電気通信大学60年史
後編第3章 開学当時の電気通信大学
第4節 目黒時代
4-1 学生生活
新制大学としての発足当時は、講座内容や校舎も粗末であったが、学生生活の重要な事柄としてあげられるのが学生自治会の誕生である。第1期学生自治会活動について、石川清美(1期自治委員長)氏は次のように語っている。
- 学生自治会の誕生(学友会と称す)
我々が入学した昭和24年には、大学の前身である官立無線電信講習所に学生会があり、学部学生(講習所学生と区分して)もその会員となった。当時私は学部学生より選出された総務委員で昭和25年3月までこの学生会が存続している間、会の運営にたずさわっていた。
昭和25年1月に学部学生間で電気通信大学自治会を作らねばならぬという空気がもち上り、大学当局も、とくに学部長的存在であった服部学順教授から「大学当局は、学生自治会の発足を全面的に応援する」というお声掛りもあったので、準備にとりかかり、前記講習所の学生会規則を一部考慮して学生自治会規則を作りあげた。
組織は学生自治会に中立的立場と総務の仕事をもつ自治委員会を中核に、各部の上に部会をおいて各部をまとめる方法をとり、体育部会・文化部会・厚生部会の3部会とした。
第1回の総会を昭和25年入学生をまって同年4月に行い、名称を学友会と称して学生自治会が誕生した。
昭和24・5年頃の当大学生は、経済的に貧しく大学の設備も目黒にあって戦前・戦後の残りものばかりであったから、不平不満というより、これから現在あるものを活用して、そのうえにものを足してゆくというのが全部であった。したがって教官・学生の対立は皆無で非常に和やかな雰囲気の中に学生自治会が生まれたわけである。
- 学生会館の設立
この年、学生会館が新築された。食事については、うす暗い食堂で教官・職員・学生共に「素うどん」を食べるという状態であったので、食堂の新設と学生自治会、活動企画の場を併せた学生会館が考えられた。
- 学生記章の制定
次に学生自治会が取り上げたものに「学生記章(バッチ)の制定」があった。これは校章という意味もあって、大学当局と学生によって前年から準備され、教官・学生から図案の募集を行い選考の結果、現在の5対6のリサージュ波形に大学の文字を入れた松村定雄教官から出されたものが採択された。学生から出された図案は、花模様をあしらったものが多かったと記憶している。学生自治会もこの図案により当大学生の記章(バッチ)として正式にとりきめた。
- 部会活動
次に部会活動であるが、体育部会にあっては野球部・軟式庭球部・卓球部がよく対外試合に参加したが、余り好成績はあげ得なかった。ただほほえましい風景に博田五六教授・石井正博教授・その他多数の教官を交えて練習していたのは軟式庭球部であった。
文化部会では新聞部が大いに気をはいて、学内をかけずり回り活躍していた。その顔ぶれはやがてジャーナリズムの社会に就職していった。外に理工部会や写真研究会・映画研究会・音楽鑑賞会等があった。
厚生部会は、厚生部単独組織で、部員は剛と柔のものが多数集まり、多方面に手を伸ばし、社交ダンス講習会等を主催したりして、学生の福利・厚生に大いに頑張ってくれた。
- 学生祭開催
昭和25年9月、第2回生もようやく学内に慣れたのを機に、学内の親睦・大学のPR・官立時代の先輩との交流をはかるため、学生祭を催すことを企画し、執行委員を各部から選出し準備にかかった。学生祭基金を集めるため、諸先輩からの寄付集めに各所へ執行部は出掛けていった。私は海運会社・官庁と回り、主要ポストにあった先輩に接する機会をもち、寄付集めの外によい社会勉強になったことを痛感している。
学生祭は、第1部体育祭、第2部文化祭で、12月8、9日に行われた。文化祭は1日目弁論大会・講演会、2日目映画会・ダンスパーティ、並行して学内の諸設備の公開.研究発表会、先輩との懇談会と順次繰りひろげられ、ダンスパーティには近くの「日の出女子学園」「ドレスメーカー女学院」の学生が参加してくれ会を盛り上げてくれた。
