電気通信大学60年史
後編第4章 全学調布移転
第4節 揺れる無線同窓会
4-1 在学生、同窓会への入会拒否
1951年(昭和26年)になってから同窓会である無線同窓会の性格が急速に在学生のあいだで問題化してきた。この理由としては、その会の性格が本学前身校以外の者を多数会員として認めている。また、通信士を主体とした会であるため、そして文房具、書籍の売店としてしか在学生に縁がない等の理由などにより、今のままの同窓会では在学生のみならず大学を卒業しても入会できないといった意見が在学生の問からではじめていた。
しかも面倒なことが多いのだから、大学生だけの同窓会を別に作った方が理想的だという意見が多くあった。しかし反対意見のみではなく、本学があくまで長い歴史を持った無線講の発展したもので、「現在の無線同窓会を基盤とした電気通信大学同窓会を作るのが妥当と思う」という意見や、「たとえ多少の感情的な問題があったとしても、われわれが全然別個の同窓会を作るのは避けたいものだ」といった意見もあった。
在学生としては、本学及び本学の前身校である無線電信講習所卒業生を中心として、広く電気通信科学に寄与する同窓会にしたいという意見で、このため無線同窓会では、学生側の意見を入れて、定款改正のための準備委員会の結成に乗りだすことになった。
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4-2 定款改正
無線同窓会の総会で定款改正準備委員会の結成が決議され、総会終了後の懇談会において大学昇格運動主旨を生かす会と改正すべきだとの学生側の意向も了承された。
1952年(昭和27年)6月7日、本学講堂において定款規定の無線同窓会の総会が開催された。
議事の中の重要項目として定款改正準備委員会の結成があった。
総会終了後直ちに白石氏(海上保安庁)の司会による懇談会が開かれ、経営4年(栄・藤本)、工学4年(石原・中尾)、通信4年(三輪・石川・今野)の各代表及び学部3年代表(児玉)他、新代議員等学生参加によって1951年(昭和26年)の総会以来その成り行きが各方面から注目されていた定款改正に関する懇談会が行われた。
懇談会経過まず学生側の意見が求められて、石原君(4T)が学生側参加者は各学科の代表として出席しているのであってここで学生個人としての意見をのべるものではない。また新設を前提としての意見をもつものでもないと発言があって後、経営代表藤本君(経営4年)は次の如く決議したと前提し、無線同窓会の定款及び当会のあり方からみて通信士を主体とした無線従事者の会の如くみえるので、純粋なる本学及び本学前身校の卒業生を全員加入の同窓会を創るべきと考えていたが、旧中央無線電信講習所の性格からして通信士が中心としての当会となるのも当然であったろうし、その重要性にかかわらず社会的に冷遇されていた点から、一般通信士を加えて強力なものとされたのも会員相互の親睦を計るべきである同窓会の本来の性格に反するとしてもいたしかたなかったと思われる。
大学昇格運動及び校舎移転、建設に関しては先輩諸兄及び無線同窓会の絶大なる援助には経営4年としても非常に感謝している。更に大半の学生は同窓会の性格を充分知りえなかった点も多い。
しかし大学昇格及び校舎建設に全力を尽されていたためか大学昇格運動に行われたその主旨の性格に当会が改まっていない。
科学技術の甚しい進展に伴って、24年に電波工学が昨年通信経営専攻が新設され名実共に電気通信科学研究の総合大学として発展しつつあるのも、高度の教養と広い分野の理解をもつべきだとの先輩諸兄の鋭い時代感覚による努力の結実と思う。自動通信の高度に発展しつつある現今、更にその時代の波にのって益々発展しつつある本学に絶大なる援助をなされている無線同窓会も再び先輩諸兄及び当会幹事の方の鋭い時代感覚によって改められるものと確信している次第。
通信代表三輪君
主旨は経営と同様、会員は本学および本学前身の卒業生を正会員とせよ。
工学代表中尾君
経営と同主旨、血のつながりを重んずべきだ。
今の3年以下の学生はどう思っているかとの質問に対し、児玉君(三B)は経営4年代表ののべた主旨と同様であると答えた。
その後会員等の件を中心に無線同窓会員の懇談が行われ、午後5時会長小林勝馬氏の「なごやかな中に話を進めることが出来た」旨の発言によって盛会裡に幕を閉じた。
定款改正準備委員会では昭和27年7月23日に海上保安庁中央通信所長室において、小林会長、大岡専務理事、伊藤常任理事、宮入、白石、藤倉、鎌田各理事、富永評議員、柏崎、安孫子、永峰氏らが出席し定款改正につき討議した。
討議事項
- 定款第3条(目的)
"本会は無線通信の発達及び無線従事者の養成に寄与し"云々とあるを"本会は電気通信の発達及び電気通信従事者の養成に寄与し"云々と改める。- 定款第9条(普通会員の資格)
即ち(イ)項の各電波高校の卒業者及び(二)項該当者は将来、賛助会員とするよう、大方の意見はまとまった。ただし、既に加入している会員については問題でない。
