電気通信大学60年史
後編第5章 電子工学時代の電気通信大学
第7節 学生の活動
7-1 調布祭
電気通信大学の第1回学生祭は、1950年(昭和25年)12月8日、目黒校舎で開催された。その後、調布に移転しても、1958年(昭和33年)の第8回学生祭が中止された外は、毎年実施され、この中止された第8回の翌年の1959年(昭和34年)6月に大学の在る地名にちなんで調布祭と改名するに至った。これは第9回目の学生祭である。このあたりの事情について、この時の調布祭実行委員長渡辺信は電気通信大学新聞第61号に寄稿している。
調布祭実行委員会が実際に活動を始めたのは4月の下旬だった。以来40数日、あわただしく過ぎ去り、調布祭もどうやらここに開催できることになった。このような行事を行う意義は私たち学生の日ごろの学習成果を広く一般に公開するということにある。
私たちは学生としての面を持つ一方、社会人としての機能をも併せもっているが、ここでは学生としての面のみについて述べようと思う。授業科目として教室や実験室及び研究室での研究の成果、課外活動によって得られた種々の結果を、ただ当事者だけの間にとどめずに一般に公開できる機会として、この調布祭を行うのである。学友会各部及び同好会においては、各年度ごとにその年間予定を立て各々研究活動を続けている。部によっては他大学と連絡を密にし、また、連盟等に加盟しそこで研究発表を行っているところもあろうが、全体的にみればそれは一部であり独自に発表の機会はなかなか作り難いものである。部会においてこの調子だから個人においてはなおさらである。研究及び課外活動の成果を広く紹介し、多くの人々から意見や批判を受けることは将来のために大いに参考になるであろうし、またこの行事を持つことによって外部との交流が盛んになれば、何かと沈滞しがちな学内の雰囲気を少しでも和らげ、更に活発化する方向にもってゆけるのではなかろうか。
現在、学内における学生間の親睦及び協調性は必ずしも満足な状態とはいえない。無理にこの催しに引き入れることは個人の尊厳を損うものであるからそのような事はしたくないが、本当にやりたくない人などなく、ただその機会が無いのだと思う。調布祭を契機として一つのものを発表するために数人が一単位となり、それを完成させるために力を尽くし、ものを作り出す過程において互いに研究協力して、自分たちの作るものを理解すると同時に人間的な絆も強め、技術的、人間的成長への発展過程の一部となればと望んでいる。学外交流の必要性は更に強いものでありたいと思っている。
第8回まで呼びならした学生祭なる名称を今回より「調布祭」と改めたことは、この催しを大学全体ひいては調布市をも引き入れることの出来るようなものにしたいと考えたからである。学生だけでなく本学教職員の方々にも参加していただき、電気通信大学全体で行える楽しい行事としたいためである。学生祭というと、この字句からの感じで学生だけのもののように聞こえる。もちろんその主体となるのは私たち学生ではあるが、大学当局側の協力なくしてはほとんど開催は不可能だろう。本学が発展してゆくには私たち学生や大学当局が努力しなければならないのは当然のことだが、地元の人々にも私たちの存在を強く認識、理解してもらう方がいっそうよいであろう。本学もこの地調布に堅く基礎を置いて発展せんとしている。こんな考えが脳裏にあって「調布祭」なる名称をこの行事の頭に冠せたのである。
さてこの行事をどのような方法で進めてゆくかを考えた時、テーマを与えるか否か、部会を中心にするかクラスに主力を置くべきか否かといろいろ迷った。テーマを与えてそれを中心として取り組めば全体としてのまとまりの点からみれば一番よいだろう。しかし、この場合テーマの選び方に問題があり、また制限されることが考えられる。部会中心の場合は、同好の志を有する者の集まりが行うのであるから、全体的にみてばらばらにはなるかもしれないが、個々についていえば充実したものができるであろう。しかし、これでは部会に入っているものだけが参加することになり、全学生の参加は現状の部をみるととうてい望めない。そこで、クラスに主力を置けば全学生の参加を期待出来る可能性が最大であろうと考え、今回はテーマは与えず自由とし、クラスに主力を置いた。という訳は今回の予算が昨年度より少ないからというだけの理由である。実は、部会の方にも積極的に後おしをしたかった。クラス中心にすれば各クラスの特色が現われて面白いのではないかという気持もあった。