- おわりに
第1期学生自治会は、昭和24、5年という時期であり、終戦以来のインフレから一転して「ドッジ・ライン」と呼ばれるデフレ不況下にあり、建物・設備とも老朽化している目黒校舎にあって、教官・学生共々あるもの、やれるもので勉強してゆこうという身にしみついたものがあったから不平も出ず、かつ1回生・2回生合せて約250名という少人数であったから、やるときは全て結束して総力を出し、自治会活動をしたと思う。ただ世の常でノンポリ組が何人かはおったと記憶している。
この様に学生自治会はうまく運営されていたので、あえて対外的な学生運動には参加せずもっている能力の範囲で活動した。また学生祭が円滑に行われたのは「資金カンパ」のおかげであるが、丁度この時期、昭和25年6月突如として朝鮮動乱が勃発し、海運界も特需景気により不況を脱しはじめたので、大いに募金の成果が上ったという幸運な時期でもあった。
大学自治会(学友会)の誕生により一番活躍した新聞部の発足があるが、「大学創立の頃の新聞部について」中島睦明氏(責任者)は次のように語っている。
あの頃から30年も過ぎ当時の頃の大部分の記憶は風化してしまったが、深くきざまれたいくつかの事が思い出される。大学新聞の前身は壁新聞であって、創刊号発行の数ヶ月前にその第1号を作った。
学内の新聞を作って学生自身の活動等を周知する必要があるということから何人かの有志が集まったが、具体化するためには、協力者を増やしたり、資材の調達、部室の確保など準備しなければならないので、まずは壁新聞を作ることにした。その第1号は部員の募集とかレコードコンサートとかいったものをA1版の白紙に書いたものだった。始めは学校の掲示板を使わせて貰ったような気もするが、後になって4号館の2階の廊下の壁に張り出した。壁新聞も7、8回続けるうち有志も6人程になり、いよいよ新聞を作ることにした。
新聞といっても経費の都合でわら半紙にガリ版刷りをするのが精一杯であり、その名も電波タイムズとした。ガリ版とはいえその道にかけてはプロ的な技術の持主が刷ったものだけあって可成り良いところまで行ったとわれわれは自負していたが、これらを保存して置かなかったのが悔まれる。
自治会の中で新聞部が認められ、社会学の天沢不二郎教授の御指導を頂くようになったが、学生が少ないため使用できる予算はわずかでその不足分は何かやりくりをしなければならなかった。学校にも協力を求めたが新聞部に協力すると、他の部から依頼された時に困るといった至極もっともな理由で断られた。しかし新聞は学内のことを正確に報道するのが建前だということで再交渉した結果、部室として電話交換室のあった木造平屋の寮の一室が提供されることになった。
原稿用紙はこのわら半紙に桝目をガリ版で刷ったものを使ったが、これとてもこの貧乏世帯にはうってつけの会計係がいて始終無駄使いしないように云われた。ガリ版では写真の掲載が出来なかったので、大学新聞第1号には出費が痛かったが、執筆を快諾して下さった寺沢学長の写真を入れた。
創刊の日はわれわれに取って忘れることが出来ないであろう昭和25年12月8日に決めた。
新聞は全員に配ってカンパして貰うことにしていたものの、誰かが読み終ったのを見たからいらないと言われ、結局義理で受取ってもらうことが多かった。副収入源として映画館にも広告を頼みに行ったが、特に第1号の時は見本を見せてくれといわれて困った。映画館では広告料として入場券を何枚かくれ、帰りに映画を見せて貰える特典もあったが、寒中1日中日陰のあの薄暗い部屋でオーバーコートに身を包み原稿書きや割付けをしていた時の指先のこごえは忘れることができない。
