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電気通信大学60年史

後編第6章 高度経済成長期の電気通信大学

第1節 多人数教育の導入

1-1 多人数教育導入までの経緯

1964年(昭和39年)4月15日の教授総会において、松平学長は電気通信大学の5年ないし10年先のあるべき姿を策定し、これに到達するための具体的方策を立案し、これを今年度以降の概算要求に反映させたいという主旨から「将来計画委員会」の設置を提案した。この提案が承認され、4月22日に設置準備委員会が召集され、この委員会では特に規則等により審議事項のわくをはめずに、委員の個人が自由に意見の表明ができるものとし、委員会の構成を次のとおり定めた。

学長、学生部長、事務局長、短大主事、人文社会学系列、自然科学系列から4名ずつ、海上専攻、陸上専攻、電波工学科、通信経営学科、電子工学科、通信機械工学科から3名ずつ、研究施設、短大から1名ずつの計32名。

委員長には松平学長自らこれに当たり、副委員長として選挙の結果、電子工学科の遠藤教授が指名された。以来、4月24日から5月下旬までの約40日間に、全体委員会7回、小委員会4回、合わせて11回の会合が開かれ、活発な論義が行われ、6月10日の教授総会に第1回将来計画委員会報告書が提出された。その内容の主なものは次のとおりである。

  • 本学発展の目標とそのための基本的方針
    1. 本学発展の方向としては特色ある総合大学を目指すべきである。
    2. 本学の発展には、教官の増員、学生の質の改善、研究教育施設の拡大などが考えられるが、その達成のためには学生入学定員の増加を前提とせざるを得ない。
    3. 本学発展のためには、現在の学科編成、その他の学内体制に体質改善を必要とする。

    この三つのうち(3)項については各委員からかなり異なった考え方が示され、短期間における意見の調整が困難であったため、この問題は一応留保することとし、さしあたっては昭和40年度の概算要求に反映させる計画の立案を優先審議することとした。

  • 学生増に対する障害とその対策

    本学発展のためには、学生の定員増が止むを得ないものとすれば、それによる障害はどこにあるのか。そのころ、工学系の1学科は4講座、入学定員40名が標準スタイルであり、その教官定員は専門系は教授4、助教授4、助手4、一般教育教官は教授1、助教授1であった。本学発展のための学生定員増が、この程度の一般教育教官の増では、一般教育の教育体系を混乱させるだけとなって、かえって本学の発展を阻害することになりかねない。こうした問題は、単に一般教育系だけでなく、専門系でも、専門基礎学科目と考えられる電磁気学、電気回路学、実験工学などについてもいえることである。

    こうした理由から、さしあたっての学生定員増は、既設一般教育系及び既設専門基礎関係講座に依存することの多い方針の新設の形をとるべきではない。むしろ、現在でも負担過重な既設一般教育系のなかの自然科学系及び専門系のなかの専門基礎関係諸講座を応援可能な新学科増設を考慮すべきであろう。

  • 昭和40年度概算要求に対する意見
    1. 総合大学化への素地をつくること。
    2. 本学発展のための総合計画の一環として学生定員増を考えることを基本とし、それが同時に2年後に控えたベビーブーム対処策であり得ること。
    3. 学生定員増により、一般共通基礎学科目の教育に混乱を生じさせない形をとること。
    そのための具体案
    1. 大学院(修士課程)設置を要求の第1順位とすべきである(前年度末準備が完了していた)。
    2. 次の学科の新設を要求すべきである。
      昭和40年度 (1)電子物理工学科 (2)計数工学科
      昭和41年度 (1)精密工学科 (2)応用電子工学科

以上の将来計画委員会報告は教授会において、計数工学科と精密工学科の設置順位が入れ替えられた形で、1965年度(昭和40年度)概算要求として文部省に提出されたが、陽の目を見るにいたらなかった。

将来計画委員会は、夏休み以降学内再編間題に取り組み、活発な論義を繰り返していた。そのころ、1963年(昭和38年)から新設学科には1学科あたり6,000万円(学科の種類により多少の差がある)の新設設備費がつくようになっていたが、既設の電波通信学科海上通信専攻・陸上通信専攻、電波工学科、通信経営学科等の1949年(昭和24年)大学昇格以来の旧学科は、年間1講座あたり数万~十数万という講座費でやりくりしており、これらにかなりの高額の予算を獲得し3大カンフル注射としない限り、新設学科との格差が開くばかりで、学内の体質改善もできないという状況が明らかとなった。