1952年(昭和27年)を起点とする調布への移転作業も、専門課程が1957年(昭和32年)に移転してその作業は完了した。このことは、以前、無線電信講習所が、その地名「目黒」を愛称としたように、電気通信大学が「調布の大学」としてその地名で愛称される地盤が整ったとも言えるであろう。特に、学園祭において、その地名の下に「祭」の文字を入れるという意味は"その地に在る大学としての祭"という市民と大学人を結ぶ軸を象徴化するということとしてよいと思われるが、1959年(昭和34年)にして、いよいよ"この調布の地における大学の祭"として出発することになったのである。同じ電気通信大学新聞にこの時の展示内容が掲載されている。
改名して初の調布祭は、6月6日・7日の両日にわたって行われる。内容は年々充実してきたが、これを機会にますます今後の本学学友会の発展が期待される。
展示部門では電波工学科の2、3、4年の協同研究である発振回路の総合的研究が注目される。
また、1年生の積極的な進出ぶりは大変頼もしく感じられる。その他の点は毎年同じようなことになりそうで今後とも、全学生の反省と熟慮が待たれる。
主な行事と展示題目は次のとおり。
行事日程
- 第1日
- 開会式、音楽会、映画会、仮装行列(市中行進)、ダンスパーティ、展示会
- 第2日
- 講演会(土屋清-日本のいき方、八木秀次-科学技術の将来)、映画会、展示会
展示題目クラスの部
電波通信学科海上通信専攻
- 1年
- ▽うそ発見機▽光線電話
- 2年
- ▽航空機における電波運用▽模型船の無線操縦
- 3・4年
- ▽無線機器の展示と操作▽レーダー公開
電波通信学科陸上通信専攻
- 1年
- ▽スピード違反摘発装置▽駐車ディテクタ▽ラジオオルゴールの実験
- 2年
- ▽電気計算器▽電光ニュース▽光学実験▽ラジオと真空管
- 3年
- ▽自動車の自動制御▽自作レーダーの公開▽ファクシミリと自動交換機
- 4年
- ▽電気玩具
電波工学科
- 1年
- ▽Hi・Fi研究▽ラジオ修理
- 2年
- ▽電場発光▽波形変換▽発振原理の実験
- 3年
- ▽高周波誘導加熱▽周波数変動▽映像信号直視▽母音合成器▽FM伝送
- 4年
- ▽マイクロ波発振▽マイクロ波による音声伝送▽移送回路発振器▽発振現象直視
通信経営学科
- 1年
- ▽録音装置いろいろ
- 2年
- ▽電気通信大学の歩み▽リサージュ実験▽8ミリ上映(今日の電通大)
- 3年
- ▽光線電話▽電気集塵器▽螢光灯、ネオン管の実験▽光線による手の検査
電子工学科
- 1年
- ▽電子楽器テルミン
3年通信経営学科有志
- ▽人形劇▽放送劇
4年有志
クラブの部
- ▽電子オルガン演奏
オーディオ研究部
- ▽ステレオ・レコード・コンサート▽FM放送
ダンス部
- ▽ダンス・パーティー
囲碁将棋部
- ▽囲碁将棋大会
音楽部
- ▽音楽会(合唱・管弦楽・東京芸大女子コーラス招待・他)
工学研究部
- ▽各種フィルター特性及び真空管特性直視装置▽超音波の実験▽マイクロウェーブ送受信の実験▽アマチュア無線局公開
美術部
- ▽作品展(油絵・デッサン・水彩画・招待作品)
写真研究部
- ▽作品展▽映写会(カラー・スライド・八ミリシネマ)
厚生部
- ▽食堂・喫茶室
新聞部
- ▽創刊号よりの本学新聞の展示▽各大学最近発行新聞の展示▽懇談会
山岳部
- ▽装備展▽山行相談所▽EACレポート発刊
短大無線工学グループ
- ▽アマチュア無線局公開▽トランジスターの解説▽テープレコーダーの原理と操作
この展示内容から当時の学生の気質の一端もうかがえ、面白い。まず、電気通信大学の特質を前面に掲げようとする姿勢が顕著に現れている。いわば、小さな『エレクトロニクス展』といった風情は誰にも感じられるところといってよい。もう一つ、学年別に展示が可能といった事実は、学生のまとまりという点であげるべき特質である。現在のよく言えば多様化した、悪く言えばバラバラな学生の在り方との懸隔は深いと言えるであろう。ただ、わが調布祭の初源というもの、これをもう一度見直すということはただの懐古主義とは言えないと思わる。
