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電気通信大学60年史

後編第6章 高度経済成長期の電気通信大学

第4節 学生会館竣工

  • 学生会館設立に対する背景、目的

    本学は1957年(昭和32年)12月に調布キャンパスヘ統合移転したが、当時は栗林、松林と雑草の繁る中に、まず木造の教室、次に研究室、実験室と建設が進んではいたが、体育館も講堂もなく、ましてや学生の課外活動の場となるべき施設は、ほとんど無いと言ってよい状況だった。

    キャンパスの統合も終わり、いよいよ大学の拡充発展を試みる時期に来て、学生にもゆとりのある学園生活をもたせるための環境造り構想の一環として、大学内の社交の場、人間的触れ合いの場として学生会館はうってつけのものであると考えた。

    たまたま、龍薗武蔵事務官が管弦楽団の設立に伴う楽器の購入予算の接衡に文部省へ通っていて、このころ作られた〈1959年(昭和34年)3月1日付〉国立大学学生会館設置計画要項(試案)を見せられ建設意向を問われたので、本学に持ち帰り上司に進言し、建設計画に対する胎動が始まった。

    文部省試案による設置の目的は教室外における学生生活の中心として、

    1. 学生相互または学生教職員間の日常的な人間関係を緊密にすること。
    2. 教養を高め、社会性の発達を助長するための課外教育活動を盛んにすること。
    3. 学生の厚生福祉を増進すること。

    以上の目的を有する施設を総合的に整備し、大学における学生の厚生補導を効果的に実施できるようにすることであるとしていた。

    また、学生会館設置大学の具備条件としては、

    1. 大学の整備計画が確定し、恒久的な会館を設置する適当な敷地を有していること。
    2. 予定敷地が一般教育課程の全学生が利用できる地域内にあること。
    3. 大学当局が会館の管理運営について熱意を有し、課外教育計画の実施について有能な職員を持っていること。
    4. 会館の管理運営方針について、学生の積極的な協力が得られること。
    5. 会館の維持運営及び設備の充実について、財政的に十分な見通しがあること。

    前述のような諸条件を踏まえて、1959年(昭和34年)以降学生部において課外活動施設、共用施設等を含めた将来構想を基に学生会館建設案について検討を始め、学内関係者への働きかけを行っていったのである。

  • 竣工に至るまでの経緯

    本学の学生会館建設について、1960年(昭和35年)7月の教授会において文部省へ学生会館関係予算を要求することが決められ、それ以来、毎年同予算要求の実績を築き、1964年度(昭和39年度)において予算の示達があり、学生会館の建設を見たわけである。

    この間学生にも呼びかけ、1962年(昭和37年)6月学生側学館設立準備委員会の発足とともに終始学生側の意向についても話し合いを続け、1965年(昭和40年)2月10日学生会館規則が制定された。

    一般学生から選出された学生側設立準備委員会は、1963年(昭和38年)の後半から学友会執行委員を主体とする準備委員会に引き継がれ、学生側の意向にも変化が現われ大学との会合は学館交渉という形に変貌し、数しれない交渉の中で話はとかく学生会館を中心とする問題から離れることが多く、長時間にわたる論争は夜半に至ることもしばしばであった。当時の学生部関係者の日夜の心労は大変なものであった。そのころ本学には、学生用施設は少なく、せっかくの努力によって得られた学生会館を1日も早く開館し、学生諸君に使ってもらえるよう努力してきた。

    なお、学生会館の円滑な運営のためには、学生会館運営規則並びに同使用規則の制定が必要とされ、これら規則の制定にあたっても、学生の意向を十分に吸い上げる必要があるとして、学生側準備委員と再々協議し、約1年の折衝が続けられた結果、学生側準備委員会の了解も成立し、1965年(昭和40年)12月15日教授会の審議を経て、ここに本学学生会館運営委員会規則並びに同使用規則の制定をみた。

    このようにして、第1回本学学生会館運営委員会は、昭和40年12月18日学生側選出の学生委員を交えて開催され、当面の問題としては夜間使用、使用許可権、学生会館予算などの問題が討議され、各委員了解のうえ正常な発足をみたわけである。

  • 竣工後の教職員学生の反応

    昭和40年1月に建設が完了した学生会館も、当初は全国的な学生運動の余波を受けて。学生の代表は学生の自主管理を主張し同年12月まで紛争を続け、学生部と学生側代表は協議を繰り返してきた。なお、これには、寮生代表、生協学生理事などがこれに応援してきた。この間に一般学生の入館希望が高まり、あわせて学友会体育会が入館決定をするなどがあって、入館反対の学生グループにも順次不利な条件がそろい始めた結果、同年12月1日に至り反対派学生も急拠軟化し、ここにようやく学生部関係者の努力が報いられ、学生の意向もくんだ管理運営の体制が整えられ、開館当初から円滑な運営が行われてきた。

    開館となった昭和40年12月以来、課外活動、コンパ、懇談会、各種の行事などに利用され、教職員と学生との交流を深め、また、学生相互の親睦を図る上で大きな役割を果たしてきている。

    本学の学生会館の特徴は建物の前庭として広い芝生の広場をもっていることである。芝生を囲む小山のうねりは見る人のそれぞれの心に、故郷の山々を思い出させ、またあるときはいつか旅した時の懐かしい山肌を感じさせる恰好の憩いの場となっている。建設当初からこの芝生を育てるためには関係者の並々ならぬ陰の努力がなされていることをあえて付言しておきたい。

    移転当初、広さを感じていたキャンパスも今や大学の発展拡充に伴い手狭くなってきた中で、ただ一つ、緑の芝生を映す白鳥の池のある広場は貴重なものとなってきた。学生会館とともにこの広場は永久に大事にしたいものである。

社会の出来事
  • 昭和39年11月12日 米原子力潜水艦シードラゴン号、佐世保に入港、13日反対デモ隊と警官隊衝突、14日出港。
  • 昭和39年11月15日 シンザン、三冠馬となる。
  • 昭和39年11月17日 公明党結成大会。
  • 昭和39年12月1日 日本特殊鋼㈱、会社更生法適用を東京地裁に中請。
  • 昭和39年 アジア初の東京オリンピックの年、東京銀座の通称みゆき通りに"みゆき族"の姿が7月ごろから目につきはじめる一方、ハイテイーンの間にワッペン・ブームが起こった。オリンピックの影響で、「根性」「東洋の魔女」「ウルトラC」などが流行語となる。
  • 昭和40年1月11日 伊豆大島で大火、567戸焼失。
  • 昭和40年1月24日 チヤーチル英元首相死去、90才。
  • 昭和40年2月1日 原水禁(原水爆禁止国民会議)結成、あらゆる国の核実験に反対。
  • 昭和40年2月10日 衆議院予算委員会で社会党岡田春夫代議士、防衛庁統幕会議の極秘文書(いわゆる三矢研究)について政府を追及。
  • 昭和40年2月22日 北炭夕張鉱でガス爆発、死者61人。
  • 昭和40年5月7日 出版倫理協議会、不健全図書に「18才未満の方には販売できません」との帯紙をつける自主規制策を決定し、6月1日から実施。
  • 昭和40年5月から新聞協会加盟のセット紙40社41紙、分売1紙、夕刊5紙計47紙の日曜夕刊全廃が実現。
  • 昭和40年5月22日 東京農大のワンダーフォーゲル部員、上級生のシゴキで1人死亡。
  • 昭和40年6月12日 東京教育大教授家永三郎、教科書検定を違憲として国に対し賠償請求の民事訴訟を起こす。
  • 昭和40年6月22日 米機、ハノイ西北を爆撃。