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電気通信大学60年史

後編第1章 新制大学昇格への苦難の道

第4節 「電波大学」の申請

4-1 学科と講座

設置申請書は、当時の電波監理局長を兼務していた網島毅講習所長の名で作られた。「電波」の2字はユニークな新しい響を持っていて、大学の名称としては1人の反対もなくその方向で進められていった。無線電気通信と電波科学に関する4年制単科大学としての申請であった。

申請書によれば、次の学科と講座が設けられていた。

学科
  • 船舶通信専攻
  • 陸上通信専攻
  • 電波工学専攻
講座の概要
  • 一般教養科目
人文科学関係 3講座
社会科学関係 2講座
自然科学関係 2講座
  • 専門科目
電気学関係 3講座
無線工学関係 4講座
機械工学関係 1講座
海事及び水産関係 1講座
電気通信関係 6講座
  • 体育科目 2科目

第1学年及び第2学年において、主として一般教養科目と専門の基礎科目を履修、第3学年以降において主として専門科目を履修させるのである。そして次の単位数を履修し、試験に合格した者には学士の称号が授けられるのである。

船舶通信専攻 必修科目112単位、選択科目18単位以上、体育4単位、卒業論文4単位
陸上通信専攻 必修科目109単位、選択科目27単位以上、体育4単位、卒業論文4単位
電波工学専攻 必修科目101単位、選択科目27単位以上、体育4単位、卒業論文4単位

講座と学科目の内訳は次のとおりである。

  • 教養科目
    • 人文科学、外国語(英語、仏語、独語)
      哲学(哲学、心理学概論)
      歴史学(文化史)
      社会科学、社会科学(政治学概論、経済原論、社会学)
      法学(法学通論、国際法、海商法)
      自然科学、数学(第一、第二)
      理学(物理学通論、物理実験、化学通論)
  • 専門科目
    • 電気学第一(理論電気学、基礎電気実験)
      電気学第二(電気特論、電気実験、有線工学)
      基礎無線工学第一(無線工学理論、無線機器、無線実験)
      基礎無線工学第二(電子工学、電子工学実験、電気材料)
      電気測定学(電気測定学、電気測定実験)
      電波伝播(電波伝播、電波伝播実験、輻射装置)
      応用無線工学(方向無線、放送無線、電気音響、無線局設備と通信方式、電波航法)
      動力工学(電気工学、機械工学、舶用機関概論、製図)
      海事学及び水産学(船舶概論、海事法規、航海学概論、海洋気象学、交通通信地理、水産学概論、漁船概論、海洋漁業論)
      内国通信法規(電波統制論、無線通信運用論、無線私設論、海上保安通信論)
      国際通信法規(国際電気通信連合論、外国無線電報論、国際無線通信論)
      電気通信第一(電気通信概論、送信理論、送信演習)
      電気通信第二(受信理論、受信演習)
      電気通信第三(特殊通信概論、特殊通信演習)
      無線通信業務(無線通信業務論、移動業務演習、陸上業務演習)
      (現場実習)
      (卒業論文)
  • 体育科目(体育理論、体育実技)

その他に専攻科と別科が設けられることになっていた。専攻科は大学卒業程度の者に対して、精深な程度において特別な事項が教授され、その研究が指導される。修業年限1年以上。

4年制大学も専攻科・別科も、授業料と入学金いずれも徴収されないことになっていた。

社会の出来事
  • 昭和23年1月26日 帝銀事件発生、帝銀椎名町支店で行員12人が毒殺され、8月21日容疑者として平沢貞通を逮捕。
  • 昭和23年4月25日 サマータイムの実施決まる。(昭和27年4月11日廃止)
  • 昭和23年5月9日 礼文島で金環食を観測。