ところが、1965年度(昭和40年度)初頭から、ベビーブーム対策という問題が大きな社会問題として浮かび上がってきた。すなわち、1966年(昭和41年)は、いわゆるベビーブームとよばれる時期の子供たちの第一波が大学進学期を迎える。ベピーブームで生まれた子供たちだけが、他の時期に生まれた子供たちと別の扱いをうけて当然だということは人道上許されない問題である。ベビーブームで生まれたのだから過酷な入学試験を辛抱しろというのは筋違いというべきである。子供たちには何の責任もない。したがって、時の為政者、教育者はいろいろな方策を考えて、できるだけ他の時期に生まれた子供たちと同じ条件で大学に入学させるべきである。これが大きな社会問題として取り上げられ、文部省もその対策に苦慮していた。

1965年(昭和40年)4月文部省は、現在既設の理工系大学において、教育方法を改善することによって教育効果をよりいっそう向上させるような手段を講ずることにより、既設学科の学生定員を増員して行く方法について検討して欲しいと各大学に要請してきた。その基本的考え方は、工学系の学生に共通した科目と考えられる基礎学科目及びいわゆるエンジニアリングサイエンスとよばれる諸科目を抽出して、大グループによる同時教育を実施しようというものである。

将来計画委員会では、こうした文部省の要請にこたえ、この機をとらえて既設学科の体質改善のための一大カンフル注射にしたらどうかという考えから、きわめて活発な論議を行った。

委員会では、このような大グループによる同時教育は、従来1学科40名の形で実施されていた工学系新制大学の教育においてすら不十分と考えられていた学生の個性の尊重、独創力の促進といった面の教育がよりおろそかになるのではないかとの強い反対意見の表明もあり、容易には結着がつかなかった。そうしているうちに、5月下旬になり文部省では、こうした案のできた大学については概算要求の事前折衝に応ずるといってきた。こうした期限を切られたという点から、委員会としては、この事前折衝に応ずるかどうかという採決を行った結果、約70%の賛成が得られ、この案は教授会に報告された。教授会でも午後9時過ぎまで活発な議論を行い、一部修正の上約80%の賛成が得られ文部省に提出されるにいたった。

なお、この間学生に対して2回、事務系職員に対して1回の説明会を実施した。

この教育方法改善方式というのは、制度的には一つの形式が文部省によって本学で立案したとおりに定められた。従来、新制大学工学系は1学科4講座、学生定員40名というのが慣行スタイルであった。これに対して改善方式では1学科5講座、学生定員60名に共通専門講座0.7分を加えるという一つの形式をとっている。1学科あたりの学生定員が多いという点で多人数教育方式とよばれたこともある。この方式の特徴は、まずカリキュラムに全面的な改訂を加え、大グループによる同時教育を行う場合には、構造の面、視聴覚の面に十分に工夫をこらした大教室を使用し、また、各種の教育用器材を活用すると同時に、これと密着した演習を小グループで実施しようというものであった。

1965年(昭和40年)9月文部省原案によれば、専門系については完全に本学の要求したとおりの形でありながら、一般教育系の教官の要求が若干削減されていることが判明し、この手当てについても活発な議論を行い、1966年度(昭和41年度)から、その実施に踏み切るに至った。

新設拡充改組および整備の講座別内訳




所  要  数 現在数(計画時)
学科 入学
定員
講座および学科目 教官組織 学科 入学
定員
講座および学科目 教官組織
新  改称または
増の別




基礎 振替










41








1






60 情報工学 新設 1 1 1 3




45
航法工学 改称 1 1 1 3 航法無線学 1 1 1 3
通信法規学
1 1 1 3 通信法規学 1 1 2
通信運用学
1 1 1 3 通信運用学 1 1 2
通信技術
1 1 1 3 通信技術 1 1 1 3
小計
5
5 5 5 15 小計
4 4 4 2 10