- 電気通信大学または各電波高校を卒業あるいは修業したる者、とあるを電気通信大学の卒修業者に限る。
- 中央無線電信講習所または仙台、大阪、熊本各無線電信講習所を卒業あるいは修業した者、とあるはそのままとする。
- 元社団法人電信協会管理無線電信講習所または同所が継承した無線通信士養成機関を卒業し、あるいは修業した者、とあるはそのままとする。
- 前2号以外の無線通信士養成機関を卒業または修業し現在無線通信に密接な関係のある職に従事する者、とあるを抹消する。
- 無線関係の一大クラブ組織を作り、団体加入(同窓会、船通協等)及び個人加入を認めるとの意見もあり。
- 以上については来る9月ごろ、再び委員会を開いて最終決定するはこびになった。
1953年(昭和28年)第1回の卒業生を迎え入れた無線同窓会は、昭和28年度定期総会を昭和28年6月21日10時より目黒校舎講堂で開いた。出席者は75名、ただし学部卒業生は1名だけ。諸報告の後、懸案の定款改正を原案どおり可決、会名の変更について若干論議した後、役員改選、定款改正追加案、事業計画、会費値上等を次々に承認した後、午後1時50分総会を終了した。
定款改正の主な点は、普通会員に関する規定中、各電波高校やその他の無線通信士養成機関を卒業した者等の広範な部分を削除して本学同窓会としての形を整えたこと等である。
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4-3 目黒会と改称
前項で述べた無線同窓会1953年度(昭和28年度)総会では、定款改正、事業報告等の討議、承認に引き続いて、議事事項には上げられていなかったが、定款改正に関連し会名変更については意見がなかったかとの会員からの質問があり、これを契機として議場は会名変更派と不変更派に分かれ、熱心な討議がなされた。
無線同窓会会報28号(昭和28年9月1日発行)によれば
これに対して不変更派の意見は
- 定款も変り、電通大の第1回卒業生も入会し、これからは無線講時代の会員は減ってゆく一方、電通大卒業生の会員は増えてゆく一方であり、「名は体をあらわす」の「体」がこうしてどんどん変ってゆくのだから、この際「名」の方も変えたらよい。
- 無線というコトバのもつ技術的内容は狭い。現在の学生は無線だけでなく、有線は勿論、通信一般をやっている。
- われわれは今迄も政治的に動いてきたし、これからもそう動かねばならぬ、それについては、無線同窓会という名称は職能的な狭い内容を思わせて動きにくい。同窓会などというコトバも除いてしまってもっと幅の広い内容を思わせる名称に変えたい。
- 在学生は同窓会に関心をもっていない。無線同窓会という名称もピッタリしないものを感じている。
- 無線というコトバは社会的に軽蔑されている。
- 無線同窓会という名称には深い愛着がある。
- 会名変更の必然性がそれ程強いと思えない。
- 無線同窓会に代るいい名前があればいいが、却って変な名前をつけられては困る。
- 会名改正案は本日の議題に予定されていない。
議長、不変更派の挙手を求めたところ5名であった。
議長が会名変更のことは保留したいと発言したところ数氏から、賛否の採決をとってもらいたいとの意見が出て、暫らく議場は揉めた。
結局、採決はとらず、委員会をもうけて名称を公募し、いい名前があったら変える、ということにした。
変更については多数の賛成があり「電気通信大学同窓会」などの名称が出されたが、これは専門委員会に付託することに決定した。
無線同窓会では、その後、会名選考委員会を設けて名称を討議していたが、社団法人目黒会と社団法人電気通信大学目黒会の二つの候補名が決まり、全会員からアンケートを集めて来春開かれる評議委員会で最終的に決定される予定となった。
選考委員会では最初20数個の名称が持出されていたが、それを六つに集約して会長に答申し10月18日の理事会で前記二つをアンケートに附することになったものである。理事会では「目黒会」に賛成が圧到的で、その理由として、簡単で実体をよくあらわしていること、他大学の同窓会も発祥地の地名をつけているものが多いことなどをあげている。なお、在学生の中ではあまり大きな関心をよんでいないが、一部には不賛成の意志表示をしている者もある。大学卒業生は全員入会しており、現在の正会員数は約3,500名である。
会誌第31号〈1954年(昭和29年)11月発行〉による新会名アンケートはこの2月末で締切ったが、その結果は次のとおりであった。
その他、電気通信大学同友会、目黒校友会、目黒無線会がそれぞれ1通ずつあった。
- 社団法人目黒会 233
- 社団法人電気通信大学目黒会 105
本学及び本学の前身の出身者からなる無線同窓会の会名変更は、昭和29年の総会で会名変更が決議され、その後、具体的な新会名について討議されてきたが、会員から集めたアンケートの結果は前記のとおりであり、1955年(昭和30年)4月9日に評議員会の決定をえて「社団法人目黒会」が正式の会名となった。
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