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7-2 生活協同組合の発足
電気通信大学に生活協同組合が発足したのは1960年(昭和35年)2月10日で、実際に営業を開始したのは同年4月1日である。ここでは、主に電気通信大学新聞からの引用でその経緯を追ってみる。
食堂経営に疑問点生協設立準備委が発足学友会執行委は、明35年5月31日までに生協を誕生させようとその下調査を行ってきたが、新たに厚生部、大学側と協力して生協設立準備委員会を発足させた。生協設立運動はこれらの学生側委員により開始され、10月16日、調査結果と仮事業計画案とにより大学側に生協準備委設立の正式認可を要請し、11月4日、大学側教務委と会見した。この結果、生協食堂運営可能の見通しがつけば、食堂設計は準備委員に一任され、この中に購売部を建設することも許可するとの答弁を得た。
学友会執行委員会は、本年度の二大目標の一つとして大学消費生活協同組合の設立を計画、現松行執行委員長の任期中(35年5月末日)に完成させようと、今まで生協に関する調査活動などを中心にこの運動を行っていた学友会厚生部と協力して、去る11月4日新たに生協設立準備委員会を発足させた。生協設立準備委員会とは本学学生(学部・短大)17名を委員とし、顧問として教授代表4名、事務局長、短大事務局長、事務局課長5名、関係係長2名、教職員組合代表4名、それに図書館長の計18名を置いて、締めて35名よりなる。このうち学生代表の委員は先日執行委員会が本学学生からこれを募り、この応募者と厚生部員、執行委員、短大自治会の中から執行委員会が、委員長松井秀夫(3RB)、松行康夫(2B)、田中清信(2RB)、樽見忠平(2B)、沼宮内忠(2T)、神山英昭(2RB)、酒井哲郎(2RA)、梅田実(2RB)、富田克久(2B)、岩崎治(2B)、立岩環(1RB)、中津井護(1RB)、小山薫(1B)、薄井清子(1RB)、南雲昌彦(短2)、小林敏男(短2)、波多江保彦(短2)、計17名の学生委員を選出した。
生協設立促進の具体的な運動は先月以来まずこれら学生委員により開始され、去る10月16日本館第1会議室において、事務局課長、係長、短大事務長、教職員組合代表を交えて生協設立準備委員会の正式認可を要請する会議を開き、学生委員からそれ以前の調査結果と仮事業計画案(先の生協に関する公聴会において学生一般に発表されたのと同一のもの)の報告があり、大学側の質問等を受けた。次に去る10月28日、山本新学長初召集の教授会席上で八木学生部長に要請して生協設立準備委員会認可を要請する旨を発表してもらったところ、教授間よりこの問題は教務委員会に通すほうがよいだろうとの意見が出され、去る11月4日学生委員代表が教務委員と会見し、詳細な説明を行った。教務委員会とは八木教授を議長とする諮問機関であり、そのメンバーは、議長八木教授(外国語第1)以下、臼居助教授(心理学)、遠藤助教授(電力工学)、清都助教授(電波運用工学)、小林助教授(政治学)、武井教授(実験工学)である。
なお、この席には、生協設立準備委員会顧問の教授代表4名、亀島教授(経済学)、谷村教授(応用無線工学)、松波教授(法律学)、八木教授(外国語第1)及び君塚助教授、牧野教授が出席。この席上ではまず学生委員代表より、調査結果、活動状況の報告、仮事業計画案等を通しての生協の具体的説明があり、それに対し教授側から次のような質問がなされた。
- 事業計画案によると出資金1人当たり300円で500人加入を見込んで15万円の資金を得るとあるが、このような少額の資本金で、案にある年間売上高500万円をあげ得るか。
- 生協運営の食堂で伝染病、食中毒等が出た場合多額の赤字が予想されるが、その埋め合せと責任問題をどうするか。,
- 食堂を経営した場合、食品一般が果たして現在の業者食堂より安くなるか。