4-2 大学別科

1943年(昭和18年)10月、全国の私立無線学校が閉鎖され、一部の施設が講習所の支所となった時、臨時に学制が定められ、実科、別科と選科が設けられた。これは戦時中、軍の要請に基づいて早期に大量の無線通信士の養成が余儀なくされた一環であったが、別科は旧中学卒、2ヶ年の修業で一級無線通信士の資格が附与された。その後、敗戦を経て1946年(昭和21年)3月の学制改革に際し、通信士有資格者の修業の科となって、文部省移管後も引き続いて存続した。

「電波大学」申請に当たって、学校当局側と逓信省・文部省でいろいろと激しい論議が交わされたのであるが、結局、4年制の単科大学の他に「別科」が組み込まれた。

大学別科は高等学校卒業程度の者に対し、無線電気通信従事者として必要な専門の技能教育を簡易な程度に於いて施すことを目的とする。

修業年限は無線通信士有資格者、1ヶ年以上、その他の者、2ヶ年以上。昭和24年度第1期学生収容定員150名と申請書に記述している。

4-3 教員の異動

大学ということになると、教授、助教授、講師、助手といった組織がなければならない。教授、助教授等を定員で埋めることである。逓信省所管であったために、講習所の従前からの教官の中には文部省の資格審査委員会をパスする者はそう多くなかった。学歴および業績、すなわち著書、または権威ある技術誌上に論文を発表してあることが必要であった。この学歴および著書ないしは論文が教授、助教授にふさわしい内容を備えているかどうかを審査され合否が決定されたのである。

1948年(昭和23年)12月10日発行の無線同窓会会報の「母校通信」の欄には、

  • 教授、助教授陣の強化に全力を傾けている。
  • 文部省は、全新制大学申請校を3回に分けて審査することになっている。講習所は第3ラウンドに入っているから、1月中旬ごろまでには審査の結果が判明する予定である。
  • 申請書に書き上げる教授、助教授を、大学設置委員会(文部省)にかける以前に、講習所が委嘱した人事委員会にかけて慎重を期した。
  • 一般教養及び理科系の教授、助教授の判定は、他の学校の規準や水準もあるので比較的容易に終ったようだが、通信、法規関係は他にその類例もなく、特にこの関係の人たちが学界に業績を持っている訳でもなく、その判定には問題が残されているようだ。通信、法規関係で業績を残さなかったのは、この講習所の過去の在り方が悪かったからである。

と記されている。

教授、助教授にはどこの大学でも同じであるが、定員が定められている。文部省は、まず教養課程から発足するからとして、専門課程のポストを与えなかった。かといって、教養課程の方へ定員を十分にはよこさなかったのである。資格審査の問題とともに定員の数の問題も、大学発足への講習所当局の頭痛の種であった。資格審査の結果、止むなく、あるいは喜んで古巣である逓信省のそれぞれのポストヘ移って行った人たちもあったが、問題の通信術の教授については、この無線電信講習所が唯一無二の最高学府であったとの強い主張が認められ、その道一筋の教官の教授、助教授が認められたのである。そこには当時の諸先輩の無線通信に対する深い愛情が脈々と流れ、長年の伝統を守り抜こうとした強い意志が見られるのである。

1949年(昭和24年)1月6日、大学設置委員会の審査委員によって審査が行われた。だが、結果はすぐには公表されなかった。

社会の出来事
  • 昭和23年5月14日 イスラエル、ユダヤ人国家の成立を宣言。

4-4 施設・設備の拡充

新制大学設置基準の中で講習所として問題となったものの一つに、施設・設備の拡充があった。これは講習所にとっては致命的な大問題であった。老朽化した木造校舎に、階段状の敷地、しかもその面積たるや設置基準に及びもつかない手狭さであった。

