電気通信大学60年史
後編第1章 新制大学昇格への苦難の道
第3節 文部省への移管
3-1 文部省への移管
1948年(昭和23年)7月、逓信訓練所法案なるものが国会の審議を終え、いよいよ講習所の文部省への移管が確定した。これより前、昭和23年6月、文部・逓信両省はそれぞれその方針を示したが、いまだ天地創造の時のそれのように混とんとしたものであった。
- 逓信省の方針
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- あくまで国立単科大学実現を期す。
- 船舶通信科、陸上通信科、電波工学科を正規のコースとし、別科を設ける。
- 大学設置申請のため、その取運びを極力急いでいる。(6月中申請の予定)
- 大学設置準備委員会で講座学科目等の審議を継続している。
- 大学の人的整備の面に注力している。
- 文部省の方針
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- 単科大学は認めない方針であるが、講習所に対しては特に除外例としたい。ただし、場合により他大学へ併置されるかもしれない。
- 人的(教授)整備に対しては、逓信省の責任で解決すべきではあるが、相談を受ければ協力を惜しまない。
- 現在の施設では大学設置基準に合致することは困難であるから、改善に努力されたい。
中央無線電信講習所の機構はそのままに、文部省へ移管され、1949年(昭和24年)度から新制大学として制定実施される運びとなった。
敗戦後から2年有余、講習所当局が一応主とした教育は無線通信士の養成(通信専攻科)であったが、一方やや高度の技術教育(技術専攻科)も併せ行って来、その後、新制3年制本科を制定、やがて実現するであろう大学への昇格に備えていたが、よりいっそうの内容の充実が課せられることとなった。
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3-2 寺沢所長の就任
官制改正によって、中央無線電信講習所が正式に文部省所管となったのは1948年(昭和23年)8月1日のことである。そして廃校となった逓信官吏練習所の所長(元東京帝国大学理学部長)であった寺沢寛一氏が文部省下の初代所長として目黒夕映が丘へ赴任された。逓信省から文部省への移管の書類手続きも正式に進められた。国有財産も文部省へ移管された。
そしてやがて文部省は、東京工業大学に教養学部を設置する方針を決め、講習所を接収すべく意向を固めた。東京工大学長他文部当局者が視察に来たのはこのころである。寺沢新所長は、原太助庶務部長、小林勝馬同窓会長他5名の教官等を招集、会合を重ね、
- 東京工大の教養学部として発足するか。
- 単科の特殊性ある新制大学として昇格発足するか。
を真剣に討議した結果、卒業生のためにも母校として寄るべき所を残したいということ、また他に見られない講習所の特徴を生かしたいということで、全員「単科大学」として発足するとの結論に到達したのである。
無線電信講習所の前途寺沢寛一(23・9.1)
私はこの度本所の所長として参りましたが、無線電信には全くの素人でありますので、与えられた「本所の前途」という大きな問題に対して、正確な見透しとか抱負とかを述べる資格がないものであると思います。併し、永い間の学園生活の経験を基として学校としての本所の将来に就いては、名実共に立派なものとして発展せしめたいという決意と熱心とを持って居ることを申し上げて、関係諸彦の御鞭撻と御支援とを御願い致します。 (中略)
思慮浅き野心家の無謀な暴挙によって、亡国の状態におち入り、国民を挙げてその日その日を過すに汲々としている有様であります。高遠な理想の下に建国の方針は決めたものの、思想は歪曲せられ、道徳は地に落ち、或る方面の命令なくしては治安さえも保ち得ないように見ゆるのは、誠に遺憾の極みであります。将に今日こそ真の非常時でありましょう。
この時に当って我が無線界は如何でありますか。幸に真摯な人々の努力によって戦前の状態まで近づきつつあるようでありますが、未だ未だ世界の彼等に伍して独り歩きすることが困難であって、まして彼等を凌駕するなどは、誠に遠い夢でありましょう。之等現時の状況から見ても我国唯一の、又最高の此の学校の責務や重大なものであることは、改めて議論の余地がありません。されば如何にしてこの責務の遂行が出来るか。関係者一同が銘々に此の重大責務を自覚して、研究に教育に努力するより他に方法が無いでしょうが、之又非常に困難な問題であります。言葉の上では何とでも言い得るが、いざ実践となると中々難かしい。お互に意志の疎通を図りお互に励まし合って、彼岸に到達せんことを庶幾うのみであります。
移管式に列席して別所重雄(23・8・13)
移管式の当日は、残暑の特別に酷しい日であった。見覚えのある学校ゆかりの諸先輩の顔が晴れやかに居並んでいた。逓信大臣の式辞も文部大臣のそれも名文であった。其れは之迄の儀式にあり勝な美句修辞の羅列ではなくて、卒直な中に真情の溢れたものであった。
永年手塩にかけて育てて来た子供を手放すには忍びないが、より大きくする為に喜んでお任せすると言う逓信大臣の言葉を引き取って、文部大臣は、親心を汲んで必ず立派に育て上げる、来年度からは恐らく大学に昇格するであろう、と輝かしい将来の見透しを述べると、一陣の風が会場を舞う。