以上の3点について学生委員代表の答弁は次のとおりであった。まず(一)については、例えば、個人が書籍のみを買う場合でも1人年間1万円の買物をする。それが500人いたらこれだけで500万円の売上げはあがることになる。また実際、東京外語大の生協では25万円の資本金で年間1,200万円の売り上げをあげているし、東京農工大では21万の資本金で700万円の売り上げをあげている。以上2校はいずれも本学と同程度の学生数で、しかも食堂ぬきの経営である。次に(二)については、衛生施設不十分な食堂は経営が許可されないし、今までの他大学にもそのような先例はみられないから心配はない。更に(三)についての答弁は、言うまでもなく安くなり質もよくなるとのことだった。ここに教授側は購売面は生協で十分採算がとれると認めて設立に賛成であるが、食堂経営にはまだ疑問があるから今後は他大学について食堂の事業計画を中心にした調査を主として行い、この点をもっと明らかにしてくれるよう要望し、結局、生協設立準備委員会はここに正式に発足が許可された。
現在・学校当局では来年4月を目標に新学生ホールの一部として食堂の新設を急いでいるが、生協設立準備委員会の事業計画にはこれを生協の食堂として使用するよう計画されているが、この点についてこの日教授側では、生協食堂実現可能の見通しがつけば食堂設計を準備委員会に一任する旨を明からかにし、この中に生協の購売部も建設することを許可するといっている。なお、準備委員長の松井秀夫君は「食堂運営は必ず学生の手で出来るから、今後は委員と力を合わせてこれを資料の上で実証するよう、活動方針の主力をここに注ぐ」と語っている。では今後の問題点として、現在の業者食堂と学校との契約はどうなっているかというと、現在の学内食堂の経営者は以前目黒に本学があったころ、そこで食堂を経営していた人で、当時調布には学寮しかなく、しかも学芸大と一緒であった。しかるに学芸大は食堂を持っているにもかかわらず本学寮生の使用を認めなかったので本学の要請により、目黒から調布に移ってもらい、最初のうちは契約もなく公認の形で経営されていたが、28年正式に契約した。それによると、契約期間は4月1日より翌年3月31日までと1年ごとに更新するようになっており、翌年の契約は期限切れの2月前すなわち1月31日までに行うようになっている。また、備品はかまど、冷蔵庫は本学のもので、消耗品のハシ、茶わん、調理室内の光熱費は業者持ちである。なお、学生ホール内の机、椅子、ゆのみ、光熱費、ガラス修理等は本学負担となっている。このようにしてみると来年4月という生協設立目標は、最適時と言えるが、その予備工作はよほど急がなければならないということになる。
この外にも同新聞第65号に「生協設立に努力しよう」という論説記事が見える。この論説によれば、生協設立準備委員会の行ったアンケートで、生協設立賛成者が96%、設立後加入すると答えた者が90%となっている。生協設立が非常な好意のもとに誕生したことはまちがいない。
生協営業を始める新入生の加入約100%生協の実際的活動がいよいよ始まった。学生ホールの完成が遅れたため、もとの食堂、厚生部室、それに目黒会の部室を使って、とりあえず営業を開始した。食堂はテーブルと椅子を一新して、非常に感じがよくなった。座り心地もよく、食事時以外にも学生のたむろしている姿がみられる。女子従業員のいる雰囲気も悪くない。
また新入生の生協加入率は非常によくほとんど100%に近い。学年別の正確な加入人員はわからないが、2、3、4年は7割くらいで案外に悪い。しかし組合員と非組合員とに分ける二重価格が実施されると加入者がもっとふえることと思われる。4月20日現在の加入者の人数は学部学生577名、短大学生58名、教職員71名、合計706名である。これはちょうど当初の計画案における予定人員700名の線を越している。
さて、営業開始後まだ十数日であるが、食事が高くなったとの声が非常に多い。質の点は幾分改善されたようだが、期待が裏切られた感じである。書籍も前の厚生部の1割引きよりはやや高いようだ。そういった点について、樽見専務理事に説明してもらった。
ということであったが、食事が高いというのは一般の感想だろう。しかしまだ営業を始めたばかりで経営状態もいうなれば暗中模索である。止むを得ない点もあろうと思われる。自分たちの組合として、積極的に意見を述べ合って、改善してゆかねばならない。「書籍は他大学ではほとんど5分引きで、1割引きのところは経営の安定した早稲田等2、3校くらいです。本学では前の目黒会が5分引きだったので、前と同じではと思って7分引きにしています。前の厚生部は人件費が零でしたから……。5月初めには学生ホールに移れる予定ですので食事の方はその後検討したいと思いますが、パンをおいたり、30円のラーメンを始める以外は現状を急速に改善することは難しいと思います。できれば40円の定食をやりたいと思っています。牛乳は今全酪と交渉中で臨時に名糖を入れていますが、将来は1本10円にする予定です。他と比べて、特に高いということはないはずです。他の品物は平均して1割2、3分は引いてあります。それからホールの方へ移ったら、喫茶店も始めますから……。ソファも新しいのを入れますので、憩いの場として重宝されると思います。」