1948年(昭和23年)夏ごろから講習所内の建物が逐次改装され、新制大学としての発足に間に合わせるべく鋭意作業が推進されていった。

その当時の施設は、

1号館1階 通信運用学研究室。基礎通信研究室。通信演習室。化学実験室。
1号館2階 基礎通信研究室。受信室(高速度通信機40台)。数学研究室。
2号館1階 応用無線工学研究室。実験室。通信修理室。
2号館2階 製図室、理学第2研究室。図書閲覧室。書庫。
3号館1階 化学実験室。
3号館2階 社会科学第1研究室。社会科学第2研究室。
4号館1階 応用無線工学研究室。電気測定研究室。動力工学研究室。電波伝播研究室。実験室。送信室(印字機90台)。
本館2階 会議室。外国語研究室。歴史哲学研究室。
講堂1階 体操研究室。体操器具室。実験室。
講堂2階 電気通信研究室。内国通信研究室。国際通信研究室。
生徒控所 化学実験兼研究室。物理実験兼理学第1研究室。基礎無線工学第1研究室。同第2研究室。

があり、その他に工作・動力室として動力室と倉庫をぶち抜いて、動力室、電池室、工作室の三つが作られた。その後大学の敷地問題は、新しい敷地を他に求めてこれを解決するための有効な方策を考えようということになるのである。

この外に、図書の整備が問題であった。図書5万冊が設置基準の一つになるのである。当時は7,000冊が備えられていたに過ぎなかったが、講習所当局の購入と寄贈への努力の結果、ようやく4万冊まで備えることが出来た。残部については大学昇格後に図書費を増額して図書を整備することで、文部省との合意が成立したのである。

社会の出来事
  • 昭和23年6月28日 福井大地震により福井市壊滅、死者3700人。
  • 昭和23年7月31日 マ元帥書簡に基づく政令201号により、国家、地方公務員の団交権、スト権を否認。

4-5 用地問題

目黒の階段状の敷地では到底設置基準に合致しないことは自明であった。当面目黒の地で発足せざるを得ないが、いずれはその基準である、3万ないしは5万坪の敷地探しを始めざるを得なかった。

この話が固まったのは1951年(昭和26年)春浅いころとなるのである。(第4章にて詳述)

4-6 電波大学から電気通信大学へ

新制大学設立に当たっては、大学設置申請書が文部省の大学設置審議会に提出され、その審査を受けて、これを通過したものが認可されることになっていた。当時の申請者は、中央無線電信講習所所長、網島毅(兼電波監理局長)であった。「電波」の2字は戦時中〈1946年(昭和19年)ごろ〉にできた電波監理局から採られたもので、ユニークな響きをもっているということで「電波大学」と名付けることに何ら異論もなく、申請書はそれで準備が進められた。

ところが、1948年(昭和23年)の申請書提出間近になり、設置準備委員の中に、「大学には一般的に工学部があり、その中に電気通信工学科があって、またその学科の中に無線電信電話等を含んだ電波工学がある。この最も狭い範囲の『電波』を大学の名称とすることは、将来の大学発展のためにはふさわしくないから、電気通信大学としては如何」との意見が提示されて、さしたる反論もなく、申請書は「電気通信大学」の名称で提出された。

やがて、1949年(昭和24年)1月早々設置審議会委員3名、野上法政大学学長、宗宮慶大教授と古賀東大教授が、実地審査のため来所され、大学の名称についても討議された。

「電気通信大学だけでは所在地が付いていないから、東京電気通信大学としては……」
「この大学は学問はもちろんのこと、通信術という技芸も行うのであるから、東京電気通信学芸大学としては……」
「大学の所在地と内容まで盛られた名称はよいが、余りにも長いのは考えものだ。例えば、法政大学に文学部、工学部が増設されたが、東京法政文工大学とは名付けていない。まず、電気通信大学でよいのではないか。」
といったやりとりがあって、大学の名称は「電気通信大学」と正式に決定されたのである。

申請書に記入された教員予定表(電波大学設置認可申請書による)