60 電子回路学
1 1 1 3



40 電気回路学
1 1 1 3
伝送工学 改称 1 1 1 3 有線伝送学
1 1 2
搬送工学 新設 1 1 1 3

交換工学 改称 1 1 1 3 有線機器学
1 1 1 3
音響工学 新設 1 1 1 3




電磁気学 1 1 2



実験工学 1 2 1 4
小計
5
5 5 5 15 小計
3 (2) 5 6 3 14






60 電気測定学
1 1 1 3





40 電気測定学
1 1 1 3
電波工学 改称 1 1 1 3 電波伝送学
1 1 2
電子機器学 改称 1 1 1 3 無線機器学
1 1 2
電子応用工学 新設 1 1 1 3

電波物理学 新設 1 1 1 3
電力工学 1 1 2



応用無線工学 1 1 2
小計

5 5 5 5 15 小計
3 (2) 4 5 2 11




60 電子物理学 新設 1 1 1 3



40





電子管工学
1 1 1 3 電子管工学
1 1 1 3
半導体工学
1 1 1 3 半導体工学
1 1 1 3
電子回路学
1 1 1 3 電子回路学
1 1 1 3
制御工学 改称 1 1 1 3 電子制御工学
1 1 1 3
小計
5
5 5 5 15 小計
4
4 4 4 12




60 機械要素
1 1 1 3



40 機械要素
1 1 1 3
機械工作法
1 1 1 3 機械工作法
1 1 1 3
振動工学 改称 1 1 1 3 機械電気振動学
1 1 1 3
機械材料 改称 1 1 1 3 材料及び部品学
1 1 1 3
弾性及び塑性学 新設 1 1 1 3





小計
5
5 5 5 15 小計
4
4 4 4 12
合計 300 25
25 25 25 75 合計 205 18
21 23 15 59





所  要  数 現在数(計画時)
学科 入学
定員
講座および学科目 教官組織 学科 入学
定員
講座および学科目 教官組織
改組または
増の別




基礎 振替









42






2




60 基礎経営学
1 1 1 3



45 基礎経営学
1

1
産業経営学
1 1 1 3 産業経営学
1 1
2
企業管理学 改称 1 1 1 3 経営管理工学
1 1
2
計数管理学 改称 1 1 1 3 管理技術学
1 1 1 3
情報管理学 新設 1 1 1 3





小計
5
5 5 5 15



4 3 1 8




60 固体物理学 新設 1 1 1 3







応用解析学 1 1 1 3





応用量子物理学 1 1 1 3





数値解析 1 1 1 3





放射線物理学 1 1 1 3





小計
5
5 5 5 15







合計 120 10
10 10 10 30
45 4
4 5 1 8

43








3




60 材料物性学
1 1 1 3





40 材料物性学
1 1 1 3
材料分析学
1 1 1 3 材料分析学
1 1 1 3
誘電材料学
1 1 1 3 誘電材料学
1 1 1 3
磁性材料学
1 1 1 3 磁性材料学
1 1 1 3
高分子材料学 新設 1 1 1 3

小計
5
5 5 5 15

4
4 4 4 12
合計 60 5
5 5 5 15
40 4
4 4 4 12






応用数学
1 1 1 3



応用数学
1 1 2
応用物理学
1 1 1 3 応用物理学
1 1
物理化学
1 1 1 3 物理化学
1 1
原子物理学 新設 1 1 1 3

統計数学 新設 1 1 1 3

電磁気学
1 1 1 3 電磁気学
(1) (1) (2)
実験工学
1 1 1 3 実験工学
(1) (2) (1) (4)




通信基礎学 改称 1 1 1 3 応用無線工学
(1) (1) (2)
電力工学
1 1 1 3 電力工学
(1) (1) (2)
小計
9
9 9 9 27

7
2 2 4
合計 480 49
49 49 49 147
290 33
31 32 20 83

  • 学生の増募
    41年度 95名 電波通信学科(15)、通信工学科(20)、応用電子工学科(20)、電子工学科(20)、機械工学科(20)
    42年度 75名 経営工学科(15) 物理工学科(60)
    43年度 20名 材料科学科(20)
    190名
  • 建物
    年度 建物名称 面積㎡ 金額 備考
    40 C棟 1,798 42,478,778 240人用×2、120人用×3
    41 A棟
    L棟
    1,855
    2,314
    49,467,965
    55,669,598
    120人用×2、60人用×6
    物理、化学、製図、専門工学実験室
    42 B棟 2,568 77,605,084 480人用×1、240人用×1、120人用×2
    43 物理工学科
    その他

