電気通信大学60年史
後編第4章 全学調布移転
第1節 調布への移転
1-1 用地探しの苦労
官立中央無線電信講習所が電気通信大学に昇格したのは、1949年(昭和24年)5月31日のことだが、その時から用地問題は早々に解決すべき懸案となっていた。戦後、新制大学が「一県に一大学」というGHQの指令に基づき、ぞくぞくと誕生したのだが、電気通信大学がその尻尾につく形で生まれたのは前述のとおりである。
この時、新制大学を認可するに当たって新制大学設置基準を満たすことが大学昇格の条件となっていたのだが、発足当時のわが電気通信大学の現有設備はまことに貧弱なものだったのである。
本学初代事務局長原太助はその当時の事情について次のように述べている。
新制大学として発足することになってみると、種々、問題が山積みであった。従来、事業官庁(逓信省)が管理していた関係と、教育が主体でなく、実地研修に主眼が置かれていたためである。したがって、実験装置は多少、設備されていたが、それでも新制大学設置基準に達するには遠いものであった。
そのほか、設置基準のうち、とくに問題になったのは次の3項である。
- 図書5万冊以上
- 土地3~5万坪以上
- 教授、助教授の資格審査委員会への提出
ここでは、(イ)、(ハ)についての論述は割愛しよう。(ロ)の用地問題に係わる部分のみ引用する。
(ロ)の土地であるが、これは毎日、東奔西走して探し回った。土地周旋屋にも依頼した。およそ10か所くらい候補にあがったが、何分にも予算がなかった。当時、坪1,000円以下の土地はなく、大部分が1,500~2,000円であった。予算が1,100万円であるから、とうてい購入不可能であった。そのなかでも2か所が候補にのぼった。第1は、京王帝都吉祥寺線(現・井の頭線)の永福町より徒歩15分、済美山という約7万坪の山林があり、高台で眺望もすばらしかった。
この所有者は、神田で旭硝子の東京総代理店を経営している人物であった。面接に行くごとに弁護士をはべらし、坪2,000円でなければ絶対手放さない、という。「予算がないから、国立で、優秀な人材を育てるのだから、国家的見地にたって譲渡して欲しい」とお願いする一方、杉並区長にも応援を依頼したが、貧欲な年寄りで破談とならざるを得なかった。
当時、事務局をあげて"東奔西走"した事由については様々な証言が残っている。引用文中の「永福町」の他、「杉並区の方南町」、「世田谷区の等々力」はては千葉方面までその"東奔西走"ぶりは見事という他はない。例えば、「世田谷の等々力」について永野嘉信は次のように語っている。
とてもよい所がありましてね。ある華道の先生に「いい土地がある」という話を聞いたので、そこへ行ってみたんです。それは、すばらしくいいんです。駅からも近いし、そして何よりも広いんです。「これはいい」と学校に戻って事務局長に話したら、「それでは、先生を何人か連れて見に行こう」って言うので、先生方を連れて行ったんです。ところが、以前からその土地を欲しがっていたある私立大学が - 前から買おうと言っていながら、なかなか買わなかったらしいんですが - 私たちが購入しようとしている話を聞くと途端に手付金を払ってしまってだめになってしまったんです。
さて、いよいよ調布の土地についてだが、原事務局長は次のように前の引用を継いでいる。
第2が現在の調布が丘に1万5,000坪。道路を隔てて、学芸大学管理の昔の青年学校跡地で、当時寄宿舎などに使用されていた敷地が1万5,000坪あるので合計3万坪あった。多少狭いが、武蔵野の面影も残っていて、学園の環境としては格好な場所ということで、さしあたり、これに決定した。
所有者を調査したところ、児玉誉士夫氏であった。同氏は、北海道拓殖銀行より2,500万円を借り、その土地に抵当権が設定されていた。
理想家であり、野心家である児玉氏に、知人を通じて紹介してもらい、面接の機会を得た。当時、地価1,000円~1,200円している土地であったが、予算がないので坪700円で譲渡して欲しい旨、協力方を懇願した。児玉氏は抵当権設定についてはなんら話されなかったが、ジッとして「しばらく考えさせてくれ」とのことであった。