職名 氏 名 生年 月日 最終卒業学校
学長 網島 毅 明38・6・2 北海道帝国大学工学部電気工学科
教授 太原 彦一 明37・6・2 東京工業大学電気工学科
教授 片岡 定吉 明34・6・20 逓信官吏練習所無線電信通信科
教授 滝波 健吉 明33.2・5 逓信官吏練習所無線電信通信科
教授 吉田 健次 大3・12・27 東北帝国大学工学部電気工学科
教授 杉浦 英雄 明38・1・2 逓信官吏練習所無線電信通信科
教授 原 太助 明40・12・30 逓信官吏練習所無線通信科
教授 山根 泰雄 明38・8・20 東京帝国大学文学部仏蘭西文学科
教授 金子 研弥 明41・3・23 北海道帝国大学工学部電気工学科
教授 大岡 茂 明38・5・25 無線電信講習所本科
教授 小田喜 勝蔵 明44・8・24 日本大学工学部電気工学科
教授 掛飛 亥一 明44・7・31 東京帝国大学文学部倫理学科
教授 渡部 重勝 明37・9・20 東京帝国大学理学部数学科
教授 八木 林太郎 明42・8・11 東京帝国大学文学部英文学科
助教授 牧絵 敏行 明34・2・5 逓信官吏練習所技術科
助教授 鵜沢 豊三郎 明36・11・25 逓信官吏練習所無線電信通信科
助教授 畑山 乙樹 明38・5・15 逓信官吏練習所無線通信科
助教授 笹子 道雄 明41・1・1 逓信官吏練習所無線通信科
助教授 酒井 敏郎 明39・11・23 逓信官吏練習所無線通信科
助教授 石井 孝三 明41・8・7 逓信官吏練習所無線電信通信科
助教授 高橋 武 明37・10・3 無線電信講習所本科
助教授 森 謙吉 明28・1・3 逓信官吏練習所電信科
助教授 狩野 忠三 明44・3・30 逓信官吏練習所無線通信科
助教授 犬丸 哲夫 明42・6・21 日本大学高等師範部地理歴史科
助教授 伊藤 乃扶男 大2・12・18 高等逓信講習所研修部技術科
助教授 伊藤 隆之助 明42・2・22 無線電信講習所本科
助教授 中野 章四郎 明40・6・18 無線電信講習所本科
助教授 高野 一夫 大8・8・5 北海道帝国大学理学部数学科
助教授 本郷 新兵衛 明28・11・22 逓信官吏練習所電信科
助教授 沢野 博 明28・3・5 京都同志社大学英文科本科(2年修了)
助教授 沢木 譲次 大6・3・31 東京帝国大学文学部仏蘭西文学科
助教授 徳間 敏致 大10・2・24 日本大学工学部電気工学科
助手 養田 重徳 明31・5・9 逓信官吏練習所無線技術科
助手 程島 英雄 大9・8・30 盛岡高等工業学校電気科
助手 岩田 馨 大14・3・9 逓信官吏練習所技術別科無線科
助手 篠塚 昇 大14・1・20 逓信官吏練習所臨時技術別科無線科
助手 清水 栄一郎 大10・10・22 東京物理学校本科応用物理学科
助手 宮坂 武芳 大13・3・10 官立無線電信講習所第二部高等科
助手 渡辺 好夫 大13・10・20 高等逓信講習所技術専修科
助手 大蔵 健男 大15・1・18 官立無線電信講習所別科

こうして、1949年(昭和24年)5月31日「電気通信大学」の設置が国立学校設置法の施行により認可され、同年6月1日開学される運びとなった。そして、他の新制大学とともに、正式の学長が文部省から発今されたのは、設置の発令日を過ぎた6月3日のことであった。こうして、寺沢寛一初代学長が生まれたのである。