    実験工学
    実験室
    4,121


    500

    132,304,630


    22,410,000

    物理工学科、人文、自然、共通、
    機械工学の一部(2,670㎡)
    (その他の不足 1,451㎡)

    基礎工学実験

    45 本部管理棟 3,759 191,139,000 人文、社会、外語(1,163㎡)、その他
    16,915 571,075,055

    46年度 予定建物 電波通信学科その他の不足面積 4,980㎡
    (D学科 3,120㎡ は除く)
  • 教育方法改善設備費
    • A.B.C.L.棟示範教室設備
      年度 金額(円) 備考
      40 10,000,000 C棟
      41 9,840,000 C棟、A、L棟の一部:スクリーン、
      オーバヘッドプロジェクター、増幅器
      42 27,568,000 B棟、L棟
      47,408,000  
    • 基礎工学実験室設備
      年度 金額(円) 備考
      38 5,780,000 (多)以前
      39 11,000,000 (多)以前
      43 12,547,000
      45 15,778,000 CAI表示システム
      45,105,000
    • 教育方法改善特別設備
      46年度 学業成績収録装置 15,778千円
      47年度 資料センター設備 15,778千円
      48年度 資料センター設備 15,778千円

なお、この教育方法改善方式を採用して学生増募に踏み切った大学は電気通信大学のほか、山形大学工学部、山梨大学工学部、名古屋工業大学の3大学で全国では4大学であった。 その結果の新設拡充改組及び整備の講座の内訳は前の表のとおりである。

この教育方法改善方式は文部省により3年問の年次計画とされたため、完成までには7年間、つまり1972年(昭和47年)までかかった。電波通信学科海上通信専攻は電波通信学科に、同学科陸上通信専攻は通信工学科に、電波工学科は応用電子工学科に、通信経営学科は経営工学科に、電子工学科はそのまま、通信機械工学科は機械工学科に、通信材料工学科は材料科学科に改称され、物理工学科が新設されることとなった、既設学科のそれぞれには1ないし2講座が付け加わったことにより、1,000万ないし2,000万円の新設備費が充当され、更に、物理、化学、工学の各学生実験室にも数千万円の設備費が充当でき、大学全体の面目を一新することとなった。もちろん建物も、従来1学科40名用の教室では学生を収容できないという口実のもとに耐用年数の面からは十分に余裕のある木造教室も全部鉄筋に建てかえられた。一方、学科、講座、学生定員の大幅増、および校舎資格坪数の増に伴い、研究室棟も続々と建設されることとなり、学内で建築工事のない年は全くないという状態が続くようになった。さらに、この方式導入による大きな収獲は不完全講座がたくさんあった本学の専門講座が、すべて教授1、助教授1、助手1の完全講座になったことも忘れてはならないことであろう。

教育方法改善方式による学生増募に伴う建物及び設備概要を前の表に示す。この表から判明するように、文部省では「教育方法改善設備費、同特別設備費」という柱を別わくで設けてくれたことも、特筆すべき事項であろう。

この方式の導入に関する功罪については、その当時も、また今日においてもいろいろの論議がある。しかし、当時の将来計画委員会で論議された本学発展のための必要条件、教官の増員、研究教育施設の拡充という面については、ある程度初期の目的を達成した。