その後、数回にわたり児玉邸を訪ねたが、返事はもらえなかった。ところが、約1か月後、児玉氏より突然電話があり「あす、午前10時に丸ビル内の北海道拓殖銀行に、学校に出せるだけの金を小切手にして持参するように」とのことだった。
翌朝、拓殖銀行丸の内支店で児玉氏に会い、小切手を渡した。氏は支店長に「借金の半額にも当たらぬが、これで抵当権を解除してくれ」といわれ、支店長の「かしこまりました」で売買契約が成立した。
その際の児玉氏の言が印象的であった。
「現在、自分に金がないため、局長には今回ひじょうに苦労をかけた。自分に金があれば、国家に寄附したかった。局長、どうか私の最後の財産だった土地に立派な大学を設立してください。局長、ご苦労さんでした。」私は「必ず立派な大学を建設して、ご期待に沿います」といって、別れた。
調布に土地が決定するいきさつについては、更に永野嘉信が次のように述べている。
例の華道の先生から「調布に児玉誉士夫が持っている土地が約2万坪ばかりある」という話を聞いて、日曜日に私が行って面積を計算したら、どうも2万坪は無さそうだけれども、とにかくその場で原事務局長を呼んだんです。そして、「これは整地に金がかからず、良さそうじゃないか」ということで、一つの候補地とした訳なのです。それから、今度は校舎設立委員会(服部学順委員長)を組織し、その中で「候補地が一つではよくないから、他にいろいろと候補地を捜して、選考しよう」ということになり、他にも当たってみたんですけれども、結局、うまくゆかなかった訳なんです。
永野嘉信は、当時、人事係長であったが、彼が調布の土地を発見したという事実は、ここに書き留めておかねばならない。以後、原太助の述べるような経過で調布の地を入手できたのである。その土地に関する詳細な資料が現存している。ここにその一部を抜粋し提示しよう。
昭和26年9月土地建物等購入に関する申請資料電気通信大学昭和26年9月3日
電気通信大学 学長 寺沢寛一文部大臣天野貞祐殿
新校舎建設予定地及び附属建物
並に附属設備等の購入計画について本学新校舎建設予定地及び附属建物並に附帯設備等を左記の如く金2,050万7,550円也で購入致したく存じますので格別の御詮議を以て至急御認可相成るよう別紙関係書類図面等添付此段申請致します。
記
- 土地(地目山林)
- 東京都北多摩郡調布町布田小島分天神西14の1外16筆
- (実測反数)5町2反3畝5歩 (実測坪数)15,695坪
- 同 上布田塚通445,446
- (同)4反6畝17歩 (同)1,397坪
計 (地目山林) (同)5町6反9畝22歩 (同)17,092坪- 右購入予定額
- 金1,196万4,400円也(坪700円)
- 建物
- 東京都北多摩郡調布町布田小島分 家屋番号33の220番地
計(登記簿面) 6棟266坪9合5勺
- 木造スレート葺 平家工場1棟33坪5合
- 同石綿スレート葺 平家工場1棟149坪3合7勺
- 同スレートモルタル塗 平家工場1棟73坪1合2勺
- 同同 平家ポンプ室1棟6坪
- 同同 平家ポンプ室1棟1坪2合1勺
- 同ルービング 平家守衛室1棟3坪7合5勺
- 右購入予定額
- 金507万2,050円也(坪当り19,000円)
- (一)の附随物及び附帯物
(1)
立木類桐、松、檜、梅、等 (別紙明細書に基づく) 205本 青木等 (同) 80株 雑木 (同) 1,800坪 (2)
周囲境界設備檜生垣 (同) 155間 境界張鉄条網 (同) 88間 コンクリート囲塀 (同) 140間
- 右購入予定額
- 金48万5,700円也
- (二)の附属機械設備
計
- ポンプ室 機械設備 (別紙明細書に基づく) 1式
- ボイラー室 機械設備 (同) 1式
- 浴室 同 (同) 1式
- 冷凍機室 同 (同) 1式
- 屋内外 配管設備 (同) 1式
- 送電設備 (同) 3台
- 鑿井 (同) 1式
- 右購入予定額
- 金298万5,400円也
- 合計購入予定額
- 金2050万7,550円也
- 所有者
- 東京都目黒区柿ノ木坂138番地 児玉誉士夫
- 代理人
- 東京都世田谷区玉川等々力町1-2047番地 山本孝次郎
社会の出来事 |
|
---|
1-2 一般教養課程、調布で開始