目黒夕映が丘の坂道にあった校門の看板が掛け替えられた。寺沢学長の筆になる墨痕淋漓、雄渾な筆勢の「電気通信大学」のそれであった。当時の物資不足から学内に戦前からあった厚い欅材の4人掛学生用板椅子を用いて看板は作られたという。これで昔から考えると、位置は同じであるが3回目の掛け替えとなった訳である。すなわち、1942年(昭和17年)4月1日には、当時の寺島建逓信大臣の筆になる官立無線電信講習所の看板が掲げられ、ついで1945年(昭和20年)5月30日、津田鉄外喜所長の自筆の中央無線電信講習所のそれであって、第3回目ここに大学の看板が掛けられたのである。

この新生「電気通信大学」の発足時の教授、助教授の陣容は次のとおりであった。

講座名 (前期2ヶ年一般教養講座)
外国語 八木教授、沢木助教授、沢野講師
人文科学第一 牧野教授、末木助教授、西堀講師
人文科学第二 教授未定、太田講師
社会科学第一 亀島教授、天沢講師
社会科学第二 松波教授、小林助教授
数学 渡辺教授、高野助教授、松本講師
理学第一 服部教授、他未定
理学第二 藤原助教授、他未定
 
講座名 (後期2ヶ年専門学科)
電気学第一 河野教授、神戸助教授
電気学第二 太原教授、他未定
電気測定学 博田教授、他未定
無線工学第一 岡村助教授、黒田講師
無線工学第二 松村教授、他未定
電波伝播 未定
応用無線工学 大岡助教授、他未定
有線工学 未定
動力工学 金子教授、他未定
電気通信学 未定
基礎通信学 森助教授、本郷講師、他未定
内国通信学 片岡教授、笹子助教授
国際通信学 滝波教授、酒井助教授
通信運用学 伊藤助教授、他未定
特殊通信学 石井助教授、他未定
海事学 未定
体育 犬丸助教授

右のほか、講座外科目として、数学特論、物理特論、電気材料、気象学、電波航法、現場実習、卒業論文等の関係教官。

電気通信大学発足に当たり、無線同窓会報(24・6・25)へ次のような寄稿があった。

電気通信大学発足に際して
無線同窓会長 小林勝馬

昭和24年6月1日母校中央無線電信講習所は、新制電気通信大学として発足致しました。

昨23年8月文部省移管と前後して同窓会の活動もまた活溌を極め、その間種々の難関に遭遇しつつも、之らをよく克服して見事今日の栄をかち得たのであります。文部、逓信、学校等関係者各位のご努力、更に同窓生の涙ぐましい程の奮斗がここに実を結んだ訳であります。由来わが同窓生の母校と無線教育に対する熱情の逞しさは、他に例をみない程で、事あれば一致団結し絶えず向上への途をたどるのが常でありました。

次に電気通信大学の名称は、当初電波大学で申請致しましたが、電波だけでは規模も小さく、単科大学設立のファクターにならぬという関係筋からの助言もあって、ここに電気通信に関する単科大学となったのでありまして、船舶通信、陸上通信と電波工学の3専攻科目のある事は、予定した通りであります。

初代学長としては、寺沢寛一博士が就任されましたが、博士は昨年文部省移管の際所長として講習所に就任以来、大学昇格の為には殊にご努力をなされました。博士は学界の権威であり、各方面からの要望も多々あるにも不拘、電気通信大学に踏み留まって下さったことは、母校にとって洵に幸せなことでありました。

30余年の母校の歴史は一段の飛躍を遂げました。この大学の充実のため一層努力を致さねばならないのであります。最後に、無線電信講習所創設者、故若官先生を始め、今は亡き諸先輩の功績を偲び、ご冥福を祈りたいと思います。

雑感(抄)
電気通信大学講師 沢野博

われ等の母校も時代の趨勢に従って、遂に電気通信大学として、愈々6月1日から発足することとなった。既に、通用門の右柱には、長さ一間位の木の香も新らしい部厚い板に、墨痕鮮かに「電気通信大学」と認めた看板が掲げられ、威容整然一段と異彩を放っている。無線講をして今日あらしめたのは偶然のことではない。過去30年間の輝かしい母校の歴史と、幾多同窓先輩は固より、関係教職員の熱烈なる愛校心と、連続的苦斗の成果こそ、母校をして今日の段階にまで押し上げる機運を醸成したと云ってよいであろう。