社会の出来事
  • 昭和36年1月1日 裏日本の豪雪で列車100本が立ち往生、乗客15方人が車内で越年した。
  • 昭和36年1月3日 アメリカ、キユーバと断交。
  • 昭和36年2月1日 都庁、初の時差出勤。
  • 昭和36年2月2日 新潟県長岡市に地震、400戸倒壊、死者5人、被災者4,000人。
  • 昭和36年3月15日 重要文化財の日光薬師堂を焼失。
  • 昭和36年4月11日 ユダヤ人大虐殺の責任者で旧ナチスのアイヒマン裁判、イスラエルで始まる。12月16日死刑判決。
  • 昭和36年4月 このころから少年少女の睡眠薬遊びが流行。
  • 昭和36年5月1日 キューバのカストロ首相、社会主義共和国宣言。
  • 昭和36年5月5日 米人間ロケット、シェパード中佐を乗せ約15分間飛行の後回収。
  • 昭和36年5月16日 韓国に軍事クーデター、軍事革命委員会が実権掌握、反共親米を宣言。5月27日 反政府系の新聞すべて廃刊。
  • 昭和36年6月12日 本田技研工業チーム、英国マン島オートレースで、125㏄、250㏄両クラスに出場、優勝、オートバイ輸出急増の途ひらく。
  • 昭和36年6月14日 東京教育大学長朝永振一郎、新劇俳優杉村春子、立命館大学総長米川博、評論家亀井勝一郎、名古屋大学教授坂田昌一、評論家中島健蔵、日中貿易促進会専務理事鈴木一雄「7人の集まり」を結成、平和アピールを発表。
  • 昭和36年6月24日 梅雨前線豪雨で近畿一帯被害 死者357人、被害家屋43万戸。
  • 昭和36年7月31日 日本最長、世界でも5位の北陸トンネル(敦賀市-今庄町間、複線式1万3,872メートル)が開道。一方、日本最古の市電、65年走り続けた京都北野線のチンチン電車廃止。
  • 昭和36年8月1日 大阪釜ケ崎で群衆2,000人が暴動、警官と衝突、
  • 昭和36年8月8日 松川事件、差し戻し公判仙台高裁で全員無罪。
  • 昭和36年9月1日 日赤、愛の献血運動を開始。
  • 昭和36年9月16日 台風18号(第2室戸台風)近畿中心に猛威、死者202人、被害家屋98万戸。
  • 昭和36年9月18日 ハマーシェルド国連事務総長、アフリカで飛行機墜落事故のため、死亡。
  • 昭和36年9月30日 愛知用水、完工通水式(幹線水路長さ112キロメートル、総延長1,135キロメートル)。
  • 昭和36年10月2日 東京、大阪、名古屋に株式第2部市場発足。
  • 昭和36年10月9日 東京株式、開所以来の大暴落。
  • 昭和36年10月15日 ヨーロッパ遠征の日紡貝塚女子バレーチーム24戦無敗、東洋の魔女といわれる。
  • 昭和36年10月26日 文部省、中学2、3年全員を対象に全国一斉学力テスト。
  • 昭和36年12月2日 池田勇人首相ら政府要人の暗殺計画(三無事件)の陸士出身者ら13人逮捕。
  • 昭和36年 この年スキー客100万人、登山者224万人、レジャーブームの年。また、不快指数が流行語となった。
    南極観測隊参加者一覧
    第6次 昭和36年 宗谷
    乗組員
    通信長 山本彌 (昭11・4 本)
    首通士 星野新治郎 (昭16・4 本)
    次〃  宮崎修 (昭20・8 1高)
    三〃  古川恵造 (昭24・3 新本)
    首空通士 奥山光雄 (昭19・9 2高)
    次〃  佐々木昭人 (昭22・6 本甲)

1-2 多人数教育導入の問題点

多人数教育の導入については、その過程において反対論が存在していた。それは理学系の一般教育教官陣営を中心としたものであった。この理学系側から、その足跡を記述しておくことも必要と思われる。1965年(昭和40年)、電通大は大きな転換点にさしかかっていた。開学以来15年たっており、学部は7学科になりこの年の入学者は272人、最初の10年が入学者160人プラスマイナス20人足らずであったのと比べて、約7割の増加である。

1965年(昭和40年)当時は、技術革新を原動力のひとつにした高度経済成長期と、石炭から石油へのエネルギー転換期のちょうど真只中であって、技術者養成の長期計画に基づいて全国の各大学の理工系の学科増設が相ついでいた。本学でも1959年(昭和34年)の電子工学科についで、1960年(昭和35年)には通信機械工学科が、1964年(昭和39年)には通信材料工学科がつくられていたが、電気通信系の増学科、増講座の要求も根強く存在していた。学内の助教授、講師の有志は3年前から、研究者懇談会を開いて、お互いの交流を深め、研究を紹介しあいながら教授会と教授総会の一本化、概算要求や将来計画への助教授層の参加を話し合っていた。前年にはその成果のひとつとして将来計画委員会が新たにつくられたが、この委員会は従来の委員会と違って助教授、講師層の比率が高く、役割として本学の将来像や概算要求の原案を審議するなど活気に満ちていた。また、学生の動向として、この昭和40年の1月から2月にかけて軍事研究反対の大きな動きがあって、全学生あげての反対運動は学園初の学内デモとなり、教職組も軍人教官に反対するなど、防衛庁からの教官には大きな抵抗が起こり、教授総会では「本学教官は軍事研究をしない」、「防衛庁より研究費をもらわない」ことが決議されたり申し合わされたりした。