こうした時部屋の片隅の炭火のない瀬戸火鉢の中でくず紙を燃やし、指先の暖を取ろうとしたが火はあっという間に消えてしまい、仕方なくポケットに手を入れ、またしばらくして論争に夢中になり寒さを忘れたものだった。学生数が増え、新聞の大きさを全面にする時、「電気ひとすじ通信大学新聞」の題字を寺沢学長に書いて頂いた。しかし技術一条の学校だけに10人足らずの部員で紙面を適当な軟らかさも取り入れて充実するのが一苦労であった。あとから振返ると可成り未熟なものだったが、この頃から他校との交換を始め、新聞も成長期に入っていった。
昭和25年6月25日に朝鮮動乱が起こり、特需景気の余波を受けてある程度就職難が緩和されたとはいえ、依然としてアルバイトの現状には暗い影が投げかけられていた。それは一つには本学において求人側の開拓があまりなされておらず、また私立大学に比して休暇に入るのが遅いためにアルバイトをその方に取られてしまう事、時間割に制限を受ける事等によるものであり、学生のアルバイトとしては職も少なかった。
社会の出来事 |
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4-2 寮
- 藤沢 尚志寮、鴻志寮
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大学発足当時の寮は、藤沢の鵠沼(正式には藤沢市辻堂浜見山)にあり、学部、旧制本科、別科高等科、別科普通科、大学別科がおり、人生経験もいろいろと違う学生が集まり、まだまだ良くない食糧事情にまずい食堂の食事を食べ、足りないので弁当もいっしょに食べたり、夜は自炊したりしていた。
休日には江の島が近かったのでよく遊びに行っていた学生もあり、夏には寮の室から海水パンツ一つで遊歩道路を越えて海岸へいったりし、流れが早く遊泳禁止にはなっていたが海水浴を楽しんでいた。
寮は二つあって一つは尚志寮と呼ばれ、もう一つは鴻志寮と呼ばれていたが、この名前のいわれはいずく「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」の「鴻鵠の志」の鴻をとったものであり、鵠は鵠沼に関係あるということでつけた苦心の作である。
学部の1期から5期、大学別科までがこの鴻志寮で生活しており、小田急の鵠沼海岸から国鉄の東海道線の藤沢駅で乗りかえ更に品川駅で山手線に乗りかえて大学のある目黒駅まで通学していた。
1950年(昭和25年)12月発行の電気通信大学新聞には寮祭の記事が載っている。
11月18、9日の両日に亘り、兼ねてから月例の寮生大会に於て、審議決定された通り「従来の如く余り対外的にすると時間的経済的にも寮生への負担が掛かり過ぎる傾向にあるから内輪だけのものにする」事にして藤沢分校に於て鴻志寮、尚志寮の寮祭が行われた。
即ち第1日は有志によりダンスパーティーがあったが、当日は終日豪雨の為に体育祭は中止になった。
第2日は前日の雨によって持越された体育祭(野球、卓球)が職員、尚志寮、鴻志寮1階及2階の4チーム対抗で華々しく行われ、午後4時より食堂ホールに於て本校より高橋補導課長始め諸先生、分校より牧野主事並びに在分校教職員、無線同窓会員諸兄を招待し、寮祭祝賀会及び別科、普通科の卒業送別を兼ねた宴会が盛大に行われ、余興として職員対学生の「20の扉」等がなされ、和気あいあいたる内に無事寮祭全スケジュールが終了された。
今回の寮祭に於て寮生から「寮祭を行った主旨は理論的に言って非常に結構であったが、その内容に賑かさ、忙しさ等が欠けていたためにかえって寮生としての印象が浅かった」という批判を受けた。
昭和29年藤沢の鴻志寮は、分校廃止後学生寮として現在に至っているが、藤沢市の新都市計画による日の出橋付近から海岸へ伸びる道路のため食堂の一部が取り払われるのを機会に、従来藤沢市の所有であった土地、建物は、食堂を鴻志寮北側に移転のうえ、本学に寄贈されることになった。
- 調布寮
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調布寮は本学の調布移転に伴い1953年(昭和28年)学芸大学寄宿舎を一部所属替して開設されたが、老朽化、狭隘化するにおよび改築され、1958年(昭和33年)3月、木造2階建3棟を竣工した。