この無線講は、本来海上船舶通信士の養成を第一として現在に及んでいるのであるから、大学になってもこの方面の通信士の養成は重要なものでなければならない。母校の魅力は、そして特異性は何処にあるのか。それは海だ、海外への雄飛だ、外国へ行けることだ。之が母校への憧れの的であったのである。卒業生の過半数の母校志望の動機が、この魅力のためであったのだ。敗戦以来今尚海運界は行詰りの状態にあるが、勿論一時的な現象であって、近き将来貿易の振興に伴って、海運界が活気を呈することは必然であらう。故に、之に備えて優れた海上船舶通信士の養成は刻下の急務で、電気通信大学設立の意義は実にこの特異性にあると言える。

わが母校も呱々の声を揚げてから、30有余年の星霜を閲した。そして愈々国立電気通信大学と銘打って幸先良きスタートを切った。この30年間の母校の歴史を繙けば、そこには幾多の浮沈波瀾もあったが、大局からみれば発展の一路を辿ってきた。僕が無線講の教壇を初めて踏んだのは、大正8年の10月半ば、涼風渡るタベだったと記憶する。あれからざっと30年、之を時代別に分けると、渋谷、麻布時代(大正8年から10年)から目黒の電信協会時代(大正10年から昭和16年)へ、それから逓信省時代(昭和17年から23年)を経て現在に至っている。この間には何百人という教職員講師が異動したが、結局20年以上勤続の先生といえば、黒田、森、本郷そして僕の4人である。僕は未だに燃ゆるが如き向上心をもっている。向上心のない所には進歩も発達もない。僕の語学教育も余程慣れて来たが「未だし」の感がある。

電気通信大学の伝統と使命
電気通信大学教授 滝波健吉

去る5月国立学校設置法により、新しく電気通信大学が生まれた。ローマは1日に成らず、この新しい大学の基礎をなすものは、無線電信講習所である。古く永く培われた貴いその伝統である。伝統の緒は1895年(明治28年)に遡る。この年青年マルコニーは無線電信を発明して、電気通信史に一新紀元を劃し、人類文化に大きな寄与をしたが、早くも1910年(明治43年)には米国が船舶に無線電信を強制し、1915年(大正4年)に日本に無線電信法の公布をみた。この時初めて無線通信士の養成が行われたのであるが、その施設はわずかに無線通信機工場に併置されたに過ぎなかった。

第一次世界大戦に伴う海運事業の発展は、専門の養成機関創設を促し、1918年(大正7年)、無線電信講習所が生まれた。世界七洋を駆け回る多数の船舶には、この講習所の卒業生が、若冠よく一船の人命財貨の安全を寄託され、内は船内各部門の責任者と比肩する重要な地位を占め、外では国際無線通信場裡に、欧米等の無線局との交信に活躍したのである。更に、この時代の航空事業の発達の上にも、多くの卒業生が輝かしい貢献を残している。水産業、特に遠洋漁業における卒業生の活躍は、日本無線通信史に永く記録さるべきもので、その一端は今日の南氷洋捕鯨状況にみることができる。また、国内各陸上の無線施設、新聞通信社、ラジオ放送部門、あるいは各種無線通信機工業界において、卒業生がパイオニアとして果たした役割と、現在の通信、技術両面での中心勢力的活動振りは実に大きなものがある。

無線電信講習所は、第二次世界大戦に入ってから、当時の国家的要請により1942年(昭和17年)逓信省所管の官立に移り、敗戦後の激動期を経て、1948年(昭和23年)文部省の直轄専門学校となった。敗戦後の卒業生の就職の傾向として、電気通信省管下の施設、資材部門や、その他の官庁の無線施設に迎えられ、また電波行政方面への進出も見られる。

