« 4章1節 4章2節 4章3節 » 

電気通信大学60年史

後編第4章 全学調布移転

第2節 ウィーナー博士との懇談会

サイバネティックスの創始者であり、また、『人間機械論』の著者として著名なノーベルト・ウィーナー博士 (Norbert Winer, 1894-1964) は、日本放送協会の招きで1956年(昭和31年)4月6日にインド国立統計研究所からの帰路途中来日した。

当初、博士の日本での行事は、日本放送協会主催のものに限るとの約束で来日したのだが、本学関係者の努力、また丹羽東京電機大学学長、古賀東京大学教授及び池原東京工業大学教授のあっせんにより、唯一の例外として、電気通信大学主催の懇談会が、昭和31年5月24日神田・山の上ホテルで開かれた。これは、電気通信大学の将来にとって、サイバネティックスの概念が主導的な方策の一つとなり得たという点から非常に意義深いことであるといわなければならない。

ここで、懇談会が催されるまでの経緯については高野一夫助教授(当時)が電気通信大学新聞第64号(昭和34年11月10日発行)に寄せた随筆『つかの間の10年』(その4・ウィーナー博士のこと)に詳しいので、そのまま引用する。

一、発端

3月13日の教授総会が散会になると、松村電気通信研究施設長から呼び止められ、4月に例のウィーナー教授が20年ぶりで日本へこられるそうだが、学長もこの際電通大との接触をもたせたい意向をもっておられるから何とかならぬものであろうか、という話をされてしまった。

これもまた大仕事ではあるし、第一ウィーナー氏とは一面識もないのであるから全く当惑してしまった。人間機械論を唱え広義の通信を捉えることによって、考える機械を作ろうといいだしたユダヤの天才教授-彼の提言、つまり計算機は二進法で考え、電気回路を使えとの発案で、今日の電子頭脳が生まれたといわれているが、その教授が来日するとなれば、当時大きな反省期にあって苦悶していた電通大が、氏から何ものかをくみとって血とし肉としようと思うのは当然といわなければならない。

二、運動

さて、このようなわけで、ウィーナー氏の目黒へのコンタクトをとるための有効な手段を考えてみた。その日のうちに、幸い同教授の愛弟子であられ、来日中ずっと通訳を引き受けられるという東京工大の池原教授をよく知っていたので、早速訪ね、電通大が建学以来7年目に当たり、目下将来のために、電気通信学をいかに樹立すべきかに悩み抜いていることを訴え、テレ・コミュニカシオンの指導者であるウィーナー先生の助言を切に得たいことを話した。その結果、5月24日はスケジュールが空いているから、その日にこようという結論を得て、心うきうき大学へ戻ってきた。その後、一時その実現が危くなってあわてたが苦心の結果やっと確信がもてるようになった。17日になって、同氏と連絡をとった筆者は、丹羽保次郎氏、古賀逸策氏などを中心とする歓迎委員会の方でも、了としたらしいことを知った。一方で、寺沢学長も気を遣って下さっていたようで、3月20日に学長室に呼ばれた筆者は丹羽氏(昭和34年度文化勲章受賞者)から、電通大では池原氏と連絡を忘れぬようにとの話があったよといわれた。さて、3月22日になると、学長、所長、局長、会計、庶務各課長と筆者とは協議を行い、その日の午後、所長とともに東京工大に池原氏を訪ねて、最終的な了解を得ることができたのである。学長は報告を受けて、満面をほころばせて下さった。

かくて、ウィーナー先生の4月6日の来日、9日国際文化会館でのNHK主催の歓迎パーティーがあり、学長のお伴をして生まれてはじめて、容貌怪異の老紳士ウィーナーと固く手を握り合い、あくまでも瞳の美しいマーガレット夫人と親しく接して、話し合うことができた。

三、トラブルと成功と

大学の方では大変なことになった。とにかく、大ウィーナーが助言にきてくれるというのであるから、説を伺うのならそれらしく、しかるべく要項を作成し、先方にも渡しておいて、スムーズにはこばねば、十分目的を達し得ないことになるし、もう二度とやってこないチャンスをむだにすることになる。

それで、松村定雄教授、関英男講師、神部、藤原、望月の各助教授と佐藤講師と筆者とが、実行委員を命ぜられて、案をねり、資料を作って、4月12日には先方へ提出した。さて、いよいよ日が迫った5月10日、筆者は渡辺会計課長に同行し、神田のホテルヘウィーナー先生を訪ね、学長のメッセージを手渡した。偉大な先生を前にして、身体がわなわなとふるえ、思うように言葉が出なかったのを忘れない。翌日は単身ホテルヘ訪ねて先生からコンファランスでよいこと、録音をとってよいことを許していただいたが、驚いたことに、夫人の予定表の5月24日のところは空白になっていて、この日まで夫人は知らなかったのである。ことウィーナー先生に関するいっさいは令夫人の指示によらねばならぬことを考えると何となくまだ不安が残っていた。5月19日はちょうど数学会が開かれていたが、筆者は、そこをそっと抜け出ると、急ぎに急いで、東北線の某駅へ駆けつけ、北海道から帰京途上のウィーナー夫妻を急行「松島」内で捕え、はっきりとチェックする挙にでた。