これは、電気通信大学新聞第68号からの引用であるが、生協の営業開始当時の状況をその意見も含めてわれわれに教えてくれる。
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7-3 政治活動
いわゆる「60年安保」闘争は、戦後の政治活動史の中で最も激しく広汎なものとして記録されると思われる。概括すれば、この事件は安保条約を改定し新安保条約を成立させようとする岸内閣を中心とする為政者と、それを阻止しようとする勢力間の摩擦のことを指すが、これについての解釈は未だ生々しい事件だけに一筋縄にはいかないというところがわれわれの立場であろう。しかし、電気通信大学においても、学生のみならず教職員にさえ日本国民の一員として様々な反応を迫られたということは書き留めておかねばならない。ここにも一つの事件があったのである。
今まで本学学生は政治意識が低く自治活動も活発でないとしばしば言われてきた。だが20日未明の安保強行可決によって、どうしてもわれわれの意思を表わさなければならないという気持が高まって、その動きが現われた。19日(注、1960年(昭和35年)5月)夜の国会デモ、そして20日、26日の国民会議の統一行動には各々100名、250名と全学生の3分の1もの学生が参加した。
この盛り上がりに際して、実際にデモに参加した人々に、この事態をいかに見るか、そしてわれわれの中に盛り上がったこの動きをどのような理論でもってどういうふうに推進してゆくか、各々の人々に書いてもらった。
電通大生はおとなしい。これが当時の電通大生の印象のうち最も集約されたものであった。しかし、この1960年(昭和35年)においては"必ずしも"おとなしくなかったのである。
強行可決に盛り上がる反対安保反対決議 ~25日の学生集会で~26日国会デモに250人
5月19日、20日の議会主義を否定した岸自民党首脳らの動きに対し、国民世論は激しい憤りの炎を上げた。本学においても、20日の安保阻止16次統一行動にははじめて80人にのぼる多数の参加をみた。25日の学生集会において、安保反対決議文を採決、26日の17次統一行動には250余人の多数の参加をみた。現在の安保闘争は有志の集まりで行われているが、自治会として統一して運動を展開させていくことがこれからの問題だろう。
25日有志集会として開かれた抗議集会は、「安保改定問題について」の名の下に開かれ、200余名の参加がみられた。翌26日の統一行動にいかなる体制で参加するかに討論の中心がおかれた。まず調布寮に結成された「平和を守る会」に対して、一部学生からその会の性格、組織、方針についての質問がだされた。これには「平和を守る会」発起人から次のような説明があった。
『平和を守る会』は19日から20日にかけての岸、自民党首脳らの議会主義を無視した暴挙を端緒にして、自然発生的に寮内の有志が集まったものであり、会の組織、方針よりも、安保反対闘争に参加することを一般学生に呼びかけこれを核として全学的に運動の広がることを考えている次に26日の統一闘争に、「平和を守る会」として参加するか、あるいは学友会自治会とするか、別の新たな団体とするかの討論があったが、結局、電気通信大学有志集会で参加し、この名で集会決議をし、決議文を衆院議長に提出することに決定した。決議文は次のとおり。
- 決議文
「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」は平和に向かう世界の大勢に逆らい、同時に日本国憲法に違反し、日本の平和と独立を損ない、更に日中国交回復を阻害するものであります。そのうえ軍事力増強の義務を負うことによって国民生活を圧迫し、更に、われわれの電気通信学部の学生に、将来、兵器の製作、操作の義務を強いるものであります。
よって本学学生は国会に対し次のことをされるよう要請します。