さて、無線電信講習所は海上船舶無線通信士の養成に端を発し、無線通信関係各界の発展と並んで大をなし、過去30年にわたって卒業生を送ること2万余に及んでいるが、その教育の在り方について従来批判がないではなかった。その一つは由来文化と直結する無線通信人としての知性の問題である。これは教育が専門に偏するところに原因があるとして、工学部門の弱体とともにその是正について関係各界と卒業生から切実な声があったのである。そうしてその時機についに恵まれた。平和国家日本再建のための新憲法と、続いて生まれた教育関係の法律は、人間育成、人格完成を目指して、いわゆる新制大学の構想を示した。更に戦後われわれの眼前に展開した世界の科学技術の驚くべき発達の様相は、これに拍車をかけるものがあった。

原子力、航空技術、電気通信。この三者の進歩は戦時中になされた科学力の集大成に外ならない。とりわけ電気通信にいたっては、船舶の安全航法に革命をもたらし、電柱なくかつまたラジオの如く普及する電話、テレビジョン、家庭無線印刷で配付する新聞、そして居ながらにして交換できる世界文化等、輝かしい将来が約束されている。 こうした観点から関係各界の意見が一致し、電気通信大学設立申請となり、第5国会がこれを認めて国立大学としての出発となったのである。翻って思えば、第一次世界大戦が無線電信講習所をつくり、第二次世界大戦はこれを新制大学に脱皮成長させたといえる。

今や世界は西と東に大きく対立して争うかに見えるが、一方、世界連邦は提唱され、MRA運動もまた盛んである。国際電気通信連合も本年1月から実施された新条約において、新しき連合の目的としてあまねく人類に役立つ電気通信、人命安全確保の電気通信を高揚している。われわれの電気通信大学は、今後人類文化と世界平和への寄与に向かって邁進すべく、ひたむきの努力と研鑽を重ねなければならない。そして連綿たる伝統に生成発展の力を与えて行かなければならない。

(昭和24年7月15日、第1回の入学式に行った講演の要旨)

目黒、夕映が丘のペンキのはげかかった、朽ち落ちようとしていたあのみすぼらしい校舎。トトツートと果てしない青春を夢みて、針金を張った無電の鉄塔の下で学んだ若者たち。数多くの同窓先輩たちが、貧しさの中で社会の格差を、はね返しはね返しながらかち取った社会的地位。無線電信講習所に培われて来たたくましい伝統。

いまその伝統が、電気通信大学に引き継がれているだろうか。電気通信大学は、今や押しも押されもせぬ、時代を先取りするエレクトロニクスの総合大学たろうとする程に成長した。があの伝統がそこにわずかでも残されているだろうか、独自に発展した大学だと、マスターベーションしているように思えてならない。しからば、あの伝統をどこかへ消し去ってしまったのはいったい誰なのか?学校当局か、同窓会なのか、はたまた卒業生たちなのか、誰がこの問いかけに応えてくれるであろうか。

社会の出来事
  • 昭和23年8月13日 大韓民国樹立され、大統領に李承晩氏。
  • 昭和23年8月19日 東宝争議に米軍出動、戦車、飛行機、騎兵など出動。
  • 昭和23年9月9日 朝鮮民主主義人民共和国樹立され、首相に金日成氏。
  • 昭和23年9月15日 奥むめお女史ら主婦連合会を結成。
  • 昭和23年9月16日 マッチ8年ぶりに自由販売。
  • 昭和23年9月18日 全日本学生自治会総連合(全学連)結成、初代委員長に武井昭夫。
  • 昭和23年11月1日 主食配給2合7勺となる。
  • 昭和23年11月12日 極東国際軍事裁判、東条英機ら7人に絞首刑の判決。
  • 昭和23年 アロハシヤツにリーゼントスタイル流行、日本脳炎がまんえん。流行歌は「異国の丘」「湯の街エレジー」「あこがれのハワイ航路」