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電気通信大学60年史

後編第2章 電気通信大学の発足

第4節 中央無線電信講習所閉ず

4-1 無線電信講習所最後の卒業式とり行われる

本学通信別科10名、無線電信講習所本科124名、同別科高等科37名合計171名の晴れの卒業式は1951年(昭和26年)3月20日午前10時半より本学講堂において、各方面の来賓多数を迎えて、まず卒業証書授与、寺沢寛一学長挨拶、同窓会会長小林勝馬氏、光電社伊藤庸二氏の祝辞、優等賞授与、在学生代表中尾忠正君の送別の辞、卒業生本科代表藤原正雄、大学別科代表高倉正士、別科高等科代表吉田常晴の諸君の答辞の順に行われ11時半めでたくその幕を閉じた。

寺沢学長の挨拶要旨

卒業生諸君は長い間の学校生活を終え、本日をもって今までの苦心の程が酬いられた事は非常に喜ばしい事である。また、この2、3年諸処に起こっている学生騒動についても、本学学生は学生たるの本分を守って本日の栄冠を克ち得た事について私は非常な敬意を払うものである。今まで諸君は学生という特別な立場にあり、各人の研摩と人格向上のみに努めて来られ他の事は省みる必要もなかったが、これからは各人が責任の重い仕事に付かれる訳であり、ここに本学卒業生またわが国青年としての覚悟を新たにして行くという事は言うに及ばず、諸君はこれから立派な国民の一人になるという様な心掛けに専心して頂き度い。

国民が平和な気持で生活していかなければならない事は言うまでもないが、現在日日の新聞紙上に見られる如く殺伐たる事件が頻繁として起こっている。その中に諸君は飛び込んで行くのであるが、諸君の如き教養を積んだ国家の中堅ともなるべき人たちがここに勇猛心を起こして日本の現在を建て直して行くという様な決意を持って頂きたい。また、世界人類の一人として立派に進んで行って貰いたい。既に冷い戦争は終って熱い戦争の始まっているこの現在の予測を許さざる世界情勢の中にあっても、諸君の如き教養のあるものが心を合わせてわが国の再建の理想を達する様に努めて行かなければならぬと思うのである。

「自由主義者に希望なし」という様な悲観論を唱える人もいるが、私はこの熱と力ある青年諸君に働いて貰うなら、わが国再建の理想もただ机上の空論でなく立派な実を結ぶ事を信ずるものである。

どうか諸君も社会へ出てから諸君と同じ様な年輩教養を積んだ人々とともに、世界の立派な国を築き上げて頂きたいのである。

社会の出来事
  • 昭和24年10月7日 ドイツ民主共和国(東ドイツ)成立。
  • 昭和24年11月3日 スエーデン・アカデミー、湯川博士にノーベル物理学賞授賞を発表。
  • 昭和24年11月26日 プロ野球2リーグに分裂。

4-2 無線電信講習所閉所

30有余年の輝かしい歴史をもち、陸・海・空における通信界の花形として活躍する一方、数千の卒業生をもつ中央無線電信講習所の制度は、1951年(昭和26年)3月31日をもって消滅した。その閉所式は昭和26年3月20日講堂において卒業式の直後、本所卒業生及び学部生の出席、本学教職員、各界代表の列席を仰いで行われた。

学長あいさつに続いて、元中央無線電信講習所長鶴田誠氏は閉所にあたってその所感を大要次の如く語られた。

無線科学・電波科学に従事する者のための本所が閉じることは残念であるが、新時代の電気通信科学における最高学府電気通信大学に大いなる発展を期待するとともに、過去のもの、古きものの遺産を受け継ぎ、それらを生かす様努力してほしい。

また、元中央無線電信講習所長代理長津定氏は思い出すままに本所の沿革と若宮兄弟、元逓信大臣犬養毅氏等の追憶を話された後、清い学校であったと言葉少なに語られた。

社会の出来事
  • 昭和24年この年、原爆被災者、永井隆博士の病床記録「長崎の鐘」が話題を呼ぴ、ハージ著の「ヒロシマ」が翻訳された。
    流行歌「トンコ節」「銀座カンカン娘」「君忘れじのプルース」。
    青少年の間のヒロポン禍が社会問題になった。