昭和28年6月25日発行の電気通信大学新聞には第1回調布寮祭の記事がでている。
第1回調布寮祭は、去る6月20(土)、21(日)の両日行われた。寮内にはテレビ、無線機器各種の展示があり、20日には午後1時より畑中政春氏の「新しい中国語について」、及び本学天沢不二郎教授の「日本経済のジレンマ」と題する講演、他に舞踏会映画が上映された。21日は調布町役場、学芸大寮チームとの野球、庭球の試合、午後9時より寮生の討論会、これには学芸大寮からも加わり種々の問題について語り合った。その他祝賀会、ファイアストームもあって幕を閉じた。
この寮祭は必ずしも成功したとはいえない。最も大きな問題は事前に全寮生大会で大多数をもって行うことが決議された時、どういう目的をもって行うか--という基本的方針、目的が全然示されていなかったこと、これが2万5,000円もの予算を使って寮生の単なるお祭り騒ぎに終った原因であり、21日の討論会の時に学芸大寮生から「逃避的寮祭である」と指摘され、また未来に何も収獲を残し得なかった原因でもある。
1954年(昭和29年)2月発行の電気通信大学新聞には次のような記事が載っている。
調布寮々委員会は昨年12月18日学校当局に対し要旨次の様な請願を提出した。現在、学芸大学の管理下にある調布寮の他の1棟が来春の新学期には、我々が使用出来る様に学校当局が、接衝に一層の努力を集中させる事を希望する。
第一に、寮生には経済に恵まれぬ者が殊に多く、現在の寮生活での諸経費が支出能力の限界であり、現在の2年生が3学年になると同時に調布寮を退寮しなくてはならない事は生活の破壊を意味するものである。即ち調布は、比較的大企業の工場会社があるが学校は本学のみと言う条件にあり、現在までに多くのアルバイトを開拓して、大部分の2年生は定期的アルバイト収入を持っている。退寮する事や藤沢寮に移る事は、経済的にも時間的にも全く不利である。
第二に、本学は小規模の大学でありながら、校舎は二分されており学生間には上下級生の交流が全く見られず、ひいては、部活動、運動などは貧弱となり、大学の持つべき人間完成と言う一部面が全く等閑に付されている。校舎の合同はもとより急ぐべき事であるが、さし迫ってこの状態を解決するのは、寮に、全学年を収容する事である。数旬後に控えたこの問題に対して、責任ある解答を希望する。従来、学生寮に於ても、なんらの統一的な方針がなく、唯の散慢なお祭り騒ぎであった。これが寮祭にも引き継がれたのであろうが、今度はこの種の行事を学生生活に意義ある方向に持って行かねばなるまい。
- 調布寮々歌決まる。
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寮歌も寮祭と同時に発表された。2曲あり、そのひとつは1年B組、上原熊夫君作詞、萩原講師補筆、松波碇四郎氏作曲になる「みどりも若き」、なおこの作詞は一般寮生応募の中より選んだものである。他の1曲は、竹田靖治氏作詞、足羽章氏作曲の「武蔵野はるかに」である。
みどりも若き | 武蔵野はるかに |
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第5回の調布祭のときに発行された寮誌「くり」に小林悠紀弥氏〈1959年(昭和34年)通信経営卒〉は次のようにのべている。
調布寮は、否電通大の学生寮は今武蔵野の静かな一隅に薄の穂と粟林に囲まれながらひとつにまとまって存在している。然しここ迄に到るには永い年月があった。初めは上石原のバラック寮から、別館の通天閣(ベニヤ板だけの部屋の仕切りで天井は共通だから)へ、そしてN棟、S棟へ移って間もなく総て、湘南の彼方、江の島を目の前にした藤沢鴻志寮へ、そして昭和33年の正月からやっと新館の新しい木の香を嗅ぐ事が出来る寮に住めるに到ったのである。
