電気通信大学60年史
後編第6章 高度経済成長期の電気通信大学
第5節 通信材料工学科の設置
1959年(昭和34年)に電子工学科、1960年(昭和35年)に通信機械工学科と連続して新しい学科が増設されると、その後はこれらの新学科の充実ということもあり、学科増設については、一息ついたような形になった。しかし、時代の趨勢はさらに新学科の増設を求めていたので、教授会でも、どのような新学科を増設したらよいかについて何回も議論され、いろいろな案が提出され、それらを増設する順序についても議論が繰り返してなされた。そして1961年(昭和36年)6月28日の教授会において、1963年度(昭和38年度)に計測工学科、制御工学科の増設を要求し、1964年(昭和39年)に通信科学科、電気通信材料工学科の増設を概算要求することになったと報告されている。しかし同年7月19日の教授会では、諸般の事情を考慮して、学生増募計画は、1963年度(昭和38年度)に電気通信材料工学科、1964年度(昭和39年度)に制御工学科を増設要求することとし、状況により通信科学科、計測工学科を計画することにした旨が山本勇学長より報告されている。このように、どのような学科を第1位で文部省に概算要求するについて、意見がなかなか固まらなかったのであるが、次第に電気通信材料工学科を第1位とする空気になったのである。
そして1962年度(昭和37年度)早々に教授会に増設学科準備委員会が設置され、4月10日に第1回の委員会が開かれ、委員長には松平教授が選出された。そして、電気通信材料工学科の学科目、授業科目等についての原案を藍原、神戸、竹谷の3委員で作成することになった。始めは電気通信材料工学科としていたのであるが、少し長すぎるので電気をとり通信材料工学科とすることが5月11日の第3回の委員会で決定している。またその他の事項についても決定し、6月6日の教授会で委員長から委員会での審議決定事項についての報告説明があり承認された。これで、1963年度(昭和38年度)に通信材料工学科の増設を文部省に概算要求事項として提出することが正式に決まったのであった。このときの概算要求附属参考書には、角川教授が原案作成したこの学科の要求説明があるが、これを電気通信大学新聞第86号〈1962年(昭和37年)9月25日発行〉にみると、
とあり、単に理学的な訓練を行うだけではなく、諸大学の工学部で一般に行われている電気材料学の講義、実験を拡張充実して、工、理の両面についてより深く掘り下げた教育を施し、さらに通信工学についても相応の訓練を積んだ技術者を養成するという事が述べられている。これが通信材料工学科を増設する時の最初に掲げた構想であった。そして入学定員は40名、学科目としては材料物性学第1(物性基礎学)、材料物性学第2(分子及び結晶構造学)、材料化学第1(高分子化学)、材料化学第2(分光分析学)、電磁材料学の5学科目を要求した。当時はまだ大学院が設置されていなかったので講座制ではなく学科目制であった。この学科目の立て方はわれわれが横割方式といっていたものである。もう少し詳しく説明すると、材料の種類によって分類して学科目を立てるやり方を縦割方式とよび、物理化学的性質に着目して学科目を立てるやり方を横割方式といったのである。余談になるが、当時の学生部長であった渡部教授及び角川、藍原、神戸の4委員が、この学科増設案を持って文部省の大学学術課に陳情に行き、村山課長に会って説明したときに、この案が阪大の基礎工学部にある材料工学科に似ているという批評を受けた事を記憶している。この横割方式は当時の電気通信大学にとっては少し高踏的に過ぎると文部省側に思われたふしがあるので、後の1963年(昭和38年)に出した案では後述のような縦横混合型に変更されている。近年わが国における通信機器製造技術の発展が誠にめざましいにもかかわらず、その製品の信頼性にまだまだ多くの不安が残っているのは、多分にその使用通信材料に起因するものが主である。従ってわが国の通信機器製造技術の優秀性を一層国際的に高揚するためには、絶対にわが国の通信材料の研究開発を一段と進歩させる裏付けが必要である。
今後の通信材料の研究開発には、理学的素養と知識及び十分な通信工学的視野と技術とを合わせ持った新しい通信材料工学技術者でなければ、世界の水準に追従することさえも困難になることは明らかである。従って通信材料に関する物理学的及び化学的知識の系統だった教育を十分に受け、同時に通信工業技術者としての訓練を十分にされて、電波工学的及び電子工学的技術を自由に駆使できる新しい研究技術者、開発技術者が今後早急に必要なのである。
