら旧制大学に較べて資格に合う教官の数が極めて少なくこの点にも問題があったようである。このような問題をかかえながらも教授を中心として大学院設置の胎動が始まっていたのである。毎年のごとく文部省に大学院設置の概算要求を出して来たがなかなか通らなかった。この概算要求は多くの工学部を持つ新制大学から出されたのは時代の流れであったようで、文部省も1962年、1963年(昭和37、38年)頃からこの問題を検討し始め、その実現化がいっそう大きくなって来た。電通大内部でも何回かの大学院設置準備委員会を開いていた。第5回の委員会の結果をふまえて角川教授が大学院設置理由案を作成し、1963年(昭和38年)6月19日(水)に開かれた第7回委員会で原案の通り承認された。これと共に助手・技官・学生定員・建物・設備等の概算要求がまとめられた。
1964年度(昭和39年度)からは一部の新制大学で大学院が発足し、電通大の委員会も1965年度(昭和40年度)からの設置を目指して昭和39年3月6日、5月6日と続いて開かれ、従来の設置要求案の内部の一部改定に着手し、5月20日の委員会では新制大学の大学院の設置状況と本学と文部省の打ち合せ経過、大学院工学研究科申請関係の一例として横浜国立大学の説明がなされた。これに基づき、昭和39年度大学院設置概算要求を参考にして昭和40年度の概算要求案が松平委員長と幹事で作られ、6月1日の委員会で討議された。この時点で、研究科は単一研究科の電気通信学研究科と決定された。10月19日の委員会で文部省から大学院設置要求に伴う事前提出書類の説明があり、10月26日各学科(学部が大学院研究科の団体となる)から授業科目と単位、担当教官の書類を作成し、11月4日の委員会で再調整を行った。その特色の一つは、修士課程講座として、工学系大学としては珍しく、理学系の基礎的講座である応用数学、統計数学、応用物理学、応用化学の諸講座が設置された。
統計数学は別途に設けられ、他の3講座は、資格を持った一般教育担当教官の配置換えの形とされて基礎教育の教官増が認められたのである。これらの講座は理学系共通講座とよばれている。11月6日には授業科目等の最終案が決定された。また学生定員はそれそれ、電波通信学専攻18名、電波工学専攻10名、通信経営学専攻8名、電子工学専攻8名、通信機械工学専攻8名に決まり、制度および学則の改定に着手され、その案が作成された(12月7日)。それによると当時の検定料と入学料はそれぞれ1,500円、授業料年間1万8,000円であった。大蔵省・国会も通り、設置は1965年(昭和40年)4月1日と決まり、新たに研究科委員会が設置された。入試科目は英独仏から1科目、物化数のうち数学を含めて2科目と専門となった。困難の末に開学した初めての入試は5月17日(月)と同18日(火)に行われ、5月21日(金)の第2回大学院研究科委員会で14名の入学者が決まり、6月1日に第1回入学式が行われた。以上が大学院開学までの簡単な経過である。
9月28日と29日には1966年度(昭和41年度)の入学試験が行われ、大学院運営も軌道に乗り始めた。1967年(昭和42年)2月20日から25日の間に1回生の論文審査が行われ、合格者は電波通信1名、電波工学2名、通信経営2名、電子工学3名、通信機械工学5名の計13名であり、現在、大学及び会社で中核となって活躍している。
しかし、優秀な研究者(技術者)を養成する大学院も、学部時代に優秀な成績を収めた学生が旧制大学に進学する場合が多く、これらの学生を引き止める方法として旧制大学の一部で行われている無試験の特別推薦制度が生まれた。大学院の専攻も発足当時の5専攻から、1968年(昭和43年)4月に通信材料工学専攻が設置、1970年(昭和45年)4月に通信工学専攻設置、1971年(昭和46年)4月物理工学専攻設置、1974年(昭和49年)4月に電子計算機学専攻、1977年(昭和52年)4月情報数理工学専攻が設置された。途中に名称の変更があり、現在では、10専攻である。機械工学第二学科の増設により11専攻になる予定である。
入学許可者と入学者の間には前述のごとく他大学の大学院に進学する者もあり、両者は必ずしも一致しないが、入学許可者と年度、専攻数を示すと、14名(昭和40年、5専攻)、18名(昭和41年、5専攻)、12名(昭和42年度、5専攻)、19名(昭和43年、6専攻)、36名(昭和44年、6専攻)、34名(昭和45年、7専攻)、59名(昭和46年、8専攻)、78名(昭和47年、8専攻)、75名(昭和48年、8専攻)、64名(昭和49年、9専攻)、80名(昭和50年、9専攻)、83名(昭和51年、9専攻)、90名(昭和52年、10専攻)となり、修了者も漸次増加し、研究者あるいは技術者として社会ですでに活躍している。しかし研究者、技術者として一段の質の向上を計るには博士課程を創る他にいい方法がないようである。ただ、博士課程の修了者の就職は困難をきわめており、このところが新たな問題となりそうである。また、創設された理学系4講座(前記)の学内における扱い方が明確化されていないという問題が残されたままになっている。工学系で附置されている共通講座と異なり、理学系の共通講座は一般教育に従事せねばならず、大学院講座としての性格が樹立されていないのが現状である。
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