ところが、5月21日のウィーナー先生のお茶の水大での講演会でトラブルが発生した。かねて提出してあった資料を帰京してみたのであろう側近の方々から約束が違う、あんなむつかしい話は応じられない、とこっぴどく断られてしまった。筆者は全く当惑した。しかし、ここで逃げられては何にもならないと決心した筆者は、決してあのようなむつかしい会にはしない、これは僕の責任で何とでもするから任せてくれと請願して、ようやく、それならということになったのである。

目黒は汚いし調布は未完成なので、電通大有志は、神田のホテルヘ先生を訪ねることにして、5月24日の雨の降る午後、電気通信に関するウィーナー博士の言を聞く会を開くことができた。

こうして、ウィーナー博士との懇談会が開かれ、後日ウィーナー博士自身が、来日中最も充実した会合であったと側近に洩らしたと言うような本学にとってもウィーナー博士にとっても有意義な懇談会となったのである。それは以下の懇談内容の抜粋からも明らかであり、懇談会の成功が伺える。

高野一夫

われわれの大学の基本方針をどのように決定したらよろしいでしょうか。

ウィーナー

そうですね、それはある程度大学にいる人の欲求によって決まるでしょう。例えば、通信に関する研究をしたい人がいればそれでよいわけです。つまり一般的な方針は、そこで役立っている人々によるのです。私が常日頃考えてきたことですが、学校とか研究所といったものは、そこに既にいる人々の思考の方向を開発して、この上なくうまく動かさなくてはならないものです。

だからこそいろいろな分野をどれもよく理解することが必要なのです。また研究を人々が興味をもっている問題にあてはめるという努力も必要でしょう。この時、もしそれらの人々が自分自身の分野においてよい研究をしているならば、更にその問題をおし進めるように仕向けてやるのがよいでしょう。

マサチューセッツ工科大学では、サイバネティックスの研究がなされているのですが、これは私がこの分野に興味をもっていたことが、大きな要因であると確信しております。今やその方面の研究は、多くの研究者によって熱心におし進められています。

(中略)
高野一夫

現在のモールス符号の将来はどうなりますか。

ウィーナー

現在のモールス符号は完壁とまではいかぬがよい符号というべきです。それが存在しているということは大変便利なことです。勿論、テレタイプライターやその他これに類似の器械にモールス符号は使いません。モールス符号は、たしかに良い符号だから大変革を行っても便益はないと思われます。そしてもし符号を変革すると変革によって得られる利益より変革の時、生ずる混雑による不利益の方が大きいのでないかと思います。符号のもちうる情報量をきめる2、3の要件があるのでしょうが、今は符号の経済的な面に関した点には立入らないことにします。その点を考えてもモールス符号はかなりよい符号だと想像されます。

(中略)
沢木譲次

あなたの『人間機械論』を拝読して、大変多くのことを教えられました。

この本は非常に優れた文明批評と、文化的、人間的立場に立った、極めて本質的な技術批判を含んでおりますが、なかでも、わたくしの最も感銘を受けたものは、全巻を通じて宣言されているサイバネティックスという、偉大なある意味で恐るべき科学体系に対する、この科学の指導者としてのあなたの態度、さらには、科学一般に対する科学者としてのあなたの態度であります。換言すればあなたのサイバネティックスが強烈なヒューマニズムによって、裏打ちされていることを知り、深い感銘を受けた次第です。科学者において、その科学的業績に劣らず重要なものは、彼の人間に対する愛情であると思います。パスツールの終生主張し続けた不屈のヒューマニズムは、彼の数々の医学的業績とは実際は不可分なものであり、それに劣らず重要と存じます。サイパネティックスにおいて、科学と人間愛が強く結び付いていることを知りえたのは、わたくしの大なる喜びであります。このことはサイバネティックスの科学としての本質性を、わたくしに確認させるものであります。

この結び付きがあなたの科学体系において、いまいっそう強化されることを、そして、あなたの"知恵"の思想、この科学を通じての、本質的なヒューマニズムが、今後いっそう閾明され、いっそう体系化されることを心から期待致すものであります。この努力は、今日いか程払われても払われすぎることはないと存じます。

多くの場合、科学の具体的成果のみが人に注目され、科学のこの重要な側面が看過されるのは残念であります。

あなたの今後の御努力が科学に真の尊厳さを獲得させ、今後の文明を過誤から守ることを心から希望致します。

ウィーナー

沢木先生、私はあなたのお話を身に余る光栄と存じております。 今日では誰しも、世界の市民以外ではあり得ません。

(電気通信大学学報第9号別冊)
社会の出来事
  • 昭和27年11月5日 米大統領にアイゼンハウアー元帥就任。
  • 昭和27年11月10日 皇太子明仁親王の御成年式「立太子の礼」行われる。
  • 昭和27年11月27日 池田勇人通産相の不信任案可決、「中小企業の倒産、自殺やむを得ぬ」と失言、11月29日辞任。
  • 昭和27年12月20日 東京青山に初のボウリング場。
  • 昭和27年 この年スクーターが流行。
  • 昭和28年1月4日 秩父宮殿下死去。
  • 昭和28年1月16日 「ラジオ東京」テレビ開設に予備免許。
  • 昭和28年2月1日 民生委員の確認した全国の混血児3,490人。NHKテレビ初放送開始。
  • 昭和28年2月4日 李ラインに出漁した漁船、韓国警備艇に捕獲され、機関長が射殺される。これより韓国の日本漁船捕獲頻発。