調布の土地購入に関するいきさつは前項で述べたとおりであるが、土地があるだけでは(実際には、若干の建造物があったのだが)大学としての「入れ物」が整ったとはいえない。まず、建物が、そしてその中に備えるべき諸設備が整って初めて「入れ物」として用をなす。ある意味で、大学発足から今日までの電通大史は「入れ物整備史」とでも言える趣があり、調布への移転はその先鞭といえた。調布校舎が開校されたのは、1952年(昭和27年)4月1日のことである。この日をもって移転の端緒とすることができるが、それは電通大の半分がこの日に調布の地にやってきた、という意味をもつ。具体的には一般教養課程のみ、1、2年生とその教育に当たる教職員の組織がこの日より機能した。その時点の「入れ物」は、前項で述べた諸施設及び新たに建設された約400坪の普通教室(収容人員200人用1、100人用3、50人用3)である。この日には全学移転するだけの設備は間に合わなかった。
以後、全学調布移転という問題が解決されるべき懸案となってくるのである。服部学順校舎設立委員会委員長はその件について次のように学生に対して説明している。
諸君もいろいろと心配していた新校舎も本決まりとなり大蔵省の許可も下りたので直ぐ建築に取りかかる。早く全部移転したいのだが予算の関係で取りあえず来年から教養課程を向こうに持って行く予定である。……また、私としても一番心配している学寮は幸い調布町が非常に歓迎してくれるので何らかの対策を講じて諸君には極力心配をかけないようにする積もりである。調布町は戦災を受けていないので樹木も多く落着いた感じのする町であるが、都心より少し離れているので諸君には便利が悪いだろうが環境が良いので勉強には最適の場所であると思う。諸君も一度建設用地を見に行って欲しい。
当時、一般教養科目は24科目、98単位となっている。その科目を列記すると次のとおりである。
哲学、倫理学、心理学、歴史学、文学、経済学、社会学、法律学、政治学、数学第1・第2、統計学、物理学第1・第2、物理実験、天文学、化学、化学実験、地学、英語、独語、仏語、体育、体育実技
社会の出来事 |
|
---|
1-3 武蔵野の面影残す調布
1952年(昭和27年)を端緒とする移転作業は1957年(昭和32年)12月15日に実質的に完了した。これについては後出「目黒校舎の廃止」の項で詳述されるのでここでは触れない。ただ、この移転という一つの季節に伴う電通大関係者の心象風景はどのようなものであったろう。おそらく、それはこの調布の地の風景とも無縁ではない。当時、調布の町はまだ武蔵野の影が濃く、雑木林と小径に囲まれた甲州街道筋の田舎町に過ぎなかったのである。
国道20号バイパスが、国領の小橋から八雲台小学校の前を通り、更に第一小学校の北側から下石原(現在の西調布)駅入口までの間にわたって開通したのは、調布が市制を施行する1955年(昭和30年)の4月1日直前の3月27日のことであった。電気通信大学は、調布市以前の北多摩郡調布町において昭和27年4月をもって、その教養課程の授業を開始して、名実ともに目黒から調布への移転の第一歩を印したのであった。
当時の町長は安沢秀雄氏であった。氏はつとに調布町の文教都市への脱皮を図ることを考えておられ、電気通信大学が、この武蔵野の面影を残す調布へ移転することについて積極的であったようである。調布の当時の情景を語るまえに、調布人情について触れておくべきであろう。ほとんどが都区内に居住地をもっていた教職員が、勤務先をはるか北多摩の地に移さねばならぬことは大問題であったといっても過言ではあるまい。この点に関して、町当局は協力を惜しまなかったといわれている。その一つが、教職員の住宅供与の形で現れた。
それは、まず東京都の建築局へ手を打ったことであったといわれている。それかあらぬか、昭和27年の2月のはじめのころに、都営住宅申し込みの手続きが教職員に通達された。その第一条件は、6ヵ月ものの500円の預金をすることであった。そのことと、印鑑と世帯表とを添付することが手続きであった。
3月1日(土)ごろに当選者の発表があり、ついで3月27日(木)には割り当て抽選が東京都建築局において午後2時に行われて、8.5坪クラスと12坪クラスの都営住宅が割り当てられた。