- 5月19日の本条約の強行採決、会期延長が無効であることを決議すること。
- 本条約の強行成立をはかった岸内閣を不信任すること。
- 本条約を正しく民意に問うため、衆議院の解散を決議すること。
右決議します。
昭和35年5月25日
電気通信大学学生有志
衆議院議長
清瀬一郎殿
その後26日のデモ指導者を指名推せん、承認後、翌日の行動の具体方針に入り16次統一行動に際しては、安保改正阻止国民会議の方針に従い、ジグザグ行進は、指導者の判断に任せることに一致した。
26日の統一行動には、前日の集会決議の盛り上がりにより、有志250余名が12時半寮前に集合し、直ちに大学構内を行進し、調布市内を駅まで整列行進で、市民に呼びかけを行った。
日比谷公園から出発、国会正面で座り込むこと1時間半、その後新橋、銀座ヘデモをかけた。
20日の統一行動には学生大会終了後、有志学生の呼びかけがあって、直ちに午後の国会デモに参加した。デモ参加の呼びかけが徹底しなかったにもかかわらず、すぐに60余名が集合、千駄谷の全学連集合所に集まり、同日未明の安保強行可決に対して心からの怒りをこめて、ヌカ雨の中を国会前、新橋、銀座から東京駅ヘデモ行進を行った。放課後、寮内からデモに出かけた学生及び個人的に参加した人々を合わせると、ゆうに100人以上の学生がこの日のデモに参加した。
このデモ参加に際しては教職員が非常に心配し、学校に駆けつけたというエピソードも残っている。この闘争についての教職員の評価は、心情的には分かるが行き過ぎは困るといったところと想像される。しかし、この「60年安保」以降、電通大生も政治の季節に巻き込まれる傾向を強めていったのである。
文部省の諮問機関である中央教育審議会が「大学の管理運営について」の答申案を作成したのは1962年(昭和37年)6月20日のことである。この前日には、その答申案内容に不満として大学教官により「大学の自治を守る会」が結成されている。全国的に「大学管理法案」反対闘争が起こったのはこのころである。電気通信大学新聞第87号〈1962年(昭和37年)10月25日発行〉には、「大学管理法案」について次のような記事が見つかる。
ここで、現在問題になっている大管法について、その最も問題となる点をみてみよう。
学長の任命方式は、評議会が学内外より複数を選び、それについて学内で投票し、その結果に基づいて評議会が学長候補者を決め、文部大臣がそれについて任命する。学部長は教授会が選考し、学部長が学長に推薦、学長はそれを慎重に選考、文部大臣に申し出る。学長は学部長から推薦のあったものを著しく不適当と認めたときには評議会に諮って、学部に再選出を求めることができる。
教授会の権限事項は、教育研究の計画、学生の教育・指導・学業評価、学部長・教員の選考、学位・称号に関するものとし、教員の選考は、学部長が一定の基準に従って教員適格者を教授会に諮って学長に推薦、学長はこの者を慎重に選考し、文部大臣に申し出、文部大臣が任命する。学長は学部長から推薦のあった教員候補者を著しく不適当と認めたときは、学部に再選出を求めうるよう にする。学長、学部長、教員の候補者が著しく不適当と認める場合は、文部大臣は中央の機関に諮って大学に再選考を求めることが出来るという非常にひどいものである。
この「大学管理法案」が、"ひどいものである"か、どうかの判断は難しいが、当時の少なくない大学教官・学生にとって、大学の自治を犯すものとして捕えられたことは事実である。同じく新聞第86号には、次のような記事が見える。
活動方針について学友会執行委員会学友会執行委員会では、去る9月11日執行委員会を開き、夏期休暇中の活動報告と今後の活動方針について討議した。以下執行委員会書記局でまとめた当面の活動方針を簡単に述べてみたいと思う。
(一)大管法反対闘争
大管法の問題が一般にクローズ・アップされてから今日までの期間は大体次の3期に分けて考えられると思う。
- 第1期
- 本年5月の池田首相、荒木文相による大学管理運営制度改悪、大管法制定の発言以後。
- 第2期
- 中教審の答申案発表以後。大管法反対、大管制度改悪の声が高まる。
- 第3期
- 7月末の国体協(国立大学協会)の中間報告以後。
そして、先日の国体協総会の結論発表、更に近く予想される中教審の答申案を考えてみれば、大管法問題はここに新しい局面を迎えるに至ったと言えよう。
