電気通信大学60年史
後編第3章 開学当時の電気通信大学
第2節 短期大学部の併設
2-1 短期大学部設置の意義
本学が設置された公的な意義は、電気通信大学短期大学部学則第1章第1条に明記されている。そこには「本学は電気通信に関する専門教育を授け教育の機会均等と成人教育の充実を図り、もって文化の進展に貢献することを目的とする」とある。
戦後に制定された法律には名文が多いがこの文章もそうだと思う。それ故に人によって受け取り方に差異が生ずるのはやむをえない。電気通信に関する専門教育といってもその意味するところは深遠である。初代学長は当時の教授たちに電気通信の学問体系を作るよう迫ったそうであるが、学生側から見ると本学ではまだ明確になっていないように思える。母体大学の前身である無線電信講習所からの関係で、電気通信といっても実体は無線通信士の育成に関する教育がなされてきたのであり、船舶無線通信士は職業としては一般的というより特殊な職業に属するもので、誰でもなれるというものではなく、ある種の職業的な適性が必要である。
本学に入学してくる学生で、はっきり船舶無線通信士を目指してくる人は何人いるか分からないが、大学レベルの教育を望む学生には皆無ではないかと思う。この学生の考えと教官たちの考えの差異が創立以来問題となり、学生たちの教科内容の充実要求や5年制大学2部昇格運動を生じせしめた。船舶無線通信士を目指してくる学生にとっては、本学は教官層・教育施設や免許制度の面で恵まれているが、そうでない学生にとっては不満がいっばいである。
かつて、母体大学の前身である無線電信講習所は船舶無線通信士の大多数を養成してきたが、電気通信大学からは船舶無線通信士になる人がいなくなったので、船舶無線通信士を養成するために、大学に短期大学の併設を認めたのだという説も一部にあるが、学則に記された文章からは、設置の意義は、教育内容としては電気通信の専門教育を行うこと、教育行政の目標である教育の機会均等を推進すること、また既に社会人となられた人々を対象とした成人教育を行い、もって社会の文化発展に寄与することにある。この目的が果たされていれば本学が設置された意義があるわけで、創立以来その努力がなされてきた。本学は工学系の学校であるから技術を活用して社会の文化発展に役立つというのがねらいであって、社会の技術的進歩を常に吸収し、あるいは次に進むであろう新しい技術を研究開拓しなげれば社会から遊離して本来の目的を果たすことができない。社会の進歩発展に合わせて教科内容は検討されなければならない。
近年新制高校卒の入学志願者が減少していることを考えると、成人教育に力を入れるべきではないか。多様化社会、情報化社会になって、通信工学の知識は通信事業に従事する人びとだけでなく、それ以外の仕事に従事する人びとにも必要となってきた。成人教育を充実することは、広く社会に本学の存在が知られる事であり、設置意義は更に高められよう。
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2-2 通信科の発足と入学状況
1953年(昭和28年)度当初から電気通信大学に電気通信大学短期大学部を併設することが内定したが、国会での法案審議がながびいて遅れてしまった。国立学校設置法の一部改正により電気通信大学短期大学部通信科第2部(入学定員120名)として正式に発足したのは昭和28年8月1日である。したがって、短期大学の創立記念日は8月1日ということになる。
発足にあたって、学長は母体大学である電気通信大学の学長であった寺沢寛一先生が大学と兼任で発令され、専任の教官は牧野信之助教授、朝倉重郎助教授、菅野正志助教授の3名で、他に非常勤講師が6名おられた。発足当時は事務室はなく、大学の教務部(現在の学生部)の窓口を夜間借りて、学生アルバイト1名を雇い事務処理にあたらせ、大学事務局及び学生部の係長が交替で1名が居残っていた。1期生にとっては、短期大学の責任体制がはっきりせず、直接学生の面倒をみる人がいなくて不便な状態での発足であった。事務室が正式に発足したのは1954年(昭和29年)7月1日で、初代事務長は永野嘉信氏、その下に西垣登総務係長、川島勇学生係長(現短期大学事務長)の組織であった。これより先の、昭和29年4月には牧野教授が大学に転任され、新しく大学から滝波健吉教授が初代の主事に就任され、また大岡茂教授、沢野博講師が短期大学の専任教官になられた。
本学は8月1日の発足となって学生の募集を行うには季節はずれの時期であったにもかかわらず、7月1日から短期大学第1回学生募集受付が開始され応募者は141名もあり、7月13日から3日間入学試験が実施されて7月20日には合格者56名が発表された。入学定員が120名で、それを上回る応募者があったにもかかわらず合格者は56名と厳しい試験結果であった。合格発表の日は例年ならば学校の夏休み時期であったので、入学式は夏休み明けの9月1日午後6時から当時の目黒(目黒区下目黒1-5)の講堂で挙行された。入学者は55名でうち3名が欠席し出席した教職員もわずかであった。授業は入学式の翌日から目黒校舎の4号館2階424号教室で始まった。
第1回入学生が3ヶ年の勉強を終えて、1956年(昭和31年)3月16日に晴れて第1回卒業生として社会に巣立ったのは45名であった。学校の授業はモールス信号の練習に多くの時間を費やしており船舶無線通信士の養成を目指したものであった。第1期の応募者全体の資料がないのでわからぬが、1957年(昭和32年)4月1日現在で作成された名簿によると、第1回入学生として47名が記載されており、これによると新卒者が15名、一浪が14名、二浪が9名、三浪以上が9名であり、また地域別に出身をみると、関東15名、東京・中国が各8名、中部・九州が各6名、四国3名、北海道1名、近畿・東北はなしとなっている。出身校の教育課程別からみると、当時は戦後の教育改革のため学校名からだけでは判断しがたいが強いて区分すると、職業課程と考えられるのはわずかに5名で、他は普通課程のように思われる。これからみると学校当局の教育方針と学生の学校に期待する教育方針との間には、何か一致しない点が創立当初からあった。事実第1期生が卒業を間近にひかえ3年生になった時に、短期大学の改革運動が始められた。
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