一方、終戦直後のベビーブームは、そのピークが大学入学時期に当たり、文部省は1966年(昭和41年)の学生増員を4,000人から6,000人と見積もり、増募の方法として4通りを明示していた。

  • 従来の予算措置を強化する。
  • 現在の諸条件のもとで可能な増員をはかる。
  • "多人数教育の方法"をできるだけ活用する。
  • 昭和43年度までの暫定的な増員をはかる。

このうち(一)は本学にとっては40人の学生に4講座増、学生20人に1人の一般教育教官を意味するものとされていた。(三)の"多人数教育の方法"は1965年(昭和40年)5月26日付の文部省大学学術局の又書に詳しく述べられているが、それによれば多人数教育とは、

  • 一般教育・基礎教育・専門教育を通じて最小クラスを60人とする。
  • 各学科共通の授業科目を抽出して、通常は240人、 特定のものは480人までの効果的な同時教育を行う。
ということである。また、教員数の算定規準としては
  • 演習は一クラス60人、これに対して講師以上1、助手2。
  • 実験実習は一クラス60人、これに対して講師以上1、助手1。
  • 一般教育の教員組織は学生20人に対し1の割合。
  • 基礎教育の教員組織は学生25人に対し講師以上1、40名に対し助手1
  • 共通専門教育の教員組織は8学科につき教授4、助教授5、助手5とする。
  • 各学科専門教育の教員組織は学生60人に対し教授5、助教授5、助手4。
  • 大学院学生の採用を含む非常勤助手の制度や職員、施設を考慮する。

この文書を検討して、学内の意見は二つに分かれた。 反対派にもいろいろな考えがあった。

  • 多人数教育による教育効果の低下、学力が下がることへの恐れ。
  • 教育者として、教育責任がもてないではないか、この案に賛成することは教育責任の放棄になる。
  • 大学の将来が、これからの産業、技術、学問、教育の発展ということへの検討の中でされずに、 学内予算の増加や、教授ポストの増加だけを指標にして進められることへの不満。
  • 学生に対する教育を犠牲にしても予算獲得、ポスト獲得をし得るという風潮が 大学の学究的雰囲気を低めはしないかという懸念。
  • 大学のこの姿勢が受験生に知られることによる受験生間での評判の低下、 ひいては学生の水準低下が心配である。
  • 学生の卒業期に、就職市場が狭まりはしないか、就職難の深刻さが思いやられる。

一方、賛成派は

  • 在来からある学科のもっている不完全講座が解消し、ポストの頭打ちなどのひずみが是正される。
  • 従来どおりの学科要求よりは一般教育、基礎教育に教官定員が増えるので、 今後の大学教育は基礎教育を十分身につけさせることが望まれていることからいって望ましい。
  • 教官定員増、予算増、建物増、学生増は電通大の発展の指標である。 学力低下は数年たってから教育方法を元へ戻せばよい。時期を逃がすと電通大の発展は考えられない。
などであった。この最後の「電通大の発展」は錦の御旗となった観もあるが、冷静な見通しをしなければならぬ問題に感情を移入し、狭い利害の立場からの発言しかない所では自由な言論は育たないだろう。

従来の概算要求は学長指名の数名の教授が原案を練って教授会に出していたが、前年より将来計画委員会ができていたので、概算要求はここにかけられた。前年の委員会では、教育的見地から望ましくないとして退けたが、昭和40年度になると、にわかに賛成論を出さぬまま、多人数方式での文部省との交渉を更に継続することを認める形で審議を打ち切った。9月になって例年のとおりに学科増が公表される段になっても多人数方式は結着がつかず、結局5月26日付の文部省大学学術局の文書は多人数教育の単なる試案であって実行されないことが判明し、従来どおりの定員配置しか認められないことになった。賛成派の主な理由であった第二の理由はこの時に消滅した。