学友会執行委員会では、6日(注、9月)よりこの問題を重視し、執行委員会で大管制度法案化、法制化反対を決議し、情宣活動、教宣活動を行ってきた。しかしここで活動を反省してみると、全学友諸君がこの問題を切実な問題として捕え、その本質を徹底的に究明していくような方向を実際に作り出せなかった点がやはり最大の欠陥であったと思う。学友会活動の根底を作り出し、一般学生の認識、問題意識を高めていくことの中心ともなるクラス討議等の大衆討議を、一部の活動家だけでなく全学的に組織できなかったことは大いに反省すべき点だと考える。
6月にはクラス討議も行えたが、7月に入るとすぐ夏休みとなり事実上大衆討議は中断されてしまった。また9月中に大管法問題を中心とした学生大会を開きたいと考えていたが、定期試験間近であり、中旬以後種々の試験が行われている実情では、実際問題として無理だと判断してやむなく中止した。試験期間中は、執行委員会による資料作成、情宣、教宣活動に重点を絞って、10月以後の闘争に備えたいと考えている。
なお大管法の本質と背景、更に反対闘争の基本的方向については、先日も"エレキテル"の号外で見解を明らかにしたし、電通大新聞でも述べたことがあるのでここでは繰り返さないが、大管法問題の本質、闘争の位置付けはいっそう深く掘り下げ、大衆討議に付す必要がある重要な問題だと考えている。
また8月17日、20日両日にわたって開かれた本学の教授総会において、「現段階では現行法規を改正することは不適当である」ということを結論として出し、法制化反対の意志表示を行っている。本学教職組においても、法案化反対の態度を表明しており、学友会と教職組の共闘についての見通しが生まれ、執行委員会のいっそうの着実な活動が必要とされる。教職組においても、大管法をいったいだれが、何の目的で改悪し法制化を強行しているのかという問題、大管法闘争の位置付け、米日独占による他の反動政策との関連、闘争の基本的方向と展望等について、よりいっそう討議を深め全組合員の意識を高めていく方向を強めてもらいたいと思う。
イデオロギー闘争、思想闘争の正しいあり方についてここで云々する余裕はないが、その闘争は決して地道な啓蒙活動、実践活動と別の次元にあるものではないと考える。われわれは、もちろん中教審の答申案や、国大協の報告を詳細に検討し批判すべきであるが、法制化反対の線をぼかし、政府、文部省のぺースに乗ってはならない。
この新聞は昭和37年9月25日に発行されているが、幸か不幸か、「大管法」反対闘争に対する電通大生の反応は、未だ鈍いと言わなければならない。実際の"記録的な"闘争史としては新聞第88号に掲載されている次の事件といってよいであろう。
盛り上がった11.30
「大管法闘争」展望開く
1年半ぶりの統一行動
大学管理法反対のための集会とデモが、去る11月30日、東京、京都、大阪、九州など全国的に行われた。東京においては、東大本郷時計台前で約6,000人を集めて行われた。これは大管法闘争において最大の盛り上がりを見せたものである。そして昨年の政暴法闘争以来、実に1年半ぶりに行われた統一行動であった。安保闘争以来、分裂を続けてきた学生戦線も大きな展望が開けてきたし、目前に迫った大管法に対する闘争の展望も非常に明るくなってきたといえよう。
本学において50名結集
本学においては50名の学友が参加したが、実に1年半ぶりの行動である。こうした成功の原因は11・30行動委員会による資料作成、そしてクラス討論の呼びかけがかなりの成果をおさめたのである。その前までに行動はなかったわけではないが、その場その場だけの執行委員会の呼びかけでは、学生の間のエネルギーは何らくみとることはできなかった。11・30闘争においても、執行委員会が本来の役割を果たさず、一政治潮流の行動と自治会の行動の混同によって、かなりマイナスに作用した。しかし、新聞部、社研寮、生協、ユネスコなど既成の分派に属さぬ多くの部分の意見の前に、執行部もこの行動に参加したのである。
これからの闘争は新執行委員会を中心に、これまでの誤謬を克服し、諸情勢を適確に把握して進んでゆかねばならない。
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