電気通信大学60年史
後編第5章 電子工学時代の電気通信大学
第8節 就職先の傾向
電通大の初期の卒業生の就職は、多くの新制大学工学部と同様に幾多の困難な道を歩まねばならなかった。旧制大学に比較して研究室、研究実験設備の悪い条件と少ない教授陣のもとで十分な基礎教育と卒業研究を行える環境ではなかった。敗戦後の日本の工業復興の契機となった朝鮮戦争後には、電信電話事業の発展、TVの営業放送開始により、この方面への就職を始めとして、これによって派生した電気メーカーの事業拡大傾向が卒業生の就職を支えてきた。このように電気関係工業の隆盛とともに電気関係の卒業生が社会から求められるようになってきたのであった。しかし歴史が浅く名前の知られていない本学が、多くの卒業生を各メーカーに送りこむために就職担当教官の涙ぐましい会社まわりがあったことを忘れてはなるまい。
昭和30年代には、弱電の中に新しい分野が育ってきていた、それは電子工学(エレクトロニクス)であった。このころになると電通大の名前もやっと電気業界で通じるようになってきた。これとともに、無線電信講習所時代の花形であった無線通信士プロパーとしての船舶会社への就職は非常に少なくなり本学も大学らしくなって、次の学科改編、増学科への基礎となった。1955年度(昭和30年度)の卒業生約160名(3専攻で約120名、別科40名)の中で、特徴となるのは官公庁への就職者が多いことで、昭和40年代後期の第一次石油ショック後の大学生の官公庁への就職志向と異なり、やはり、このころの卒業生にとって大手の電気会社への就職が狭き門であったことがうかがえる。昭和30年代前半は同じような傾向が続くことになる。特に注目すべきことは経営工学専攻の卒業生は電気工学と経済の知識を利用すべく電気関連会社に就職する外に、このころより貿易商事会社への就職も見うけられて、本学における昭和50年代の就職先の多様化の走りとなっている。少ないながら大手電気会社への就職者のほとんどは、電波工学専攻の卒業生が中心であった。このことは当時の入学選抜方法が一括入学であり、各専攻に進学する組分けは成績によって行われた。
このような電通大のリーダーとなった電波工学も、エレクトロニクス時代の寵児といわれるトランジスタを中心とする半導体素子の米国における開発、発展に刺激され、またわが国電気業界からのエレクトロニクス技術者養成の要望を契機として、専攻内容の急激な発展を余儀無くされた。とはいっても初期電気業界の発展は前にも述べたように、電信電話事業とTVの営業放送によるものであり、半導体工業はまだ家内工業的なもので、能動部品は信頼性の点からほとんど真空管が主流であった。
しかし、ラジオにトランジスタを使用できることが明らかにされると各電気会社が大きな市場、利益を求めて研究開発に努力しはじめた。かつて半導体に関する研究は物理・応用物理学科出身者を中心として行われてきており、その卒業生では業界の要求数を充足できず、半導体・電気・通信の幅広い知識を持つ技術者が必要とされ、電気関係学科の卒業生が多く求められるようになってきていた。このころの半導体中小メーカーに就職した本学出身者も現代のような半導体工業の発展を夢想だにしなかったことであろう。
以上のようにエレクトロニクス工業の誕生とともに、無線電信講習所時代の主流の通信士養成から、電波工学専攻、さらに1959年(昭和34年)には電子工学科が発足し、電通大の内容充実とともに二つの学科が電通大の中心学科となって発展していくのである。事実、電子工学科の最初の卒業生は1963年(昭和38年)であるから、それ以前のエレクトロニクス技術者は電波工学科を中心として供給されたことになる。またさらに高度な知識を得るために大学院進学者も少数ながら増加の傾向にあり、これらの卒業生が現在では一流会杜を始めとして、電通大に帰って活躍している。
1961年(昭和36年)3月の卒業生は電電公社へ11名、国際電電4名、公務員4名、NHK2名、国鉄2名、また本学で毎年多量の卒業生が就職している大手電気メーカーでは、日電3名、富士通4名、沖電気2名、松下電器7名、東芝3名、三菱2名、日立3名であったが、これを卒業生がほぼ同数の1956年(昭和31年)3月の卒業生と比較すると、電電公社2名、公務員18名、NHK1名、国鉄2名、富士通1名、松下電器2名、日立1名であったことを思うと格段な大手メーカーヘの就職者増加である。
官公庁関係の就職者の伸びに対して、当時のTV生産数の増加等に支えられた大手電気メーカーの好景気の結果を反映しているとはいえ、著しい増加である。