電気通信大学は、わが国唯一の電気通信に関する総合大学として、名実共にその教育及び学術の中心となるよう鋭意その充実に努力してきている。従ってまた必然的に通信材料に対する認識も極めて高い。このような環境においてこそ始めて上述のような新しい通信材料工業技術者の教育が可能であり、またその所期の目的を達することができるものである。よって電気通信大学の果すべき使命の一つとして、ここに通信材料工学科の設置を要求するものである
さてこの案は1962年(昭和37年)の秋から暮にかけての学長はじめ準備委員、事務局長、会計課長以下の事務局員の多大の努力にもかかわらず、文部省案では入っていたが、大蔵省の査定では認められなかった。そこで1963年(昭和38年)になってから学科目及び授業科目等について修正をした案を1964年度(昭和39年度)の概算要求として再び提出した。この年も要求実現はかなり難航したようであるが、当時の吉田事務局長の非常な努力によりついに予算が大蔵省に認められ、昭和39年度に通信材料工学科が新設されることになった。入学定員は40名で、学科目としては、材料物理学、材料分析学、誘電材料学、磁性材料学の四つが認められた。ただし実際には昭和39年度は学生はまだ教養課程であるので学科目は新設されず、昭和40年度に二つ、昭和41年と昭和42年に一つずつの学科目が順次学年進行に沿って新設されたのであった。この新学科の人事、授業計画等については藍原、神戸の両教授に実行案をつくる事が委嘱されたので、昭和39年の1月早々から作業を開始した。そしてその年の4月には新入生38名が入学してきた。この時はまだ新学科の建物ができていなかったので、他学科の建物内で最初の学生ガイダンスを行っている。しかし建物(現在のG棟)も昭和41年3月に出来上がり、教授陣も藍原(昭和40年)、丸竹(昭和40年)、井早(昭和42年)、神戸(昭和43年)と順次着任している。そして丸山、伊理、岩崎の3名が昭和41年度に講師に着任し、そして昭和43年に佐野助教授が着任している。また助手も各学科目に1名ずつ認められたので、この方も順調に充実することができた。また各学科目当たり1,500万円の設備費が配算されたので、学生実験用の機器器具をはじめ、各研究室とも一応研究を開始するための機器を導入することができた。それで研究もまた新しくはじめられたのである。この学科では、授業科目が、いままでの学科とは違って理学的色彩の強いものとなり、研究内容もまた理学的なテーマとなった。この学科ができる以前には、材料関係の学科目は電子工学科に半導体工学、機械工学科に材料及び部品学があっただけであり、藍原と井早はこの後者の学科目の教授と助教授であったのが、通信材料工学科の新設とともにこちらに配置転換となったのである。この学科ができた事により本学の材料関係の研究教育は大いに増強され、また従来多少手薄であった基礎科学部門が補強されたのである。電気通信学部がいわゆる工学部よりも理工学部的色彩を帯びるようになったのはこの時にはじまるものと考えられる。
以上が学科創設当初のことであるが、それ以後の変遷を以下に略記する。
1967年度(昭和42年度)にすべての学科目が設置されて学科が完成し、1968年(昭和43年)3月に新卒業生を出した。当時はまだこの学科は世間に知られていなかったので、卒業生の就職のために就職委員の丸竹、井早両教授は非常な骨折りをせねばならなかったが、すべて満足できる就職先をみつけることができた。通信材料工学科の第1回卒業生はじめ以後の卒業生もそれぞれの職場で現在大いに活躍中である。昭和43年の4月1日より学科名を材料科学科と改称し、入学定員を60名に増した。そして大学院に通信材料工学専攻ができた。この専攻名も1972年度(昭和47年度)には材料科学専攻に改められている。また昭和43年度に入学定員増に伴って高分子材料学講座が増設された。この講座には大橋教授が着任した。結局現在の最終的な形は昭和47年度に材料科学専攻が大学院にできたときにそうなったものである。すなわち修士講座が5講座編成で、学部の入学定員は60名、大学院修士課程への入学定員は10名である。なお修士課程では共通講座の「応用化学」が協力講座となっており、自然科学列系の「化学」の教官から卒業研究の指導について応援を受けている。
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