我々が初めて寮生活を送ったのは上石原の駅から少し遠ざかった仮寮こと通称上石原バラックであった。パラックに配流されたのは新入生の一部分約20名程で、その頃寮はN棟とS棟とあったがN棟には本学の先代、青年師範学校の流れを汲んで学芸大の学生が相住いしていた。
さて学芸大の学生達が完全に引き揚げて電通大生のみの寮となったのは昭和31年の事であった。本寮に入ってからの1年間は現在の寮生活と大同小異なので割愛して藤沢鴻志寮の巻へ移るとしよう。調布統一校舎の宿願が実現する昭和32年迄、3年の専門課程に入ると目黒校舎へ通学する事になっていたので3年生の一部を残して藤沢寮へ移らざるを得なくなった。藤沢寮には調布で味わえない実にいい様々な特典があった。
鴻志寮は海岸から100米とは離れない松林の中に建っていた。寮自体は残念乍ら木造校舎の教室を板で仕切って畳を敷いただけのバラックだったのでとても別荘気分を味わうところまで行かなかったが、何といっても海岸のオゾンを一杯に含んで澄んだ空気は健康的だった。
藤沢寮の最大の癌といえば目黒迄の通学に1時間余り電車に揺られなければならない事で、これは私の様な胃腸の弱い者には耐えられない事であった。けれども目黒への通学は半年余りで終り、昭和33年12月からはいよいよ調布校舎統一への宿願が叶った。従って寮も必然的に藤沢寮を引き揚げて調布に移って来る事になり、ここに初めてのバラック寮巡歴から解放されて気持の良い新館の住人となる事が出来るに到ったのである。(途中省略)
昭和28年3月31日 | 東京学芸大学から調布寄宿舎の一部995㎡並びに運動場57,742㎡が所属替えされた。 |
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昭和29年11月25日 | 東京学芸大学から調布寄宿舎の一部延800㎡が所属替えされた。 |
昭和32年10月15日 | 東京学芸大学から調布寄宿舎の一部延1,190㎡が所属替えされた。 |
昭和33年3月31日 | 調布寄宿舎木造建延784㎡が竣工した。 |
昭和35年11月28日 | 全学調布移転統合に伴い、旧学生寮及び食堂(藤沢市鵠沼上鰯5,200)延1,650㎡が用途廃止され大蔵省に引き継がれた。 |
社会の出来事 |
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4-3 クラブ活動
4-1に示すように自治会(学友会)が発足したが、当時の学友会各部の名称と予算及び目黒校舎における最後の学生祭を電気通信大学新聞5号〈1951年(昭和26年)4月22日発行〉と9号〈昭和26年11月8日発行〉から再録してみよう。
難産の昭和26年度学友会各部予算漸く決定とタイトルにあるが予算が少なく苦労したらしい。
体育部会 82,800 理工部会 49,400 文化部会 34,850 野球部 48,500 理学部 1,000 部会費 5,000 山岳部 5,000 工学部 28,000 英検 500 庭球部 12,000 写真部 20,400 社研 800 卓球部 9,000 新聞部会 暦研 500 排球部 3,700 新聞部 70,000 哲研 300 籠球部 300 厚生部会 音楽部 18,200 蹴球部 4,300 厚生部 41,000 映研 4,450 自治委員会 46,950 美術部 4,800 単位(円) アンプ費 15,000 文芸部 300 クラブ活動の最大の祭ともいうべき学生祭(昭和26年度)は、歴史と伝統を誇る夕映が丘(目黒校舎)での最後の、且つ最大の行事たるべく、学生祭委員会は、学生諸兄、学校当局は勿論、先輩各位の大なる協力により、停電・予算等の困難をものともせず11月8日・9日・10日にわたって行われた。
学術講演会、名士講演会、音楽会、テレビ公開等々、さらに学生自身の努力の結晶である研究発表会、演芸会、制作、設計機具および各種の創作展覧会等大々的な企画で進められた。