このころになって以前とは異なる就職先が開けてきた。一つは半導体工業関係のオリジン電気を始めとして、ソニー(東京通信工業)等である。特にソニーは半導体の民生用機器への応用で急激に成長した会社として世界的に有名となった。また、大手の電気メーカーも独自の半導体製品を作っていることから、卒業生の何名かは半導体プロパーでなくても関連した仕事を行っていると思われる。次に、工業製品の価格に比重の重い人件費の節約、大量生産、それに伴う品質管理の容易さのために生産ラインの自動制御化が行われはじめ、この分野への就職も多くなるようになった。米国における電子計算機の半導体化に伴い、IBMやユニバック等の大資本が単独あるいは合弁会社を通して日本市場に上陸し、卒業生もこの分野に進出しはじめた。しかし、絶対数ではまだ少なく10名前後で、多くは一般の電気メーカーをはじめとして、貿易・マスコミ・光学・証券と卒業生の就職会社の多様化がさらにすすんできた。この年度は伝統の海運関係会社への就職は零となった。いずれにしても、入学選抜方法が従来とは異なる『いわゆる学科別入学』による影響か、あるいは好景気の結果か、従来の大手への就職が電波工学専攻中心から各学科にほぼ均等に配分される傾向になった。その結果、就職先で見るかぎり各学科の特色が現れていないようである。この年の卒業生は174名で、創立後はじめての女性工学士がめでたく卒業し就職したことを付記しておく。
1962年(昭和37年)3月31日付で、通信士養成のために開学以来設置されてきた別科(1958年(昭和33年)度以後入学募集を停止)は完全に廃止された。したがって、通信士は電波通信学科海上通信専攻によって養成されるようになった。
1960年(昭和35年)ころは電気業界は好景気であったが、1962年(昭和37年)ころに各メーカーの設備投資過剰の反動から秋の就職決定期には求人数が昭和37年秋の実数を下まわった。就職担当教官の必死の努力により卒業時までには就職率が100%に達した。一般に不景気になると旧制大学出身の卒業生の場合と異なり、私立大学や新制大学卒業の就職希望者の割合が減少する傾向にあるが、電通大の場合、今回はそれほど、打撃を受けなかったようである。これも第1期生が各会社でその実力を十分に発揮し、会社も電通大の実力を認め出したことも一因であろう。
さて、1963年度(昭和38年度)の就職先の内容は、卒業者188名に対して、前述の大手電気メーカーについて1960年度(昭和35年度)と比較すると、日電6名、富士通3名、沖電気5名、松下電器5名、東芝3名、三菱3名、日立7名の計32名で、7名も増加している。景気の悪い年は公務員志向が前面に押し出されるが、電電公社は9名、国際電電2名、公務員26名、NHK2名、国鉄3名で42名となり公務員の増加が著しく、電通大出身者がこの前後の年で多く公務員となっていることがわかる。このころ、人事院から特に電通大に公務員試験の説明に来たことからも、本学卒業者の質的な向上を示唆しているからであろう。しかし残念ながら、この年代を境にして、電気工業界の景気回復と多人数教育による入学者の質的な低下により、多くの卒業者数にもかかわらず公務員試験の上位での合格者の数は残念ながら指数関数的に減少していくのである。
これまでは主として官公庁と大手電気メーカーを中心に述べてきた。しかし、技術革新による経済成長の波に乗った往時の中小企業が、いまや大企業となった例をいくつか挙げることができる。当時の卒業生でこのような会社に就職した方々の中に、新しい技術開発に対する努力の報酬として、いまや地位・金銭的に恵まれてはいるが多忙な毎日を送っている部長もいるようである。大企業に就職することは本人をはじめ周囲の人々にとってもうれしいことであるが、その人の一生は必ずしも『ばら色』を保障されているとは限らないようである。しかし昭和30年代前半の卒業生は、電気関係の卒業生の絶対数が少ない点を考えれば、会社における昇進は、30年代後半以後の卒業生に比較すれば有利であろう。
1963年(昭和38年)の第1回電子工学科卒業生は、先生方の期待通り当時の一流企業に就職した。また1964年度(昭和39年度)に第1回卒業生を送り出した通信機械工学科も、その設立の主旨である『電気技術を中心として機械技術も習得』した特異性から、電気・機械各分野の就職が好調であった。しかしながら、昭和40年代の卒業生の就職が非常にいい原因は、第1回卒業生から昭和30年代後半の卒業生の努力と就職担当教官の長かった会社まわりによるところが大きいことを銘記すべきである。
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