電信協会管理の無線電信講習所として発足してから今日迄30年、或る時代には有るか無きかの細々とした存在として、又或る時代には極めて特殊な一私学的なものとして、そして漸く官立となり準専門学校として認められる迄、木の葉の下を掻い潜り、岩に突き当り、曲折辛苦の30年であった。私達のように学校の歴史と共に生きて来た者にとっての感慨は誠に大きく深い。
思うに之迄の卒業生、特に官立以前の卒業生が実社会に出て歩んだ道は、殆ど例外なく茨の道であった。其れは講習所の教育がその時代々々の必要性のぎりぎりの範囲内での教育しか与えられなかったから、卒業後は各々が血の滲むような努力をしなければならなかった。然し、内容は兎も角として、此の学校には、いつの時代にも満々たる生気が漲っていた。其れは社会に認められることの薄きに対する反撥であり、やがて興隆するもののみが持つ覇気であり、熱であった。
永年に亘って、此の学校を庇護し成長を授けて頂いた逓信当局に深い感謝の意を表したい。創設者、若宮先生はじめ、先覚諸先輩の霊も地下で莞爾として微笑んでいられることと思う。
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3-3 単科大学の方針固まる
長年にわたって続けられてきた無線通信士の養成が、いわゆる学校教育の専門家である文部省に引き渡されるについては、講習所当局にいささかの危惧があった。講習所が官立移管された時の指針、目標が敗戦とともに改変される訳ではないというのである。しかし、1948年(昭和23年)5月22日、逓信大臣と文部大臣の間に次のような覚書が取り交わされて、関係者は若干の安堵を得、文部省移管を推進してゆくのである。
覚書
- 逓信大臣は無線電信講習所をその施設とともに文部大臣の所管に移すよう措置する
- 文部大臣は無線電信講習所をその施設とともに承継する
- 前項の無線電信講習所の名称及び位置は現行の通りとする
- 文部大臣は現在の中央無線電信講習所(藤沢支所を含む)を国立専門学校の新制大学切替えと同一の方針により措置し、可及的速やかに国立の新制大学とするよう努力する。その他の無線電信講習所は高等学校設立基準に照らし昭和24年度に於いて国立の新制高校とするよう努力する
- 文部大臣は現在の無線電信講習所の教職員を文部大臣の管理する無線電信講習所の教職員とする
- 文部大臣は逓信省から移管される教職員の身分待遇等については現在の条件より不利にならないよう措置する
- 教育効果の向上を図るため本教育機関の教職員については文部・逓信両省間に於いて適時人事の交流を行うものとする
- 文部省は本教育機関の入学定員並びに無線従事者資格付与に必要とする学科課程及び教育施設等について逓信大臣に協議すること
昭和23年5月22日
文部大臣森戸辰男
逓信大臣富吉栄二
無線電信講習所は、敗戦後直ちに通信術偏重の教育を再検討した結果、旧制本科2年を甲類・乙類とし、更に甲類は通信専攻科、乙類は技術専攻科へ進む学科程を作り、次に3年制の新制本科を設けて通信、技術両方面の強化を図った。ここに新制大学として発足するに当たって、当時としては異色であった単科大学として再建することが推進されたのである。すなわち、本科甲類と通信専攻科の系統が海上通信専攻と陸上通信専攻とに分けられ、本科乙類と技術専攻科の系統が電波工学専攻となり、3学科専攻の制度が敷かれた。従来の無線通信士の養成が、無線通信士資格検定試験の検定課目に重点が置かれていたのを、広く教養科目を加えて、学術、人格ともに優れた通信士の育成に改められた。
当初、文部省は「通信術だけでは大学として認められない。専門学校で十分だ」と強硬に拒んだともいわれるが、講習所当局は「電波関係は将来非常に発展の余地がある。これを総合的に研究する大学が造られねばならない」と反駁し、再三にわたって交渉の末、ようやく単科大学としての特殊性を発揮することを条件として認可されることになるのである。
新制大学「電波大学」設置認可申請書が作製されることになったのは昭和23年6月のことである。
申請書は次のように記述している。
この大学は、無線通信に従事しようとする者に、広く知識を授けるとともに、深遠な専門の学術技能を研究教授して、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする。無線電気通信及び電波科学に関する単科大学である。
この大学には、学部又は学科を設けない。但し学生は左の何れか一つを在学中専攻しなけれぼならない。
- 船舶通信関係、陸上通信関係、電波工学関係
この大学に4年以上在学し、学科試験及び論文試験に合格した者は学士と称することができる。
毎年入学収容定員 200人 内訳 船舶通信専攻 80人 陸上通信専攻 80人 電波工学専攻 40人 大学開設の時期 昭和24年4月1日
新制大学はこの設置認可申請書を文部省の大学設置審議会に提出し審査を受けて、これを通過したものが設置されることになっていた。
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