プログラム 11月8日(木) 記念式、学術講演会 関英男氏、渡辺音二郎氏、音楽会 丘理子氏。 9日(金) レコードコンサート、研究発表会(文化部会)、講演会 松山平一氏、沢田節蔵氏。 10日(土) 演芸大会音楽会(音楽部)、軽音楽・コーラス・合奏、映画観賞会(映研)、ダンスパーティ(厚生部)、先輩と語る会などが行われた。 9日、10日の両日理工部は電気通信機器実験展示会、学生制作のテレビを始め、多数の展示、各メーカーの出品もあった。このほか美術展、写真展、保健衛生展(厚生部)、スチール展(映研)および社研の与論調査の結果の発表会が行われた。さらに学生祭を記念して文芸雑誌の発行(文化部会)、理工部会報(理工部会)、新聞記念号(新聞部)、厚生部だより(厚生部会)などが発行された。
目黒校舎最後の学生祭であったかもしれないが、社研・歴研・英研の学生代表の評判がよかった。
調布校舎における第4回学生祭の記録を電気通信大学新聞23号〈1953年(昭和28年)10月31日〉から再録してみよう。
学生祭は来る11月6日から3日間行われる。学生祭委員会は学生一般、教職員、先輩および調布町その他の人々の協力を得て種々山積する困難に打ち克って今日を可能にした。特に今回において注目すべき事は、2Rの諸君が今までの少数有志の学生祭から学生全体のものにしようとして級単位で動き出した事である。未だいたらぬものであるが本学発足以来5年の経験をものにして、ここに成果を発表することが出来た。
- プログラム
- 11月6日(金)
- 学内 記念式典
学術講演会 一橋大学助教授 藻利重隆氏、NHK副会長 小松繁夫氏、
体育祭(於調布グランド)- 11月7日(土)
- 一般 一般講演会 都立大学教授 太田秀通氏、東洋文化研究所 川野重仁氏
音楽会(音楽部) 映画会 ダンスパーティー レコード・コンサート- 11月8日(日)
- 一般 音楽会(芸大生) 演劇レコード・コンサート 先輩と語る会
- 理研・工学部
- 公開実験としてはVHFアンテナの指向性・実験高周波化学分析・高周波加熱・原理的電子計算器・水銀燈による紫外線の応用・真空高圧実験・各種テレビ・アマチュア無線局の公開等などを行い、更に各メーカー最新電波機器展示や理工研部報を発行する。
- 社会部
- 何故戦争はおこるか・戦争の歴史・どうしたら戦争が防げるか等、戦争の分析は写真を添えて展示。又社研部報を発行する。
- 写真部
- 部員、一般学生、教職員等から広く作品を募り展示を行う。これらを引伸、記録、カラーフォトの3部に分け、1位から3位迄の優秀作品を選定する。
- 美術部
- 学内から広く絵画作品を募集し、展示会を開く。
- 音楽部
- 軽音楽の方では、調布が「峠のわが家」他4曲を合奏する。目黒、調布合併で「第三の男」他3曲を演奏する。合唱は、ホスター曲集その他器楽は題未定、レコードコンサートはクラッシックのものを行う。尚8日は芸大生及び卒業生が出演する。
- 映研部
- 7日には愛妻物語・天竜川(文化映画)・ニュース・マンガを上映。8日には、暴力・原爆の図・ニュースを上映する。
- 演劇部
- 久保田万太郎原作「短夜」を上演。
- 文芸部
- 部内及び一般学生から、詩、小説等を募り「残照」第4号を発刊する。
- 厚生部
- 先輩の就職状況調査、本学発展の歴史の展示、調布付近の水質検査の資料の展示及び調査。その他ダンスパーティーの主催、厚生部便りを出し又身体検査の結果の発表等を行う。
- 2年電波通信
- 各種電鍵・鍵盤鑚孔機(和欧)、自動送受信機、サイフォンレコーダ、模写電信、最新型テレタイプ、方向探知機、ローラン、更に国際船舶関係の資料、立体地図模型等の展示を行う。
- 体育祭
- テニス、卓球、ソフトボール、バレーのクラス対抗のトーナメント。
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