教官側の一部記録によれば、和田、市川、沢木、などの各助教授は12坪割り当てで、土方、高野などの助教授は8.5坪が割り当てられたのであった。こうして、住居が定まったが、すべての方々がそこに居を定めたのではなかった。いろいろの事情が混在して、住むことができず、居住権確保の問題が大学当局の頭をいためるところでもあった。
新宿から、京王線で調布へのコースは、現在のように便利なものではなかったが、それでも調布町時代のこの昭和27年ごろには急行が運転されていた。各駅停車で調布をすぎ、下石原のひなびた小さな駅を降りて、鉄路の北側を見ると、春から秋までは一面の青い畠であった。そうした畠地の北方彼方に新しい都営住宅が点々と建てられて、そこが右に述べた割り当て住宅であったのである。
さて、こうした精神的なバックアップがあった電通大の毎日は、新校舎の階段教室を利用して行われた4月21日(月)の第1回入学式と新築祝賀式から開始されたのであったが、その後5月10日(土)には、電気通信大学開設祝賀式が挙行されて、大学の存在がこの北多摩調布の地に周知されたのである。
参列者は大学側から、寺沢学長、同窓会長、楢橋渡後援会長、その他の教職員であり、来賓各位は、文部大臣(代理)、東京農工大学学長、電波監理局長、調布町長、その他の方々で、極めて盛大であった。
このようにして、電気通信大学がここ調布に運営と発展とののろしをあげたのであった。この開設当時から、日本が高度経済発展とやらに狂奔し、すべての日本のよさを喪失するまでの間の武蔵野らしいたたずまいについては書き残しておかねばならないことである。
まず第一に書き残さねばならないことは、布多天神社のあたりのことであろう。旧甲州街道の純日本式ともいえた釣り具店の角を曲ると、自然のままのどろ道が一本直線的に神社の神殿に向かっており、神社は社であった。そして、この参道の両側には、数えることも忘れるほどの梅樹が並び、早春には、ふくいくとした香りをただよわせるのであった。しかし、この参道へ至るには、調布の駅から新宿方向へ相当の距離を甲州街道に沿うて歩かねばならなかった。なぜならば、駅は現在位置より西に離れていて、現在の調布銀座辺にあったからである。甲州街道を歩けば、両側にはむかし風な家並があり、かやぶきの銘木を使用した家々を何軒も見ることができたものである。
調布の町は、三鷹の高台から多摩川に至るゆるやかな傾斜地にあり、多摩川に接する農村をバックにした町であったといえよう。神代の森から吹きおろす強い北風は、傾斜地のほとんどを占めていた畑の土を吹き上げる名物風であったが、これも武蔵野の特徴の一つであったろう。
旧駅から、三鷹へのバス道路を歩く。自然のままの道で、現在の東地区だけであった敷地は、この道に沿うて万年塀が列んでいた。そして、大学への入口は、はじめのころは現在の生協売店入口に位する裏門だけであり、そこまでこつこつと歩く以外に術はなかった。校舎が南端に近いため、ときどき、駅から続く一面の畠の農道を早足で歩き、たまには畠に歩を踏み入れて農家の壮老年の男たちにがなりとばされ追いかけられた学生や教官もいたのであった。畠は芋畠が多かったようである。
大学敷地内は、はじめは丈なす草がほとんどを覆っており、何十本もの松の木が自然の姿で高くそびえて美事なものであった。その上、各所に栗の木の集団があった。秋ともなれば、それらの木に登り栗をたたたき落す学生や、下から石を投げて落す学生もおり、早暁には近所の母親たちが大きな風呂敷や袋を手にして学内の栗集めに夢中になっていた風景もあった。まことに、のどかで活気が満ちていた毎日でもあった。開設間もないころから何年かの間は、一面の見事においしげった草ぐさを、ひそかに束ねておき、教官がそれに気付かずにひっかかっては転がる様を手をたたいてはやしたてていた学生たちもこの地における生活での点景であった。
大学の所在地調布は、多摩川にのぞむ。この川はそのむかしの多麻河であるという。なお古書によると、「府中の東石原宿といへるあり。その東隣村に小嶋といへる地あり、和名抄に載る小島の郷なるべし」とある。そして、調布はそのむかし、「たつくり」と読まれたのであった。「たつくりやさらすかきねの朝露をつらぬきとめぬ玉川の里」とは、定家の作である。いずれにしろ、調布は武蔵野の由緒ある里の一つであった。
社会の出来事 |
|
---|