この事後については土方・渡部『科学』vol.35 No12 637頁(文部省学生増募対策のからくり)〈1965年(昭和40年)岩波書店〉に詳しい。

結局、7学科中5学科に各1講座増、学生定員は1学科60名に増え、1967年(昭和42年)には物理工学科ができることになった。多人数教育の利点は予算増、建物増、教授増のみの感があり、不利な面は大きかった。昭和41年は『多人数教育元年』となり、一般教育の自然科学系の授業は240名か、それ以上の学生定員のクラスで開始された。1学科ごとの演習はあったが、学力の水準低下は防ぎようもなかった。ある教授の担当科目に例をとると、毎年同じような問題を出し、どの学科も1、2点の差はあっても平均点で60点前後であった問題に対して、この年の1年生の成績は同様の基準で平均点20点、クラスによってはそれ以下もという状態であった。

このような多人数教育実施に伴うさまざまな矛盾は、そのほとんどが基礎教育部門の学生と担当教官にしわ寄せされることになったが、基礎教育を除いた他の部門では、建物の増設、新しい教官の着任等で研究的雰囲気は強まった面もあり、概して大学の発展と見られていたのであるが一面、多人数教育方式は学生の学力低下に拍車をかけ、基礎教育担当の教官の教育的情熱に冷水を浴びせたことも事実であろう。この心情的な変化には余り気付かれていないようである。

また、多人数教育実施以後の将来計画や概算要求が、単なる「予算とポストの要求」に倭少化され、その背景にある産業構造の変化、技術の進歩、学問の将来像、世界の動向に想いをはせ、更に学生の教育や教官の実情を十分考えた上での冷静な洞察が失われて、教官のニーズの一部分のみが強調されていた感がなくはない。多人数教育は、単なる教育方法の変更という面だけではない、大学全体の雰囲気、性格の大きな変化という電通大の歴史の深部に触れる大きな転換点であった。

社会の出来事
  • 昭和37年1月12日 テレビで初めて宮中「歌会始」の模様を中継。
  • 昭和37年1月25日 NTVノンフイクション劇場「老人と鷹」放映、5月16日カンヌ映画祭で大賞受賞。
  • 昭和37年2月1日 東京都の常住人口1,000万人を突破と推計される。
  • 昭和37年2月20日 米国初の人間衛星フレンドシップ第7号打ち上げに成功。
  • 昭和37年3月1日 NHKテレビ受信契約台数1000万を突破、普及率48・5%。
  • 昭和37年3月27日 港湾労組共闘会議、24時間スト、わが国初の国際統一闘争に発展。
  • 昭和37年4月23日 海員組合、停船スト、5月10日の妥結までに延べ633隻がストップ、史上最大の規模となる。
  • 昭和37年5月3日 常磐線三河島駅構内で二重衝突、死者160人、重軽傷325人。
  • 昭和37年5月10日 新産業都市建設促進法公布、8月1日施行。
  • 昭和37年7月1日 東京電気化学工業が開発した初の国産ビテオ・テープ発表。
  • 昭和37年8月30日 日本航空機製造株式会社のYS11が初飛行に成功。
  • 昭和37年9月7日 吉川英治死去。
  • 昭和37年9月9日 中国人民解放軍、華東地区に侵入した米U2型機1機の撃墜を発表。
  • 昭和37年9月26日 若戸大橋開通式。
  • 昭和37年10月22日 ケネデイ米大統領、キューバにソ連ミサイル基地建設中と発表、キューバ海上封鎖を声明、10月28日 フルシチョフソ連首相、キューバからの攻撃的武器の撤去を命令。
  • 昭和37年10月28日 正宗白鳥死去、83才。
  • 昭和37年 この年、新年の歌会始の入選歌が盗作だと問題になったのを手はじめに「佐野乾山」大論争、ニセ1,000円札「チ-37号」事件など、ニセモノ騒ぎが続出。また、50年続いた「講談倶楽部」「少年クラブ」が12月号を最後に廃刊となった。
    南極観測隊参加者一覧
    第7次 昭和40年 ふじ
    乗組員
    通信長 田中正次 (昭24・3 本)